川端康成の雪国・蓼喰う蟲、古典的女性像・未来的な理想

昭和初期の天皇を中心とした絶対専制的国家のなかで軍事色が強まることは、作家の活動範囲を狭めることに直結した。

ましてや、大正デモクラシーという開放的な時代の後であっただけに、

西洋近代化や女性の地位向上など長い時間を経てようやく確立しつつあったものが

進むべき道を塞がれ、自由な行動を制限されてしまったのだ。

文学は書かれた時代の社会的背景を抜きにして語ることはできない。

『蓼喰う蟲』や『雪国』は軍部の目を警戒する必要がある時代の作品であった。

世の動きに無関心であるわけがないのだが、それを批判することのできない時代。

当時の文化統制によって『雪国』に伏字や削除がされたことを受けて、川端は「文学者はたまったものではない」と言った。

文学は批評の心から始まるものである。

鬱積された文学者たちの気持ちが、この時代では別の形となって作品に表れている。

社会に深く関ることができなければ、次は個人的な心情を追求するしかない。

戦争を美化できなかった彼らは、もっと身近で非社会的なものを題材にした。

『蓼喰う蟲』や『雪国』では女性が題材として描かれている。

いずれの主人公も妻帯者でありながら、自分の気持ちや日常を妻に求めたり、

依存したりするのではなく、妻ではない別の女性に求めている。

この主人公たちの行動は作者たちの素直な心情ではなかったのか。

自分が現存する世の中こそが一番興味のあるはずの対象であるのに、社会背景によってその一番のテーマを放棄せざるを得なかった、

その思いが主人公に妻ではなく別の女性にテーマを求めさせる原因になったのではないのだろうか。

一方で、それは歓迎すべき時代の推移でもあった。

日本社会の近代化、それは西洋化を意味したが、それが進んでいることを文学でも確認することができる。

それまでのような男尊女卑の封建社会はまだ残っていたにしろ、

この作品のように女性の存在が大きく取り上げられた通り、次第に女性の地位が男性に近くなってきたのである。

女性を一人の人格として見ようとする態度は、性的な対象としてだけ見る傾向にあった封建的な社会にはなかったものである。

男性と女性のありかたが変わりつつある時代の一面がここにある。

両作品の主人公は社会的に無気力だという点で、内面も行動も共通している。

『蓼喰う蟲』の要は、いずれは離婚すると自らで結論付けておきながら、実行できないまま時を垂れ流している。

『雪国』の島村は仕事もせずに親の財産で生活をし、妻子を残して一人で自分探しの山登りにでかけ、

実際に見たこともない西洋舞踏に机上の論を語るような浮ついた男である。

この主人公たちは作家の自己像であったに違いない。

谷崎は妻の千代を佐藤春夫に引渡し、住まいも関西に移すという生活の大転換を経験し、古い生活からの脱却を望んでいた。

川端は表現を抑制される時代に閉口し、その虚無のなかで何とか活路を見出そうとしている時期であった。

個人の自由や主張が抑制された時代に、覇気に満ちた主人公は生まれない。

彼らは作家の自己像であったと同時に、時代と社会に生き甲斐を奪われ、

生きる意味を見失ってしまった当時の男性像でもあった。

そんな無気力な彼ら男性が、時代にも社会状況にも左右されずにマイペースで生きる、

彼らにとっては不思議な存在を見つける。それが作品中の女性たちである。

要は妻を愛することができなかったし、かといって慰み物にはしなかった。

妻という女性に対しての感情は何もない。

神でもなく、玩具でもないニュートラルな位置付けに妻を置いたままである。

お久には古典的な女性像を投影し、古典芸術や文楽人形の姿を重ねる。

理想の女性像であり、美しさの象徴としての女がお久だ。

これは同時に母親像につながっている。

要は現実の身近な女性である妻を愛せずに、古典的な理想の女性を探しているのである。

駒子とは対照的な女性像である。個性の乏しい、受身の昔の女だ。

男から愛されるだけの玩具だ。

ルイズにはモダンな異国興味を持っている。

性欲の対象としての相手だが、結局深く入り込むことはない。

あくまで生理的な要求の一環としてのうわべの相手である。

相手に心を求めようとはせず、破ろうとしない幻想を抱いているだけなのだ。

この3人の女性は、要のなかではどこかで重なり合うことがなく、各々が独立している。

要は現実の女性を誰一人として愛そうとはしない。

結局お久に文楽人形を投影させるだけ投影させ、最後は玩具と理想を混同させてしまうのである。

島村の態度から妻への興味は感じられない。

駒子と関係してから、駒子に一方的なイメージを植え付けていた。

それまでの苦難の人生や決して清潔だとはいえないはずの生業を知っているくせに

駒子を清潔だと思い込み、子供の頃から日記をつけたり、

読んだ小説の筋や登場人物を記録したり、特段深い関係でもない幼馴染みに

自分で稼いだお金をつぎ込んだりするのが徒労だと決め付ける。

その割に、駒子の三味線の音を聴いて急にイメージを変えたりする。

田舎芸者のお遊戯のような芸だと思って見下していた三味線の音に、ふと戸惑う。

徒労と決め付けたのは女性を見下す男の旧態然としたエゴであろう。

突然その徒労が意味のある美しい徒労だと思うようになる。

この変化は島村にとっては大きい。古い自分を脱却することのできる変化である。

川端の自己に対する希望を、島村の変化に託しているようである。

そうしていつの間にか駒子は理想の清潔な女性像になった。

要もお久という存在に新しいものを見つけて己を停滞から脱却させようとしている。

そのためにお久を文楽人形になぞらえる必要があった。

一見徒労に見える駒子の行動には情熱があることに島村は気が付く。

それは、島村にはない情熱である。

当時の男たちから喪われてしまった情熱であった。

その情熱が、島村や男たちからすれば不思議なところで輝いている。

駒子が放つこの美しさはお久とは対照的だ。

自分の意志や力で生き、そこで輝く美しさ。

他者に依存するだけお久とは違う。

女性に新しい価値を求めた両主人公だが、島村は当時にもなかなかみられないような未来的な女性を理想とし、

要は逆に古い女性像に理想を重ねる。

同じ理想の女性像でも正反対である。

だが、それは要にとっては己を脱却させてくれる輝かしい存在であったのだ。

また、『雪国』には現実離れした、男のための女性像がある。

病人を献身的に介護し、死んだ後も墓参りを欠かさない。

非現実的なまでに美しく描かれる葉子という女だ。

子供に接する母親のように全てを包み込んでくれる葉子は、島村が理想とする生活を具現化したものだったのだろう。

この女性像はお久と一致する。

作中の女性が輝く一方で、何もすることのない両主人公の虚しさがある。

彼ら男性たちからは意欲が感じられない。

だが、そうだからといって絶望しているわけでもない。

自身に対する真面目さも失いたくないという態度は感じられる。

島村は自分自身を取り戻すためといって山に登っているのだし、

要は「たった一人の女を守って行きたい」という気持ちを青年時代から持ち越している男である。

考えようとしつつも輝くことができない男性がおり、その対極として、考えないがいつも前向きな女性の姿がある。

時代に思想と行動を抑制された男たちの無力さと、

そんな時代のなかでも時代とは関係なく強く美しく生きている女性の様。

当時の社会では輝くことのできなかった男たちにかえて、女性たちの美しさが描かれた作品であった。

島村は駒子の行動を徒労と感じるが、駒子はそうとは思っていない。

ありのままの行動をして、ありのままの自分で生きるだけだ。

それが不思議と島村の心捉える。

捉えると、逆に島村自身の空しさが浮かび上がってくる。

この対極が美しい。

社会に逆らえず、島村のように無気力になっているのが一般的な民衆であろう。

その一方で、ありのままを出して輝いているのが一握りの民衆であろう。

明確な形をとっていなくても、駒子の姿自体が時代に対する反逆なのである。

島村の怠惰な生活自体が、国家に忠実であることを求められる当時の民衆に対する反逆なのである。

3人の女性像のなかから、最も古典的で非現実的なお久を選んだ要の行動も、

当時の社会に逆行するという形の批判なのである。

正面から時代に向かうことのできない状況下で、昭和の文学者たちの批評の精神が燃え上がり、

直接的な時代への反抗ではなく、間接的な批評に向かった。

それがこの両作品にはこめられている。




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