9月4日(水)
朝早く起き、台所でお湯を沸かしてカップラーメンを食べていると、日本人の母娘が話し掛けてきた。話を聞くと、娘さんがどうしてもアメリカ旅行をしたくなったが一緒に行ってくれる人が見つけらずに困っていたらしい。結局諦めて、一人旅行をしてくるとお母さんに言ったら、娘一人だけの旅行が心配で心配でたまらなくなったお母さんが一緒に付いてきてしまったという。
僕は「母娘でご旅行なんていいですね~」と楽し気に言葉を返していた。成る程、そんな方法もありか。娘さんとご両親の心配を一遍に解決する合理的な方法だね!
荷物を背負い、思わぬ長居をすることになったユースホステルを遂に出る。今日の夜行バスで次の目的地エルパソへ直行するからもうここには戻らないよ。お世話になりました、僕はあなたから人の和の妙を習いました。これからもあなたは宿泊客同士の物語を創り出していて下さいね。さようなら!また逢いましょう!
昨夜の二人連れと一緒にバスディーポへ向かう。39ドル出してグレイライン社のバスツアーに参加した。バスに乗ると、なんと日本からの旅行者が客の大半を占めているではないか。なんとも不思議な光景だ。確かにここは有名な観光地だが、まさかこんな英語ガイドのみのローカルツアーに日本人が参加しているだなんて思いもよらなかった。本当に半分以上の参加者が日本人だ。
考えることはみんな同じなのだろうか。25歳というレンタカーの年齢制限は、旅行をしたがる大学生ぐらいの若者にとって高過ぎる障害だ。僕と同じように翼の無い彼らはバスツアーを選ばざるを得ないのか。
バスが走り出すと、ドライバーがやけに早口でロッキーマウンテンの説明らしきことをまくしたてた。僕はこんな場所で集中力を使いたくはないから聞き流していた。遂に車が手に入ったぞ。これで遂にあのロッキーマウンテンの高台を訪れることができる。
僕がマウンテンバイクで入ったのは東のエステスパークからなのだが、ツアーバスは西口のグランドレイクから上がり、トレイルリッジロードを横断して、エステスパークに下りてくる。コースもダブっていないので益々ご機嫌だ。
グランドレイクを目指して、バスは順調に走った。トレイルリッジロードの標高3,713mというポイントが楽しみだ。その場所こそが、僕がここ数日間求めていた場所。この冒険旅行での最高標高地点になる。そこからの眺めを一目見たいがために、昨日今日と貴重な時間を2日間も割いた。3,713mだから富士山の頂上とほぼ同じになるのか。幾らなんでも、マウンテンバイクで挑戦する気にはなれないというものだ。
――楽だ。自分の足でペダルを漕がなくてもどんどん景色が進んで行くのが楽しい。見ているだけで、次から次へと新しい景色が僕の前に現れてくれる。天気は良いし、前の座席には日本語で話しかけることができる仲間もいる。これが観光というヤツだね。実に心地が良いではないか!
グランドレイクに着くと小休憩があった。陽射しを受け、水面をキラキラと輝かせるグランドレイク。ベアレイクやCub Lakeの数十倍はある大きな湖だ。山の中の海に遭遇した。余りに美しい景色だったので、僕は言葉を詠んでいた。
慎み深いひとなれど 彼が全身に栄光を受ける時、
それをもう隠したりはしない
~グランドレイク
その昔、グランドレイクは人間と絶縁することを望み、この僻地に移り住んできた。その当時はまだここも国立公園などという名前を付けられ、人間たちの動植物園状態にはされていなかったのだろう。時は流れて、ここにも人間たちがちょくちょく姿を見せるようになった。そんな変化があろうともグランドレイク自身は何も変わらず、この静かな場所で現世を離れ、独自の価値に従って生きている。グレイシアーゴージのように慎み深く日々を暮らし、俗世を超越した美しさを身につけているのが手に取るように分かる。
目の眩む程の太陽の光を湖面に引き寄せ、それを四方に跳ね返して奇跡のような生命活動を見せるグランドレイク。彼らにとって、太陽の光にはどんな意味があるのだろう。それには称賛という意味があるに違いない。あぁ、普段は慎み深く、何事にも謙虚に生きているこの在野の偉人も、こうして彼が眩しい栄光を受けている時にはそれを堂々と外に誇っている。その態度には少しも尊大な気取りがなく、小手先だけの脅しの技でもない。素直な喜び、本物の自信。グランドレイクも尋常ではない苦労を経て、今の栄光を掴んだのだろう。彼の苦労は報われた。だからその喜びを素直に全身で表現しているまでだ。
慎み深い人であろうとも最高の栄誉が与えられた時には素直に喜ぶもの。この教訓は以前からなんとなくは得ていた気がするが、ここで再確認することができたのは喜ばしい限りだ。彼もまた、僕の血肉の一部となってくれた。
湖畔にあるグランドレイクビレッジという観光地で昼食休憩となった。出発の時間が伝えられ、あとは自由行動となる。ドライバーはレストランがある方向をみんなに指差し、バスの入口をロックするとどこかへ行ってしまった。
あの二人と一緒に歩いて適当なレストランに入る。席に着いたが、なんだか団体客が入っているようでウェイトレスのみなさんはとても忙しそうだった。ちょっと待つのは仕方ないかな、とゆっくり構えていると、ごく普通の服装をした普通のおじさんが水を持ってきたではないか。服装も顔もどこからどう見ても観光客のおじさんなのだ。おいおい、冗談キツイぜ、アンタ!本当に店の人ですか?仲間たちと僕ら外国人の若僧を騙せるかどうかの賭けでもしているのかい?と笑い飛ばすぐらい、意外な登場をしてくれた。
僕たちも冗談半分で、オーダーしてもいいか、とそのおじさんに聞くと、俺はその係りじゃない、と言って歩き回るウェイトレスさんを指差し、嵐のように歩き去った。ウェイトレスさんを呼び止めようとしたが、随分と忙しそうだ。何とか注文としようとじたばたしている僕たちを見かねたのか、そのうちさっきのおじさんが注文を取りに来てくれた。
おじさんは本当にただの酔っ払いじゃないのかな~?ハーフパンツに派手な半袖の柄シャツにサングラスという、ここら辺の観光客の定番ファッションだし、人相・言葉使い・雰囲気からしても普通の観光客だ。僕たちがぼそぼそと注文すると一応紙にメモしてくれたようだが、まぁこれで本当にオーダーが通るかどうかは怪しい所だ。
おじさんが行った後、改めて3人は大爆笑した!酒代が払い切れなくてここで働いて返している飲んだくれ親父か、あるいはただの酔っ払いが店員の真似をしているだけか、そのどちらかだということで三人の意見はまとまった。おじさんのことを腹がよじれるまで笑い転げて話し続けた。周りの人たちがいぶかしがるぐらいにひたすら笑い続けた。腹筋が痛くなるまで笑いまくった。
そのままずっと笑い続けていると、なんとちゃんとオーダーした料理が来たではないか!それを見て、僕たちはまた笑い転げる。あのおじさんは本当に、本当に店員さんだった!意外だ!驚きだ!!
それぞれ頼んだハンバーガーは大当たりで、とても美味しかった。食事しながらも、とにかくそのおじさんのことで3人の会話はもちきりだった。相変わらずおじさんは怪しい動きで他のテーブルをウロチョロしてはオーダーを取っていた。余りに楽し過ぎるおじさんなので、支払いの時に4人で写真を取ってしまった。おじさんに敬意を表してチップを弾む。謎のおじさん。あの歳で、あの格好で、あの場所で何故ウェイターをしているのだろう。究極のミステリー。やはり借金を返すためだとしか考えられないぞ~!
まぁ、本当はね、ああいうラフなスタイルで仕事ができるというこの国立公園の雰囲気こそを褒め称えるべきなのだ。僕一人で店に入っていたら芸術家としての部分でそう思ったことだろうが、今は観光客なので悪戯なことをするのもたまには許されるだろう。とっても面白いおじさんウェイターでした!
食事休憩を終えてバスは出発する。道の途中でドライバーがムースを見つけてバスを停めた。イエローストーン国立公園では見なかった野生動物だ。しかも雄雌のつがいでいたので、とても様になっている。雄の角はエルクのよりも短いが、その分ひきしまって強そうに見えた。何もなくとも、そこに男と女がいればストーリーは生まれる。ムースも雄と雌でいたので、それは素敵なストーリーがそこで創られていた。美しい絵をありがとう!
ムース以外にも感心したことがあった。ムースを見つけたバスドライバーはバスを停め、全員をバスから降ろしてしばらく時間を取ってくれたのだが、ふと後ろを見るとそのドライバーが立派な三脚でムースを写真に撮っているではないか。器量の狭い僕だからこれにはびっくりした。日本だったら職務怠慢となる所だが、この場所では全く問題になる気配がしないのだ。さっきのウェイターのおじさんの服装といい、このドライバー兼カメラマンといい、なんとも見事だよ、ロッキーマウンテン国立公園!
それからバスはどんどん高度を上げ、遂に3,600m級の道へと突入した。標高3,594mにアルパインビジターセンターというツーリストインフォメーションがあるのも驚きだ。そのビジターセンターの駐車場でバスが停まり、僕たちはバスから降りる。寒く、風が強い。
僕はどうしてもこの場所に立ちたかった。ようやくその念願が叶う。上機嫌の僕はビジターセンター横の小高い丘にある展望台まで勢い良く歩いた。階段を一段抜かしで登り、一気に展望台へ駆け上がった。待ち焦がれた瞬間に僕はウキウキしていたのだ。
ここがロッキーマウンテン国立公園。北米大陸の背骨として知られるロッキー山脈の真ん中にある国立公園だ。吹きつけてくる冷たい風を全身で受け止めながら、僕はこの山脈の片隅に立ち尽くした。
地上から見上げる山々の連なりはいつも優しいラインで、女性の裸の柔らかな美しさに通じた感じがあるのだが、ここではそれと違うイメージが飛び込んできた。針葉樹に覆われた山の膨らみは、まぁよくもこんな厳しい自然条件の中で生き延びているものだと頭が下がる思いになる。場所によっては針葉樹も生えていずに山肌がむき出しになっている。目の前には稜線の左右上下の駆け引きが繰り返され、それが坦々と視界を越えるまで続く。
山の天辺を眼下にする位置に立ってみると、山の印象が違った。そのラインに女性の柔らかさを思い浮かべることができずに、寒く暗いこの場所では不吉で禍禍しいものにしか見えてこない。
風が邪魔をし、寒さが身を震わせ、陽の光が届かなければ命も育たない。しかし、そんな場所でも生き延びている自然がある。なんとも逞しい生命力だ。逆境だからといって諦めてしまうことのない意志の強さ。それがこの場所からひしひしと伝わってくるメッセージだった。
遅れて階段を登ってきた同じツアーの日本人の数人が話し掛けてきた。第一声に「よくこんな所で一段抜かしなんてできるね~」と言われた。そうか、ここは空気が薄いんだ。標高3,594mだったんだ。そう言われてみれば、道理で息切れする訳だ。でもね、まぁ僕は例外だよ。だってあのイエローストーンがあるんだよ。あそこでどれだけ鍛えたことか。それは言っても仕方ないことなので、あえてそれは伏せておいた。
ロッキーマウンテンの天辺で冒険者同士の会話が始まった。お互いの冒険のコースなどを聞き、聞かれつつ話が盛り上がった。なんだか楽しい場になったが、集合時間になったのでバスに戻る。個人で冒険旅行しているつわものは結構いるようだ。凄いな、遠い日本で計画を立てて、飛行機も自分自身で乗り継いで来たのだろうから、立派な冒険ではないか。同じ国の人間としてとても誇らしい。
そして、バスは遂に標高3,713mの最高地に着いた。気温は8℃、突風が吹き荒れている。上を見れば雲がすぐそこに見えた。特に僕は空気が薄いと感じなかったのだが、確実に空気も薄くなっているのだろう。
遂に来たぞ、遂にここへ来た。この一帯には標高4,345mのロングスピークという山を筆頭に4,000m級の山が14もあるから、この場所がロッキーマウンテン国立公園の最高高度という訳ではないが、道路としては最高地点だ。僕はこの場所に360°周りが開けた大パノラマを期待していたのだが、何のことはない、生命力を感じさせない裸の山と山が重なり合うだけの地味な景色になっていた。
目の前に隣の山の頂が見えるのは確かに珍しい。だが、その山肌は鋼のように硬そうで、この時期でも所々に雪が残っている。酷い寒さだ。こんな場所でもウロチョロするリスには驚いたが、少なくともこの景色全体から明るい印象は受けない。期待していたような美しい場所ではなかった。寒く、険しい。ただそれだけの印象だ。
頂上に立つ者こそが 誰よりも厳しい状況を負う
~ ロッキーマウンテン国立公園 43degree 3,713m付近にて~
こういうことだと思う。我ながら良く読んだ言葉だと思った。何十年かの後、僕が人を束ねる立場になった時にでも、この言葉を思い出して涙するようだったら最高だね。
その後も何個所かでバスは停まり、エルクの群れや人の顔だという岩などを見たが余りぱっとしない。ドライバーは相変わらず早口英語でまくしたて、デンバーまでそれをず~っと続けた。退屈以外の何物でもない英語。耳に入れる気にもならない。そんなことよりも、僕はデンバー発6時15分のエルパソ行きに間に合うかどうかが気になっていた。
このバスには是非とも乗りたい。このツアーの所要時間は10時間で、出発が8時30分だからデンバー到着は6時30分の予定だ。6時15分発のバスに間に合うのは難しいかもしれないが、エルパソ周辺の冒険をスムーズにこなすことを考えれば次のバスに是非とも乗っておきたい。その次は11時発しかないから、たったの15分でも間に合うと間に合わないとでは大違いなのだ。
間に合うか。間に合わないか。何もできないくせに気持ちだけいらいらしている。結局、無情にもバスは6時30分にディーポに着いた。なんでこんな時だけ時間ぴったりなのだぁ~!あ~駄目かぁ~。そんなに上手くはいかないかぁ~。期待をしまっていたせいか、ショックは大きかった。しかし、なんとバスが遅れているではないか!バスを降りるや否や、僕は大喜びで乗車手続きに走った。
そのバスはグレイハウンド社のではなく、提携しているTNM&O社のだったのでアメリパスを見せるだけでは不十分だ。カウンターでアメリパスを提示してクーポンを切ってもらう必要があった。バスは丁度出発準備が出来ていたようで、係員も急いで処理してくれた。今日のツアーに参加していたみんなが僕の所に集まって来てくれて「頑張って下さい、僕たちも頑張ります」という会話をしてくれた。これは嬉しかった。言葉以上に大きな励みになる。きっと、それはお互いに。
僕がバスへ乗り込むとすぐに入口の扉が閉り、バスが出る。すっかり満員で、相席になってしまった。これは辛い。最悪の夜行バスになる予感がした。外はまだ明るかったので窓の外をぼんやり眺め、僕はデンバーにさようならを告げる。
最後は駆け足になったが、ロッキーマウンテン国立公園とデンバーともこれでようやくサラバだ。デンバー、本当に思わぬ長滞在になったね。ユースホステルでの幾つかの夜を僕は忘れない。ロッキーマウンテン、独特の美しさをありがとう!なかなかスムーズにはいかなかったが、それでも充分に冒険させてもらえた。冒険という意味ではあなたを満喫できたよ。ありがとう、デンバー。ありがとう、ロッキーマウンテン。僕の血となり、肉となり、これからの僕の心身を支えて下さい!
暗くなって着いた町で隣の人が降りてくれた。嬉しいねぇ~これで横になれるから明日が随分と楽になったよ~と喜んでいると、なんだか後ろの席で騒ぎ声がする。ドライバーが後ろの席まで行って「降りろ!」と大声で叫んでいる。どうやら酔っ払いがいるようだ。車内での飲酒は禁止されている。客はドライバーの再三の指示にも従わない様子だ。すると、ディーポの係員が乗り込んで来てドライバーと二人でそいつの手と足を持って力ずくでバスから降ろした。降りてもらう、というよりも強引に引きずり出してそのまま道端に放置した、という方が相応しい。まぁ、ディーポ内の道だから轢かれる心配はないのだが、余りに思い切った行動なのでびっくりした。
このバスには今までの路線とは決定的に違う点があった。見る限り乗客のほとんどがヒスパニック系と黒人系で、失礼だが今まで乗ったバスで一番治安に心配があると思わざるを得ない。降ろされたヤツはヒスパニック系だ。見ると、そいつは道端に寝っころがりながら、一人で何かをしゃべり続けている。僕は更に心配になった。ただの酔っ払いならまだいいが、まさか薬系じゃないよね……。薬だったらちょっと本当に怖いぞ……。
バスは元気に出発した。なんだか分かったことがある。メキシコに近くなればなる程用心しなくてはならない。差別的な心構えはないが、現実を少しは見つめよう。僕は自分自身にそう言い聞かせることにした。心の優しさを内に、なんでもありの肝っ魂を外に配置して、なんとか次の冒険もこなしてみせよう。
バスが出てすぐ、通路を歩いてきた男からいきなり日本語で話しかけられてびっくりした。顔を上げると、一目では日本人と分からないような濃い顔をした男がいた。これが、これからしばらく行動を共にすることになる土屋さんとの出逢いだった。
彼は大学の休みを利用して日本から来たらしく、今まではデンバーに留学していた友達の所に居たそうだ。これからは僕と同じエルパソへ行く予定とのことだ。英語がさっぱりの人らしく、休憩前にドライバーが言う出発時間が全然聞き取れないというから協力してあげることにした。
土屋さんが隣に席を移してきたのでバスの中も暇ではなくなり、遅くまでず~っと話していた。とても話が上手く、ユーモアに溢れた陽気な人だ。眠る時は空いている席に移ってもらい、お互い横になって眠るようにした。もう慣れたよ、こんなのはお手のものさ。エルパソまでぐっすり眠ってみせるよ!
デンバーを後に、バスは一路南へと走る。目指すはアメリカとメキシコの国境の町、エルパソだ。ロッキーマウンテン国立公園での冒険の章はこれで幕を閉じる。さぁ、新しい物語を始めようではないか!エルパソ周辺にある幾つかの冒険地が見習い冒険家を待っている!