詩的日記

白馬風樹〜リゾートバイト大学生の未熟で愚かな恋愛

祇園白川を歩いていたら、私はますますダメな男になっていた。

振り返る、また振り返る。

そのぐらいの年齢の女性を見かけると、つい傘の下からでも彼女の面影を探してしまう。

雨なのに、こんなところに今も彼女がいるはずもないのに。

気乗りしない仕事。

重要顧客が祇園白川に引っ越したなんて反則だよ。

思い出深い場所だから、ずっと来なかったのに。

皮肉は突然やってくるという。

それから逃げる術を、私は持つことができないのだろうか。

これも現実の時間、今を生きる私自身だから、またそのままでいいのかな。

桜の花びらが、雨に打たれ、風に飛ばされ、白川に流れていく。

仕事を終えて帰ろうとする私の足を引き止めるのは、

その雨音、その水景、祇園白川で彼女と歩いた思い出。

もうたまらず、私はしばらく瞳を閉じて、遠い記憶に身を任せる。

思えば、愛に動かされていた時間って、なんて幸せだったのだろう。

時間を戻したいと、あの頃に想いを馳せることは多い。

その度に、当時の身の丈に合った拙い行動ぶりに、私は跳ね返される。

合わさっても良かった風と風は、白馬の大樹の根元を別々に吹き流れていった。

もう返らない、あれは、愛に動かされていた時間。


私が大阪の大学生だった頃、長野県白馬村のホテルで、リゾートアルバイトをしていました。

最初は一回だけと思って始めたダイニングのウェイターでしたが、

大阪にはない大自然とリゾートの雰囲気が気に入り、

少しずつ知り合いができていったこともあって、春夏冬の長期連休には毎回、

そのホテルでリゾートバイトを続けるようになりました。

大学3年生の終わりの春休み、そのリゾートバイトの職場で、

私は恵子さんという女性と出逢ったのでした。

彼女は私と同じように大学の長期連休の間にリゾートバイトをしに来ていた、

京都出身で、私より2つ年下の、可愛らしい女の子でした。

その職場には関東からのバイトが多く、関西からは珍しかったこともあり、

同じ言葉を話す者同士として、私はよく彼女とおしゃべりをするようになりました。

すでに私はベテランと呼ばれるぐらい経験者でしたので、

彼女に仕事も教えてあげることも多々ありました。

リゾートとはいっても、周りには自然しかない田舎のことです。

日々の休憩時間や、月にたった1回しかないお休みの日には、

職場の知り合いぐらいしか一緒に遊ぶ人もいないのですが、

私は恵子さんと一緒に駅前を散歩したり、

ゲレンデでスキーをしたりするようになりました。

それはただ単純に他に遊ぶ相手がいなく、することがない、

という理由からであって、そこに恋愛感情など、入る余地もありませんでした。

JR白馬駅前にある「風樹(ふうじゅ)」という小さな喫茶店が私のお気に入りでした。

私の実家は大阪で喫茶店だったことから、

コーヒーの味が分かる男のつもりだったのですが、風樹のコーヒーはとても美味しく、

リゾートバイトで白馬に来る度に何度も訪れたお店だったのです。

その頃の私が自慢できるものといえばコーヒーの味利きぐらいでしたから、

恵子さんを誘って来ることもありました。

風樹には「旅人のノート」という、客で来た旅行者たちが

自由に書き込みできる大学ノートが置かれてあって、

来る度に私は暇にまかせて書き込みをしていました。

さすがに恵子さんと一緒の時は書き込みまではしませんでしたが、

店の棚に収められている古いノートを取り出してきて、

「ほら、これが僕の最初のバイトの時に書いたものだよ」などと、

彼女に見せては楽しいおしゃべりの時間を過ごしたものでした。

春休みは瞬く間に終わり、私は大阪で普通の大学生活に戻りました。

恵子さんとは仲の良い同僚でしたが、お互い住所や電話番号を

交わすほどの仲でもありませんでしたし、携帯電話もない時代のことです、

他の同僚たちと同じようにまたいつか逢えるといいね、と思うだけのことでした。

ただひとつ、最終日が近くなった頃に彼女に話した

「夏もまたここで一緒に仕事ができるといいね」という言葉だけが、唯一のつながりでした。

5月の夜、普段通りの一日を過ごして家に帰った私に、思いがけないことが起きました。

恵子さんから電話がかかってきたのです。

電話番号は交換していなかったのに、まさか彼女から電話が来るとは

思ってもいなかったので、私は驚きました。

何を話して良いか分からず、「どうして僕の電話番号が分かったの?」と聞くと、

白馬のホテルに問い合わせして教えてもらったとのことでした。

「祇園白川で買い物をしたいけど、親が許してくれない。

誰か信用のある人と一緒であれば許してくれる」

と彼女が困った様子で訳を話してくれました。

「迷ったけど、Tさん(私)しか思いつかなかったので、

電話させてもらいました」と言われば、私もお断りすることなんてできません。

日曜日の午後に河原町で再会することで、彼女と約束をして電話を切りました。

私は、不思議な感情が心の中から浮き上がってくるのを覚えました。

恵子さんに、また恵子さんに、逢える。

私は嬉しくなってその日を心待ちにするようになっていたのです。

少し時間を空けて考えてみると、色々と不思議なことが浮かんできました。

そもそも、バイト先の人事課までわざわざ連絡して

私の履歴書から電話番号を調べるなんて、普通の行動ではありません。

彼女も大学生なのですから、少なくても数人は女友達がいるはずなのに、

異性の私を何故選んだのか、よく分かりません。

親が厳しいとは白馬でも聞いていましたが、

リゾートバイトまで出してくれるのですから、そう厳しいとも思えず、

何故、地元の京都でも買い物を許してくれないのか、よく分かりませんでした。

それは京都の祇園白川は、十代の私にとっては大人の町というイメージがあって、

十代の女の子が一人で歩くようなところではない、と思っていました。

年を重ねた今でこそ、何ら心配することのない町と分かっていますが、

当時は自分一人でも行けない、ましては恵子さん一人では歩かせられない町、

そんな思いも重なって恵子さんの買い物に付き合う気持ちになったのです。

1か月半ぶりに逢う恵子さんは、雰囲気が違って見えました。

白馬では活き活きと話をしてくれて、目立つ色の服装だったのに、

地元で逢った彼女は自分自身を抑え込んでいる様子で、

服装までもが白色中心で大人しく変わっていました。

彼女に付き合って祇園白川の店を歩きましたが、

色々迷ってどれにするか決められない彼女は、

なんだか白馬での活発的なイメージとは大きく違っていて、

別にすぐに決めるとも思ってはいませんでしたが、店を歩きまわるのも、

なかなかどれを買うのかを決められない彼女を見るのも、

私にとっては苦痛でしかありませんでした。

ようやくお目当ての物を買うと、時計の針は3時を回っていました。

6時が門限の彼女です、あと2時間はあるのでお茶でも飲もうと言って、

丸山公園へ向かいました。

古い洋館を改造した雰囲気の良い喫茶店が丸山公園の中にあって、

そこが私のお気に入りでしたので、彼女にまた自慢しようと、

得意げにその喫茶店を案内したのでした。

恵子さんは色々なことを話してくれました。

親が日本舞踊の師匠で、自分も日本舞踊の免許を持っていて、

いずれは跡を継ぐつもりということ。

大学を出ていないと他人に信用されないと聞いたので進学したということ。

白馬行きは親と大ゲンカをして、それまで温室で育っていたから

社会勉強をしたい、と熱望して無理矢理認めさせたこと。

それらを聞いて、白馬での彼女がやけに活き活きとした理由が

初めて分かった気がしました。

恵子さんと向かい合って会話をしていると、

私の胸のうちには優しい空気が広がっていきました。

バイトの休憩時間、風樹でのお休みの日、一緒に滑ったスキー、

あの時間に感じていた優しい空気が蘇ると、

「私は恵子さんのことが好き」ということに今更ながら気付いていたのです。

一方で、つまらない遠慮も生まれていました。

そんな厳格な家に育っているならば、

他人との付き合いは制限されているのだろう。

ましてや異性との付き合いなんて許されているはずがないし、

私から家に電話をしたら、困るのは彼女だろう。

わざわざ電話番号を調べて誘ってきてくれた彼女だから、

多少なりとも私に好意を持ってくれているはずなのに、

実際に今日逢ってみると彼女の態度からは

私に好意を持ってくれているのかいないのか、良く分からなかったのです。

5時には店を出ないといけない、それが分かっていても、

私には答えが出せませんでした。

好きと伝えるべきなのか、電話番号を聞いて良いものか、

次の約束はどうするのか。

結局、時間切れを迎えてしまった私は、

「夏、白馬で逢えたらいいね」と口にしたのが背一杯で、

バスに乗って帰って行く彼女の可憐な白い後姿を見送ったのでした。

二か月が過ぎて、夏になると私はいつもの白馬のリゾートバイトへ向かいました。

あれから彼女からの電話はありませんでしたし、京都でも彼女の電話番号を

聞いていなかったので、私から彼女へ連絡することもできませんでした。

勝手知ったる職場ですから、私は到着してすぐにホテルの人事課へ、

今年のメンバーを聞きに行きました。

ベテランの私ですから、新人が多いのか経験者がどれだけなのか、

その辺りを聞くのは普通のことなので、

特に不審がられることもなく教えてもらうことができます。

「えーっと、今回は、地方から来るリゾートバイトさんで、

経験者は、T君、君だけだね」

予想していたことでしたが、私は本当にがっかりしました。

これまでずっと楽しくバイトできていたのに、テンションが上がらないどころか、

逆にテンションの下がり方は傍目にも尋常ではなかったらしく、

色々な人から「大丈夫?」と声をかけられるほどでした。

最初のバイトの時からお世話になっている正社員の先輩・千恵さんに

お酒に誘われ、そこで理由をしつこく聞かれたので、

渋々と恵子さんのことを話しました。

気が強く、はっきり物事を話す性格の千恵さんでしたが、

その話を聞くとさすがに私に同情してくれたようで、

「振られたわけでもないし、きっと今回は事情があって来られなくなったんだよ

と慰めてくれました。

元気が出ないままのバイト中、私は例の風樹に何度か足を運びました。

コーヒーが恋しいというよりも、そこで恵子さんと一緒に

おしゃべりした思い出に触れつつ、旅人のノートに白馬での恵子さんとの思い出、

祇園白川での一日のこと、そして恵子さんが好きになってしまったことなどを、

少しづつ書き加えていくことで、心のモヤモヤを解消していたのでした。

千恵さんからは「連絡先を人事課に聞いて、アンタの方から連絡しなさい」

と言われていましたが、その時の私にはそれが不道徳で、

してはならないことに思われて仕方がありませんでした。

「女心がわからんバカが!」と千恵さんには散々言われましたが、

受け身の私は、事情が許して連絡が取れるようになったら

恵子さんの方から連絡がある、と信じて大阪へ帰ったのでした。

自分がしていることが正しいとは思ってはいませんが、決して間違っているとも思えませんでした。

ただ、その時の自分の身の丈に合った行動をした結果がそれであって、

自分から彼女に電話するなどしたら、自分が自分でなくなってしまう恐れすら感じていましたのです。

大学4年生の私を待ち構えていた就職活動のため、

忙しく毎日を過ごしていましたが、やはり心のうちはすっきりしないままでした。

ようやく内定を貰えたので、冬休みは白馬に行こうと思いましたが、

その次の春休みまではバイトをするつもりもなかったので、

最後の白馬のリゾートバイトを楽しもうという気持ちに切り替わっていました。

12月下旬から白馬に入り、私はベテランのバイトらしくテキパキと仕事をこなしました。

今回はさすがに恵子さんが来ることはまったく期待していなかったので、

前回の夏の時のようにテンションが下がったりもせず、

普段通りにバイトをこなして最後まで楽しもうとしていたのです。

しかし、1月に入って、予想外のことが起きたのです。

その日はホテルの1階の喫茶店で店番をしていました。

スキーシーズンですから朝夕は混み合いますが、

みんなが滑っている日中は案外ヒマになる時間帯があります。

お客さんがゼロになったので、一人で店番をして洗い物を片付けながら、

私は良く晴れた外の白銀の照り返しを眺めていました。

スキーウェアを来た二人の女性がちょうどホテルに入ってきたところでした。

フロントで何かを尋ね、一人はフロントのソファーに座り、

もう一人がこちらに歩いてきます。

お客さんだと思って姿勢を正し、その人が近づいてくるのを眺めていると、

次第にその女性の顔が分かる距離になりました。

―――恵子さん?!

心臓が飛び出しそうになりました、いいえ、本当に飛び出たかのようでした。

「ひさしぶりやねぇ」と言って、以前と違ってソバージュにした髪を揺らして、

彼女はカウンターに座り、カフェオーレを注文してきました。

何を話していいのか、突然のこと過ぎて、私には言葉もありません。

「ど、どないしたん?」

「見ての通り、スキーに来たんやん」

「なんて白馬に?」

「あかんのかいな?」

「い、いや」

カフェオーレを作りながら、「去年の夏はなぜ来なかったの?」と

聞きたい思いに駆られましたが、きっと彼女の方から説明があると思って、

こちらからは話さずにいました。

困ったのは自分が今仕事中ということで、彼女をお客様と思うと

面と向って「好きなんだ!」と言うわけにもいかず、

「今、何してるの?」と聞くのが精一杯でした。

彼女は日本舞踏や大学のことを話してくれましたが、

私が聞きたい彼氏がいるかどうかとか、私のことをどう思っているのかとか、

去年の夏のことなどには触れてきません。

それは私を試しているのかな、とも思いましたが、

私も今までと同じように一歩踏み込んだ質問ができないままでした。

風の知らせを聞きつけてか、千恵さんがフロント横の階段に立って

こちらの様子を伺っているのが見えていました。

そのうち、見かねてか、千恵さんが扉を開けて店に入ってきました。

「恵ちゃん、久しぶりねぇ~。このどんくさいT君といい仲なのかなぁ~?」

と言って、水を向けてくれたのです。

私はそこで、照れ隠しなのか何だったのか、こう言って場を遮ってしまったのです。

「千恵さん、恵子ちゃんはどんな子じゃありませんよ」

この時の自分の気持ちは説明がつきません。

男子小学生が、好きなクラスメイトの女の子をリコーダーで叩いてしまうような、

あまりに幼い気持ちです。

考える間もなく、自分の口が思わず反応してそんな言葉を発してしまったのです。

その時の千恵さんの「このバカ!」という露骨な表情を見ても、

言葉を取り消したりしませんでした。

その直後、恵子さんは笑顔のままで鮮やかにこう言ってのけました。

「私、好きな人はいます。ずっと前からね」

呆気にとられて固まった私と千恵さんを尻目に、

彼女はフロントに待たせていた友達の方へ去って行きました。

スキー板を抱えて楽しそうに出て行く二人の姿を無言で見送る私に、

千恵さんがやっと口を開きました。

「アンタ・・・本当にバカなの?」

恵子さんの言葉の意味は、分かっていたようで、でも分かってはいませんでした。

彼女を追いかけて、誰が好きなのか、それを聞くこともしませんでした。

聞いて自分の名前を出してもらいたい気持ちと、

自分以外の名前だったら自分がみじめになることが怖い気持ちが入り混じり、

結局何もしませんでした。

何もしないまま、最後の白馬でのリゾートバイトを終わらせて、私は大阪に帰ったのです。

思えば、恵子さんに逢う機会は、広い森を流れる風と風とが、

大きな樹の根元で偶然出逢うような、非常に限られたものでした。

再び与えられたその貴重な機会に自分から求めていく以外に、

継続させる術はなかったのです。

なんとか二人を結びつけようと水を向けてくれた千恵さんの優しさ。

応えられる背一杯の範囲で応えてくれた恵子さん。

そこに私という男性の一言さえあれば、違う展開になったかもしれないのに、

流れるままに流してしまった私がいて、二度とない機会はそのまま流れていったのでした。

二人の女性が繋いでくれて急遽見えかけた風樹での合流を、

永遠に閉ざしてしまったのは、私の傍観だということは分かっていました

「好き」という告白が私の口からあれば、何もかもが上手くいっていたように思えて、

さすがの私も自分の過ちを認める気持ちになりましたが、

それを挽回する行動が取ろうとしなかったのです。

それから恵子さんと会う機会は二度とありませんでした。

大学を卒業し、小さな会社に就職して数年過ぎた時のことです。

車の免許を取った私は、夏の休日に思い立って長距離ドライブに出かけました。

相当遠くまで行ける連休だったのですが、

やはり車は自然と長野県を目指して高速を走り出していました。

5時間もかかりましたが、懐かしい白馬のホテルの駐車場に着きました。

ここを離れてたったの数年ですが、外装は同じホテルとはいえども

経営者は変わり、フロントやレストランにも知り合いはおらず、

寂しい気持ちを抱えて車に戻りました。

あの風樹がまだ残っているかだけが、私の最後の興味でしたので、

歩いて駅前まで向かうと思い出の喫茶店だけは、マスターも店も昔のままでした。

旅人のノートのナンバーも、数年前は120番台だったのに、

今や140を越すナンバーになっていて、久しぶりにこのドライブの思い出を書きつけると、

やはり昔の自分の書き込みを読み返したい思いに駆られました。

恵子さんと出逢った最初の春の書き込みに、

恵子さんのことが書きこまれていないのは、彼女と二人でこの店にいたからです。

次の夏には恵子さんがバイトに来なかったことで落胆している様、

祇園白川でのデートの思い出、自分が恵子さんを好きになっていることが、

なんだか痛々しい様子で書かれています。

その次の冬は、はっきりと恵子さんが好きなこと、

でも逢う機会が作れなくて留まっているダメな男の様が書かれています。

少なくとも、恵子さんには直接伝えられなかった「好き」という気持ちが、

この旅人のノートにははっきりと描かれていて、

私の心のうちはここだけには書き刻まれていたのだと思いました。

数年前の、行き違いの恋。

成就できたはずが、最後の意思表示が出来なくて終わらせてしまった情けない自分自身。

あの酸っぱい思い出がよみがえってきて、恥ずかしいような、

情けないような気持でページをめくっていくと、最後のページで「Tさん」という文字が目に留まりました。

別に「T」という名前は珍しくないので、どうせ他人のことだろうと思い、

でも自分の名前ですから興味を引かれて読んでみると、

最後に小さく「○○恵子」と、彼女と同姓同名の名前があるではありませんか。

私は目を疑い、鼓動が高鳴るのを感じてノートを掴みました。

1月10日。

Tさん、ここでは言ってくれるのに、直接私には言ってくださらないのですね。

私はずっとあなたのことが好きでした。

でも、男性に告白するなんてこと、とてもできませんでした。

昨日、喫茶店まで行ったのは私にとって最後の賭けでした。

あなたが白馬に来ているかどうかも分からないのに、

友達のスキーを白馬にしたのは私のわがままでした。

あなたが私の連絡先を私に聞いてくれる。

でないと、もう会えないかも知れないのだから。

私はあなたに何かヒントになるような態度を取るつもりはなかったのに、

千恵さんにしてやられましたね(笑)。

でも、あなたは応えてくれなかった。

さようなら。

お互いに良い人生を過ごしましょう。

○○恵子

数年前に書かれ、そのまま埋もれようとしていた彼女のラブ・レターを読んで、

私は人目を憚らずに泣きました。

彼女は、この旅人のノートに書いた私の言葉を読んでくれていた!

彼女は、私の想いを知っていた!

無理をして白馬まで逢いに来てくれたのに、

私が取るべき最後の最後の行動だけが欠けていて、

彼女の精一杯の行動を受け止めてあげることができなかった!

私は、なんという馬鹿だったのか。

自分の気持ちを伝えられないだけではなく、恵子さんの気持ちさえ台無しにしてしまった。

その本当の愚かさ、情けなさにようやく気がついて、私は心の底から涙を流して悔やんでいた。

夕闇の迫る祇園白川に、目立たぬ光が灯り始め、人は足早に立ち去ってゆく。

深い懐古の情から覚め、私は頭を上げた。

あれ以来、20年も白馬に行っていない。

拙い性格は結局変わらず、そのせいか、40を過ぎてまだ独身のまま。

彼女を忘れられないから結婚しないわけでもなくて、ありのままでいたらこうなっただけ。

身の丈に合う生き方って、そう大きくは変わらないようです。

愛に動かされていた思い出が、眩しく私を照り返す。

白銀を背に受けて、喫茶店のドアを眩しく開いてくれた彼女が、私の永遠の思い出。

旅人のノートに残された最後のメッセージで、私は初めて愛の大切さを知った。

生まれたままの私だから見失った、なんて未成熟な恋。

結ばれるだけが恋じゃない、結ばれないまま悩み苦しむのも恋、

と強がってみても、やはり結ばれたかった、愛しい人。

合わさらなかった風樹も、こうして散り流れる桜の花びらのひとつかな。

この言葉を餞に、私は思い出の祇園白川を立ち去ることができると思うんだ。

「心から、愛していました」

彼女からすれば、きっとじれったくて、忘れたいと願う中途半端な思い出でも、

私にとっては若さ精一杯の、ありのままの自分が成したこと。

二度とは会えなくても、例え彼女が忘れてしまっていても、私には人生の宝物。

恵子さん、その後のあなたの人生が、幸せで良いものであることを祈るばかりです。

それは過去系の、もう返らない、愛に動かされていた時間への、ありがとう。


Tさん。

あの時は悩みました。

夏のリゾートバイトに行くこともできたけど、そんな強制的に

あなたに逢ってもらうより、あなたの意思で私に連絡して欲しかった。

だから、わざと夏は白馬に行かないで、その後いつかあなたから

電話がかかってくるって期待していたのです。

それもなかったから、冬のスキーで白馬に行ったのは、

本当に最後の最後の行動だったのよ。

あなたの気持ちはきっとあの旅人のノートに書いてあると思ったから、

白馬駅に着いたら真っ先に風樹に行ってノートを読み返すと、

あなたは嬉しいことを書いてくれていた。

祇園白川での一日のこと、夏のバイトで私が姿を現さなかったこと、

何より私が好きって、はっきりと書いてくれていたじゃない。

私は本当に嬉しかった。

わざわざ白馬まで来た甲斐があったし、今度こそ逢ったら

あなたの口から何かが聞けるって、そう信じて疑わなかった。

ノートに書いて、たくさんの人たちに公表できるぐらいなんだから、

たった一人の私に伝えることなんて簡単のはず。

そう思っていたのよ、そう思っていたのに。

あなたに出逢って、あなたと時間を一緒に過ごせたのは

偶然に偶然が重なった、とても幸せなことだったわ。

でも、最後の偶然をあなたが必然に変られなかったこと、

それは最初から決まっていた私たちの限界だったのかもしれませんね。

今、私は幸せ。

ちゃんと言葉で伝えてくれる人と一緒になって、毎日を過ごしているから。

あなたのことは良い思い出って言うのかな、いいえ、どちらかと言えば、

私にとっては苦しかっただけの、忘れたい思い出よ。




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