高根城とは知らぬ山城だった。
遠州の北、信州の国境にある小さなお城、普段ならわざわざ訪れるべき歴史もないのだが、
この高根城では戦国時代の山城よろしく城の施設が見事に復元されていると聞く。
だったら是非見てみたい、当時の雰囲気を感じることができるのだろうか。
浜松市内から北上すること1時間近く、なかなかの辺境の地「奥山郷」にある高根城。
遠い山の遠山郷、そのさらに奥にあるという意味の奥山郷だとしたら、納得のネーミング。
駐車場から山歩きして高根城の大手門が見えた時、僕は感動を覚えた。
木材を使い、手作りされた様、都市にある現代の平城とは似ても似つかぬ感じ。
なるほど、当時の雰囲気の再現とはこう言うものか。
秋葉街道を見下ろす位置、標高420mの山頂にある高根城、まさに遠江国と信濃国の往来の見張り役。
↑が大手門、人力で作られた感がある素朴なもの、木材の色合いしかない。
土壁の色も自然色、狭間が四角なのは弓矢専用で良い。
山城に高価な鉄砲が数あったわけもなく、◯や△の形状の鉄砲狭間が再現されていたら嘘くさいもの。
望遠レンズで撮ると背景の山が美しい、高根城は山城であって平城でも平山城でもない。
秋葉街道と水窪川を挟んだ対面の山肌には、こうした集落が見える。
現代だから土地が切り拓けたのかな、きっと当時は何もない山の斜面だったのでしょう。
その対岸斜面のアップ写真、よくぞ土地を切り拓いたものよ。
この高根城を有名にしているのは、空堀の見事さ。
二重の堀切、これの再現具合というか保存具合がとびきり上等なのだ。
尾根から攻め上がったら、写真ではどうしても分かりにくいが、
4-5mは下がって↓ そして上がって↑ また下り↓ そして上がる↑、4回も上がり下がりの動作をしている間に、
向こうの曲輪から矢を浴びせられ落命、という筋書きが見えている。
守りは険しいとはいえ、何倍もの兵差で攻められたら落城するだろうね、高根城。
だって木と土と人力の城なのだもの、それは限りがある。
元は今川側の高根城だが、武田信玄によって攻められては武田側についた。
そして大規模な改修された高根城、長篠の戦い以降に武田軍が放棄して、廃城になった。
遠くから望遠レンズで撮った高根城、山頂に突然の人工物。
冬の風の冷たさは想像に難くない。
中世戦国時代の山城をリアルに再現した高根城という個性は大事にしたいな。
二俣城は遠州の交通要地、武田勝頼と徳川家康の争いが激しかったところ。
信濃の山から遠江の平地へ出る、天竜川と二俣川の合流点、東海道のやや北と、人と人が交わるところ。
そんな二俣城も今は石垣と天守台を残すのみ、本丸は平な公園のように。
徳川信康を介錯できなかった服部半蔵の伝説、本当かどうかはさておき。
天守台から望遠レンズで撮った天竜川、その水の色は素晴らしく。
10年も前には天守台の上に、再現天守閣があったそうだ、今は石垣だけで。
本丸の虎口、ここに門があったらそれはなかなか破れなかったことが伝わってくる作り。
北曲輪に建てられた神社、日清戦争/日露戦争で亡くなった地元の方を祀るという、今でも地元に重要な二俣城。
近くの清瀧寺には井戸櫓が再現してある、堅城である二俣城を攻めあぐねた武田勝頼は、
この井戸櫓で天竜川から水確保しているのを見て、櫓を壊し、水補給路を断ち、二俣城を落城させた。
清瀧寺は本田宗一郎氏ゆかりのお寺、小学生の時にここでお弁当を食べたとか。
信康公の廟がある、悲劇すぎて近寄れない。
長男を殺せと命じた徳川家康の心中察するに余る。
二俣城の隣の山には、鳥羽山城という付城があった。
何が特別かって、この大手道の横幅の広さよ、それは鳥羽山城の格式を表す。
二俣城が軍用のお城ならば、鳥羽山城は迎賓のためのお城というか館、そうして対になった二つのお城。
天竜川の春のはじまりの頃、まだ早いがお花が咲いていた。
深く鮮やかな水の色が天竜川、どこか花の色も特別ね。
この川沿いを歩いて信濃から武田軍がやってきた、二俣城へ鳥羽山城へ。
高根城も二俣城も、武田家と徳川家の争いの痕ね、本来平和なはずの山間部で。