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興福寺の写真、中金堂・東金堂・五重塔は奈良公園観光名所

白黒で、割合地味なお寺だなぁ、とずっと思っていた興福寺。

お寺の格や、国宝館にある仏教美術品の凄まじさから、東大寺に次ぐ奈良公園の名刹とは分かっていても、

写真撮影をするといつも白黒の写真にしかならなくて、写真映え・観光映えのない興福寺。

興福寺の中金堂写真

そんな興福寺で、2018年10月に落慶した中金堂(ちゅうこんどう)。

上の写真がそれだが、ようやく興福寺に鮮やかな朱色が蘇った。

内部拝観はできないが、そのお姿のありがたさ、華やかさに僕は喜んだ。

興福寺の写真

400年前に再建された東金堂と五重塔、それは国宝指定された貴重な文化財。

歴史を感じさせてくれるとはいえ、色合いの薄さが人目を引かない。

興福寺の写真

南円堂・北円堂は主役にはなり得ないサイズ、色・形は良いのだが。

興福寺の写真

東金堂のそばにある国宝館は、ある意味で奈良国立博物館を凌ぐほどの仏教美術品の宝庫。

阿修羅像は超有名、奈良時代のもので、日本の仏像を代表する作品。

阿吽の木造金剛力士像、木造天燈鬼・龍燈鬼がお気に入り。これらは鎌倉時代のもので、武士が好むような力強さがある。

これらをガラス越しではなく、直に見れるし、見せ方もお洒落。

奈良国立博物館と比較すれば数はずっと少ないが、本物中の本物をじっくり見れるので、興福寺国宝館は宝物が拝める奈良の本物。

まぁ修学旅行生たちには何の魅力も感じない古いお寺なのだろうね。

巨大な大仏がいるわけでもなし、境内に鹿がいっぱいいるわけでもなし。

中金堂がオープンしても、まだまだ地味だというイメージは変わらない。

興福寺の中金堂写真

広い敷地内に、本物の建築物が数多く並んでいる興福寺は、よーく考えれば偉人中の偉人。

あとは見せ方の問題で、華やかさを出せば人気もついてくるのだろうが、

それは大元の創建が669年だという、1,300年超の歴史を誇る興福寺、あくまでマイペースを貫く。

興福寺を訪れたのなら、とにかく国宝館を訪れて欲しい。

写真には残せないけど、肉眼で国宝の数々を見ることができる。

このブログ記事のように、写真には地味なお姿しか残せない興福寺だが、本物中の本物の仏像が残る。

2010年撮影

興福寺・五重塔の写真

興福寺・五重塔の写真

興福寺にはたくさんの仏像スターたちがいて、実は奈良を代表する大きな寺なんだ

阿修羅像、阿吽の金剛力士像、天燈鬼・龍燈鬼立像が、僕のお気に入り

かつてはここ興福寺は、東大寺をも凌ぐ大寺だったという

興福寺・五重塔の写真

この北円堂には秘仏の運慶がいる、運慶作の弥勒仏坐像が。

興福寺東金堂の垂れ幕の柄をアップしてみました

いやぁ、奈良公園の一角だけあって、神鹿だらけですな

奈良で一番高い五重塔、昼と夜とではまた表情も違っているようだ

奈良を代表する景色だよね、この猿沢池から望む興福寺五重塔は。

 


仏師運慶の仏像彫刻作風の特徴、玉眼の写実主義

 

運慶の仏像が大好きだ、彼の作品を追って幾度奈良・京都に通ったことか。

仏像の基礎知識や時代背景を知らなくても、単純に美術品として魅力的な運慶の仏像。

もう一歩踏み込んで、日本彫刻の歴史の中での運慶のことを調べてみた。

仏像制作には暗黙のルールが存在していて、自分の美意識で自由創造するものではなく、

作るべき形の基本が定められた、いわば課題制作みたいなもの。

仏師・康慶の家に生まれた運慶は、幼い時よりそのルールを身近なものとして見て育っているし、

また運慶自身も熱心な仏教信者。運慶はそんな制約の多い仏像芸術の中で、

ルールを逸脱しない枠内での工夫を突き詰めて仏像アートの世界を広げた人物。

運慶の時代は宗教改革の訪れと重なり、宗教の民衆化・大衆化の波が来ていた。

東大寺・興福寺の焼き討ちを契機にそれが加熱し、

貴族から武士台頭への時代変化にもまれて被害を受け、

苦しみあがく民衆がもっと自分の身近に感じられる対象としての仏像を求めていた。

父・康慶は仏像の写実主義を進めた第一人者だったが、

その流れを受けた運慶は、当時の民衆が求める姿に合致するよう仏像の世界を加速させた。

具体的には、願成就院の不動明王像には運慶が築き上げた特徴が顕著だよ。

密教の経典が説く、醜悪で肥満した童子というイメージを、運慶は見事に力強く、

あたかも現実に存在するかのような仏像として創り上げている。

 

彼の技法の特徴である玉眼を使うことで、内面から溢れ出してくる威圧感を表現し、

ひだの少ないシンプルな衣と、張り詰めた体躯・めりはりのあるくびれとの対比で

たくましい生命感を浮き彫りにした。

そこから感じられるのは、見る側、民衆に直接エネルギーを与えてくれるような仏像。

東国武士たちが拝むのにふさわしい男性的な運動感・荒々しさがある。

経典の中の取り扱いが難しい人物像をバランスよく見事に写実し、

しかも民衆と武士いずれにも通用する仏像に創り上げた運慶。

この両方を兼ね備えた不動明王像こそ、東国で運慶が到達した新しい仏像アートの世界。

玉眼にしろ、衣のひだにしろ、運慶が作る仏像には通常以上に手間のかかる仕事が

細部にわたって施されているのが技法的特徴。

その手間をかけなくてはいかなかった理由として、

当時の仏像社会ではライバルの院派や円派仏師の繁栄があり、

運慶ら慶派の奈良仏師は新しい仏像を創らない限り将来の発展が見込めなかった。

それを理解した上で、今後どうなるか分からない社会情勢の中で

急台頭中の源氏の要請を受諾し、父・康慶は慶派の代表として運慶を東国・鎌倉に旅立たせた。

源氏だって、いつ衰退してもおかしくない世の中。

康慶の行動は自分たちの将来につながるかどうかも分からない賭けの要素があった。

それまでの仏像のスタイルは定朝様式の眠るようなおだやかさが特徴であり、

実在する人間ばなれをした仏のかたちが主流だったが、

東国という新しい土地、宗教がより庶民化してゆく時代背景の中で、

運慶はより写実的で、より力強いものを創り上げるという事績をあげ、

日本美術史における仏像アートの世界に新しい境地を切り開いた。

東国では民衆と武士の両方から求められる力強い仏像の世界を確立した運慶だが、

京都や奈良に戻って仕事をしてゆくようになると、

やはり日本人の根底には大人しい仏像を求める心が流れていると知ってか、

興福寺での北円堂弥勒仏坐像のような穏やかなものを作り始めた。

かつての強力で斬新な個性を発揮するものではなく、

穏やかさを全身にみなぎらせたものに力を注ぐ柔軟さを運慶は持っている。

その頃の運慶には年齢を重ねたことでの余裕や、

すでに画期的な仏像を作り上げたという実績もあったのだろう。

更には、運慶自身が慶派の長というポジションについていて、

もはや自分が率先して鋸を持ち仏像を作るのではなく、

多くの弟子たちを指揮する立場におかれていたことも理由のひとつ。

武士の台頭、民衆の逼迫した状況が一段落し、時代は源氏の安定政権に移っていた。

生動感こそが仏像彫刻の美点としてきた運慶は、次の手法を見つけたようだ。

社会を無視して芸術は成り立たものでもないから、

時代が求めるものに対応していくのも美術には不可欠。

次第に民衆は、仏像に以前のような空想性を求めるように戻っていった。

運慶以前の定朝が確立した和様彫刻。

それを察知して、運慶は北円堂の弥勒仏坐像を自然体のものにしたのかな。

和様彫刻よりは写実的だが、鎌倉彫刻よりは力まず、運慶の作風の変化が見られる。

最終的に、弥勒仏坐像は日本美術史上における彫刻の終着点に重なっている。

写実性は、彫刻ではなく絵画に引き継がれた。

崇拝対象としての彫刻は結果として写実よりも空想に落ち着く。

運慶の写実主義は子供の慶派彫師たちにも引き継がれたものの、

運慶の世界を大きく変化させたり、その域をはみ出したりすることはなく、

運慶がしてきた範疇の中で、仏像彫刻は続けられていった。

日本彫刻の歴史は定朝の時代に最盛期を迎え、運慶の鎌倉彫刻で飛躍を遂げたが、

その後は社会や民衆の求めに応じて、また定朝の空想の世界に戻っていき、

次の進化に至らないまま現代に至るのである。

強烈だった仏師運慶の個性、私の心はずっと忘れられないのだろうな。

 




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