小さな月〜人生初の小説、19才の私が書いた物語

ある小さな月はその半分を心の傷から、もう半分はその丸い表面を固い岩に覆われていました。

この小さな月も他の月たちと同じく角度によって様々な表情を、感情を持っていました。

ロマンティックなオレンジ色の満月のときにはラブ・ストーリーをうたい、

孤独な半月のときには心の傷に削られた半面をあからさまにさらけだし、

見る者へその心の傷の謎を問いかけ、

消え入りそうな三日月のときには物事の終わり、というものよりその次のまた新たな時代の流れの始まり、

というものをさみしさのなかに細く、強く感じさせていました。

そして視界いっぱいに心の傷を見せつけるときには

誰もがその痛みの深さに目をそらせ、闇までもが同情し、むき出しの傷を夜に黒く包み込んでいました。

小説・小さな月

心の傷を持たない奴がいた。

彼はこれまでの生涯でそんな痛みを持ったことのない不幸な(あるいは幸福な?)人種であり、

心の傷の存在すらその経験から理解することのおぼつかない、感情に乏しい人間だった。

心の傷から逃げ出した奴がいた。

彼は過去にその許容範囲ギリギリの痛みを背負った経験を有していた。

しかし哀しいかな、彼が取った――あるいは彼に残されていた唯一の術は、

傷の痛みに背を向けもう二度と傷を振り返らない方向であった。

――最も、彼にはまだ充分な時間、そして痛みを強さに導いてくれる、

共に超えてゆける不可欠な存在にめぐり逢っていないだけなのかもしれないのだが。

心の傷を乗り超えた奴がいた。

彼もその許容範囲ギリギリ、というより限界を超えてしまうような哀しい体験を持つ人種であり、

一時心は堕ちつくしたのだがその哀しみを何らかの思想と誰かからの導きにより、

そう、ちょうど心が堕ちつくしたぶんだけ、

元来の素敵な心に新たな「心の宝物」を増やすことができた幸せな人種であった。

――とはいってもその経過には涙も流し尽くすような忍耐と痛みがあったのであり、

幸運というよりは彼の努力の賜物である。

この小さな月に歩いてゆくことは何日にもわたる厳しい環境下の道のりさえ厭わなければ可能でした。

傷を見せない半面はとても素敵に見えましたので何人もの人が

その外見の魅力に入れこんでこの小さな月への徒歩旅行に挑戦したものでした。

しかし、無事にたどりついて戻ってこれた人は過去にわずか数えられる程しかいないとのことでした。

勝手な噂では挑戦すれば大部分は月の表面までは踏めるのですが、その後に行方を絶ってしまうとのことでした。

まずはこの大陸を左右に二分する大山脈を越え、風土の性質を全く異にする他方へ向かいます。

この地方に唯一人間が生活する場所――その昔に自己の全てを迫害により踏みにじられ、

自由の場をこの何者にも知られざる大地に求めて涙の道を歩き移ってきた民族の小さな町があります。

ここまで月に一本しかない長距離バスで約17時間、

到着すればパイプオルガンの自信と尊厳に満ちた、未来の伝説のしらべに歓迎されます。

自分を超え、痛みと哀しみを背負った分だけ許される栄光をこの町の人々は有しています。

その白く気高い町並みは痛みを許せる優しい心――俗界とはとても同じ気持ちで歩けない清潔な、美しい町。

大自然のなかに急に出現する素敵な町――大自然の美とも調和している特有の高潔な美を持つ町

――旅のはじまりはここからです。

この先は世界的に貴重な大自然の財産なので車の乗り入れは決して許されません。

ここからはまず、小さな月へ向かう少数の人間用に作られた細く長い道をMTBで約320㎞ほど走ることになります。

山の深い森と森との間の大草原を風をまとい、太陽を味方につけ駆け抜ければ、どこまでも純粋に、

そして風流だけに生きる野生動物たちにめぐり逢うことができます。

下手に刺激すれば敵となってしまう動物が群れをなして移動していたりもしますが、

つまらない強迫観念に負けて邪心を向けたりする下世話な人間も

この自然の香りを吸いさえすればまずいなくなることでしょう。

山火事に燃え尽くされた森の跡もあります。

朽ちてもそびえる枯れ木たちは未だに捨てられぬ野性の証し――そんなメッセージが読み取れませんか。

ある部分に美しいエメラルド色をした泉が集中して点在していることがあります。

喉の渇きをおぼえた旅人たちのオアシス――には決してならなく、それは有毒の熱水の泉なのです。

湯気を立ててその温泉は震えます。

道から遠く外れた温泉のひとつは定刻になれば忠実に抑えきれない怒りの温水を50mもの高さに吹き上げます

――なんとも恐ろしいまでの情熱ではありませんか。

どこまでも進めば湧き上がる熱水と石灰分の作用で形を成した白い地盤が一面に続きます。

ここからはMTBを乗り捨てて進む必要があります。

階段状になった白いテラスを登り、プラスの情熱そのもののこの大地を進みます。

留意すべきは太陽の位置――すなわち、太陽がその活動を本格的に行っているうちは

この白い地盤にピンク色がかかり、熱水が湧き上がることはありません。

しかし雲にその陽射しを隠されたり、日の出前と日の入り後には

生命反応を無くしたような真っ白な岩盤へと姿を変え、そして湯気と共に熱水が湧き上がり始めます。

当然熱水が湧き上がるときを避けて先へ進まねばなりません。

だがこの白い地盤も相当に長く続きます。

いかに強靭な足腰の持ち主でも歩き抜けようとする間には太陽も沈んでしまい、熱水に足を濡らすこととなるでしょう。

座ることもできず、完全な闇に包まれてもひたすら目標の小さな月の灯りをたよりに足を運びます。

月灯りに映えて白く輝く岩盤もそれは幻想的な美に満ちています。

歩き疲れ、熱水に責め続けられる足はそのうちに感覚を忘れてゆき、

ただひたすら小さな月の灯りに導かれ天空を歩んでいる気持ちになってゆきます。

知らないうちにあの固い地盤を歩き抜け、

足元の熱水はなくなって柔らかな砂の上を歩いているのだと知ったときには

ふと極度の疲労を思い出し、美しい白色はそのままのその新しく優しい大地に身を委ね、

何を考えるわけでもなく深い眠りに誘われ落ちてゆくことでしょう。

……気だるい熱風につかの間の休息を邪魔され、ぼんやり目を開けると白い大地が再び視界に入ってくる。

白い砂漠――むせかえるような暑さだ、振り返ると後ろにも白い砂漠しか見えない。

昨夜残したはずの足跡も風に流されて最早形をとどめてはいない。

世界が変わってしまったかのようだ――。

体力が熱に奪われてゆく。

あの岩盤よりも一層厳しい自然条件、そして、一層素晴らしい外貌。

だがこの美しい白の大地は人を拒む。

とらえどころのないその姿は情熱というより磨き上げられた才能だ――。

喉は燃えるような渇きに襲われ、一滴の水を求めることだけを目標に

上を向く気力もないまま重い足どりで白い砂に足跡を刻み残してゆく。

体力を削り尽くされ、もうこれ以上は進めぬ、と絶望したまさにその瞬間、光は閉ざされた。

……つまり太陽の猛威は雲の陰に封じ込まれた。

限界にたどりつけば再生される。涼風が吹いてきた。

倒れこんでしまった旅人はその穏やかな風に揺られ再び眠りに落ちた。

また何も考えられないまま、潜在意識の世界を好きなだけ楽しみに行った。

……また世界が変わっていました。

白い砂漠は紅い大地へと姿をうつしていたのです。

一日に疲れたはずの太陽が信じられないぐらいに燃えたぎる紅い陽射しを強烈に放っています。

それを受けた白い砂漠が紅い大地へと変わっているのです。

危ないぐらいの美しさです。妖しい、あまりに妖しい禁断の美ではありませんか。

急激に寒くなってきました、このままこの妖しい美に心を奪われていれば

夜の寒さと闇の餌食になってしまうかもしれません。

今夜も月灯りを期待できるとは限りません。

さっきから太陽が沈むあの方向に小さな影となって何かが見えています。

旅人は手遅れになる前に先を急ぐことにしました。

全てを闇が支配してしまう前に何とかその影にたどり着くことができました。

この一面の白い砂漠に唯一の例外の異なった景色がそこにありました。

低い岩山です、しかも白ではありません。

大きな口を開いていて、広く深い洞窟の入り口にそれがなっています。

不毛の大地を彷徨ってきた旅人は吸い込まれるように中へ入って行きます。

口から差し込まれる鈍い灯りだけを頼りにして足元の危険なこの異次元空間へ下って行きます。

底のほうは常時過ごしやすい気温に保たれていて、ある程度まで下がると灯りが完全に隠れてしまいました。

夜です、洞窟の中では他の何よりも人を圧迫する恐怖が潜んでいます。

――それは完全な沈黙と闇です。

精神が丈夫ではない人ほどこれに耐えられることのできる限度は狭くなります。

いや、どんなに強い精神力を持つ人でも人間である限りはそう長時間絶えきれるものではありません。

この沈黙と闇に囲まれてあまりに考え込んでいては確実に精神障害をきたしてしまうことでしょう。

この恐怖の雰囲気は人の心を狂わせてしまう力を持っています、

消耗しきった心と体を素早く眠りにつかせてしまうのが得策です。

そうでなければ深い沈黙と闇に殺されてしまいます。

目を閉じればまだ自分を誤魔化すことができます。

さぁ、急いでこの恐怖から逃れましょう。

……薄灯りだけを視覚がとらえていれば目の覚めてからもまだゆめの続きのようです。

――なんとかあの恐怖の責めからは逃れられたようです、

頭上の口から断片的な薄灯りがもれてきています。

何故かあれ程に感じていた飢えや渇きも目覚めたらすっかり体が忘れてしまったようです、

何か不思議な力がこの洞窟に働いているのでしょうか。

眼前のはるか遠くに別の光が射し込んでいるのが見えますね。

昨夜は入り口からだいぶ下りました。

あの光は何かまた別の世界に旅人を誘うように思われて仕方ありません、

手さぐりであの光のもれる場所まで進みましょう。

この洞窟は単なるトンネルというわけではないようです、

入ってきた口から幾つもの穴がいたる方向に分かれていましたから。

もっともっと深く広い洞窟かもしれなく、この道が最短距離のトンネルかもしれませんね。

やけに湿った土っぽい匂いが鼻をつきます。

先を求めて動く手に触れるのは冷たく濡れた鍾乳石でしょうか。

牛歩すること数時間(多分そのくらい経ったのだと思います)、

ようやく問題の出口の下まで着くことができました。

そしてこの先の世界に期待と絶望がかかります。

――これは?!――海?――海に囲まれた離れ島?

――いや、ゆめの続きではありません、いつもの世界です。

――しかし、これはまた、何という残酷な世界なのでしょう――。

小さな島は岩山のようになっており、旅人はそこにある出口から抜け出してきました。

目標の小さな月がすぐそこに見えています――しかし――これは余りに残酷です、

この島の四方の崖の下は全て海に、見るからに流れの速い海流によって完璧なまでに進路を閉ざされているのです!

これでは海を泳いで小さな月の見えるあの陸地に渡ることなど絶対に不可能です。

わずか数㎞ほどの距離なのに!もう手の届きそうなところに自由が見えているのに!

――決して超えられぬ壁に遮られて――

これには第三者たる私たちも激しい怒りをおぼえます!

――余りの残酷さに対して。旅人が望むもの全てが目の前に

――完璧な壁に遮られて――これこそが究極の罪罰、

この島は最も許し難い重罪を犯した人間を入れる刑務所のようです。

ほらごらんなさい、旅人は膝をついてしまいました。――余りの残酷さゆえに。

旅人は寝っころがって小さな月をぼんやり眺めていました。

再び何かをする気力は失いました。

同時に空腹と喉の渇きを改めて感じだし、それが絶望感をより一層深めることとなりました。

こんな残酷な場所で私は死ぬのだ――

旅人のそんな悲しいつぶやきが聞こえてくるようです。

あきらめた時点で考えは楽観的になっていました。

食糧と水の確認をここで野たれ死ぬ者は頭で、まだ戻ることができる可能性がある者は目で済ませ、

まぁ、とりあえず今夜はここで過ごすしかない、と決めることでしょう。

また、あれ程の海流に身を投じて泳ぎきろうとする無謀な旅人はまずあり得ません。

この島までまがいなりにもたどりついた者ならばこの一見穏やかそうな海流の下には水という

形のないものならではの絶大な威力を持った流れがある――ということぐらいは当然わかるはずなのです。

第一、そんなことにも気付かぬ人間にはここまでたどりつける資格がありませんから。

もうすぐ彼方の水平線の下に落ちこんでゆく太陽。

短い、とも長い、とも言えるようなサイクル。

今日一日に栄華を誇り、そして今日一日に失権してゆくそれ。

――決して永遠には続かない「栄光」。

自分の躍動の場を得て動きを始める次の台頭者。

だが、そのまま消えてゆく訳にはいかない、疲れ切った者も、過去の瓦礫には。

――思ってはくれるな、「醜い」とはそれを。

夕闇がキャンバスに少しづつ自分の色を忍び込ませてきました。

旅人は相変わらず近くて果てしなく遠い、小さな月をうつろな目でながめていました。

洞窟の出口からいくらもまだ離れていませんし、

何もないこの離れ島を改めて確認してみる気にもならないのでした。

――別の道があるのだろうか──旅人がそう考え始めたとき、

背後の洞窟の出口の方から何か、異様な気配がしてきたのです。

ただ事ではない、と直感して振り向いた旅人が見たもの、それは──黒い蝶の群れ?──でしょうか?!

あの洞窟の出口から黒い蝶らしい小さな生き物が大量に突然、

一気に黒い河のような線を描いて翔び出てきたのです!

これは何という――?!

この旅で驚き慣れした旅人も再び強烈な戸惑いをみせてしまいました。

――数が増えてきました!後から後から止まりません!

何なのでしょう?!

あぁ、鈍い白色に染まっいた空のキャンバスに黒い線が引かれてゆきます、

そしてその行く先は――小さな月!!

止まらない!凄い数です、数が減らない、黒い河を成してゆきます、

もう先頭部分は海流のはるか上を、小さな月を目指してだいぶ進んでいます!

凄い数です、30万匹は下りません、なおも洞窟からは次々に翔び立っています――。

あっ!!これは!――これは黒い蝶なんかではありません!

――これは蝙蝠ではありませんか!

蝙蝠の大群が空に河を流しているのです、小さな月へと続く不思議な橋を渡しているのです!

――これは、洞窟の闇にひそむ彼らの栄光の時、何とも美しい一瞬のゆめではありませんか――。

旅人は立ち上がりました。

今や黒い橋は完璧な壁を飛び越え、あの小さな月へと旅人を誘っています。

確かな足どりで橋を歩き出した旅人の表情は対照的に夢見心地なものです。

旅人は空の橋を歩き、海を渡る――行く先はあの小さな月――。

きっと自分でもその橋を歩いた感触はなかったことでしょう。

すでに暗闇一面となった空を小さな月の灯りに向かって歩いてゆくのです。

黒い橋は旅人に天空を翔んでいるような錯覚をおこさせます。

既に現実からはかけ離れた世界がそこにあります。

世界を超越してしまった足どりが思考までをもゆめのなかに溶けこませてゆき瞳を惑わしてゆきます。

そして――逆らい難い魔力に意識は本人を離れてゆくのです。

またいつの間にか眠りに落ちていたようです、旅人は朝日に揺り起こされました。

――これは!昨晩のことは幻ではなかったのです!

小さな月がもうすぐそこに見えています!

残るは目の前にある山を登り、その頂上に座っているような小さな月によじ上がり、一番上まで行くだけです。

今日一日で到達できそうです、帰りは――着けば絶対に何とかなる――そんな確信を感じるのです。

最後の活力には目を見張るものがありますね、さぁ、旅人は新たな決意を瞳に歩き出しましたよ。

緑色に映える理想的な川、かなりの落差を持つ細長い滝には虹がかかり、

青い鳥が不思議にも旅人の道を先導します。

これまでの長旅で旅人の顔や肌は真っ黒になり、

純粋なこの色は同じく純粋な色である白の小さな月に敬意を込めた調和がとれています。

旅人は山道を5時間ほど歩き登り、ついには小さな月の真下まで来ることができるのです。

旅人はそこで恋をした。その場所から見渡す峡谷の景色に恋をした。

先導されて着いたのはあの島からは見えなかった小さな月の裏手だった。

裏側には遠くまで深い森をまとった山々が続き、その間を青白い水の流れが縫っていた。

この急流に削られた山肌は芸術家が色を塗りたくったような美しいピンク色をしていた。

それだけでも美しい。

だが、旅人が恋をしたのは遠く、果てしない空間にだった。

旅人は恋をした。何時間もその果てしない空間を見つめていた。

優しく包んでくれる「母」なる広い広い空間、そして信じられないくらいに存在する清潔な美しさに恋をしたのだ。

心の穏やかさを取り戻し、忘れかけていた心の置き場を再び見つけた。

誰もが持っている淡い恋の記憶――懐かしい感情に旅人の体の力は抜けていった。

……これはあの恋の香り――。

恋をした旅人はいつまでもその場所から離れることができませんでした。

しかし冷徹な現実が旅人を輝く思い出から切り離したのでしょう、

冷めきった瞳をのぞかせて旅人はその峡谷に背を向けました。

それでこそ、それでこそ小さな月に恥ずかしくないだけの人間――なの――でしょう……か……。

あとは急斜面な岩肌を頂上から垂れ下がっている鉄ワイヤーのロープをたどって登るだけです。

丸い表面を固い岩に覆われたその小さな月の半面を頂上まで果てしなく上がります。

最後の試練は「克己」――過酷な肉体運動であり、自分自身に打ち勝つことができるかどうかの再確認です。

小さな月は意識してその個人の能力限界ギリギリまでやろうとすれば

絶対にやり遂げられるぶんの障害を用意しているのです。

……こうした苦難の道のりを超えた旅人たちだけに小さな月へ挑む資格が与えられたのです。

まず初めに心の傷を持たない男が月の表面を踏んだ。

道の途中で彼はこの小さな月の半面である切りたった崖の姿を認めていた。

極度の疲労も忘れて地面の果て、この絶壁まで歩き通し、その漆黒の闇の空間を見つめていた。

――こんな不思議な地形があるのか――と彼は声をもらした。

彼にはそれがただの果てしない深さを持つ切りたった崖にしか見えなかったのだ。

そう、彼がそれを心の傷と気付くはずはないのだ。

その痛みと恐ろしさがわからぬ彼が次に取る行動はひとつしかない。

――彼はその切りたった絶壁を調べてみよう、と崖を下り始めたのだ。

この男は気付かなかった。

下も見えなく、垂直に落ちてゆくその崖を他と同じ単なる自然美だと思ったのだ。

――しかし、それはただの壁ではなく、

小さな月が二万年もの歳月を生きるなかで負った深い、深い心の傷なのだ。

悟れ、旅人よ、お前はその傷に無造作に触れようとしているのだ

――それを知らぬでは決して許されないことなのだぞ――。

男がその垂直に削れた壁の表面へ触れようと手を伸ばしたその瞬間、当然予想されるべき事態がおきた。

男は納得ができぬ、といった表情のまま、垂直に消える闇へと堕ちていった。

二度と自分の足で大地を踏むことなど叶わないであろう死の世界へ。

傷に触れようとした腕を伸ばしたままで。

――何故?――と男は唇に言葉を残し、闇へと堕ちていった。

次に心の傷から逃げ出した男が月の表面を踏んだ。

彼もまたその崖の姿をすでに認めており、見えない力に引きずり込まれるように、

心のどこかがその崖を求めるかのようにそれに近付いていった。

――これは、どこかで――彼はその崖と闇を見つめながら考え込んでいた。

そして次の瞬間、背中に寒気を、心に古い痛みを感じた。

そう、それは彼が昔、捨ててしまった心の傷だったのだ。

彼はそれに気付き、恐怖のあまり立ち尽くした。

――しかし自分の傷を憎み、逃げ出してしまった暗い過去を持つ彼にとって

他人の傷はただ無責任に嘲るべき対象でしかなかった。

自分の弱さへ仕返しをするように彼は足元に積み重なっている岩石を

崖の底へと狂ったように蹴落とし始めた。

そんなことでは怒りも充分に収まらない男は崖のそばに敷きつまった岩石のひとつに立ち、

ありとあらゆる罵詈雑言を闇の空間に、深くは自信のいらだちに向け言い放った。

……そして、醜悪なまでの自虐さをこめて下の闇に唾したとき、この男も死を宣告された。

彼は気付かなかった。

心の崖のそばにある崩れ落ちそうな岩石、それは痛みを秘めた心の岩だったのだ。

その心の岩を崖に落とせばどうなるのか――痛みを負った岩なのだ、

それを心の傷の崖に無責任に落とすことは、その傷に触れることも同じ。

そしてそれは死を意味する。

男はまだも悪態をつきながら――きっと彼もどこかでこうなることを意識していたのだろう

――ただ自分自身へのいらだちだけを増幅させて深い痛みの闇へ堕ちていった。

小さな月はこの二人の愚かな死に様を冷たい沈黙のうちに見つめていました。

そして恐ろしく無感情な口調のつぶやきが聞こえてきました。

――この傷に触れることはできない。

触れないまでも心の岩を下手に崩せば死、傷に触れようとすれば即、死だ――。

そう、こうしてこの小さな月にたどりついた旅人の大部分はこの二人とよく似たことをして、死んでいったのでした。

最後に心の傷を乗り超えた男が月の表面を踏んだ。

彼にはその闇が痛みからくるものであることをここまで来る間に深く、理解していた。

自然と崖まで歩き、傷だらけの崖とはすこし距離をあけた。

あれ程までの心の傷、彼にはこの小さな月が下手な情けは拒むタイプであることが明白だった。

男はそれなら、と相手の痛みを認め、自分の痛みをも全てさらけだした。

深く相手の傷の原因を聞こうともせず、彼は痛みの闇と心で無言の対話を持ち始めた。

この永遠の一瞬に一人の男と小さな月の間に奇妙な理解が生じた。

一人の人間とひとつの小さな月との理解――それはあの町の人々のように、

自分を超え痛みと哀しみを背負った分だけ許される栄光なのだ。

今、小さな月の瞳から涙がこぼれた。男もまた不意に涙を落としていた。

――涙なんていうものがこの私にまだ残っていたとは

――男は揺らぐ激情におちいっていた。

わかるのだ、この小さな月の二万年の傷が、痛みが。

そして小さな月も自分の痛みをわかってくれている、分かち合えている。

日頃、慎み深い男ではあったが彼が栄光を全身に受けるとき、それをもう隠したりはしない。

彼のこれまで生きてきたことの証しがこの瞬間に確信を伴ったのだ。

孤独な思い出が時の流れの恐ろしさからついに解放されたのだ。

男は優しく穏やかな風に小さな月の声を聞いた。

――二万年を生きるなかで深い心の傷も負った。

時の流れに全てを変えられてゆくとしてももうこのままでいい。

痛みさえ愛しい。私たちは今でもあるべき自分の姿へ歩いているのだ。

さぁ、このまま永遠を生きよう――。

かくして偽りと真実は裁かれ、男は人生という栄光を手にして生きることを許されたという。

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まつきよ

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