そもそも自由民権運動の「自由」という言葉は当時どのような意味で使われたのであろうか。
「自由」とはオランダ語や英語として西洋から入ってきた言葉を和訳したものだという。
つまり、それ以前の日本社会に「自由」という言葉は存在しなかったのだ。
近代思想としての「自由」は自由民権運動から始まるわけだが、
その始まりには当時の日本人の大部分は、この近代思想としての『自由』の意味を
本当に理解していたわけではなかったというように、
「何でも許される自由」「我がままの権利」として誤った形で理解されることもあった。
このことから、この言葉が日本の一般社会にとってはいかに真新しい言葉であり、思想であったかが容易に推測できる。
自由民権論者たちが主張した「自由こそが天から人間に生まれながらにして与えられているもっとも大切な権利」
という考え方に加え、「平等」という言葉がいつしか民衆の間で独り歩きするようになる。
我が国では明治維新以来の四民平等によって初めて認められた「平等」の意識であるが、
明治時代にはまだ封建思想が濃厚にのこっていたため民衆に「平等」の近代的意味が
正確に理解されることはなかった。反抗の道具としての言葉に留まっていたのである。
しかし、この「自由」や「民権」「平等」の言葉の近代的な意味を理解した一部の人々が、
明治維新後に日本初の民衆運動が始めたことは本邦の歴史上、評価に値する。
自由党の鈴木舎定は「人は誰も皆生まれながら天より自由の権利を与へられております」と言った。
ここで「天」を議論に持ち出してきたことは大きい。それまでの明治以前の儒教学では
「天」は支配者層の頂点である将軍や天皇の存在を指していたものが、
この発言における「天」とは、ひとつの人格ではない全体世界としての「天」であり、
特定の支配者のことを意味するものではなくなっているのである。
つまり、儒教思想における「天」の思想を打破したことに、自由民権運動の大きな価値があるのだ。
残念ながら、結果としてこの時代の民衆運動は最後までその姿勢を貫けずに失敗に終わっている。
絶対的支配のための封建制度維持を図った勢力に敗北しているのである。
ただ忘れてはならないのは、日本初のブルジョア民主主義思想がこの自由民権運動にあったということである。
結果は惨敗だったが、日本の民衆が歴史上初めて近代思想と言論による民衆運動をしたことに大きな意味があったのだ。
日本の近代における民衆闘争の特徴事情として、天皇の存在を挙げたいと思う。
そもそもこれは、明治の文明開化がすべて天皇を中心として行われたことで、
当時の民衆が持つ天皇への考え方は形成され、その名残が続いていたのだ。
文部省による徹底した天皇崇拝教育がそれを後押しした。
当時の日本社会には天皇は絶対であるという深い意識が根付いていたのだ。
ただ、ここにきて天皇の存在が日本の近代化という点では
市民を阻止するものであるという意味を持ち始めるようになってくる。
結局、天皇を頂点とする支配基盤を固めた明治政府は、民衆中心の政治体制を封印したことになるからだ。
当時の民衆が持つ点のへの考え方は、自由民権運動の国会開設要求の方法に顕著だ。
自分たちの力で天皇制を打倒するのではなく、民衆が天皇へ哀願し、
天皇の賢察によって国会開設の救済を求める、という間接的な形をとっている。
反政府運動であれば現存の天皇体制打破を掲げて当然である。
この意味で、自由民権運動は本来の意味での反政府運動にはなりえなかった。
そこには、神話以来の天皇崇拝の伝統から脱却できない日本民衆の姿がある。
天皇制による支配国家体制を確立しようとした明治政府に対して、
民主主義に基づく立憲制国家建設を民衆が目指そうとした時、
そこに立ちはだかったのは別の意味で民衆にイデオロギー化していた、
天皇という存在であったのは近代日本独特の皮肉であろう。
ここに自由民権運動の特質のひとつがあったである。
このようないびつな形で始まり、そのしがらみを打破できなかったことから
頓挫してしまった近代の自由民権運動ではあったが、
方向性を突き詰めれば西欧の民主主義運動の流れを汲む、現代につながる民衆運動の黎明期であった。