ずっと来たかったよ、墨俣一夜城には。
何故って、少年の頃に読んだ墨俣一夜城の築城ストーリーが記憶に残っていて、織田信長重臣の佐久間信盛・柴田勝家でも失敗したのを、奇策を使った羽柴秀吉・蜂須賀小六が成功させたというヤツ。
記憶に強かったのは、木材を美濃の上流から流して夜のうちに組み立てたという分かりやすい奇策が少年の心を打ったのだろう。
最も、愛知県に引っ越してきてから長いのに墨俣一夜城に全くこなかったのは、城の外観が一夜城とは明らかに異なること、そして桜の名所とあるが戦国時代イメージが強い墨俣一夜城と平和な桜がどう重なるのか、僕にはイメージできなかったからだろう。
さて、現実世界のお話に戻るとしようか。
犀川堤の桜トンネルを抜けると、長良川の西岸に大きな城、墨俣一夜城が見えてきた。
僕がずっと憧れていた羽柴秀吉建築の城だ。
それにしても周囲が無数の桜に囲まれていて、墨俣一夜城の魅力も低迷する、桜の方がずっと鮮やかなのだから。
史実や伝説はさておき、カメラマン目線からみる墨俣一夜城は写真映えする要素に溢れている。
空は広く開いていて(河原だから)、犀川の水景と共に写真が撮れ、墨俣城跡へは橋までかかっている。
日本人の心を打つ素材が溢れている墨俣一夜城、それは岐阜県屈指の桜名所になるはずだ。
河岸に咲く菜の花の黄色を入れる工夫もできるし、天気の良い日なら青空がアクセントになる。
でも僕の心の中の歴史の虫がうずき出した。
なんて一夜城なのに、こんな立派な城風建築物なんだよ!正式名称は大垣市墨俣歴史資料館っていうらしいな。
こんな大きな川沿いだ、往時は水害が半端なかっただろうから、桜を愛でる余裕などありはしないはず。
そもそも本当は羽柴秀吉は、新しく築城したのでもなく、元々あった小さな砦を補修しただけのはず。
現実的には1夜でできるお城なんてありえないのに、つまり秀吉による喧伝活動に騙されているだけのはずなのに。
さては見事な物語の作り方かな、墨俣一夜城そして桜の名所を創り上げた秀吉はヒーローに。
長良川沿いの土手に続く23号線(清流サルスベリ街道)を南下していると、ここにも桜並木が尋常ではない規模感と美しさで僕を迎えてくれた。
墨俣一夜城に共感した日本人は、それをさらに美しくするために桜トンネルを植え、一夜城(プレハブ)のはずが立派な鉄筋コンクリート建築物にする。
羽柴秀吉の術にはまっている、でもそれが美しく魅力的なものを生んでいるから、墨俣一夜城は悪くないどころか、美濃国中から愛される桜名所なのだろう。
2022年1月16日
冬の墨俣一夜城を再訪、桜は無いけど、空いている墨俣砦(実態は急造の砦レベルだったらしい)もいいね。
瓢箪を前ボケに、太閤出世橋は無人で、模擬城と青空。
赤い橋はタイムトリップの証、この三角州は確かに交通要所だっただろう。
墨俣城の向こうには、冠雪の伊吹山、仕事したのは夏でよかったね、藤吉郎。
こんな立派な城を2-3日で作れたのだと勘違いしそう。
砦クラスでも命懸けの突貫工事だったのだろう、その覚悟にリスペクトを送ろう。
2009年撮影 薄墨桜の写真
岐阜に桜の名所は数あれど、薄墨桜は日本三大桜だとか。
前日に苗代桜という夜桜名所に行ったのに、桜のかき入れ時だから薄墨桜へ。
車は渋滞らしいから、大垣駅からレールバスという一両編成の電車で1時間。
深い田舎の里、駅から15分ほど歩いて、薄墨桜へと向かいます。
やはり車は2時間待ちの大渋滞だった様子。
何しろ桜満開・日曜日・まぁまぁの晴天と、3条件が重なっているからね。
薄墨桜は呆気なく現れてくれた。
薄墨公園へと上がっていくと、かなり大きな一本の木が立ち尽くしていた。
あれか、日本三大桜のひとつ・岐阜の桜名所、薄墨桜。
近寄っていくとびっくり。なんだ、この一本の桜の木の大きさは。
他のどの桜にはあり得ないぐらいの巨木、そして、桜の花びらの量は多い。
色は薄く、儚い色合い、支え木に頼っている幹のイメージと重なって、弱々しい印象。
でも一本でどーんと立ちつくす薄墨桜には、何というか、迫力を感じた。
裏から見ると、支え木の多さに改めてびっくり。
壊れそうな美しさ、それでいて芯があり、粘り強く咲き続けてくれそう。
多くの人たちが、一本の桜に逢うため、丸一日かけてここへ。
岐阜の桜名所・薄墨桜、紛れもなく一本の美人、末永く咲き続けて欲しい。