郷里の熊本を出た時、三四郎の井の中の蛙っぷりは絵に描いたよう。
自分は高等学校卒のエリート、一般人よりも上という優越感の持ち主。
兄の野々宮のことを、よし子が深く観察している姿を見て、
「これしきの女」「東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだ」
と思うところに女性蔑視の態度が現れているし、
美禰子たちと団子坂へ菊人形を見に行った際に見物人のことを
「教育のありそうなものは極めて少ない」
「あの人形を見ている連中のうちには随分下等なのがいた様だから」
と言う様から、一般庶民を卑下した態度を読み取る。
自己意識の高い三四郎は、大都会・東京に出て来て電車や東京の広さに驚く一方、
故郷の母から届いた心尽くしの手紙を見て、もう自分にはいらない世界だと失望する。
様々な人と交流を持ち、新しい女性像である美禰子と知り合ったことで己の不明を知る。
東京での新しい物事になんとか自分で納得のいく理解をしようと試みる三四郎。
しかし、「世紀末」というハイカラな言葉に反応を示さなかった、
いや、示すことができなかったように、東京の考え方になじむことができない。
静かな大学の池の端で佇んでいても、故郷の熊本の自然を心の拠り所にするわけでもなく、ただ孤独を感じてしまう。
既に故郷からも心は遠ざかってしまっていた。
三四郎は自分がどこにいればいいのかが分からず、ただもがいているだけの迷子。
同じく、自分がどこにいればいいのかが分かっていない人間がもう一人いた。
自身の結婚問題に揺れる美禰子だ。
当時の一般的な女性像に美禰子は当てはまっていない。
知識があるし、三十円もの大金を自身の判断で三四郎に貸すことができる経済力。
そういった女性は、明治の時代では稀であった。
三四郎にとっては、そんな美禰子こそ、大きな謎。
自立しているように見えながら、己を「御貰をしない乞食」と言い、
野々宮への非難の言葉を美禰子から聞き出そうとしていた三四郎の腹を見透かし、
「ストレイ、シープ」という謎めいた言葉を投げる美禰子が、三四郎には謎で仕方がない。
美禰子は美禰子で、三四郎の横顔を熟視するぐらいだから、三四郎のことが気になっていた。
それは恋心というか、三四郎がまだ持っている田舎臭さというか、
純粋さに美禰子自身の青春を重ねていたのだろう。
三四郎に見たその純粋さは、ありきたりな結婚で美禰子自身が手放すものだと気付いていた美禰子。
こうして三四郎は美禰子に謎めいた恋心を覚え、美禰子は三四郎の純朴さに恋をする。
三四郎は次第に美禰子の本質を捉え始めた。
「私そんなに生意気に見えますか」という言葉を皮切りに、
それまで無欠の女王のように思っていた美禰子が、実は不安だらけの一女性だという理解に届く。
しかし三四郎はそこで美禰子を理解したと思い込むこともしない。
「二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片付かない空のような、――意味のあるものにしたかった」
とあるように、三四郎は美禰子に謎の部分を感じ続けたかった。
結局、三四郎は未知の世界に飛び込むことに臆病な無力な青年だった。
次第に三四郎は美禰子のことを理解し、対等になったと考え始める。
「あなたに会いに行ったんです」という言葉を言うことができるほどにまで成長するが、
皮肉なことにその時には美禰子の心に変化が起きていた。
「迷える子――解って?」という謎めいた言葉を三四郎にかける美禰子。
これには三四郎に前進して欲しいという気持ちが篭っていたのだろうが、
同時に美禰子自身にも成長を求めた言葉でもあった。
三四郎は美禰子に胸中を告白するまでに成長したが、時既に遅かった。
間接的な言葉ではあるが三四郎が告白をした時も、美禰子には意味が通じなかった。
この時点で美禰子は結婚の意志を固めていたのだろう。
そして美禰子は贖罪を求めるかのように三四郎へつぶやく。
「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
新しい女性像を理想としていても、
旧態依然とした結婚のしきたりに従うしかなかった自分を非難した言葉なのかな。
こうして美禰子は理想よりも現実を見ることを決心した。
最後に三四郎は「迷羊、迷羊」と繰返した。
謎でしかなかった美禰子の心情を、三四郎はようやく理解した。
しきたりに囚われず、自分の意志を優先させて生きることを理想に掲げた美禰子が、
現実問題を前にして悩み苦しみ、そして最後は諦らめて現実を選んだ経緯。
それが自分が感じた美禰子の謎の正体だと知った。
すると、三四郎の心に根付いていた深い霧も溶ける。
それまでは若い自尊心が邪魔をして、美禰子のことを愛せていなかったと気付いた。
三四郎も美禰子と同様、本質的なものを理想としていた割に、
夢ばかり見て現実に阻まれ、一番大切なものに手を伸ばそうとしていなかった。
三四郎はそのことを、美禰子を失った代償として理解する。
そして、ついに「迷羊」という言葉の真意を理解し、口にした。
傲慢な田舎青年として上京し、うわべのことに囚われていた三四郎が、
美禰子の結婚を機に青春の夢と決別し、人生の実態に気付く様が、作品には鮮明に描かれている。
『三四郎』では三四郎と美禰子の両方に、その時代の中で向き合うべきものがある。
日露戦争後の不況では、当時の女性は夫や親に依存しない限りは生きていくことができなかった。
父親を亡くし、兄と暮らしていた美禰子だが、兄が結婚することに伴って、
何か他の依存対象を見つける必要に迫られていた。
当時を生きる上で不可欠であった『家』という制度が顕著に現れている。
美禰子は今までの『家』から新しい『家』へと移る人生の過渡期だった。
美禰子は三四郎に恋愛を求めていたのではない。
大学という学歴があっても当時はエリートを約束されるわけではなく、
田舎出身で特別な社会的背景を持たない三四郎は中途半端な存在であり、
美禰子はそんな三四郎に自分と似たものを見ていただけ。
中途半端な『ストレイシープ』としての自己像を、
三四郎にも投影させて同情に似た関心を寄せていただけに過ぎない美禰子。
三四郎は東京の大学で勉強するために、田舎の熊本から前途洋々と出てきた人間。
熊本の世界からすれば自分はエリートだが、様々な人に出会う中で自らの小ささを知る。
社会的に孤独な美禰子の『ストレイシープ』を通して、
実は自分も同じように『ストレイシープ』であることにようやく目覚めた。
彼は東京で自らの進むべき道に迷う。
熊本の家という『第一の世界』、
自分の想像していた学者たちともまた違っていて理解のできない『第二の世界』、
美禰子に代表される華やかな『第三の世界』、
付け加えるならば、当時の目まぐるしい資本主義発展によって
社会の外にはじきとばされた、轢死した女・最初の電車で出会った老人や女などの『第四の世界』。
三四郎はどれも理解ができず、矛盾であると曖昧にしてしまう。
この問題を解決できない三四郎。
三四郎という人物に、新しいタイプの知識人、真のエリートにはなれなかった多数のエリート候補が
時代の中で向き合わなくてはならなかった問題を直面させたのが、夏目漱石の意図かな。
現代文学の基礎的な本質とは、 カタルシスと脱却エネルギー
現代文学は、夏目漱石と北村透谷の作品から文学の基礎的な本質を学ぶべきだと思う。
まず、現在の平成という時代には正体がない。明確なゴールがない。
何をすれば幸せなのか、何をすれば良いのか、その答えがない。
年齢、性別、能力、生い立ち、障害などによる制限は取り払われつつある。
誰が何をしてもおかしくないし、それが可能となる世界になっている。
これは現代文学においても同様である。
多岐にわたるジャンルが、現代文学には生まれている。
現代ならではでの問題を取り上げた文学がある。空想を描いた文学がある。
歴史をテーマにした文学がある。
恋愛を、犯罪を、身体障害を、公害を、自然を、欲望を、金を主題とした物語がある。
人が二千年行き続けるなかで感じたあらゆるテーマが、現代文学には与えられているのだ。
しかし、無限の選択肢に人は迷っている。
人間は愚かな存在で、目の前に明確な目的をぶら下げられたらそれに対して邁進する能力はあるが、
無数のテーマをぶら下げられたら何を選んで良いのかが分からない。
現代文学はその豊富なジャンル、多岐多様な時代のなかで方針を見失っていると私は個人的に感じている。
選択肢を増やし、様々な角度から文学を検討するのはもちろん有効なことだ。
今後も文学はもっと違う角度からのアプローチをするべきだと思う。
しかし、文学のみならず、ものごとには基礎となるものがある。
それを放置して先に進んでしまったら、それはものごとを進化させているのではなく、
全く別のジャンルの元で全く別の方向にしか進んでいないのだと思う。
私は危惧する、現代文学が文学の基礎を忘れていないかを。
文学のスタート地点とは何か。
私は、世界への深いカタルシスを抱く人間が悩み、苦しみ、そしてその長い苦難の過程を経てゆくなかで
何か信じることができるものを見つけ、それを頼りとし、
それに向かって強い意志の力を発揮して、人生を突き進むことだと思う。
長い暗闇から這い上がるときに人がみせる強い光が、
その光のまぶしさが文学を形成する上で最も重要なテーマになるのだと思う。
長い暗闇から抜け出した後が、きらびやかな成功でも、再度の暗闇でもいいと思う。
結果はどうであれ、人がみせるその情熱、まぶしい輝きが文学の本質であると信じる。
透谷や漱石の作品ではどうか。
三四郎が世間一般に対してあらわにする蔑視は、世界の平凡さに対する深い悲しみである。
また、恋した美禰子へ素直な気持ちを言えなかったり、
はっきりとした行動で伝えることができなかった己の無力さに対して、失望していたことは間違いない。
蓬莱曲の素雄は、この世の中では何をしても自分は満たされないと嘆く。
恋をしても、その相手は受け入れてくれないとまで自虐的な言葉を吐く。
この態度そのものが世界へのカタルシスである。
透谷や漱石は、そういう深いカタルシスを作品に散りばめ、
そこからどうやって主人公が進んでいくかの過程を描いている。
結果はどうあれ、主人公が途中にみせる当惑と解決への意志が、将来を輝かしいものにしている。
これこそが文学の醍醐味であり、基礎であると私は思うのだ。
無論、現代文学にはこういう基礎がないというわけではない。
この基礎なくして文学の根底の輝きはないのだから、もちろん現代文学にも受け継がれている。
ただ、平成という現代では基礎さえも忘れさせてしまうような危うさがあると思うのだ。
現在ではたとえば売れてしまえばそれが成功であるという印象がある。
現代ビジネスの世界ではそれも正解であろう。
しかし、こと文学に関してはそれではいけないと私は思う。
文学は芸術である。
芸術にもビジネスは不可欠であるが、その根底は美しいものを描くことだと思う。
現代文学が様々なジャンルに別れ、進化することに異論はない。
しかし、文学が文学である以上、文学の基礎を忘れてはいけないと思う。
すなわち、世界に対する深いカタルシスを持つことと、
それを脱却しようとする際にみせるエネルギーの魅力である。
これをなくしては文学そのものが崩壊するのではないか、と私個人は危惧している。
現代文学は、漱石と透谷から文学の基礎を学ぶべきだと思っている。
文学には無限の可能性がある。空想を文字に綴るだけなのだから、何の制限もなくどこまでも理想を追求できる世界である。
願わくば、社会的で低俗な目前のテーマだけを追うのではなく、
人間の深い疑問に基づくような雄大なテーマを追いかける芸術が文学であって欲しいと願う。
島田荘司「夏、19歳の肖像」 青春小説とミステリー小説
文学は、文字の連なり・ストーリーの流れの美しさを追及する芸術であるのはもちろんだが、
作者のそれまでの人生経験が深く関与してくるところが最も大きな特徴だと思う。
文学に限らず、どの芸術分野においても創造者のそれまでの経験から生まれる芸術がほとんどである。
しかし、こと文学においては作者に与えられた表現方法は文字だけであり、
白紙を最初から最後まで己の言葉だけで創らなくてはならない。
真っ白な紙を埋めるための言葉、そしてゼロから創る物語。
どんな物語であっても、そこには必ず作者の人生がにじみ出てくるものだ。
島田荘司氏の1985年の作品に、「夏、19歳の肖像」というものがある。
第94回直木賞候補作にノミネートされた作品で、
氏のミステリー作家としての才能が発揮されつつも、美しい文章がいくつも並ぶ佳作だ。
若い男を主人公とし、彼の初恋を描くこの青春小説は、最後に大きなどんでん返しがあり、
ミステリーの構えを見せながらも、またそれとは違う魅力にもあふれている。
文学の広さを説明するには、氏の本業であるミステリーとは違う部分で説明をするほうがふさわしい。
第一章が始まる前に、短いプロローグがある。
その事件からかなりの時間が流れた後で、ふと思い出した当時のことを悔やむような、懐かしがるような美しい文章である。
本章では、初めての恋をした若者が知らずと大きな世間の波に翻弄される様を描き、
若者にしかない情熱を持ってそれに立ち向かうが、最後は己の無力さに絶望をする。
若者でこその新鮮な気持ち、純粋な恋。
そして、世間にはびこるどうしようもない人間の欲望、弱肉強食の業。
本章で何が言いたいのかというと、それはひとつ、若者とは無力な存在だ、ということだ。
覇気があっても実力が伴わない。情熱を注いでも、力は届かない。
若さとは無力さだと、氏は心底の本音を吐き出すかのように書いている。
そして、最後のエピローグには無力だった頃のその精一杯のけなげさに勲章をやりたい思いさえする、という賛美の言葉がある。
ただ懐かしむだけではなく、すっかり自分の中で整理がついた大人の心境だ。
無力さにやり切れずにいる若者、時間が経ったあとで当時を賛える大人という姿は、間違いなく作者の強い人生観である。
文学には、創り手の人生観が、それも痛いぐらいに心に突き刺さった人生観が映し出される。
優れた文学には創り手の最も深い人生観が現れ、
また、創り手が心から思った観念を作品に投影しなければ名作は生まれないのであろう。
このように、文学は作者の人生を反映するものである。
さらに深く言えば、作者は文学にその時の深い気持ちを吐き出すことで自らの人生を整理し、
成長し、そして次の人生へと歩いてゆく。
読者にとっては人生経験の格好の場である。沢山の人の人生が作品には詰まっている。
そのひとつを読むことで、一人の作者の人生経験を垣間見ることができるのである。
作品に描かれた人の本性を見て、己の人生の糧とすることができる。
文学には、そのような側面があると思う。
「夏、19歳の肖像」では、初めて愛した女性が己の目の前で連れ去られた後で、
己の無力さにやりきれない気持ちをぶつける少年の姿に心を打たれた。
「私は、自分が何の取り得もない人間だという意識が強かった」という文章を見れば、
島田氏が若い頃にどれだけ己の無力さに失望されたかが想像できる。
そして、「十九歳の自分に何があるだろうと考えると、それはたった一つ、
オートバイしかないのだった」と続け、無力な若者が精一杯の情熱を振り絞って女性を取り返しに行く。
その結末がさらに若者の自虐の念を増幅するようなものであるところが、島田氏の若い頃に対する気持ちが強いことを窺わせ、
文学と作者の人生は接近するという私の文学の解釈に一致するのである。
もう一つ大切だと思うことは、文学が芸術である以上、
中途半端で結論の出ないままで物語を終わらせては芸術として成り立たないという点だ。
島田氏のこの作品は最後に当時を懐かしむだけではなく、理解し、大きく乗り越えている。
文学として公の場に出す以上は、痛みを痛みでさらけだす程度でとまってしまうのではなく、
その痛みを乗り越えた部分を見せて欲しいと思う。
傷をさらけ出すのはもちろん、どのようにそれを乗り越えたのか、
その情熱ある経緯をそのまま書き写すことが、文学本来の魅力になるのだと思う。
透谷と漱石の作品から読み取ることができるテーマや思想についての共通点と相違点を挙げてみる。
とりわけ、今回は透谷の「蓬莱曲」と漱石の「三四郎」を参考にしてみた。
第一の共通点に、世界への絶望がある。
蓬莱曲でところどころに散りばめられた、この世界に自分が楽しいと思うものはない、
というような世の中への諦めの言葉はそのままストレートに透谷個人が持つ世間への絶望を表している。
三四郎は世間や一般の人を「下等だ」などと卑下する発言を繰り返すが、これは彼の世界に対する蔑視の表れだ。
夏目漱石自身が世間を蔑視していたとは取らないが、世間の凡庸さに閉口していただろうと思う。
両者ともに、一般世間の暮らしでは満足できない何かを持っていたという共通点があるのだ。
両方の著者にこの想いが共通していることが、作品を創り上げる上での原点なのだと思う。
小説は現状への批判、批評から生まれることを考えれば、この共通点は重要だ。
第二に、女性を理想視する傾向が共通している。
蓬莱曲では露姫を情熱的に追い求める素雄の姿がある。
しかも物語では実在の露姫の姿ではなく、素雄は空想での露姫の姿に熱情をぶつけるのだ。
三四郎では美禰子に対して臆病でありながら理想を投影させている。
美禰子は実在するが、三四郎は遠巻きにするような感じで、あくまで憧れの世界のように見ている。
世の中に対して絶望ばかりしているなかでも、唯一心を寄せる存在が女性で、
しかもその女性に対しての想いが、現実的ではなく空想的で、理想視をしているという共通点がある。
それぞれ作品を書いた時代の事情があるのだろうとは思うが、
女性の具体像があまり描かれていないという共通点を思えば、両作者とも女性を神秘な存在と思う気持ちが強かったのだと思う。
第三に、世界は自分の望んだ通りにゆくものではないという結論にしていることで共通している。
途中までの流れはどうであれ、蓬莱曲では理想を追い求めた主人公は最後は自らを死に至らしめることで話を完結させた。
三四郎では、新しい時代の女性の姿を思わせた美禰子が結局は平凡極まりない結婚を選択することで終わる。
それぞれの時代に対する新しい流れの力を描いた作品が、最後の最後で共に安直な終末を迎える。
これは透谷や漱石が、己の描きたかった理想は所詮理想のままで、
実世界では叶うことがない夢であることを分かっていたからなのだと思う。
深く言えば、透谷も漱石も非現実的な空想家で、しかしそれを己で分かっていて、
その空想を己の心だけに仕舞うことができないのでこうして作品に吐き出すことで己のコントロールをしていたのだとも思う。
二人はこのように大きなテーマでは共通していたが、相違点もあった。
第一の相違点としては、その文体だ。
透谷はたたみかけるように感情を文章に乗せ、恋愛感情も隠さずにそのまま書きなぐった。
感情的な文章で作品を創り上げる作家である。
対して、漱石の文章には情熱というものを感じることが少ない。
総じて受身で、主人公の三四郎も己から何かをするような態度を取らない。
非常に淡白な文章という印象を受ける。
第二に、現実的に信じることができる存在があるかどうかだ。
互いに理想像に掲げた女性は別として、透谷の柳田素雄は琵琶という心の支えがある。
三四郎は自分がエリートだということは内心自慢に思っているようだが、
自分が輝くことができる場所をまったく持っていない。
これは作品上、大きな違いがでてくる問題だ。
何かに打ち込み、実際に琵琶というものを獲得できた素雄のような人間ならば、
理想の女性のことも成就できる能力や意思を持つ人だと思うことができる。
一方、三四郎のような理想ばかりの人間では、理想を叶える実力そのものが欠如しているのだと思ってしまう。
前者のほうが小説に奥行きがでてくるのだと思う。
余談だが、その心の支えの琵琶をも最後は投げ捨ててしまうという場面を出すことで絶望感をより高めることもできる。
第三に、理想追求の方法論である。
素雄は恋のことしか考えていない。恋だけがテーマの全てである。
三四郎にとっても、恋が最大のテーマであることに違いはないが、その他にもテーマがある。
上京した後、故郷を想う心の葛藤と、東京で初めて目にする様々な人の生き方にも不思議を感じる。
透谷はそのまま恋だけを全面に出すことで、恋愛の理想を追い求める分かりやすい物語を創り上げた。
漱石は人生の他のテーマを散りばめ、そのなかでもやはり恋のことが最大のテーマであると示すことで、
恋というテーマの重さを鮮やかにあぶりだした。
これは後者のほうが説得力があると僕は信じている。