8月31日(土)
――朝。耳元で目覚ましがうるさく鳴る。他の人を起こさないようすぐに目覚ましを止め、僕はもぞもぞと起き出す。
早々と荷物をまとめ終わると、みんな昨夜はいつ眠ったのか、半分眠りながらもちゃんと起きてくれ、短い励ましの言葉を掛け合って別れを告げる。全員に声をかけたら僕はさっさと部屋を出た。冒険旅行では、昨夜の素敵な出逢いも今朝になれば別々の人生だ。朝がこればお互い冒険人同士、迷わずそれぞれの道を行く。
8時45分にツーリストインフォメーションセンターの前で送迎バンと待ち合わせをしていた。時間通りにバンは来てくれ、乗り込むと僕以外の客はおばあさん一人しかいなかった。ドライバーのお兄さんは、HELLOの一言しか僕と交わさないまま出発し、助手席に座ったおばあさんにずっと話し掛け続けた。僕は一人、後部座席で口を閉ざす。
まぁ、アジア人である僕は警戒されるのも分かるからここは黙っておこうか。世の中には色々なヤツがいる。僕だって余り心が広い方とはいえない。その人に課せられた仕事さえちゃんとしてくれれば、人間性に目をつむることもできる。
僕が彼に対して要求することは、きちんとエステスパークまで連れて行ってくれること、それだけだ。それさえクリアしてくれれば確かに問題はないのだが、この開放的なアメリカで話しかけないのは明らかに変だよ。こうして色々な体験をしていると人間というものも見えてくる。僕が今言えるのは、毎日に未知の刺激を求めている人よりも、安定を求めている人の方が絶対的に数が多い、ということだ。
市内を出て1時間と走らない内に、周りの景色がすっかり大自然のものになった。街→町→郊外→自然→大自然という見事なスライド式の景色が僕を迎えてくれた。これもまた、僕を唸らせる凄技だ。その変化のスピードの速さに僕は舌を巻いた。アメリカの大都会は、大自然に囲まれた大きなスケールなのだな。大都会と大自然を両方兼ねているだなんて、これはなんという恵みだろう。
デンバーから北西に約100km。出発の2時間後にはエステスパークのツーリストインフォメーションセンターの前に僕は立っていた。デンバーへの戻りのバンも毎日ここから出ていると確認できたし、時間もメモしておいた。さぁ、時は来た。ロッキーマウンテン国立公園での冒険準備を始めようか。
まずは定石通りにツーリストインフォメーションセンターの様子を見る。園内のキャンプ場の空き状況が張り出されていたが、これから行けそうなキャンプ場は全てFULLの文字に占領されている。あぁ、ここも順当には予定を進めさせてくれないのか。
明日9月1日はキャンプ場の予約を入れてある。この31日間の冒険の中でもたった3つしかない予約の中のひとつだ。明日は保証されているが、今日の保証はない。今から半日の間に、僕は自分の武器と防具を一通り揃えなくてはならない。機動力と財力に乏しい僕でも、体力と意志の力で見事乗り切ってやるさ。僕にできないことはない!実際これまでもなかったのだから!
他にキャンプ場があるかどうかを聞いてみると、親切なレンジャーさんは公園の入口ゲート手前に私営キャンプ場があり、そこなら今夜も空きがあると教えてくれた。更にレンタルバイクの店の場所も教えてくれた。ほら、これで点と線がつながった。ロッキーマウンテン国立公園もまた僕を受け入れてくれ、素晴らしい大自然を堪能させてくれようとしているのだ。まだ油断できないが、そんな感じがしてきた。
気になっていたことも確認できた。ガイドブックにはキャンプ場に飲料水の設備がない、と書いてあった。もしそれが本当であれば、僕の計画は益々厳しくなる。ここに何日滞在するか決めていないが、必要な水をキャンプ場まで運ぶとなればかなりの激務だ。レンジャーは飲料水の設備はありますよ、と言ってくれた。ありがとうございます、そういった生きている情報は大変有り難いです。つくづくガイドブックは参考書であって、攻略本ではないね。
神様は僕の味方に徹し始めたのかもしれない。細かい所では味方だとは言い切れない部分もあるが、大まかで最低限必要な所では絶対的に僕の味方になってくれている。それでいい、それが理想のサポートだよ!我に適度の困難を与えたまえ!しかし、我に最終的な支援は与えたまえ!
重い荷物を近くのマクドナルドに運び、レモネードを飲みながら計画を立てる。このマクドナルドのすぐ隣に大型のスーパーマーケットがあるから、まずはそこで食料を買い込み、近くにあるレンタルマウンテンバイクの店で一台借りて冒険に出発だ。とりあえず今日は行ける所まで行ってみて、適当な所で私営キャンプ場にさっさと引き上げよう。今日の冒険自体に成果がなくとも、明日からの見通しが分かるようにすることが今日の役割だ。
隣接するSAFEWAYでご機嫌に買い物をする。買い物かごを一杯にするのは快感だが、20ドル分も買い込むととんでもない重さになった。エステスパークからどんな道になるのか知らないが、これは地獄を見ること間違いない。
その後レンタルバイクの店を探すのに時間を食った。レンジャーに教えてもらった通りに歩いたつもりが、通り過ぎてしまったようなのだ。荷物の重さで歩くだけで体力が削り取られてゆくし、夏の陽射しにも容赦がない。それでも僕は決して辛そうな素振りを見せず、アジア系の代表者として堂々とこの町を歩いていく。
元の道を戻るとようやく店が見つかった。たまらず店の入口に荷物を全部下ろす。ちょっと危ないが、この荷物は見るからに普通の人が欲しがる物ではないと分かるし、取って行くヤツなんていないだろう。
置いてあるマウンテンバイクをジロジロと品定めをしていると悪戯小僧が近寄ってきた。なんだ冷やかしか、と僕はその少年を軽視したのだが、その少年が「Can I help you, sir?」と丁寧な言葉で話し掛けてくるではないか。
僕は驚いた。だが、次の瞬間には己を切り替えていた。――何も驚くことではない。この少年は、もう既に立派な一人の男なのだ。軽視してしまったことを心の中で謝りながら、彼を一人の立派な店員さんとみなして話を始めた。店員さんは充分な知識と見事な接客術を備えており、僕はすっかりその店員さんを信頼していた。
エアサスペンション付きマウンテンバイクを一日24ドルで、計3日間レンタルすることにした。普通のマウンテンバイクは20ドルだが、エアサスペンションの効果を試してみたかった。それで身体が楽になるのであれば、そのぐらいの投資は全く問題ない。
残念だったのは、その店にあるマウンテンバイクにはどれも荷台がついていないことだ。仕方ないと割り切るものの、車で来てレジャーのためにレンタルする客と全く違う実用派の僕にとっては正直辛い。荷物をどうやって運ぶのか、これが問題だ。
お世話になった店員さんにバイバイをして、僕は共に冒険をすることになった新たな仲間と挨拶を交わす。どうぞよろしくね、マウンテンバイクさん。
早速先に進むために荷物の整理に取り掛かる。とてつもない重さになっている荷物のバランスを考えながら振り分けようとするが、これがまた難しい。背中にバックパックを背負い、お腹にデイパックを抱え込み、両方のハンドルにビニール袋をぶら下げ、それで前に進めるかどうかを試してみる。この配置がベストだと信じてペダルを漕いでみるが、それは本当に無茶な行動であることを痛感した。
ゲート前の私設キャンプ場まで、7マイルあると聞いた。7マイル。たかが7マイル。その数字だけを聞けば余裕な感じがするが、この状態では100mを進むことすらままならない。僕は本当にギブアップしようかという気になった。ペダルを漕ぐのを止め、荷物を地面に下ろす。これは無理や無茶という勇ましい言葉ではなく、不可能や無謀という冷徹な言葉の方が相応しいレベルだ。できないものはできない。
僕は真剣に考えて、結論を出してみた。――それでも僕は行こう。今日はこの7マイルだけでいい。それだけ我慢すれば明日につなげることができる。今日の課題をこの一本にだけ絞れば、僕は必ず到達できるだろう。
ゆっくりとペダルを漕いでは立ち止まり、またゆっくり走り出す。音楽をかけて辛いのを誤魔化そうとしたり、思い切ってしばらくマウンテンバイクを押しながら進むことも試してみる。色々試す中で、何とか前進できることを知った。まだまだ昼過ぎ、陽は高い。時間のリミットに追われることもなく、逆に時間には余裕があった。良い好敵手に巡り合ったという気分さえしてきた。じっくりと腰をすえて全力でぶつかるべき相手がここにいる。こんなことを考えるようになれば僕は大丈夫だ。必ず目的を達成できる。
町の中心を離れ、ロッキーマウンテン国立公園入口へのコースに入った。看板があったので、例の如く記念撮影をする。マウンテンバイクを臨時のカメラスタンドにして、セルフタイマーを焚く。これなんだよね、この写真が結構大切なんだ。アルバムに収める時にこの写真があるとないとでは大違いなんだな~。冒険旅行とはかけ離れた俗っぽいことだが、このぐらいの楽しみはあってもいいでしょう。
それ程険しくはないのだが、道は微妙な登り坂が続く。それもそうだ、ここロッキーマウンテン国立公園は高地にあることで有名な国立公園なのだし、今は下のゲートシティから上の公園まで登っているのだ。そこにマウンテンバイクで臨むには余程の覚悟が必要とされる。
音楽の力を借りて僕は進み続けた。マンモスホットスプリングスの登り坂での辛さを更に長時間にわたって迎え撃っているようなものだ。あの坂は強烈な角度があったが、荷物は無いに等しかったし、時間にしてもせいぜい30分ぐらいだった。この道の嫌らしさはまた別格で、それなりの角度がだらだらと続き、普通にペダルを漕いでいるだけでは止まってしまう。もうちょっと角度がなければ転がすように前へと進むこともできるのに、この角度ではずっと足を動かし続けなくてはならない。ペダルを漕ぐ足に荷物の重圧が加わってくる。坂はともかく、荷物が辛い。歯を食いしばり、身体中から汗を流しながら前へ前へと進み続ける。
そのまま1時間半も粘った頃だろうか、左手に私営キャンプ場らしいものが見えてきた。キャンプ場というよりもただの広い更地でしかないのだが、これはいい。びっしりとテントが張られているようには見えないので、まだまだサイトの余裕がありそうなのだ。
ここが今日のゴールのはずだったが、気力・体力・時間にまだ余裕があったので一縷の望みを持って更に先の公園入口ゲートまで行ってみることにした。大した距離はないはずだ。もしかしたら、という期待に駆られて僕は先へ進んでしまう。しかし間もなく見えてきたゲートに表示されていたのは、やはり全てのキャンプ場はFULLという案内だった。
――今日はこれまで。すぐさまそう判断を下し、さっきの私営キャンプ場へ戻ることにした。やむを得ない、今日はここまでにしよう。今の状況で、これよりも先に進む術は見当たらない。
今まで登ってきたばかりの道を下るのは悔しくもあるが、さっきまで恨みつらみを重ねた坂を一気に下ることの爽快感はたまらない。登りで蓄積していたストレスがすっきりした。変なサイクルを自分自身で作り上げたものだ。まぁ、最後の印象が良ければトータルでの印象も割と良い。ほら、最初は真面目に駄目かと思ったが、僕の全力にとっては無理ではなかった。終わってみれば、情熱を遺憾なく発揮できた楽しい坂道だったよ。
私営キャンプ場は1泊18ドルだった。イエローストーンと比べると冗談に近い金額だ。この値段ならユースホステルに泊まることもできるし、立派な食事にもありつくことができる。貧乏旅行に18ドルは痛い。正直、野宿を考えたぐらいの金額だった。しかし、園内のキャンプ場が一杯で、荷物をここまで運んでしまった以上他の選択肢はない。損をしたと考えるのは止めにして、今夜はキャンプを楽しむことにした。
そのままの野原を少しだけ整備して作られたキャンプ場だから防風林などはない。もの凄い強風にあおられ、テントを立てるのも、立てたテントを倒れないように固定するのも大変な作業だった。僕は自分自身でそんなことをするのが楽しくて楽しくて、突風を受けながらもニコニコして作業を続けた。この作業は冒険旅行のテーマのALL BY MYSELFに忠実だ。だから快楽以外の何ものでもない。
明日からの冒険本番に備えて体力をつけておこう。なにしろ今夜は時間がある。食事と睡眠をたっぷり補給しておこうではないか。クラムチャウダーの缶を開け、中身を鍋に出す。携帯用コンロで温めて、スプーンで直接飲んでみた。うっ、缶の鉄の味が苦い!ただ、僕の喉はそれでも受け付けてしまう。今の身体は悟りの極致にあるのだろう、必要なのは味より栄養だと、味覚を殺してくれる。
僕の身体よ、あなたはいつも素晴らしいサポートをしてくれる。この冒険旅行はまだまだ続き、しばらく辛抱を強いてしまうが、どうかよろしくお願いします。その代わり僕はあなたを素敵な場所に連れて行ってあげる。互いに連絡を密に取ってこのプロジェクトを成功させましょう。
鍋のふたをフライパン代わりにして、油を引き牛肉を焼く。とても根気のいる作業だ。油がなくなるとすぐに焦げつくし、火力も弱いからなかなか焼けてくれない。時間をたっぷりかけて焼く肉。手間のかけ方では、どんなこだわりのある名店にも負けていない。もちろん食べても美味しくない。それは知っている、それはいいのだ。僕が味わっているのは食事ではない、キャンプの楽しみなのだ!
ふんだんに時間をかけた時間的優雅な食事を終わらせる頃には、もう太陽もオヤスミの時間になっていた。オレンジ色の夕陽が落ちてゆく彼方の山陰に美しい絵を感じる。いつの日も、どの場所でも太陽が落ちる時間帯は素晴らしい。子供の頃から、夕陽を眺めては色々なことをぐるぐると夢想していた。
今日の夕陽を眺めていて僕が思い浮かべていたのは、スターの転落だ。日中に眩いぐらいの光を放った主役も、時の流れには勝てず、遂にはスターの座から転げ落ちることを余儀なくされる。オレンジが山の線から消えてゆく正にその瞬間、スターは世界から消えていったのだ。再び山の頭上で輝くことはない。
最後に見せる強い西日が逆に皮肉だ。西日には、時間が止まったかのような錯覚を呼び覚ます魔力が含まれていると思う。美しい皮肉、しかし時間は決定的な境界線を引き、夕陽は闇に消えて行く。今日の夕陽もまたかなりの皮肉屋だから、かなりの美しさだ。美しく、しかし冷徹に終焉がある。それもまた味のあるやり方ではある。善悪はともかく、真実さえあれば芸術の華が咲く。本気の意思だけが美を生むのだ。
その夜は少し日記を書いて、早めに眠った。食事も睡眠も取れる内に取るのが冒険旅行流だ。今日もハードだったが、明日はもっとハードになること間違いない。修行中の僕だから、ハードな一日は大切な経験であり、歓迎する所だ。辛いとはいえ、こんな時間を過ごすことができるのも今だけだ。臆病にならず、遠慮はせず、今ある楽しみに思い切りぶつかってゆこう。
――それにしても。レンタカーがあったら昨日今日と、2日も時間が省けたのになぁ。