日本ならではの風景を、写真に撮りたいと考えた。
どこか。京都と奈良は数多く訪れてみたので、それ以外でどこか。
明るい華はなくてもいい、ただ本物の写真撮影ができる場所を。そうだ、高野山だ。
高野山の写真撮影スポット、奥の院・根本大塔・金剛峯寺、この3つが欠かせない。
早朝の奥の院では、正直、一眼レフでの本気撮影は躊躇がある。
独特の風景を撮るのは貴重だが、墓地のため。
根本大塔一帯は昼間よりも夜がフォトジェニックだ、三脚を立てての夜景写真、精霊たちの物音にドキッ、とするけど。
金剛峯寺の門構えに惚れそうになった、ここも夜景撮影のベストスポット。
帰りがけに九度山に寄って真田幸村へ想いを馳せる。
高野山の写真撮影スポットを巡る旅、夜景と早朝の奥の院がポイントかな、日本再発見の撮影旅行。
奥の院墓所の早朝写真
高野山・奥の院を、早朝に、夕暮れ時に歩く企画を立てた。
夥しい数のお墓・供養塔がある場所だ、人気のない時間帯に歩くのは胆力がいる。
俗界から離れた何かを、あの空海の世界から得られるのではないか?
アメリカ赴任する直前、最後の写真撮影に選んだのは高野山、奥の院、金剛峯寺、根本大塔。
日本らしく、本物の中の本物を感じたかった、強い意志に触れてみたかった。
観光地ではなく、修行の場としての奥の院、本気の写真撮影するのも憚れる。
お墓の写真を撮るのは好むものではないが、この並々ならぬ空気感を切り撮りたい。
早朝5時半過ぎから歩き続けた奥の院、写真に早朝の感じは残っていないが思い出は濃い。
奥の院に、逢いたい人が祀られている。
弘法大師・空海、密教仏教を日本に伝えてくれた人。
僕の尊敬する人、密教美術(特に仏像)を中国から持ち帰ってくれた空海、感謝は尽きない。
よくぞ、その美しい密教文化を日本に持って来てくれました。
それを和様化させ、更に美しい芸術まで高めた日本の先人たち。
奥の院を歩いていると、歴史上のビッグネームをあちこち見つける。
武田信玄・勝頼父子、本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら徳川家の武将たち。
明智光秀と石田三成が隣同士のお墓に入っているのも、奇妙な縁を感じさせてくれる。
マイナーな戦国武将の名前もある、各地の名家が高野山・奥の院に墓を残すことを望んだ。
ある角度で本物中の本物、それが高野山・奥の院から感じ取ったメッセージ。
根本大塔の夜景写真
桁外れの大きさ。
多宝塔は多く見てきたが、高野山・根本大塔と対峙した時の驚き。
あえて夜に歩く根本大塔一帯、霊魂たちを感じれるかと思って。
三脚で本気撮りする僕、物音がする度に肝を冷やし、鳥が啼く声に背筋を凍らせた。
怖さではない、この異空間から覚えるものは。
夜中、何人かの外国人観光客や地元住民も歩いている。
金剛峯寺や奥の院と並ぶ高野山の代表格・根本大塔、大きいことは良いこと。
森の神か、妖怪か、何かが出そうな雰囲気の中、夜景撮影をした思い出。
日中に歩く根本大塔、配色具合に目を奪われる。
高野山の大門もまた、尋常ではない大きさ。どうしてこんな山奥に。
金剛峯寺の写真
イメージが大切だ。高野山の金剛峯寺、面妖?清廉?正体が見通せない存在。
その感覚を表現してみたのが、上の写真、金剛峯寺の正門を夜に撮ってみた。
日が昇ると表情をガラリと変え、それは爽やかな門構えに戻っていた。
修行の場というか、高野山の文化の中心地だな、金剛峯寺は。
突き詰めるとシンプルなものが最も美しいと知った。
この色使いの妙、朱色の存在感が際立っていた。
控え目でいるくせに、潜む美を隠せない実力者、それが金剛峯寺。
高野山には根本大塔も奥の院もあるけど、金剛峯寺は外せない。
貴族の余興からではなく、修行僧たちの鍛錬の中から生まれた美が満載。
忘れがたい訪問の記憶、金剛峯寺は夜に昼に眩しく迎えてくれた。
真田庵の写真
真田昌幸と真田幸村(信繁)が蟄居させられていた九度山・真田庵、ずっと来てみたかった。
中学生の頃から真田幸村の話を聞いてファンだった、比類なき勇将に祭り上げられた真田幸村。
この九度山・真田庵でどんな生活を送っていたの?どんな景色を見ていたの?
高野山からは下にあるからまだ寒さも厳しくないだろう、
紀の川を越えれば京や大阪にも行けそうだが、当時は山奥扱いだったはず。
「幸村」名義のものが並んでいる。
2016年からはNHK大河ドラマで主役になり「信繁」の名が表に出てきているね。
真田庵は何ていうこともないただの屋敷、そこに戦国武将の面影を見つけることもない。
伝説が強く残っている真田一族、巨大勢力に地方勢力が一矢を報いた、
この判官びいき感が日本人にはたまらない。
六文銭を見るだけで嬉しくなってしまう、真田幸村と対峙できた真田庵の一瞬。
周りを見渡すと山だらけ、この景色を真田幸村は見ていたのか。僕も同じ景色を見れた。
真田十勇士がキャラ化されている、九度山名産の柿と合わせて。
真田の抜け穴、真田庵からここを通り真田幸村は大阪城の戦いに向かったという伝説。
これ、という見どころはなかった九度山・真田庵、真田幸村とすれ違えた光栄。