奥嵯峨にある祇王寺は小規模寺院なのだが、和風テーマが凝縮した紅葉撮影スポット。
まずは心に訴えかけてくる平家物語の悲話、平清盛の寵愛を受けた後に捨てられた
白拍子・祇王と仏御前が、ここ祇王寺で静かに余生を過ごしたということ。
勝手に言うと、人生の凹凸を知った彼女らの心情が、散り際の祇王寺紅葉に重なる。
苔庭をぐるりと回りながら、目をあちこちに走らせて、写真で切り撮るべき場所を探す、これが楽しい作業。
そびえ立つ竹林は28mm単焦点広角レンズで撮った、竹の若々しさと、落葉の寿命が対照的で。
祇王寺紅葉の最も美しき撮影スポットはこの手水だと感じた。
苔寺としての祇王寺、この季節ばかりは苔より落葉が主役になる。
秋でも若々しい葉の色が残り、そして紅葉と重なる。
散り際に最高の華を咲かせる祇王寺の紅葉、それは祇王・祇女・仏御前たちのように。
2015年11月撮影
若くして浮世に絶望して祇王寺に隠棲した祇王と仏御前のこと。
平清盛に寵愛されては、用済みになったら捨てられる。
咲き誇る春の花も、色違いに染め上げた秋の紅葉も、いつしか最盛期は散ってしまう
盛者必衰の理は、ここ祇王寺の四季に共通する。
祇王寺に住み始めた祇王と仏御前には、平清盛の滅亡も予知できたのではないか。
二十歳やそこらで人生のピークを迎え、あとはこの静かな祇王寺で生涯を過ごす。
祇王と仏御前の人生は何だったのだろう、いったい何だったのだろう。
世の矛盾をなだめるように、落ち着きのある美しさを漂わせている祇王寺。
災いの原因である平清盛の往生を願った像があった。
祇王寺らしい大きな心でしかできない逆説だろう。
秋の紅葉を美しいと眺めながら散策した祇王寺、紅葉よりも胸を打つものがある。
清涼寺の写真
お店が一杯並び、現代のハイセンス・嵐山から清涼寺へ歩いてくると、ほっとする。
名前が素敵ね清涼寺、人々は清らかなもの、涼しいものを嵯峨野に求めたのか。
広大な境内をもつ清涼寺、あぶり餅を食べながら、憩いのひととき。
桜の名所まではいかないけど、ところどころに桜を織り込んで、素敵な絵がある。
方丈庭園までつながる廊下が清涼で。
より自然に近いスタイルの方丈庭園、ゆっくり目を遊ばせられる。
突出した主役はいないけど、清涼寺は脇役が多々いて、美の基礎がある。
これが古来からの清涼の美学でしょうか、嵯峨野の質実剛健、清涼寺。
仏野の念仏寺の写真
一度訪れてみたかった仏野の念仏寺、嵐山から嵯峨野を越えて。
古来より風葬・土葬の場所だった場所、訪れることに恐怖があり、写真を撮るのも躊躇。
ビクビクしながら歩いてみて、真っ先に感じたのは暗さより明るさ、むしろ日本の美。
無縁仏にすら敬意を払い、暗く飾らないために、まさかこれほどの美を念仏寺に加えるとは。
風情の中にもちろん異質なものは感じるけど、それでも念仏寺は美しい。
水子地蔵尊には気安く近付けなかった、帽子を取って、おそるおそる。
あの空海が、ここ念仏寺を開いたとされる、いつもながら空海の偉業には頭が下がる。
死にすら美学を手向ける日本人の死者観に驚いた、そんな念仏寺でした。