「生き急いじゃうからね。不倫でしかできないよ。――スローラブ。永遠に終わらない恋をしよう」
最初は慶の言う意味が分からなかった。
不倫の性愛にそんな清らかなものを求めようとする男の幼い神経。
「――スローラブ?きれいな言葉だけど、なんかおかしいかも。もっとドロドロした関係なのに。。。」
互い家庭のある身だから、不定期に交わすケータイのメールだけが密かな合図。
夫の目を盗んで小さなボタンに指を這わせる日々。
「そうかな?僕からすれば普通の純愛で何も変わらないよ。
ただ、激しい愛はいつか自然と時間に流されてしまうものだって僕は知ってしまった。
今まで通り過ぎてきたどの女性ともそうだったから」
「慶。哀しいことを言うのね。でも聞かせて、もっと」
「――うん。まさかこの人だけは違うと思って結婚したのに、妻とももうただの同居人だ。
愛がないってわけじゃない。
ただ、来るとは思ってなかった平凡がそんなところにも来たっていうだけ。
だから冷静に考えると、密度の濃過ぎる男女はいずれ駄目になってしまうんだよ。
例え一時どれだけ愛し合ったとしても」
「うんうん。分かるよ、それ」
「だからスローラブにしないか?逢うのは月に一回、連絡もメールだけにしよう。
それも毎日はメールしないほうがいい。やっぱり飽きちゃうし、長くは続かないよ。
それさえ守ればずっと濃い愛でいられる」
――生き急いじゃうから。
その言葉が妙に心に残った。そうね、確かに言う通り。
どうしても生き急いでしまうものだから、それで大切なものを何度も壊してきた記憶がある。
でも、慶はどこでそんなこと思い付いたのだろう。
わたしと別れてからそんなに哀しいことばかり続いたのかな。
――慶。わたしの愛しい人。今、わたしの「女」の部分をみ~んな彼に預けてる。
不倫同士で結ばれた秘密の関係。慶はずっと昔のわたしの初めての彼氏。
わたしがまだ純粋というか、幼かった頃の恋の思い出。
でも振り返れば一番輝いていた恋の記憶かな。
ありがちな話だけど、久々に再会したら忘れてた想いが蘇ってきた。
「だから終わらない愛なんてないんだから。
燃えて、チャージして、そしたらまた燃えるんじゃない?
これって信頼し合わないとキツイね。独身じゃムリ。やっぱり生き急いじゃう。
でも僕たちなら一線を引いていられる。
互い一人じゃないんだし、それになんてったって二度目だからね(笑)。
――スローラブ。ほら、結構いい言葉に聞こえてきただろう?」
慶はいつもこんな調子。真剣っていうか、真面目っていうか、理屈っぽくて。
合わせると長いけど、どこかわたしの求めるものに触れようとしている。
そんな気がするの。
「分かった、スローラブね。ちゃんと愛してくれさえすればわたしは満足よ。
でも嬉しい。あなたに抱かれて、なんか“女”を取り戻した感じ。
こんな関係になっちゃったのも仕方ないよ。
結婚してても、いくら年をとっても“女”だけはわたし、いつまでも捨てたくないの。
お願いね、慶。スローラブで愛して」
慶の言いたいことは実際手に取るように分かった。
急ぐと壊れてしまうものだから、愛にもきっと昂ぶりの上限があって、
そこに達したらあとはもう平行線をたどって消えるのが現実だと思ってるんでしょ。
――一気に愛し合って、炎のように貪り合って、それですぐに関係を終わらせちゃう?
わたしももうそんなに若くはないよ。イヤだよ、イヤ。
逢いたいのを我慢してでも、逢える時には愛し愛されて、
時間を空けて互い冷やして、それでまた愛し合いたい。
ずっと愛されたい。いつでも愛を感じていたい。
それは女だから色々わがままも言いたくなるけど、
慶が考えてることぐらいわたしだって本当は分かってる。
「京華、本当に我慢できる?
寂しいっていう言葉を言ってしまった時が最後、そのうち終わりが来ちゃうんだ。
僕は絶対に言わないよ。
あとは君が言わないって約束してくれるなら僕たちはずっと愛し合えると思う」
だから分かっているの。生き急いだらそこで終わりがくるって言いたいんでしょう?
だったらできるよ、わたしにだってできる。
慶とはまだ結ばれたばかり。偶然の再会の後、しばらくしてメールが来た。
何度かメールを交わした後でドライブに誘われたら、あとはお決まりのコース。
忘れられない人。面と向かってしゃべると無口で不器用なくせに、
メールやベッドの中ではそっと優しい本音を語ってくれる。あの頃と変わらずピュアな人。
そんなところが昔のわたしが愛した部分だって思い出した。
あの人に見つめられると、真っ直ぐで誠実な愛情に引き寄せられてしまうわたしがいる。
他の男たちにはなかった、あの純粋な「女」の見つめられ方。
わたしはわたしの「女」の自意識に逆らえなかった。慶からは離れられない。
よくもまぁ、昔のわたしは別れて我慢できたなって今更感心したぐらいね。
わたしはごく平凡な日常の一シーンで再会したと思ってる。
土曜日のお買い物で銀座に出た時、地下鉄の駅ですれ違ったのが十年ぶりの慶だった。
それは銀座なんていつも使う駅じゃないけど、買い物にはよく来ていたし、何も特別じゃない。
「――慶?」
フォームで電車を待つわたしの前をきれいな花束が通り過ぎて行った。
それを抱えている人がやけにうな垂れていたから目を引いたのかな。
見覚えのある後姿。
細身の身体と、量の多いくせ毛。
寂しげに歩いてゆくその人を追って、わたしは小走りになった。
遠慮がちにコートの肩を叩いてみると、振り返ったのはやっぱりあの人。
それでも彼が最初から口にしたのはなんて哀しい言葉なのかしら。
「――あぁ。どうしてこんな時に、最後の日に。何もかも皮肉で、上下逆さまで」
そう言って瞳を閉じ、薄汚れた地下鉄の天井を仰ぐ。
まるでわたしのことなんて意識にない。久しぶりに昔の彼女に逢ったっていうのに嬉しくないの?
いくら口下手の、いくら大人しい男っていっても。
それから少し話を聞いてみると彼は丁度転職をしたところで、
昨日が前の会社の最終日だったみたい。
でも引き継ぎが終わらなくて、今日は土曜日なのに出勤して最後の整理をしてきたとか。
転職するぐらいだから、きっと人間関係とか色々あったのでしょう。
ついさっき前の会社とさよならしてきて、
きっと思い出とか振り返りながら歩いてきたところで昔の彼女にばったり出逢ったんだ。
そう聞けばあの失礼な態度もなんか分かる気がする。
わたしは喫茶店にでも誘いたくなった。
だって慶と付き合っていたのはもう随分と前のこと。
今はお互い結婚してるって知ってるし、もう立派な大人同士なんだから
ちょっとぐらい一緒にいても変じゃないでしょ。
家には買い物が長引いたって言えばいい。どうせ夫は怒らないでしょ。
わたしには興味ないはずだし。今日も一緒には付き合ってくれなかったぐらいなんだから。
「ねぇ、せっかくだからお茶でもしない?
なんか寒いから温ったかいの飲みたいところだったの。近況知りたいし……」
わたしだって思い切って言ったのに、彼には複雑だったみたい。
それはそうよね、大勢の人と別れてきたばかりの後で、昔の女に再会なんて。
「ごめん、すっごい嬉しいけど今は混乱してて。
次の会社が落ち着いたら埋め合わせさせて。メールアドレスだけでも教えてください……」
それでその日は終わった。
何かを期待してたわけじゃないけど、随分とあっけない再会でしょ。
で、問題はそれから。
しばらく何の音沙汰もなかったけど、ひと月が過ぎ、ふた月も経つと
彼も新しい会社で落ち着いたみたいで、ケータイにメールが届いて、
それからはなんだか急展開で誘われちゃった。
「この前は本当にごめん。偶然だったけどせっかく逢えたし、
本当は時間も取れたはずなのに断っちゃって。どうも混乱してて」
「いいのよ、なんかあの時は平静じゃなかったみたいだし。もうお仕事落ち着いたの?」
なんか優しい返事書いてる。何やっているんだろう、わたし。
「ありがとう。うん、本当にあの時は普通の状態じゃなかった。
やっといつも通りになったよ。ねぇ、どうして人間ってダメなんだろうね。
どうしていなくならないと分からないのかな?どうして最後になってようやく気が付くの?」
変な言葉。何かこんな書き方も懐かしい。昔からこの人はこうだった。
「どうかしたの?」
「だってそうだろう?前の会社で沢山の人と別れたけど、
いなくなるっていう最後の最後になってようやく分かることが多過ぎて。
今までどれだけ頼りにされていたか、必要とされていたか、愛されていたか。
どうしてそれが分からないのだろう、流れてゆく毎日の最中では」
「哀しいことね。でも良かったじゃない、最後の最後でも分かったんでしょ?
一生知らないよりはずっといいと思うよ」
「うん、そういう考え方もある。でもさ、それって会社のことだけじゃない。
君とのことだって同じ。
いなくなってから、壊してしまってから気付くことが多くて、
でももう戻らない波に乗ってしまっていて、
気が付いてももう手遅れだっていうことが続き過ぎた」
なんだか意味深な書き方。
「わたしとのことも?興味あるな~。もっと聞きたいな~」
「だからそんな哀しみを幾つも過ごしてきて、
それで会社を去って、そしてその直後に君に再会する。
偶然とは思えないタイミングだよ。奇跡ってこういうことを言うんじゃないかな。
皮肉なのかもしれない。君とのことだって、ずっと忘れられなかった」
忘れられなかった?それってどんな意味?
「――え?じゃ、わたしのこと憶えていてくれてたの?」
聞きたい。今更でも聞いてみたい。そんな強い衝動。
「もちろんです。それは痛いくらいに」
「――反省してる?」
書いちゃった。少し恨み気味に。
「はい。反省どころか、後悔しています。
ねぇ、こんなこと今更迷惑だろうけど、言わないと一生悔いが残るからあえて言わせてもらうよ。
――勝手でごめんね。これってすっごい勇気。聞いてください。
――あなたをずっと愛し続ければ良かった。
自分の短気で壊してしまって、若さと言ってしまったら逃げになっちゃうけど、
ずっと後悔しているよ、本当に」
素直な人。そこまで書かなくてもいいのに。
「そう!それは嬉しい。――あれ、嬉しいのかな?ちょっと複雑」
あの時はなんか慶がひとりで勝手に不満を積み上げちゃって、
それまで全然そんな気配見せなかったのに、いきなり一方的に別れるって言われた。
慶のことは本当に好きだったのに、なんかこっちもムキになっちゃって
売り文句に買い文句で不満を言い合って電話越しに別れちゃった。
わたしも若かったのかな。
その時はそれで終わったけどなんかそんな別れ方が意味なく思えてきて、
わたしから連絡を取ることがあったな。
でも向こうにカワイイ彼女ができて、その後も何度か食事に誘ったことはあったけど、毎回断られた。
彼は真面目だったから、付き合ってる彼女に申し訳ないと思ってたみたい。
わたし、そんなつもりじゃなかったのにな。
「ごめんね、突然。でもすっきりした。もう二度と逢わない方が幸せなのかなって思ったりもしてた。
だってそうしたら思い出は美しいままだから。
ねぇ、お願い。今度ちゃんと埋め合わせさせてください。いいでしょ?」
「う~ん、どうしよっかな?」
もちろんすぐにOKしないよ。
「ちょっと~!お願いしますよぉ!!」
「はいはい、仕方ないなぁ」
ちょっと気分良かった。自分勝手に別れて、わたしの誘いもずっと断ってきた罰よ。
もっといじめてやればよかったのかも。そうよ、もっともったいぶったほうが良かったかも。
不確定な毎日をスタートさせたばかりの慶だから、わたしの入り込むスペースがあったみたい。
正直なところ、再会には期待があった。
だって彼は忘れられない人。フラれちゃったけど、ずっと好きだったから。
悔しいけど、あれから見てきた他の男たちや今の夫と比べても、どこか特別に思えていた。
誠実な人。とにかくちゃんと愛してくれた記憶がある。
ドライブに誘われた時、抱かれる予感っていうか、勝手な期待があった。
昔と変わらず優しい彼のメール。
あれから何度もやりとりをしたけど、いつもわたしをお姫様のように丁寧に扱ってくれる。
最初からなんだか思わせぶりな言葉も書いてきたし。夫ある身であっても期待に嘘はつけない。
お互いの生活圏外の駅で待ち合わせをした。
白のきれいなワンピース。春先だし、こんなカワイイの着たらなんかウキウキしちゃう。
学生時代の友達に会ってくるって夫に言い訳しながら家を出てきた。
わたしってちゃんと嘘がつけるのね、って今更知ったよ。
改札を出たところに彼がいるのが見えて、わたしはわずかに足を早める。
彼がかけるサングラスの光が眩しい。
あの奥からわたしは見られている、見つめられている。
彼の車に乗り、川沿いの景色のきれいなところをドライブする。
菜の花の黄色が新緑に映えてキラキラしてる。
お天気がいいから、なんかみんな輝いてるみたい。
彼がしゃべるのは給料が上がるから転職したとか、
そろそろ生命保険に入ろうかどうか迷っているとか、
新車を買ったローンがまだまだ残っているとか、
そんなすっかり立派な大人の生活じみた話ばっかり。
そうよね、わたしたちってもうそういう年齢ね。
最初に付き合った頃の子供じみた毎日じゃないよ、慶もわたしも。
ウチだって、住宅ローンがあと三十年残っている。
最近、親も体調が悪くなってきたみたいで心配だし。
楽観的ばかりじゃいられない毎日よ。それもわたしの現実。
湖畔の店でランチ。朝早く出てきたからすっかりお腹も空いていた。
可愛らしいイタリアン。
カンツォーネの大きな料理が出てきてちょっと戸惑ったけど、
慶が何とか取り分けてくれた。ありがとう、慶。
なんだか彼と初デートしたときのドキドキを思い出してちょっと笑っちゃった。
食事の後、公園の並木を散歩していたら春風に飛ばされて遅咲きの桜が吹雪になった。
「雨?いや、桜が散ってる。
桜の雨だから傘さして歩かなくちゃ。せっかくの白い服が汚れちゃう」
彼が気遣って車から傘を取ってきてくれた。ちょっと大袈裟かなって思ったけど。
お互い夕方までに家へ帰らなくちゃいけないから焦っていたみたい。
一本の傘を言い訳に寄り添っていたら彼に手を握られて、そのままそっと抱き締められた。
襟元からの春草の匂い。わたしは逆らえない。
この人が好きなの。愛されたいって身体が疼くの。
「――ずっと愛してた。あなたは一生の特別な女性」
身勝手なセリフ。耳元でそんな甘く囁かないで。
そうよ、自分から振っておいて今更それはないでしょう。
でも、嬉しいものは嬉しい。やっぱりわたしの元に戻ってきてくれたのね、慶。
もう遅いけど、まだ遅くはないわ。
車がホテルに入っていくのを他人事のように見ていた。
でもドアから手を取って出されたら後は小娘みたいに胸をドキドキさせて、
彼のリードに身を委ねる。
火のような彼の愛撫。
たまらぬ背徳感と、恋の勝利者の幻想の甘美さか、十年ぶりのセックスは燃えに燃えた。
次の逢瀬からは彼が急に水のようになった。
「この前のメールの意味は深いんだ。
――生き急いじゃうからね。不倫でしかできないよ。
――スローラブ。永遠に終わらない恋をしよう」
そう言われたのは二度目のベッドの後。
わたしには分かる気がした。
きっと慶は別れの深い痛みを知ってしまったの。
人の儚さ、人間の醜さ、それが分かってしまったから、彼なりに抵抗してみようとしたのでしょう。
壊さないように、壊れないように。
わたしは毎回早く抱き寄せられて、きつく突き上げて欲しいだけ。
でも臆病なあの人はそうはしないでしょう。
気弱な芸術家のように、繊細な愛を創り上げようとしている。
スローラブっていう考え方はわたしも同じ。
わたしも家庭ある身だから、そっちのほうが都合がいい。
単純に長続きしそうだし、慶が言うんだからそれでやってみようって思っただけかな。
本当にわたしは何でもいいのよ。
ただ愛してくれれば、ちゃんと愛してさえくれれば不満なんてないんだから。
夫に不満があるとすれば愛情の薄さだけ。
真面目に働き、生活を乱さない、そんな夫は理想的なパートナーのはずなのに
わたしのような愛情に飢えた女には物足りないだけ。
それもこれも自分が選んだ結婚相手なのに、愛って自然と冷めてゆくのね。
心と身体に正直に生きないと自分って続かないものだと思う。
それが悪い女と言われるのが不思議。
自由に愛し合えるはずの若い頃には互いすれ違ってしまった。
別れた後も機会はいくらでもあったのにタイミングが合わなかった。
それなのに二人とも結婚してしまった後に初めてちゃんと愛し合おうとしているなんて、
それもまた皮肉でいいんじゃない?
わたし、笑っちゃう。どうして今なんだろう。
どうしてあの自由な独身時代じゃなくて、
今もう「不倫」って不道徳な言葉で呼ばれてしまう時になって強く結ばれようとしているんだろう。
でもね、今はっきり感じるの。わたしたちは見えない力で互いに引き寄せられている。
まるで狂気ね、狂気。
「――衝撃的な映像を見たよ」
携帯に飛び込んでくる、囁くようなメール。わたしの身体を這い回るあの優しい唇を思い出す。
これって愛の囁き?もっと語って、わたしの耳元で。
「どうしたの?聞かせて頂戴」
「砂漠の上を河が走ってくる。
どこからともなく湧いてきた暴れ水が、乾いた砂土を飲み込んでどこかへ走り去ってゆく。
内陸河川――いつかは砂漠の渇きに吸い上げられてしまうという幻の河。
雪解けの水が一時の河になっているんだって。
中国西部の砂漠地帯では、そんなことが毎年の雪解けの季節に繰り返されているらしい」
一息にまくしたてるのね。慌てないでいいよ、慶。ゆっくり来て。
「――砂漠を走っては消える河、ね。なんて詩的な言葉」
「――詩的。そう、詩的だろう?
とめどなく溢れてきて世界をかき回した挙句、
熱に蒸発してしまう。世界にはそんな河があるんだって」
「心地いい言葉。よく見つけてきたねのね」
「テレビで見かけた。もっと知りたくて思わずインターネットとかで調べちゃったよ。
あんまり情報なかったけどね。ほら、ただ君に伝えたくて、なんとなく。ごめんね、突然」
「全然!こういうのって嬉しいよ。あなたらしいって思う。素敵」
「ありがとう。じゃ、また今度逢える日を楽しみにしてる」
「うん。またゼッタイに愛してよ、慶」
「もちろん。スローラブで愛してあげるから」
それでやりとりは終わり。
出勤の朝の電車でメールが来て、
それから夕方までかけて互い仕事の空いた時間にメールを返信していた。
会社で彼とメールするのってなんでこんなに新鮮なんだろう。
普通の恋人たちと違って夜に逢えるわけじゃないし、家では携帯もいじれないから。
でも会社なら自分一人の時間。
禁断の恋がますます加速するような感じがして、背筋に快感が走るの。
美味しいチョコレートを舌の上で溶かして遊んでいるみたい。
メールを受け取った机の上の携帯が震え出す。
その振動は机だけじゃなくて、わたしの肌を駆け巡り、髪先から足の指先まで突き抜けるの。
それにしても内陸河川、か。相変わらずきれいなものを見つけてくる人。
普通の恋ってそうね。燃え上がっては突然消える、そんな当たり前の繰り返しなのかも。
慶の言う内陸河川っていうのに似ている。
でもわたしたちの恋はスローラブだから、そんな儚いものじゃない。
ほら、わたしも慶みたいにロマンティックに歌い上げられるかしら?
コンクリートで堤防を固められた都会の川のような、長く保証された恋?
いいえ、そうじゃない。
天然の川のように自然と流れを変えながらも、じっくりと安定の生命を育み、
豊かな生態系を築き上げる循環の川よ。ゆっくりながらも季節があるの。だから感動がある。
――それがわたしのスローラブ。慶と続ける永遠のスローラブ。
わたし、いつも思うの。
夫に愛されない妻って、罪っていうか、みじめっていうか、最悪だよ。
愛情の穏やかな男と結婚したわたしが悪かったのかもしれない。
生活のパートナーとしては最高だけど、
どうして妻と女の使い分けができない男を選んでしまったのだろう。
わたしは女として生きている。妻であるのはほんの側面的な部分なの。
メインは女、おんな、オンナ。
夫はわたしをもう女として見ていない。
わたしは共同生活者だけじゃないのに!妻だけじゃないのに!
女っていう生き物が分からない男と結婚生活を続けては悩んでいる、
わたしのような犠牲者の女性は世の中に溢れ返っているのでしょう。
それは誰のせい?
落ち度のない夫に罪を着せることはできないって分かっているから、
わたしのわがままっていうことで落ち着けましょう。
わたしっていうか、女の本性というか、性愛の自由っていうか、
ごく普通のことなんだけど、やっぱりわたしが悪いのかな。
だからわたしも家庭を崩壊させることなく、慶っていう彼氏と密かな愛を描いていたいだけ。
きっと、いつかそれも崩れてしまうから……。
永遠のスローラブっていっても、きっといつか終わりがきてしまうものだから。
その日まではわたし、女の身体にずっと愛を摂取しているよ。
女には不可欠なものだから、摂らないとわたしの女がおかしくなってしまいそうだから。
彼のメールの節々から、あの人の真摯な眼差しが、
わたしの乱れる表情をわたしの身体の上で優しく見守っている、あの眼差しが感じ取れるの。
だからあの人とのメールは止められない。
電話の声よりもメールで慶を感じたい。愛を、感じたい。
それからたびたび仕事の合間にメールを交わすようになった。
慶だって仕事が変わったばかりで忙しいはずなのに、
わたしのしつこいメールにも付き合ってくれる。
「わたし、妻が夫に愛されないのって
世の中の悪いことの中でもすごく悪い方だと思うの。罪よ、罪!」
「罪かぁ。罪ねぇ。じゃぁ、僕はどうなるの?妻がいる身でありながら他の女性を愛している。
京華にとっては星でも、妻にしたら暗闇。世間からしてみてもやっぱり暗闇だろう?
僕たちはただ二人の間だけで輝いている星」
「仕方ないよ。こんな時ばかりは勝手になろう。
ほら、慶っぽく言うと、“人間だから仕方がない”。でしょ?でしょ??」
「そっか。所詮人間だから、理屈通りに物事が進むわけないって?
なるほど、そう考えれば納得できる話だね」
「そうそう。とにかくわたしが言いたいのは
どうしても女の方が愛情に寄りかかる比率が高いってこと。
わたしにはまだ子供もいないし、仕事もしてるから他で気も紛れるけど、
育児をしてる主婦なんて、夫に愛されなかったら可哀想だよ、ホント罪だよ」
「それは同情するよ。まぁ、結局は男も似たようなもんだ。
愛情なしに生きている奴なんていない。愛が人を突き動かすからね」
――愛が人を突き動かす。
驚いた。なんてキレイな言葉なのかしら。
欲望でも惰性でもなく、愛が人の進む原動力になっているなんて。
あの人の愛は実は深い。
きっとわたしよりもずっと深い位置付けで、彼の体内を愛が動いていると思うの。
冷めた生き方のようで血は愛に染まっている。
だから激しく火花を散らせてすぐに終わらせようとせず、
スローラブなんて悠長な言葉を引っ張り出してきたのでしょう。
きっとあの人なら奥さんを大事にしながらも、わたしのことも十分に愛してくれる、
そんな愛の余裕があるんだと思うの。
「愛が人を突き動かす、か。慶、素敵な言葉をありがとう」
「気にいってくれた?いつも小難しい言葉ばっかりでごめんね。
もっと普通のメールの方がいいかな?」
「いえいえ。愛を感じられるから好き。
ねぇ、素敵なこと言ってくれるのベッドの中だけじゃないのね。
メールのあなたもわたし好きなの。またメールしてね。待ってる。楽しみにしてるんだからね」
それはわたしの偽らざる本心。身体だけじゃなく言葉で語って、愛を、わたしへ。
それからまた別の日、慶が新しいお話をしてくれた。
「京華。僕たちに似たカップルがいた。メールじゃ長くなるからこれは直接話そうと思って」
メールじゃないのは初めて。
普通に喫茶店とかじゃ無理な人だから、ベッドの中でのお話。
せっかくのデートなのに梅雨の狭間の晴天には恵まれなかった。
わたしは彼の裸の胸に頬を伏せて、目を閉じながら、耳元にそっと話しかけてもらうようにする。
「今度はどんなロマンティックなお話?ゆっくり聞かせて。外は雨だし、もったいぶっていいよ」
「あはは。京華らしい。
それじゃぁ、さっき君を愛撫したように夕方までゆっくり時間かけて話しちゃおうかな」
「歓迎!カップルっていうぐらいだからラブストーリーなんでしょ?なんか感じちゃうな~。話して」
「はいはい。それじゃ、始めるよ。これって随分昔のお話。
むかーし、むかーし、それも千八百年近く前の恋人たちのお話」
「千八百年前?すごーい」
「男性は夏侯覇っていう名前。
女性の名前はよく分かってないんだ。仮に京ちゃんってしておこうか」
「何それ?わたしじゃない?!」
「まぁまぁ、突っ込まない、突っ込まない。本当に名前は不詳なんだ」
「はいはい、黙ってま~す」
「この二人に僕たちを重ねたいよ。場所は中国、大体西暦二百年ちょいの頃ね。
これは僕の予想がかなり入っているけど、大不倫の物語」
「たまらないわ。――大不倫。いい響き」
「僕たちの大先輩ってわけだ。スローラブの始まりだって勝手に決め付けるよ。
やっぱり人って基本的な部分では何も変わらないはずだから、どれだけ昔の人でも同じはず。
僕たちのスローラブの考え方ともきっと共通しているんだ」
「うん、うん。昔にもスローラブがあったってこと?」
「スローラブもスローラブで、涙なしには話せない物語だよ。
大不倫っていっても、全然汚れた話じゃない。
いやいや、どんな純愛よりももっと深くて、もっと美しい。
これが二千年前。何ていうのか、人の根底だね」
「もう~。焦らせないで聞かせてよ~」
「はい、はい。えっと、二人は同じ屋根の下で育った一家の者同士。
兄と妹の関係っていう説もあるけど、多妻制度があったから母親は違っただろうし、
今でいう家族ってほど関係は深くない。
遠い親戚ぐらいの感覚なんだろうな、当然一緒に育てられたわけでもないし」
「うん、うん」
「まずは歴史上の事実だけを話そうか。
その女は張飛っていう男のもとに嫁いだ。
嫁いだっていうか、奪われた、っていうのが本当のところだと思う。
張飛って奴は三国志っていう有名な中国の歴史物語に出てくる豪傑ね。
劉備っていうボスの義兄弟で、剛力の荒くれ者」
「三国志かぁ~。好きだったもんね、慶って歴史」
「うん。でもね、これって三国志の新説なんだ。
このスローラブを通してふと見つけた新しい考えだよ。
こんな解釈するの、きっと僕だけしかいないって!」
「はい、はい。お続けください」
「で、夏侯覇っていう男はその劉備のライバル・曹操っていうボスの親族。
だから京ちゃんは憎き敵方の幹部に奪われてしまった可哀想な運命の女性なんだ。
敗戦の戦場で彷徨っていたところを、張飛が保護して優しく接しているうちに恋仲になった、
っていう説もあるけど、そんなわけがない。当時の女性は奪い取るものだったから、強奪ね、強奪」
「うーん、ちょっと怖い話になってきた」
「でも京ちゃんは恵まれていたんだ。
その後、劉備は蜀っていう国を建国して皇帝になった。
義兄弟である張飛の地位は当然凄く偉くなった。
張飛との間にできた娘は、劉備の息子である二代目の皇帝に嫁いだし、
言ってみれば皇后の母まで成り上がったんだよ、その京ちゃんは」
「あら?ひょっとしていい話なの?」
「そうだよ、いい話。
きっかけはどうあれ、それなりに安泰な人生を送った女性じゃないかな?
一方の夏侯覇も、曹操がまた別の魏っていう国の皇帝になったから、
皇族の一員として順調に出世した。仕事もできたらしい。仕事っていっても、戦争だけどね」
「ん?じゃ、二人は敵国同士なんじゃない。接点はないでしょ?」
「そう、ないはず。ないはずだったんだ。
ところがある日、夏侯覇のいる国にクーデーターが起こって、
皇族である夏侯覇が追放されることになった。
その時、奇しくも魏での夏侯覇の地位は、京ちゃんのいる蜀を倒すっていう重大な役目だった。
それが、クーデーターが起きたらどうしたことか、
夏侯覇はそれまでの敵国だった蜀に亡命したんだ」
「へぇ~。でもそんなの許されるの?それまで一番の敵だった先に逃げるなんて」
「いや、それがなんと彼は逆に重要なポジションを与えられ、
その後は自分が昔いた国に敵対する有力な将軍となって戦うわけ。
これってかなり意外なこと。
一族を最優先にする中国文化からすれば、
皇族が自国を捨てて、敵国に降るなんてありえないこと」
「あれ?で、それのどこがラブストーリー?
身に危険が迫ったから、それまで敵だった国でも京ちゃんだっけ、
そのコがいるから頼って逃げたってこと?」
「まぁ、みんな大体そういう風に考えるね。
でも、スローラブっていう目で見てみよう。
思い切って、夏侯覇とその京ちゃんは昔想い合った仲だと思ってみたらどう?
お互い好きだったのに、運命の悪戯で張飛に奪い取られてしまって、
別々の人生を歩むことになってしまった恋人たち。そうしたら全てが一本の線でつながってくる」
「へぇ~。興味あるなぁ~」
「だから僕は空想で結び付けてみたんだ。
その頃には夏侯覇も60近くのいい歳で、夏侯家という名門皇族の家長になっていた。
そんな地位の男が家を捨てて敵国に走るんだよ。
いくら自分の命が危ういといっても、普通できることじゃない。
断崖絶壁から飛び降りるような、火事の現場に突進するような思い切り方だよ。
普通ならクーデターを起こした奴と戦って、少なくとも家名に反逆者っていう
汚名だけは付けないように戦死するとか、そういうことになるだろう。
やっぱりそこには何らかの重い理由があったと思う」
「うん、うん。戦争の時代って大体そういう考え方なんでしょ」
「そうだね。だからこの行動は不思議過ぎるんだ。
いつかも言ったろう?愛が人を突き動かすんだよ。
こんなに極端な行動だ、きっと裏には愛が流れている。
人間幾つになっても変わらない。愛が人を動かすんだ。
確実な死が直前に迫ってくるのを見て、だったら立場もプライドも全部捨てて、
昔諦めたはずの愛に生きようと決意したんじゃないかな。
夏侯覇の長年の愛が堰を切って流れ出して、彼を敵国に走らせたんだと思う」
「へぇ~。凄い推理」
「夏侯覇はまだ恵まれていたんだろうな。普通の人じゃそんな行動は許されない。
まぁクーデター勢力に捕まったら殺されるっていうのは蜀の誰にでも分かる状況だったし、
何しろそれまでのポジションが良かった。魏の対蜀軍のトップだよ。
重大な機密も当然知っていただろうし、しかも皇后の母とも血が繋がっていた。
本当に稀なケースだろうね。
だから世間的にありえないはずの行動も、割合抵抗なく受け入れられた。
でも実はその裏に愛が動いていたとしたら?これは永遠のミステリーだ」
「でもその女性もいいおばさんになっていて、夫もいたんでしょ?」
「夫はもう亡くなっていたね。まぁ、年は関係ないよ。セックスだけが愛じゃない」
「そっか。しかし、随分長かったスローラブね」
「ホント。時の流れで叶わなかったスローラブにも、ようやく機会が来たってことだね。
まさか夏侯覇だってそれから自分の国の皇后の母と
不倫に陥ったわけじゃないだろうし、まぁお互いもういい年齢になっていたから、
ただ近付けただけで満足だったんじゃないかな」
「数十年ぶりの再会かぁ。ロマンティックを通り過ごして悲劇ねぇ。
映画とかにしたら涙ボロボロよ」
「涙ボロボロ。愛情ダラダラ。あー、そう考えると僕たちは幸せだよ」
「いつか離れ離れになっても、必ずまたわたしの元に帰ってきて、慶――とかね!」
「あぁ。どれだけ時が流れてもいつかまたあなたを抱きにいくよ、京華――と!」
「あはっ。ありがと。付き合ってくれて。とっても素敵なお話」
「儚いものだからね。時の流れがどう動くか誰にも分からない。
だから許されるうちにいっぱいセックスしよう。汗まみれになってもセックスしよう。
いっぱい愛し合って愛を感じよう、京華」
「慶。愛をこの身体に刻み付けて。まだまだ足りてないわよ。わたしの愛は底なしだから」
――次の行為の前のこんな会話。
慶の人となりが分かるようなお話でしょ?
あの人は生来のロマンティスト。実は愛に生きている人。
その心の愛をもっとわたしに絡めて、愛の幻を作り上げて欲しいの。
ただ愛して、遠慮なく、躊躇なく。
平日は本当のわたしじゃない。
こんなことをするために生きているわけじゃないのに、
わたしの時間は要らないことに費やされてゆく。
貴重な一瞬を輝かせるためには、下らない沢山の時間が必要なの?
それってもしかしてスローラブの考え方と同じなのかもしれないけど。
あの人のいない日々を泳ぐわたしは、止まって休むことのできないお魚のように、
ふらふらとあちらこちらを漂いながら昼を、夜を、そして朝を無意味に繰り返してゆく。
「ねぇ、今日何かある?」
「お昼何にする?」
「あ~ぁ、今日も暑いのかな?」
そんないつもの会話さえ、あの人と話しているのなら幸せなのに。
普通の話を、ありふれた人たちにしなくちゃならないから長い平日はつまらないの。
遥か遠くのオアシスまで砂漠の上を黙々と歩かされるラクダ?
やめてよね、もっとキレイな音でさえずる朝のひとときの小鳥でありたいの。
仕事帰りにお友達と食事をすることがある。
約束の時間までデパートの洋服の店をブラブラしていたら、またそんな考え事ばかりしてた。
「あ~お久しぶりですぅ」
「あっ、こんにちは~」
「またウチの服着ていただいてますね~。ありがとうございますぅ~。会社帰りですかぁ~?」
「そうですよ~。このお洋服すっかり“お気に”で~。いっつも会社で着ちゃってますぅ~」
服を見ているわたしのすぐ隣のそんな会話。お客さんと顔なじみの店員さんでしょうね。
「どうですか~会社~お忙しいですか~
なんか確かおウチ、南区のほうでしたよね~」
「あ~実はまた引越ししたんですよぉ~。今は桜が丘のほうですぅ~」
「えぇ~桜が丘~?うらやましい~。オシャレなとこじゃないですか~。
どうしたんですか~ご結婚とか~?」
「いえいえ~違いますよぉ~。
なんか、一人暮らしだったら会社から結構家賃手当てもらえることが分かって~。
思い切って実家、出ちゃいましたぁ☆」
「あ~いいなぁ~。桜ヶ丘だったらお店とかいっぱいあるじゃないですかぁ~」
「そうなんですぅ~しかも~カレシのウチからも結構近くなったしぃ~」
「ラブラブじゃないですかぁ~うらやましいですぅ~」
わたしは逃げ出すように店を後にした。
別に普通の会話なのに、
わたしより若いコたちが楽しそうにしゃべっているのがなんだか眩しく感じた。
人の幸せって羨ましい。自分だって幸せなはずなのにそれでも羨ましい。
もうやめて欲しいよ、こんな感情。
幸せだらけの人なんているはずがないのに、ちょっと耳にするだけの幸せは、
まるでその人が幸せ100%に包まれているみたいに聞こえてしまうから。
こんな錯覚がわたしを惨めにする。
あ~ぁ。こんなつまらない日にあの人は何をしているのだろう。
彼は言ったよ、
「いつかは愛より惰性の毎日になるのだから愛は身近にない方が楽なんだ」って。
楽なんだよ、って。愛に楽か、楽じゃないかなんて。
それは分かる。まぁね、距離こそが愛をいつもいい状態に保つための方法でしょう。
それは分かる、分かるんだけど。
でもやっぱり不思議。奥って言うか、芯では愛を求めてる人のくせに。
それがいつもでは重過ぎてしまうってわけ。
慶のことを考えるとわたしはまた迷路に落ちてゆくようです。
「――京華、お待たせ!ごめんね」
「大丈夫。わたしもさっき着いたとこ。あれ、のん、髪型変えたね」
このコは学生時代のバイトで一緒だった。あれから10年ぐらいの付き合い。
まだ独身だけど、職場恋愛で、いつ結婚しても不思議じゃないっていう彼氏がいる。
会うと決まってアジアン料理ばっかり食べてる。
今日もベトナム料理食べようってメールで話してた。
「ねぇ、聞いてくれる?
カレシのケンちゃんのことなんだけど、最近浮気されて困っちゃってて……」
のんとは何でも話せる仲だから彼女もいきなり切り出してきた。
「え~!だってのんたち会社でもテニスサークルでも一緒でしょ。浮気って、そんなのあり得るの?」
「それがねー、ありがちな話だけど男友達に紹介されたコなんだって。
いっつも平日も休日もずぅっ~と一緒にいたのに、いつの間にかケンが遊んでた」
「え~、どうするの二人は?」
「ケンが謝ってきたし、その女とは遊びだって言うから、
まぁわたしもなんていうか気にしないようにしたよ。
ケンとは一緒に居過ぎたからこうなったと思うんだ」
「一緒に居過ぎたから?」
「そうだよ。考えてみたら、ケンとは会社に入ってからずっと半同棲みたいな仲だし、
会社行く時だって、会社の中だって、それから休日はサークルでやっぱり一緒でしょ。
毎日ずぅ~っと一緒だからさ、なんか濃過ぎた。
みんなと一緒にいる時はいいよ。ウチらノリいいからみんなでだったら会話は楽しいし。
問題は二人っきりになった時よ。なんか飽きてる。付き合いが長いからかな」
「そっか。もう10年近く?」
「そうだね。入社してすぐからだから、10年とちょっと」
「長いね。ウチら夫婦よりもずっと長い」
「結婚するなら早い方がいいんじゃない?だから京華は正解だと思うよ」
「そうなのかなー。それはそれでまた困ったりするのよー」
「そうなの?京華のご主人は浮気とかしない人?」
「ウチはそういうのはないけど、結婚してから急にわたしとお出かけしてくれなくなった。
飲んだくれて帰ってきたりもしないし、ギャンブルもちゃんと止めてくれたし、
ちゃんとしてるんだけどね~」
「週末とかどうしているの?」
「大体あっちが出かけてるよ。
最近ビリヤードもそうだけど、カヤックとかパラグライダーとか趣味のほうが忙しいみたい。
早く帰ってきたら映画ばっかり見てるし。なんかすっごいマイペース。
ショッピングとか付き合ってくれないんだよー!」
「そっかー。それは辛いねー。はぁ~。お互い不満はあるのねー」
「ほ~んと。お互い様なのかなぁ」
ちょっとウソついちゃったけど、のんには気付かれていないはず。
彼女はわたしのことずっと知ってるし、まさかわたしが浮気してるなんて知ったら驚くだろうな。
そんな素振りまったく見せなかったはずだから。
のんと出会った時に戻りたい。だって慶と別れたのはその頃だから。
無駄だと知りながらそんなこと考えちゃう。
「ねぇ、京華は二股とかしたいと思ったことある?」
――えっ?
「どうしたの?わたしはないけど……」
「実はね、最近わたし思うんだ。
ケンはいい男だけど、ほら、わたし、ケンしか知らないじゃない?
もっと他の男性のこと知るべきじゃないかな、って」
びっくりした。そういうことね。
「あー、そういうことね。それはあるかも」
「でしょー。ちょっとマジなんだけどさー、ケンに浮気をやり返すっていう意味じゃないけど、
他の男性と食事ぐらいは行きたいなーってカンジ。付き合うまではいかなくてもねー」
ちょっと驚いちゃうな。のんはずっとそのケンっていう会社の先輩と付き合ってる。
わたしもケンに会ったことがあるけど、二人はなんかいつもセットで、
すっごい仲良しっていうイメージだったのに。
「でもね、ケンと別れたいってことじゃないんだよ。ずっと一緒にいるならケンがいい。
でも今はね、病気かもしれないけど、他の男性の良い所とか悪い所とか見て、
それでケンのことを見直すっていうのかな、もう一度ちゃんと見てみたい。
そうでなくちゃ結婚はしたくはないな~。あ~最近さぁ、こんなことばっかり考えてる」
「ん~、のんがそこまで思うなら食事ぐらいはいいんじゃないかな。
でも結婚するならケンちゃんって決めてるの?」
「そうだね~。今更別れられないよ~。
ちょっと今だけ他を見ても、最後はケンに戻りたい。
勝手でしょ。ケンに聞かれたら呆れられちゃう!」
「なんかわたしが聞くと、ケンちゃんの浮気も、
のんと同じような気持ちじゃなかったのかな~?」
「さっすが京華。その通りだよ~。責めた時ね、ケンも同じようなこと言ってた。
でもそれと同じことわたしもやっちゃおうとしてるんだからバカだよね~。
想像するだけでバカバカしくて笑っちゃう!」
なんかビールが回ってきたのかのんが壊れてきた。なんか辛そう。
「でもやっぱりケンがいいんだ~。ケンと一緒のままで、他の人のことも知りたい。
これってワガママなのかなー。勝手かなー。でもゼッタイ大切だと思うんだけど!!」
あとはもうあまり会話にならない。
のんのビールを4杯目で止めておいて、あとは慰めてグチを聞いておいてあげた。
ケンのことでこんな悩んでるのんを見たのはこれが初めてじゃないかな。
そうだよね、のん。
なんか爽やかな恋であれこれと悩んでた学生の頃を思い出すと馬鹿馬鹿しくて呆れちゃうよね。
悩むのは分かるよ。本物の愛ってもっと入り組んだところにあって、
色とりどりの様相を見せる秋の野山のような不思議なものだから。
自分にもコントロールできないものだから。
のんを送っていった帰り道、電車の窓に映った自分の姿に聞いてみたくなる。
――わたしがもっと感情の起伏に富んだ女だったらどうなっていただろう。
慶のことに集中し過ぎて互いの家庭まで壊してしまったかも。
夫にだってすぐに気付かれていたのかもしれない。
こんな冷静な女だから何とか両立できている。
不倫の両立。それもヘンね。まるで不倫がいいことみたい。
道義的に言い訳をする気はないよ。他人の理解を得ようとも思わない。
不倫っていいとこ取りのやりとりだから。
そう、こんなのいいとこ取りなだけ。
互いの未知の部分だけかじって過ごしているだけなのかもしれない。
それをわたしたち、愛と勘違いしてる?愛じゃないかもしれないのに。
たまに思う。慶はわたしのどこを愛したのだろう?
良く反応するこの身体?慶の前では柔らかになる性質かな?
いいえ、きっと昔の殻の奥でキラキラしてる遠い思い出を彼は愛しただけ。
今はまだこの身体も新鮮に感じてくれるかもしれない。
思い出の中のわたしを抱いてくれればいい。
わたしだって、考えればなんで慶に抱かれるのか。
自分が女であることを確認したいからよ。
男に抱かれる肌の密着を女と信じて、
わたしも慶のことを愛と信じ込んでいるだけかもしれないから。
だけど、数週間ぶりの待ち合わせの駅で
彼の車が停まっているのを見つけると震えが走り始める。
わたしの心が、身体の奥が、あの期待感にさざ波のようにざわめく。
彼の両腕に、胸に肩に抱かれると思うと高いヒールを履いていても駆け出したくなるの。
「京華、今日は天気が静かだから田んぼを見に行こう」
そう言ってあの人がエンジンをかける。
「田んぼ?どこに行くの?」
驚くじゃない。いきなり田んぼなんて。
遠くに行くのはいいけど、ちゃんとその後の時間も考えてる?
「ちょっとね。大丈夫。そんな遠くじゃない」
それから車を出して郊外をしばらく走る。
まだまだ日中の陽射しが強い季節だけど、今日はだいぶ陽が柔らかい。
緑が夏から秋に変わろうとしていた。
景色に気を取られていたら、次第に周りに田んぼが見えるようになってきた。
道路と離れた田んぼ沿いに車を停めて、誰もいない道を歩くの。彼に腕を絡ませながら。
「――ほら、耳を澄ませてごらん」
彼が足を止めるとそこには音がなくなった。
風にたなびく稲穂のせせらぎ。虫の音。鳥が風を切ってゆく。
それは本当にキレイな時間。太陽も止まり、風も落ち着いたような緑の平地。
稲の先を目で追ってゆくとまるで緑の地平線みたい。
平坦に続いてゆくけど、日によっては雨風に叩かれ、酷い目にあっても続く立派なスローラブ。
「ほら、こんな場所もいいもんだろう?静かな景色が好きだよ、僕は」
そう言う慶の表情は愛情に満ち溢れている。
そっか。わたしはこの景色になればいいんだ。
静かに、何も言わず美しくあれば、この人に愛される。
わたしじゃなくても、この景色になれる女の人なら誰でもいいんだ。
――それはわたしがずっと前から気付いていたことでもあるの。
でもこんなの口にできない。
「思い出すな。小学生の頃、写生会で田んぼの絵を書いた。
みんなで学校近くの田んぼに行ってね、その前で座って絵を描いたんだよ。
絵の具って、わたしなんか好きだったな~」
「へぇ~それはいいアイディアだね。
でも子供じゃ、田んぼの良さなんて分かんないでしょう」
「ぜ~んぜん分かんなかった。難しいモデルだなーって思ってたよー。
だって田んぼなんて緑一色でなんにも特徴ないじゃない。みんな困ってた」
「でも、いい先生だね」
「う~ん、子供には難しいよ~。今なら別だと思うけど」
「それだけ落ち着いてきたってこと」
「年取ったって言いたいの~?」
「違うよ~。落ち着いて、品のある美しさが出てきた、ってこと!!」
「わ~い、誉められた♪なんか誤魔化されてる気もするけど」
ほら、つまんない会話でも楽しいじゃない。案外、シンプルな会話が一番楽しいかも。
難しいのなんていらない。ちゃんと会話できるだけで幸せ。
今日はヒールを履いているから、あなたはわたしを気遣ってじゃり道を避けてくれた。
車に戻っていつものホテルの方角へあなたが車を回してゆく。
くだらないお話をさせてよ。
あなたはただハンドルを握って前を向いていればいいし、別に聞いてなくてもいいから。
ただあなたの横顔に話しかけていたいの。
「ねぇ、この前お友達から相談されたんだ。
まだ独身のコなんだけど、10年付き合った彼氏に浮気されたんだって。
彼氏も同じ会社で、週末もずっと一緒のサークルで、
なんか夫婦よりももっと夫婦みたいな半同棲のふたりなの。
それで、自分も二股とかして世の中の男の人のこと知ってみたいんだって。
でも不思議なのはね、結婚するなら絶対にその彼氏がいいって言うの。
遊びっていうか、彼氏一筋だったから今になって他の男性も知りたいって。
もう30過ぎなのにね。それってどうなのかな?慶には分かる?」
「うん。ちょっと分かるよ」
「それはね、わたしにも分かるけど、ちょうどわたしたちと逆。
この人だって分かってるのに、あえて他の人と付き合いたいなんて。
わたしは正直、なんか違うと思うし、そのコの性格上、
どうせ口先だけで実際に他の男の人と遊ぶなんてしないような気がするんだ」
「うん。それも分かる。10年前からか。
なんか羨ましいね、その頃なら僕たちもまだやり直せたのにね。どっちにしても、まぁ幸せなことだ」
「それが幸せじゃなさそうだから可哀想なんじゃない。
わたしとも長い付き合いのコなんだけどね、うまく彼氏とやっていって欲しいな」
「ふ~ん」
「“ふ~ん”はないでしょ、“ふ~ん”は。結構マジメにわたし、心配してる」
「ごめん、聞き流したんじゃなくて、僕には違うことが見えてたからさ」
「違うこと?なぁに?教えて。聞きたいな」
「うん、京華にもきっと分かると思うよ。
例えば、そうだな、一番入りたかった会社だとか、子供の性別とか、
親の健康とか、自分の身体にしてもそうでしょ、
家、車、金、望み通りにいっている人なんて世の中にどれだけいると思う?」
「う~ん、それはいないでしょ。全部叶った人なんて」
「でしょ。必ずみんなどこかで我慢して、妥協して、コンプレックスも持って
それでも生きてゆかなくちゃいけないから生きている。
なんかその人も、ないものねだりをしているだけだと思うよ。
あのさ、突然悪いけど僕と妻はお互い趣味とかの興味の共通点がなくて
昔から困ってるんだけど、それでも付き合って結婚して今でも一緒にいる。
その10年付き合った人たちは趣味も会社も同じっていうじゃないか。
それは傍から見れば羨ましいことでもあるんだ」
「分かるよ、それは。すれ違いはウチだって一緒だもん。
ウチだって結婚する前はあっちが色々調べてわたしを連れて行ってくれたのに、
結婚してからは週末だってすれ違ってる。
わたしの甘えだって聞いてくれなくなったし、優しくなくなったから不満だもん。
それでも一緒にいなくちゃいけないっていうのがあるから一緒にいるけど」
「うん。ウチも妻は諦めたのかテニスばっかりして気持ちに整理をつけてるようなんだ。
だからって僕の好きな自然のこととか、歴史のこととかにはまったく興味を持とうとしない。
夫婦だから離れるわけにはいかないし。みんな困ってるんだよ」
分かるよ。慶が奥さんとうまくゆかないのは、あなたが現実に生きていない人だから。
理想を創り上げては恋するのがあなたの生き方。
今は思い出が理想になっているから慶はわたしを愛しただけのこと。
「愛情だって同じ。一番好きな人と結ばれるケースなんて一体どれだけあるのかな。
結ばれない方が多いだろうし、
互いが互いにその人だ、なんてことはきっと流れ星の数ぐらいだろう。
そうだと思って結婚した人が実は違ってたり、
結婚した後で実は最も愛すべき人と初めて出逢うとか、
ほら、実はずっと昔に出逢っていたのに別れたその後で
やっぱり気が付く僕たちのようなケースとか、色々哀しいことがあると思う。
きっといいようにならないことばかりだから」
慶は一息にまくし立てた。
――流れ星。慶にぴったりな言葉ね。
良く動く口を眺めながらわたしは一人、想い描く。
あなたこそ流れ星。
冷淡で絶望ばかりしているくせに、わたしにとっては綺羅星のように輝いていて、
でもあなたはあなた自身の日常の天空で輝きが保てないから、
わたしの海に流れてきている人。
スローラブって回数も限られてるし、一回一回に深く輝くものだからそれも貴重なの。
――あなたが色々悩む人とは分かっているけど、ただ真っ直ぐにわたしを愛して、お願い。
人目を忍びながらあのホテルの部屋まで。
赤々と輝く昼間の太陽に引け目を感じる必要なんてないから。
あなたが変わった星でも、わたしが暗い月面でも、どこまでもお供しましょ。
慶と付き合っていると面白いことが沢山ある。
気分屋というか、気まぐれで芸術家肌の彼の行動は昔からわたしにもよく分からない。
しばらくメールがなかったと思ったら、いきなり朝から熱烈なラブメールが届いたりする。
「――しかし。改めて愛って根深いものだな」
最初からこれじゃ分かんない。わたしに愛を伝えたいのは分かるけど。
「どうしたの、急に。何かあった?」
「いや、ほら、夜眠る時に身体が疼くじゃないか。
なんて言うか、言ってみれば京華の中で毎晩イキたい。
朝だって起きたら京華の白い肌を抱いてやっぱりイキたい。
寒い冬だから一層思うよ。こんなのばっかり考えてる」
本当にいきなりね。こんなメールわたし以外の人に送ったら変人扱いよ。
でも、わたしにとっては可愛い愛の告白。大丈夫よ。
「若いね~。次逢う時までちゃんとガマンしてるのよ~」
「いやいや、そういうレベルの話じゃなくて。何が僕を動かすかって、京華、君への愛だよ」
ほら、きた。自分から喰いついてくると思った。
「嬉しい。もっと言って」
「愛している。京華との愛のあるセックスがこの世で一番貴重なものだよ。
京華を抱いている時、僕は神様になる。
分かるかい?他のことは、なんだろう、大地に転がっているじゃがいも?」
「何それ?笑っちゃう!だって慶、じゃがいも好きじゃな~い。意味がよく分かんな~い♪」
「まぁ、とにかくそういうことさ。
今までの無駄な時間を取り戻すためにいっぱいセックスしよう。
君の、その、雪の積もった白い丘のようなきれいなおしりが好きだよ。
君はおしりがちょっと大きいって言うけど、そのおしりの丸さと白さはなんていうかな、
四季の移ろいの美しさよりもずっと豊かだ。
いつまでも抱いていたい。味わっていたい。なんだか僕はその白い丘に呑み込まれそう!
もう僕を活かすも殺すも君次第だ。せいぜい頼むよ、ずっと側に居てくれ」
――なんか食べ物か何かにでもなった気分。ヘンな例え。嬉しいけど。
「はい、分かりました。いつまでもスローラブで愛してね、慶」
直球じゃなくて、いつもどこかで自分のカラーに曲げて伝えてくるけど、
わたしには彼の心が見えているの。
分かるかしら、だって変でもいいじゃない、
その中に伝えようとする熱い心が、愛があればわたしはご機嫌だから。
彼とのメールはホント面白い。
使う言葉は堅過ぎるけど、その裏にあるのはわたしへのひとつの心だけ。
それがわたしを、あの人の元に向かわせるの。
「――子供ができた」
この一言がわたしたちの転機になった。再会してから一年が経ったある日のこと。
――えっ、奥さんとセックスしてたの?
わたしはついそう言いそうになったけど、言っちゃいけないことね。
わたしと奥さんとどっちがいいか較べていたんでしょう。
なんだか妙にショック。とてもイヤ。
「いや、まだ作るつもりはなかったから危険日は注意していたし、
大丈夫だと思ってたんだけど……」
冴えない慶の表情。
久しぶりに逢えたのに、一言目からそんなこと言われて、
それじゃわたしも気分が盛り上がらないじゃない。何考えているの?
「驚いたよ。一週間ぐらい前かな、
帰ったら女房がやけに嬉しそうにそう言うものだからびっくりしちゃって」
「奥さんは驚いてなかったの?」
「それが開き直ったのか、堂々としたもんさ。
やっぱりいざっていう時に女の方が強いっていうからね」
「それはそうだけど。今、何ヶ月目?」
「二ヶ月目だって」
ふぅん。二ヶ月、二ヶ月か。
わたしとのスローラブに夢中だと思ってたのに、まぁ、そんなものか。
なんだかイヤだなぁ。すごく気持ち悪い。
それはわたしだって夫と関係ないわけじゃないし、不倫の仲だからそう贅沢も言えないけど。
――それにしても気になる。
「奥さんの反応はどう?そんなに喜んでいるの?」
「あぁ、もう親バカの始まり。もう色んな本買い込んできて研究っていうか勉強してるよ。
お蔭様で色々教え込まれて僕まで詳しくなりそう」
「――そっか。まぁ、大事な時期だもんね。大切にしてあげて」
「分かってるよ」
――こんな時、わたしもイヤな女。勝手なことばかり考えてしまう。
もしも奥さんが計画的に生理のタイミングを嘘ついていたら?
接点を無くしつつある夫との間に、なんとか共通項を作ろうとしていたとしたら?
奥さんまで不倫していたとは思わないけど、
よそよそしい夫を取り戻そうとしてやったことだとしたら?
――イヤな女ね、ホント我ながら。
そんな会話はもう止めにしたいのか、慶はわざと明るい話に摩り替えていった。
相変わらず嘘が下手。なんでそんなに不自然な口調しかできないの。
――何かが変わってゆくのね。
わたしはそう感じ取っていた。
それでもその日も慶はホテルに誘ってくれた。
変わらずわたしを慈しむように愛し、高め、名前を熱く耳に吹きかけられながら一緒に達する。
変わらぬ激情、本物の愛。
このままずっと続くといい。
生きていれば変わってゆくものがあるってことはわたしだって知っている。
でも変わらないものも必要でしょ。
ねぇ、慶。スローラブの逢瀬ってどうしてこんなに燃えるものなのかしら。
これじゃ、変わらないって信じたくもなるよ。
それからスローラブが本当にスローになってゆくのが見えた。
メールの回数が減った。彼の言葉によそよそしさが混じるようになった。
「わたしはいつも待つだけ。大好きなあなたを待つだけだから。
ちゃんと食事とってる?ちゃんと眠れてる?お仕事は順調?また愛してね、慶」
週に数回の貴重なメールだから、愛を込めて送ってみる。
「ありがとうございます。京華、また愛し合えるかな。つまらない毎日に変化は大事ですね」
――「ございます」の部分が余計だよ、慶。なんか素っ気ないし。
以前はもっと愛を感じるメールを送ってきてくれてたでしょ。
翌週のメールはちょっとまともかな。
「慶、離れる時間も大切よね。この空白が、二人の愛を加熱してるっていつも感じる。
あなたも感じてる?
さみしいなんて言わないから、また面白いお話あったら昼間のラブメールしよ」
「そうですね。闇を越えて、闇を越えて、光があります。
何もかも変わってゆくけど、変わらないものも貴重かな。
やっぱりスローラブでずっと愛し合えればいい」
これはまぁまぁ。これまでのあの人の精神状態にぶれは少なかった。
冷静っていうか、変人だからいつもマイペース。
さすがに子供ができるとなると、不倫に負い目を感じているのか、
メールの言葉にずれが聞こえるようになってきた。
でもそれからの数ヶ月間は平静だった。
平静って、スローラブで静かに、でも逢う時は激しく愛し合うってこと。
慶もあれから奥さんのことは口にしなかったし、
セックスも濃く丁寧なままで、わたしは至極満足だった。
急展開したのは、八ヶ月目を過ぎた頃から。
「超音波で胎内の子供の顔が見えた。しかも笑ってた」
なんかかなりショックを受けてたみたい。
硬い表情でサイドドアに頬杖をついたままの小さな声。
日焼けを避けることも忘れて、考え事をしているのか、腕はそのままなかなか動かなかった。
その日、車はいつものホテルの前を素通りした。
わたしの準備はすっかりできていたのに、彼はお話だけでわたしを駅へと送り届けた。
「今日はやめておこう」
「どうして?何がイヤなの?言って」
「いや、ただ子供の笑顔がリアルで怖い。しばらくは君を抱けないかも。ごめん」
それじゃわたしは何も言えないじゃない。
子供の存在を感じ始めた父親。わたしも意識せずにはいられない。
慶の何かが動いてゆく。きっとわたしから離れる方向に。
そこにスローラブっていう言葉はどう絡んでゆくのだろう。
永遠を誓った、大人同士の細長い感情の線はまだ続けられるかな。
最後まで見届けたいけど、終わりがくるのは怖い。
ゆっくりとフォームに入ってくる電車を眺めて、
わたしは大波に飲み込まれる瞬間の自分をイメージした。
真夏の暑さに一人抱き締められて、わたしはまた愛のない海に帰らなくちゃいけないのかな。
――怖い、怖いよ、慶。
それからしばらく慶との距離が空いた。
彼からは謝りのメールばかりが来る。気持ちは分かるよ。
でもそれじゃ心は満たされても、身体が収まらない。
「京華。申し訳ない。君への愛が揺らいだわけじゃないんだ。分かってくれるだろう?」
「まだ分ってないわ。もっと説明して」
彼の言いたいことなんて分かっているくせに。
こう返せば多分余計なことまでペラペラしゃべってくれそうだから。
わたしもイヤな女。
「その、何て言うのかな、愛情の上限の問題だよ。
スローラブもそうだけど、きっと人間一人には上限があると思うんだ」
ほら、真面目に返してくるつまらない男。
「わたしへの気持ちの上限に達したってこと?」
「そうじゃない。違うよ。それはないから安心して。
ただ、子供が出来たことで僕には愛すべきものがひとつ増えたんだ。
それも、とても深く愛すべき存在が」
「それは分かるよ。分かるけど――」
「けど、何?聞かせて欲しい」
「ほら、わたしだって、最初からわたしだけに愛を注いで欲しいなんて期待してないよ。
お互いもう独身じゃないのよ。家族だって大事なのは当たり前。
ただわたしに愛を注ぐ時間があった時に抱いて欲しいだけ。
都合のいい女でもいい。ホントだよ。忘れないで」
「分かった。でも都合のいい女とか思ってないからね。ありがとう、もうちょっと考えてみるよ」
わたしも考えちゃうじゃない。
家では貞淑な妻としての役を演じているからそんなことを思う隙間もないけど、
朝に家を出てから夕方帰ってくる時までは本当のわたしだからつい考え込んでしまう。
季節はまた次に移ってゆくから。
ふたりのことも次に流れてゆくのが自然のはずなの。
どっちにしろ結論はひとつしか見えてこないじゃない。
真面目に愛そうとする慶の固い性格じゃ、最後はどうなるかってわたしには見えてしまうの。
後はきっと時間の問題ね。
久しぶりに慶がわたしを誘い出した。
わたしはあまり期待せず、でも下着だけはお気に入りに揃えて彼の待つ駅に降り立つ。
――笑っている。意外。
すっかり鮮やかな秋色に姿を変えた銀杏の木。
この前は暑過ぎて見向きもしなかったのに今日はすぐに目に入ってきた。
その眩しい黄色を背にあの人が優しく笑いかけてわたしを迎えている。
その表情の裏側に無理した笑みを塗り込めているようにも見えない。
本当に笑っている?どうして?
「やぁ。久しぶりだね。逢いたかった」
えっ?いつもと違うよ。
逢いたいなんて、メールで書かれる以外、面と向かって言う人じゃないのに。
慶は車を真っ直ぐホテルに乗りつける。
どうしたの?この前はここを素通りしたあなたじゃない。
奥さんが妊娠しているからガマンできないの?おかしいよ、何か。
「行こう」
まさかいきなりとは思わなかったからわたしも驚いた。
でも彼にそう言われたらもう恥ずかしさも何もないから、
わたしは自分のわずかな濡れも彼のせいにすればいいと車を降りる。
あの人は部屋の扉を閉めると言葉もなく求めてきた。
随分激しいじゃない。あぁ、わたしのことやっぱり愛してくれるのね。
思いがけず素直な慶の指先に反応して、わたしも正直に乱れに乱れた。
一度終わるとわたしは軽くまどろんでいたみたい。
髪に感じるかすかな振動で瞼を開けると、優しい手つきで慶がわたしの髪を撫でてくれていた。
――愛を感じる。わたし、幸せ。
その心地良さにまだ寝ているフリをしようと目を閉じ、軽く寝息を立てる。
気付いてか、気付いてないのか、慶は構わずわたしの髪を撫で続けてくれていた。
――慶。お帰り。やっぱり帰ってきてくれたのね。
彼の手つきがスローモーションのように、わたしの心の芯をゆっくりと捉えてゆく。
――欲しい。二回目が欲しい。この男にもっと抱かれたい。重なりたい。注がれたい。
強い衝動がわたしを襲う。目を開けずに寝返りをうち、彼の胸板に頬を乗せる。
手を伸ばすと熱い股間に指先が触れた。来て、慶。またわたしを圧倒して。
指先で遊んでも、彼はわたしに触れてこない。
イヤ、焦らすのはイヤ。来てよ、包んでよ、入って来てよ。
髪じゃないでしょ、ちゃんと触って。
随分熱いくせに何を我慢してるの?
いい加減待てなくなって薄く目を開くと、慶の頬に涙が光っていた。
「慶?慶?どうしたの?愛し合おう……」
そろそろとわたしがお願いしても、熱さとは反対に彼の手は伸びてこない。
欲しいの、二回も三回もあなたが。
「京華。もう終わりだ。もう止めにしよう――」
じれったくて彼の胸板に甘く歯を立てていたらそんな言葉が空気を揺らす。
「え?」
聞き返すしかない。とても信じられない。
受け入れられない。わたし、聞いてない。
「もう駄目なんだよ、京華。当分逢えない。逢わないようにしよう」
――来た。何もこんな時に。
「どうして?さっきあんなに愛してくれたじゃない。
あれでいいのよ。あれだけで充分わたしは幸せなんだから」
すがってしまう。引き止めなきゃ、こんなわたしでも。
「京華、よく聞いて」
よく通る声。本気なの?
いいわ、よく聞くわ。あなたの胸に耳を当てて、本心かどうかしっかり聞いてあげる。
「僕がずっと悩んできたのは知っているだろう?生きていれば得るものがある。
ねぇ、でも得るばかりで、その代わりを失おうとしないのが人間だよ。
自分に都合がいいものばかりを集めようとするくせに、すでに手に入れたものは失おうとしない。
それが普通の人間だと思うけど、その先には破滅が待ち構えているのを僕は知っているんだ。
だから、何かを得ようとするならば本当はペースを落として差し引きを計らないといけない。
そうしないとバランスが取れなくなって何もかも消えてしまう。
こんなのばかりじゃないかもしれないけど、少なくとも僕はそういう人間だ」
ゆっくりと、噛み砕くように彼は話した。
「でも、わたしはそういう女じゃないよ。都合のつく時だけ逢う時間を作ってくれればいいんだよ。
あんまり難しく考えなくていいから。ね?」
「いや、それじゃ駄目なんだ。僕はそんな器用な人間じゃない。
このまま進んだら僕は両方を失ってしまうだろう。バランスが保てない」
「それって言い訳じゃなくて?
わたしに飽きたなら、そうはっきり言ってくれれば黙って身を引くよ。迷惑かけないし」
「何言ってるんだ、違うよ。君の事は変わらず愛している。
これからもずっと愛し続けるだろう。ただ、」
「ただ?」
「ただ、まもなく子供が産まれたら僕の愛情は極端に子供に傾くだろう。
君まで愛する余裕はないと思うんだ」
少しずつ慶の声が熱を帯びてきた。
ウソじゃないってことは最初から分かってるよ。あなたはウソつくような人じゃないもの。
「それでもいいよ。気晴らしでもいいし、ヒマつぶしでもいいし、
何でもいいからたまに抱いてくれたらそれでいいのよ。
言っておくけど、こんな便利な女いないからね」
「馬鹿な!それじゃ全部壊れてしまう。僕は子供が欲しい。
自分の子を産んでくれる妻も大事だ。
それと同じぐらい、生涯かけて愛した君という女性は大事。
でもこれじゃ、全部が全部手に入っちゃ、きっと駄目になる。そんな恵まれた人生ってないよ」
――恵まれた人生。恵まれた人生ね。
「慎重過ぎるよ、慶。もっと欲を出して。あなたの家庭を壊さないって最初から約束してる」
「いけない、いけない。それはね、欲しいものの全部が手に入るわけじゃなくて、
小さいもので届かないのは幾つもあるけど、
大きいものがみんな手に入ってしまったら、そんな罪なことはない。
それじゃぁ破滅への道が目に見えるようだ。恐怖さえ感じてしまう」
「――あぁ。ねぇ、お願い。わたしは何でもいいのよ。愛して、愛してよ、慶」
呆れてわたしは身体で慶にぶつかってゆく。
熱い。あんな冷静なことを言ってるくせにやたらと熱い慶の印。
「ねぇ、難しいこと言ってないでこれを入れてよ。もう何も考えないで。わたしに考えさせないで」
そうよ、馬鹿な男は身体で会話すれば簡単に分かってくれる。
さっきあんなに激しくしてくれたじゃない。
口で分からないなら口でしてあげる。慶、慶。ほら、来て。
「――ごめん。ごめんね、」
そう言うと身体を突っぱねるように慶がベッドを出る。
あぁ、慶、そうなの?あなたは理想に生きている人だから。
「ごめんね。でも愛しているよ。イヤで別れるんじゃない。
愛している。でもさよならだ。でも愛している――」
薄暗い部屋、ベッドの隅に腰掛ける彼のシルエットは背中を丸めて虚しさに打ち震えている。
自分で勝手に選ぼうとしている別れで哀しむ駄目な男。
こんなの分かりきったこと。
あなたは人の話を聞かないで、自分だけの道を無謀に突っ走っては壁に当たるし、
それにきっとわたしがここで追い込んでもやっぱり駄目になってしまう人。
どちらにしてもそのうち自分から壊れる人よ。だから……。
「分かったわ。でもこのスローラブが終わるわけではないんでしょう?
いつかまた、いつになるのか分からないけど、またいつか、二人燃え上がる日が来る。
それだけ聞かせて。そうよね、慶?」
「うん、そうだよ。スローラブだから終わることはないんだ。
これからも変わらず僕は君を愛し続けるだろう。
君への愛が僕を動かすってそれは変わらない。
ほら、あの再会の日、僕が言ってたの憶えてるかな?
どうして最後の最後にならないと本当の大切さが分からないのかって。
それが見えない日常を憎んでいる僕だから、逆に君の存在の大切さは分かっているつもり。
いや、つもりじゃなくてちゃんと理解している、痛感している。
スローラブは続いてゆくよ。
思うんだ、僕の愛情が子供に注がれるピークを過ぎたら、また君への愛として復活する。
君を忘れられるわけがない」
分かるよ。あなたならそうなるかもしれない。愛に生きる人だから。
「うん。復活してよ、必ずね」
「うん。例えば、君がこれから子を儲け、母になったとして、
やはり同じように子供への愛情に毎日が霞んでゆくだろう。
でもきっといつか、そんな毎日に区切りがついたら女であることを思い出す。
またそこで互いの状況が許されるなら、愛を重ね合えるんじゃないかな。
スローラブだから、心の中ではいつも互いを想っているのもあるけど」
熱い男。現実に生きていない冷めた男の、それでも真剣な熱情。
「スローラブならいいよ。
別れるわけじゃなくて、今だけ、ちょっとペースをもっとスローにするだけね。
スローラブだって刺激なくて平坦なままじゃ続けていけないし。
でも誓って。これは終わりじゃない。スローラブは続いてゆくって。
愛し続けてくれるって誓って、慶、お願い」
「何度でも誓うよ。京華を一生愛している。
愛しているよ、でも一旦さよならだ。愛している――。さよならだ――。
京華、君も感じているかな?
いくら一生の愛でも、こんなに愛し合う僕たちでも、一緒に生活し始めた途端に壊れてゆく。
人間だから、生活自身が醜くて、他人と暮らすのはそもそも無理があるんだよ。
だから一緒にはなれない。スローラブの関係が永遠を保つ唯一の方法さ。
愛している。心にいつも、君を愛している」
「うれしい。離れて暮らしているからのスローラブね。
慶、もっと誓って。でもね、言葉だけじゃ信用できない。
たった一度だけ、あなたのその固い心を突き破るほどの信念を見せて。
そうしたらわたしもずっと安心できる。
――もう一度抱いて。あなたの性愛の海に、あとたった一度だけ溺れさせて。
あなたが欲しいの。抱いて、抱いて下さい」
自分の道をただの一度も踏み外さないような男。
振り回されているわけじゃないけど、今までは彼のペースに合わせてずっと逢瀬を重ねてきた。
慶は来てくれるかしら?あの熱さをわたしの中にもう一度埋めてくれるかしら?
頑固なあなたがさっきもう決めてしまったふたりの終わり。
でもこのわたしの最後のお願いに応じてくれるかしら。
来てくれるようなら本物。そのままならスローラブはきっと途中で風化する。
強い意志を見せてよ。冷静な知性、冷静な情熱を持つあなた。
こんな時ぐらい、自分の殻を破るぐらいの冷静な狂気を見せてよ。
――シルエットの影が固まる。
そうしたら大きく口を開けて、でも無声のまま彼が大きく吠えた。
身体を激しく震わせて。何かを吹っ切るために?あなたが変わるの?
彼がわたしの上に飛びかかってきた。熱い、熱いよ。そんなに押し付けないで。
――いいえ、もっと突きつけて。重ねて、動いて。あぁ、熱い、熱いよ、慶。