日本書道史を考える上で、平安時代の三跡(小野道風・藤原佐理・藤原行成)の存在は重要な転機。
彼らの事跡をたどり、日本書道史における三跡(三蹟)の書の意味をつらつらをお話してみたい。
ちょっと長くなってゴメンね、興味がある方はお付き合いいただけると嬉しい。
無文学の孤島である古代日本に、紀元前200年頃に大陸から中国語が流入してきた。
文化水準の低かった日本に対し、古代宗教文字を脱して政治文学化した小篆体が、文学の移動を実現したのであるから、
日本は言葉の面で中国語の影響を大きく受けることになる。
その後の大化の改新などで一応の政治的独立は遂げていったものの、
中国を見習った飛鳥文化や遣唐使に顕著なように、文化の面で日本は擬似中国文化であった。
国家をあげて中国の写経を学び、日本が最も中国文化に接近していた奈良文化を過ぎ、
平安時代になると日本文化は次第に中国のものをそのまま真似するだけに留まらず、
仏像彫刻や密教文化などに見られるように和様化が始まってくる。
書の世界においては平安初期に「三筆」が現れると書の文化が隆盛し、
中国の書を学び抜いた先にようやく日本的な表現を見出すに至ったが、未だに晋唐模倣の域を脱しなかった。
そもそも中国における書道は政治に利用される色合いが濃く、
過酷な中国政治を反映して筆尖を真っ直ぐに突く垂直筆や鋭利な表現が好まれていたが、
平安京の貴族たちは優雅なものだけを求めていたために自然と中国のものでは飽き足らなくなってきていた。
中国文学に近かった万葉仮名は、真仮名・草仮名を経て日本独自のものである平仮名(女手)へと姿を変えてゆく。
漢文を補助する記号として生まれた片仮名は日本語文法を形成してゆく。
漢字を元にしつつも原型が分からないほどにまで変容した和様漢字が誕生していった。
これらはみな、擬似中国文学の域をこえて中国文学にも後もどりすることのない
非可逆性の、独自の日本文学と呼ぶべきものなのであった。
平安中期に「三蹟」の一人、小野道風が和様書道を先駆ける。
道風の書には中国書道の代表格である王義之の影響がはっきりと残るものの、
日本的趣致の豊かな新しい書風すなわち和様を創始したと言われる。
「智証大師諡号勅書」に始まって「屏風土代」に至るときには
すでにゆったりとした丸みや豊かさをたたえた、日本独自の和様の書が表れている。
「智証大師諡号勅書」においてはまだ全体の文字の大きさや重量感を残した書き方に
王義之の影響は顕著であるが、筆の入り方はすでに中国の垂直筆を崩しており、
優しく入り重く終わるというリズムによって和様漢字のはしりを見ることができる。
「屏風土代」ではより文字は細くなり、筆の入れ方は三折法ではなく
優しい側筆が全体的に取り入れられていて、「智証大師諡号勅書」と較べると文字の終わり方もやや抑制をきかせている。
「柳」の最終画に表れているように長く伸ばして優しく払って終わるところには鋭利な中国の書のイメージはない。
没落していた小野氏の出身である道風は、藤原氏全盛の時代にいたのであり、
藤原氏以外の者が世に重んじられるには自身の才能を高めること以外に術がなかった。
「柳に蛙」のエピソードで知られるが、若い頃の道風は書がなかなか上手くゆかず悩んでいたが、
ある時枝垂れた柳の下で蛙が跳んで枝に移ろうとしているのを見た。
最初は届かなくても次第に高く跳んで、後には蛙は枝に移ることができた。
この蛙の姿を見て道風は努力と向上の必要性を悟り、和様漢字を創り上げて世に出ることができた。
道風自身の独特の型にはめながら文字を書くので、
道風の書跡はすべて一様であり、変化が無いと言われるように、
和様のはしりではあるが、道風一人の書では優雅で柔らかい和様の到達にはまだ届いていない。
藤原佐理の書は異端だ。「離洛帖」での運筆の速さから生じる線の極端な肥痩は見ていてドラマティックでおもしろい。
過度の傾筆と側筆で書かれていて筆力も強く、文字もところどころ片仮名に近く変化されているなど、
統一感を崩すような書には束縛やルールから解き放たれた佐理の自由な発想を伺うことができる。
一筆で書き流す「一墨之様」の草書の特徴があり、他者には見られないスピード感のある運筆が佐理である。
道風の次の世代の人である佐理は道風が生み出した和様の書を基とはしているが、
生まれてきた「和様漢字」を停滞させることなく次の変化の風を吹き込み、
優美さは後進したかもしれないが、道風にはなかった書におもしろさを与え、
「和様漢字」の新しいアイディアを強烈に提案したという意味で重要である。
佐理は藤原氏全盛の時代に藤原氏の一人であるから、何もしなくても恵まれた立場にあった。
出身ゆえに恵まれた官職につき、しかし生来が理非をわきまえず非常識人と言われる佐理は、
その恵まれた出身ゆえに与えられた職務を全うするのは困難があったのだろうと想像するのは容易であるから、
佐理の本当の性質と能力は彼の独自の書にこそ向かったのではなかったのか。
そう考えれば、道風のように世に対してのやり切れない思いが、佐理の書に新しい風を生むことになったのだ。
その佐理の次の世代の人である藤原行成は、道風様を踏襲しつつも「和様書風」に調和と統一感をもたらし、
華やかな藤原文化最盛期に相応しい優雅な書へと完成させた人物である。
「白氏詩巻」に見られる蛇行筆蝕では和様風に優しく抑制を利かせていながらも、
時折そこに中国的な垂直線をのぞかせることで緊張感を作り出しているのが印象的である。
側筆を用い、繊細ながらも「嵩山」の二字のように複雑な文字運びに抑揚を利かせ、
優美さを全面的に漂わせながらも全体に中国漢字の緊張感さえ秘めている。
「月」の最終二画のように中国漢字では二画であるはずの箇所を一筆で流したところに、平仮名の影響を見ることができる。
中国漢字の緊張感という美点を踏襲しながらも、道風が先駆けた和様の路線を取りつつ、
佐理の極端な抑揚法に流されることもなく、そのどの良い点をまとめたかのような印象が行成の書にはある。
これは「円満な人格者」(藤原佐理)として藤原道長に重用され、
名門藤原氏出身の能吏として名を上げ、人格・政治手腕・書という芸術の3つもの分野で
才能に恵まれた行成ならではの平衡が取れた優美な和様漢字の完成という到達点である。
このように三跡のスタイルは三者三様であったが、いずれが欠けても
中国書道から脱却して日本独特の和様の書を完成させることはできなかったであろう。
道風の必死の創始によって和様書風は命を得たが、必死だったが故に安定を得るべくもない。
佐理の鬱積した奇才によって変化という風が得られ、和様は停滞することなく次の到達を模索したが、
バランスよく満たされた行成の才能によってそれが完成した。
ちょうど続いた三世代に三跡(小野道風・藤原佐理・藤原行成)が現れて、生み、変化させ、まとめる。
こうして三跡の存在は日本書道史における重要な転機となったのだ。