――今は昔、みんな消えてしまえばいい。
良人は過去を否定するために旅に出た。
昔のことなんて忘れてしまいたい。なにもかも、記憶から消してしまいたい。
なるべく人のいないところがいい。思い切り車を飛ばしたい。
それなら北海道だろう。あそこは道がまっすぐだ。
それも田舎にしよう。どうせなら最果ての土地にしてやろう。
地図を広げてみたらいい場所があった。知床半島。ここなら誰もいないだろう。
空港に着いたらレンタカーを借りた。
パトカーがウロチョロしているが、アクセルを踏んでスピードを出す。
あんな猿真似や狐顔とは縁を切れて清々していた。
彼女と別れてしまったことは今更ながら致命的だったと知った。
それで良人は全てを失ってしまった。
仕事を辞め、彼女との生活のリズムを無くしたら、何もかもが消え去ってしまった。
気が滅入っていた。だから旅に出た。
飛ばせ飛ばせ。こんな退屈な道はない。せめてカーブぐらい作っておいてくれ。
もっともっとスピードを出せと道路が仕組んでいるかのようだ。
意味もなく、行く当てもないドライブがしたかった。
スピードが欲しかった。広い農道をどこに行くのでもなく良人は走り続けた。
日暮れが近付いてきたので、そろそろ眠る場所に向かう。
一日中爆走したからいくらかでも気が晴れた。
ウトロに向かう道を走っていると、
ふと川沿いに沢山の車や観光バスが停まっているのが見えた。
前のトレーナーがノロノロ運転で眠くなっていたので丁度いい。
目覚ましがてら、車を停めて何があるのか覗きに行った。
観光客が見ていたのは鮭(サケ)だった。
コンクリートで整備された川に、何十匹もの鮭が泳いでいるのが見える。
へぇ。鮭ってこういう川にも登るんだ。
初めて見る光景だったが、良人には興味がなかった。
小さいことだよ。どうでもいいこと。
それよりも周りにどんどん観光客が群がってくるから気分が悪くなる。
今は誰もいないところに行きたいんだ。無視して車を走らせた。
ウトロのキャンプ場に入った。ホテルは取らなかった。
誰とも話がしたくない。ホテルじゃない、何もないところで眠りたい。
テントはないから、車の中で毛布だけかぶって眠った。
丁度東京では猛暑が一段落したところだ。
こっちではもう寒くなっているだろうと覚悟してきたが、
朝晩の冷え込みは予想以上だった。
そのまま昼まで寝ていた。ストレスのせいだろう、最近ずっと寝不足が続いていた。
目は覚めているのだ。でも、起きる気になれない。
色々なことをぼんやりと思い出しながら、空虚な眠りを貪っていた。
――あいつらがおかしいんだ。俺は間違ってない。
せいぜい自分たちだけが出世して、会社を喰いモノにしてればいい。
俺の苦労を踏み台にして、どこまでも上がってゆけ。
上役の猿真似ばかりして上にこびやがる同期のあいつ。
狐のような顔で、俺をラインから蹴落とした上司。
俺を騙し、俺が築き上げた地道な成果を横取りして、
猿真似は俺より先に出世していった。
俺の仕事の欠片さえマネージメントできなかったくせに、
どうしてあの狐顔が俺の仕事の功績で昇進できるんだ。
許せない不満があり、俺は会社を辞めた。
知床の一番奥まで行こう。
でも、知床五湖まで進むと観光客が多いせいか
駐車場が満車になっていてどうも冷めてしまった。
道を変えて最奥の道を行く。
途中の道は豪快だったが、舗装されていないので
スピードが出せなくてイライラした。
最後まで行くと珍しい天然温泉があるようだったが、
別に観光目的でもないし興味がない。
そのまま引き返すことにした。
帰りの道は霧がきつくなっていた。
深い霧にはどうしてこう現実感がないのだ。
釣られて考え事をしていたら、道の真ん中に一頭の鹿が立っていた。
思わず急ブレーキを踏んで止まる。鹿は良人の方を向いたままで動かない。
目が合った。その無邪気な目。優しそうな毛並み。
――あぁ。そんな目で俺を見ないでくれ。
その鹿の目の無邪気さに、良人は彼女の姿を重ねずにいられなかった。
俺のことを愛してくれていたのに、彼女のささやかな身勝手が許せず
一方的に別れを告げてしまった。
その短気を俺は今、後悔している。
別れてから後悔の念が沸々と湧いてくる。
それは丁度、原生林から溢れてくるこの霧のように。
悔やんでも悔やみ切れない。
もう戻らない時間。
二人だけのベッドの中で俺のことを見つめてくれたあの純粋な目。
柔らかな髪。あれさえあれば本物じゃないか。
何がなくても本物じゃないか。
自分を犠牲にしたところで本当は何の問題があったというのだ。
――もう戻らない。
だが、いずれ俺はあの場所から卒業しないといけない。
耐え切れず、良人の手が動いた。
クラクションに驚いた鹿は、それでもゆっくりと道路脇の森に消えていった。
もっと静かな場所に行きたかった。
そういえばウトロからの途中に平和そうな川があったのを憶えていたのでそこに行ってみることにした。
幌別川のパーキングに停めて川沿いを歩く。
きれいな川。ここはコンクリートで固められていない天然の姿のまま。
無数の鮭の魚影があった。
しばらく歩くと車の騒音もなくなってすっかり森の静けさに包まれた。
西日が強くなったのでサングランスをかけると、不思議と川の中がよく見えることに気が付いた。
凄い数だ。どれも立派な身体つきの鮭が上流を目指して泳いでいる。
何がしたいのだろう。産卵なんてどこでもいいじゃないか。
ふと、人の声が近付いてきた。
地元の人が知り合いを連れてきたらしく、良人といくらも離れていない場所で解説を始めた。
声が大きい。自然とそれを聞かされる形になった。
――秋アジは偉いのよ。
ほら、あんなに尾びれがボロボロになるまで産卵床を作るでしょう。
メスは自分が産んだ産卵床から死ぬまで離れないのよ。
しかも川に上がってきたら飲まず食わずなんだから。
えっ?川の水を飲んでるって?
そうね、水ぐらいは飲んでるわね、おっほっほ。
秋アジ?鮭って鯵の仲間だっけ?良人は首をかしげた。
そのまま後ろも振り向かず川辺に座っていると次第に声は遠くに去っていった。
黄昏時までぼーっと鮭を見ていたら、パンパンと手を叩く音がした。
熊でも出たかと思ってびっくりして後ろを振り向くと、現れたのはまだ若い男性だった。
――どうしました?こんなところで。
――いえ、別に何も。
――そうですか。
この時季、朝晩は熊の出没率が高くなりますから注意してくださいね。
私は自然解説員です。
この下流に鮭を喰い散らかした跡があったのでちょっと見回りに来ましたが、こっちは大丈夫のようです。
いずれにしても、音を出して存在を知らせるのが有効です。
秋アジを見ていらっしゃる?
――まぁ、そうですね。あの、その秋アジって鮭のことですよね?
鯵の仲間でしたっけ、鮭って。
――いえいえ、違うんですよ。
秋の鯵じゃなくて、秋の味覚で、秋味です。
それと、あれは鮭じゃないんですよ。カラフトマスです。
サケ科で一番繁栄している魚ですね。
秋味――鮭のことですが、も遡上しますが、数は少ない。
――一番繁栄している?
――そうです。魚にも繁栄している種類と、そうではない種類がいるんですよ。
まぁ、一概にそうとも言い切れない部分もありますがね。
魚に興味あります?
――それなりにありますね。
カラフトマスでしたっけ、こんなにいるからびっくりしていたところです。
思わず会話してしまった。
別に誰とも話なんてしたくなかったのに。
――そうですか。このカラフトマスは素晴らしい魚です。
危険を冒してまで川から海に出て、オホーツク海のみならず
遥か遠くのベーリング海やアラスカ沖から豊饒な栄養を得て、
そしてまたここ知床に戻ってくるのです。
なにせ栄養が違うから個体数も卵の量も他の川魚の比ではない。
へぇ。それは知らなかった。
――子孫繁栄のために身を呈する姿はいつ見ても涙が出そうになります。
こうして毎年カラフトマスは自分の生まれた川に戻ってくる。
そして自分たちの子孫をここに残すと同時に、自分たちの身体を栄養として森に還すのです。
――森に還す?カラフトマスが?
――そうです。ヒグマやシマフクロウなどの動物たちがカラフトマスを食べます。
川を遡上して力尽きたカラフトマスの死骸は分解されて周辺の森の栄養になります。
カラフトマスの遡上がこの知床の自然の生態系に一役買っていることは間違いありません。
偉いな。そんな凄い奴とは思わなかった。
――自分の身体が枯れそうになるまで産卵を続けるカラフトマス。
オス同士、メス同士で切磋琢磨してパートナーを探し求め、
少しでもより強い子孫を残そうとする産卵の営み。
人間にはない厳しさでしょう。
それが彼らカラフトマスの繁栄を支えている。
全てのベクトルが自分個人のためではなく、未来のために向かっています。
この自己犠牲の精神は素晴らしい。
なるほど。さすがは地元の自然観察員だから話が分かりやすい。
――ありがとうございます、何か良く分かった気がします。
カラフトマスの生き様を聞いて、思わず良人は自分のことを振り返っていた。
きっと俺は猿真似や狐顔のことが羨ましかっただけだ。
汚いやり方だと罵っても、最終的に結果を掴む彼らが妬ましかっただけなのだ。
それに比べて自分は何もできなかった。
過程がどうであれ、結果が残せない貧しい男。
たった一人の彼女すらも最後まで愛してあげられなかった。
何もできない自分が嫌いで逃避行に出たのが他ならぬ俺だ。
――私はそこの自然管理事務所の東尾と言いますが、あなたは観光で?どちらから?
――はい、東京から来た宇佐美ラヒトです。
――ラヒトさん?変わったお名前でいらっしゃる。
――良い人と書いてラヒトと読みます。当て字ですけどね。
そう答えると彼はちょっと笑った。
――失礼ですが、ウサミさんですし、ラヒトさんで、まさにウサギ・ラビットですね。
そうそう、ウサギといえば私は良い話を知っています。
ほら、丁度月も出てきましたしね。このカラフトマスに共通する話だと思っています。
優しい緑色の上空に月が出ていた。もう暗くなっていたから余計に映える。
――あの月です。月にはウサギがいると言われていますよね。
でもどうしてウサギが月にいるのでしょうか。不思議じゃありませんか?
物語のような口調で男は語り始めた。
――その昔、共同生活で修行をしていたウサギとキツネとサルの前に、
衰弱し切った老人が現れて食事を乞いました。
キツネやサルは狩りができるのでちゃんと老人の前に食事を運ぶことができた。
でも、ウサギはそうはいかない。
何も獲れないし、逆に獣から狙われるだけです。
そこでウサギはキツネとサルに焚き木の用意をお願いした。
静かな川にカラフトマスが水を弾く音が鳴る。
――キツネもサルもウサギのことを糾弾しました。
どうしてお前は役に立とうとしないのかと。
するとウサギはこう言いました。
僕には食べ物を持ってくる能力がないんだ、どうか僕の身体を焼いて老人に与えてください、と。
そうしてウサギは焚き木の中に身を投じたのです。
それを見た老人、実は老人に化けた神様が修行中の彼らの本心を試している姿だったのですが、
ウサギの悲痛な行動に涙を流してその死を悼み、ウサギの姿を月に映したのです。
全ての生き物にこのウサギの自己犠牲の精神を伝えるために。
だから今もこうして見上げると、焼かれて煙にくすぶられたウサギの姿が月に見えるのです。
おしまい、おしまい。
――それって、アイヌの伝説とかですか?
――いいえ、違います。今昔物語のお話です。
知床ともアイヌとも関係ないですね。
――ほう。今昔物語。
――月に刻まれたそういう物語があります。
あなたはどうやらそのウサギにかなり近いところで生まれた人なんですから、
何か凄く大きなことができそうですね。
――ははは。なるほど。
――カラフトマスもウサギも、無力なりに頑張って成果を出しているんですよ。
私たちはそれを忘れてはいけないような気がします。
アイヌの人たちがこの知床の大自然をカムイ――『神』、と呼んだのが頷けますよね。
カムイという言葉には、敬愛すべき偉大なもの、人の力が遠く及ばないもの、という意味が強いようです。
自然のステージの上では、人間は無力ですからね。
それじゃぁ、私は行きます。知床を楽しんでください。
暗くなりましたから熊には気をつけて。
音を出して歩いてください。
そう言うと彼は去って行った。
パンパンという熊除けの音を再生の森に響かせながら。
良人はその物語に圧倒されていた。
あぁ、カラフトマスや月のウサギのしたことに較べれば俺はなんだ。
自己犠牲すら厭わなかったからこそ永遠に生き延びる彼らの命。
俺の悩んでいた問題はあまりに小さかった。
今まで小さかったものが、大きく見えてきた。
大きかったものが、本当は小さかったと知った。
この川に触れたい。
ふと衝動に駆られ、良人は川辺に降りてみる。
そろそろと手を伸ばすと、指先に感じる冷たい温もり、命の流れ。
思わず瞳を閉じて天を仰げば良人の暗い顔を照らすあの月が。
――清流に月が昇る。
知床の深い闇が穏やかに一日の幕を引いてゆく。
何もかも飲み込んだ後の、大きくも美しい自然が溢れていた。
この出逢いで膝を折って、俺はもう一度再生できるかな。
カラフトマスが恵みの森に還って行くように、この偉大なカムイの川で。
今夜も昇ってきたウサギの月のように、自分を犠牲にしてまで。
その不屈の強い心で。