8月23日(金)
昨夜は気の早いゆめを見ていた。長旅の前だから、と久しぶりに充分な睡眠を取ったら、ゆめの中ではもう既に冒険旅行に出ている自分自身がいた。目が覚めてそれに気付いた時は笑えたね。出発の朝に見る冒険旅行中の自分自身、か。妙に暗示的な出来事だが、それが何なのかは分からない。まぁ、楽しいゆめだと思うことにした。
何故か踏ん切りがつかない。このままいつも通りに眠っていたい、とベッドの中で思っていたことを覚えている。こういうイベントがある朝には、目が覚めるなり頭が冴え渡って仕方がないのが僕なのに、今朝ばかりはためらいがなかなか頭から離れなかった。
やっとのことで起き上がっても、出発の用意が妙に事務的だ。冒険旅行を前にして笑顔がこぼれるだとか、楽しみでわくわくするだとか、不思議とそんなことがない。自分自身で望んだ、楽しみなはずの冒険旅行なのに。しかし、今更頭が甘えようとも、僕の身体が許さない。弱気な頭を引きずるように、頼もしい身体が先に動いてくれる。
旅行に出る前は部屋を念入りに綺麗にしておくもの。万が一、旅行中に事故に遭って死んでしまったら、残された部屋が綺麗かどうかでその人の人間性が判断される。僕が子供の時、父親は旅行の朝に必ずそう言った。こんな時に事故に遭って死ぬことを考えるだなんて冗談でもないが、今では何となく筋が通っている話だと思えるようになった。部屋を綺麗に整え、朝の9時30分には大きな荷物を背負って部屋の灯りを消した。
この時間帯、ホストファザーは外出しているし、ホストマザーはまだ眠っている。見送ってくれる人はいないが、一向に構わない。温かく見送られるだなんて、今日はそういう日ではない。昨日学校から帰る時に友人たちと交わしたさり気ない、しかしお互いの夏休みの健闘を願う気持ちに溢れた別れの言葉だけで僕には充分だ。
家を出て最初に乗るバスは学校に行く時と同じで、だからこそこれから約1ヶ月もの間、冒険旅行を一人で――いや、「一人で」という表現はおかしい。だって、この冒険のテーマはALL BY MYSELFだからね。
ALL BY MYSELF――この言葉の本来の意味合いは、自らは望んでいないがどうしても避けられない孤独、というものだ。一人ではいたくないけれども、どうしてなのかひとりぼっちになってしまった、という哀しい意味だったのだが、僕は今回に限り勝手に違う意味を持たせた。誇らしい独力、自分自身で全てをこなす能力がある人間が自分自身だけで行動する時に使う、誇り高い言葉だと、そう決め付けた。「一人で」という日本語に訳するのではなく、「自分自身で」というフレーズの方がぴったりくる。「一人で旅行」という日本語にはさみしさしかない。この冒険旅行はあくまで自分自身の能力だけでやり遂げる冒険旅行、つまりTRAVEL ALL BY MYSELFなのだ!
(もう一度繰り返してみましょう)
家から出て最初に乗るバスは学校に行く時と同じで、だからこそこれから約1ヶ月もの間、冒険旅行を一人で自分自身で出るという実感が全くなかった。
僕の格好はよく目立つ。REIというシアトルのアウトドア用品メーカー製の大きなバックパックを背負っていて、それには一人用テントと寝袋やビニールシートがくっつけてあり、痩せた僕の身体よりも余程横幅を取っている。昨夜、最後のパッキングをしたら予想以上の荷物になってしまい、大型のバックパックもはちきれんばかりに膨らんだ。左肩には溢れた荷物を詰め込んだデイパックもくくりつけてある。バスに乗るとみんながじろじろと僕を見るのがよく分かった。しかし、僕は涼しい顔をして窓の外を眺め、こう言わんばかりの態度だ。――普通だよ!
家からシアトルのダウンタウンまでバスを3回乗り継いだが、さすがにこの荷物の固まりはダウンタウンまでの混み合ったバスの中ではみなさんの邪魔となってしまいました。悪いね、みなさん!でも、許してくれよ!なにせ僕は生涯一度きりしかない大冒険への途中だから!!
くすぐったい緊張が少しずつ近付いてくる。いよいよ冒険の実感が湧き始めてきた。いつもと違いヘッドフォンで音楽も聴かずにバスに乗っていると、考えごとをするくらいしかない。
これから僕の前に現れるだろう冒険を想う。想えば益々緊張してくる。本当に、大丈夫なのだろうか。今の僕の力でこの1ヶ月を乗り切ることができるのだろうか。
丸々1ヶ月間用意された自由時間。贅沢なぐらいに侍らされた、数々の冒険目的地。季節・己の体力・旅費と、そのどれをとっても不安な所はない。間違いなく、目の前の素材は最高のものだ。あとは、自分がどう料理するかで素材を活かすか殺すかが決まる。
――今までは知らなかった自分自身の本来の行動力との出逢い!めくるめくサーカスのような予想外のドラマの連続!大自然の美しいものから命を注がれるだろう僕の真っ白な感性!――何という喜びだろう!可能性に満ち溢れた道が今僕の前に開かれているのだ!
この冒険旅行は自分自身のためだけのものだ。繰り返すが、この冒険旅行が終わった時に新しい自分自身が目覚めていることを願っている。
入り交じり、溢れそうな不安と期待。これは出発の朝だ。
──この旅は過去の再確認ではない
新しい自分の流れのためだ──
この冒険旅行に対する僕の思い入れは半端なものではない。その強い意思は、昨夜眠りに就く前にこんな言葉になった。僕は今、長い人生でも二度とはないような貴重な時間を迎えようとしている。この絶好の機会で、己の全てを新しく変えるのだ。変えたい、というような淡い期待ではない。これは責任だ。これはノルマだ。この冒険旅行を通して己の全てを新しく変えなくてはならない。
今までの延長線上でこの冒険を考えてはいけない。新しい自分で取り組めば、きっと僕は本当にここで変わることができる。変わるべきなのだ、変わらなくてならないのだ、ここで変わらないのであれば、未来がなくなってしまう。
これまでに何度か一人旅を経験した。今思えば、どれもまぁ下手な旅の類に入る。親に旅費を投資してもらったくせに、低レベルなまま終わらせてしまった初めての一人旅。あれは17歳の夏のことだった。その後も短い一人旅なら何度も経験した。どれも傑作とは呼べるようなものではないと思っている。
今回のように1ヶ月もの長いスケジュールで、しかも言葉や土地に親しみのない異国での一人旅はもちろん未体験のことだ。こういう状況だからこそ、本物の自分自身を引き出す絶好の機会になる。僕にはきっと未知の可能性がある。どこかにはあるのだから、あとはそれを引き出すだけなのだ。僕は今、自分自身を対象に大きな賭けが行われていることを知っている。賭けをしている人も分かる。他でもない、今ここにいる自分自身だ。
ここで成功すれば、今後どんな問題に当たっても乗り越えられるだけの器量を手に入れることができるに違いない。この大勝負に乗らない程僕は馬鹿ではない。この賭けに身を投じ、上手く大きな飛躍を遂げ、今の僕に足りないものをまとめて揃えてしまおう。ここで成功すれば、今まで中途半端なままで終わらせてしまった過去の一人旅も無駄ではなかったと肯定することさえできるのだ。
人生には何回かの大きな岐路があるという。僕はその最初のものの入口に、今足を向けているのだ。あぁ、やっぱりこの得難いチャンスを見逃す訳にはいかない!我が才能よ、どうかここで開花してくれ!
今年の4月から僕は日本からアメリカのワシントン州シアトル郊外にあるエドモンズという町にホームステイしている。来年2月中旬の帰国予定で、日本の学校と提携しているローカルの大学に通っている。主に英語の勉強をしているが、元々が旅行の専門学校だから旅行関係の授業も受けている。学校は今日8月23日から来月の22日まで夏期休暇に入った。僕はその休暇の初日から最終日までをフルに使って冒険旅行に出ることにしたのだ。
エドモンズからバスを乗り継いでシアトルのダウンタウンへ。Stewart Streetで降りてバスディーポへと向かう。あらかじめ調べておいた12時発のシカゴ行き長距離バスに乗るつもりだ。
バスディーポに入ると、カウンターにかなりの人が並んでいるのが見える。8月の終わりはまだまだ旅行のピークシーズンなのだろう。これから1ヶ月間だから一番のピークは外れていると思うが、とりあえずこれからしばらくは人込みにも、そして暑さにも我慢しなくてはいけないね。
11時ぐらいになっていたのか、僕はチェックインカウンターの前に立っていた。新品のアメリパスを係員に見せ、緊張気味に行き先を「リビングストン」と告げる。僕の冒険旅行はいよいよ抜き差しのならない所まで迫っていた。
アメリパスとはアメリカの長距離バス会社グレイハウンド社が出している乗り放題の周遊券のことだ。ガイドブックなどで情報は得ていたので、この冒険旅行の仮計画を立てていた6月の段階で日本の両親に手紙を送り、アメリパスの詳細を調べてくれるようお願いしたら、(いい意味で)気の早い二人は実物を購入して送ってきた。アメリパスは外国人がアメリカ国内を旅行する際の利便を図る目的で設けられた特別なパスのため、アメリカ国外で買うのがルールだ。それは分かっているし、そのうちに買ってもらうようお願いするつもりではいたが、まさかいきなり実物を送り付けてくるとはね!そんな意外なこともあり、実は早くも6月の時点でこの計画は逃げ道を塞がれていたのだ。
アメリパスには幾つか種類があるが、僕が持っているのは有効期間30日間のもので、料金は315ドル。それが高い買い物なのか、安い買い物なのかは冒険の終わりまでに答えを出せると思う。
真新しいパスに、グレイハウンドの係員が使用開始日と有効期限を書き込んだ。記念すべき瞬間だ。でも、今日の僕からは素直な喜びが出てこない。興奮や喜びよりも、厳かな気分の方が高まってばかりだ。まぁ、不安を隠せない素人には、興奮よりも緊張の方が似合うというものだ。
ガイドブックには、バスディーポのカウンターで荷物を預けると紛失の可能性が高いという体験談が寄せられていた。素人の僕は、面倒でも必ず自分自身でバスの横まで荷物を持って行き、目の前で自分が乗るバスに積んでもらうのを確認しようと決めていた。大切な荷物だ、他の人に任せ切りという訳にはいかない。この荷物には、これからの1ヶ月の全てが詰まっているも同然なのだ。そんな唯一無二の戦友を、自分自身で見届けない訳にはいかない。
出発までまだ時間があったので、バスディーポに隣接しているバーガーキングで昼食を取ることにした。ハンバーガーを腹に貯え、アイスティーの大半を携帯用の水筒に貯えて長時間のバス車内用にする。さぁ、これで出発の用意は整った。あとは実際に進んでみて、僕がその時にどう対処するかでやっていけばいい。
シアトル始発シカゴ行きのバスは混んでいた。乗車ゲートまで行くと、既に人だかりができている。なんだ、10分前行動では全然遅過ぎるようだぞ。
フロントガラスに掲げられた、バスの最終目的地を表す「CHICAGO」の文字にはアメリカという国のサイズを感じた。何しろ、シアトルからシカゴまでバスで行くとなるとなればざっと50時間はかかる。飛行機でも4時間かかる距離なのだ。それを目的地・CHICAGOの一言で片付けてしまうとは!大雑把過ぎると呆れてよいのか、はたまたこれを凄いと取るべきなのか。まぁ、このくらいのことで驚いていては後が続かないと思うことにしてそのCとかHとかIとかいうアルファベットから目を逸らせた。
バスの横腹までバックパックを持って行き、係員に目の前で積み込んでもらう。目的地の欄にリビングストンと書かれた半券が荷物にくくりつけられ、残りの半券が僕の手元に残った。
後ろは恐~い人たちが好んで座る席だとガイドブックに忠告があったで、まずは教えに従い、なるべく前の席を確保した。最初は無難に様子を見ることにしよう。長時間の車内での楽しみは、窓の外の景色だけになるだろうから座るのは当然窓側だ。
僕の勝手な先入観では、バスを使う人なんてそう多くはいないだろうと思っていたが、とんでもない勘違いだった。1台目は満員になり、当然のように2台目が用意された。みんなどこに行くのだろう。観光旅行なんていう雰囲気を漂わせている人はいないし、ビジネスという面がまえでもないし。僕にはみんなの目的がまるで分からないが、とにかく沢山の人たちがバスに乗り込んだ。
隣には30代の痩身の女性が座ってきた。顔に性格の穏やかさと人生の疲れが同居している。穏やかなのか、疲れているのか、本当はどちらなのかなかなか判断がつかない。でも、まずは一安心だ。少なくとも僕に危害を加えそうな種の人間には見えないし、ありがたいことに肥満体型でもないので、僕のスペースにはみ出してくることもない。不安だらけの僕は護身用として(逆にこちらが危険になる可能性があるが)ズボンにポケットナイフを隠しているくせに、今は自分以外の全ての人間が加害者に見えてしまう。まだまだ僕が駆け出し冒険家だからか。
これからこのバスでワシントン州とアイダホ州を抜けて、モンタナ州のリビングストンという小さな町まで行く。リビングストンで別のバスを乗り換えて目指すは一路、イエローストーン国立公園だ。1872年に世界初の国立公園として認定されたという歴史を持つ有名な国立公園で、様々な美しい自然の顔を持つといわれる。そこが一番最初の目的地だ。
ここで、ひとつ問題がある。実は、リビングストンからのイエローストーンへの接続のバスが何時に出るのか分かっていないのだ。明日の未明にリビングストンに着くとして、リビングストンで何時間待てばいいのか分からない。まぁ、最低でも明日の今頃にはイエローストーンに着いているだろうと高を括っている。何とかなる、という適当な考え方ではなく、自分自身で何とかしてみせろ、という己に対する挑戦の意味がある。
運転手が乗り込む。乗り口の扉が閉まる。トランシーバーを使った2台目のバスとの打ち合わせも終わったようだ。予定出発時間から5分。僕の脳味噌は、日本にいる時のような考え方を持ち出して来て「5分も遅れているの?」と騒ぎ始めようとするが、ここでの5分は遅れという次元ではない。
アメリカに来てすぐに好きになったことがある。人生はなんでもあり、という考え方だ。大きな問題にならない限りは、特にお咎めなしだという雰囲気が素敵だ。何事にも動じない肝っ魂の太さと、柔軟性に富んだ配慮の賜物だと思う。優れた所を誉めることは脇に追いやり、小さな失敗でも叱ることで伸ばそうとする日本的な教育ではなく、個人の優秀な所を誉めることで全体を伸ばそうとする教育方法にまず魅せられた。
個人個人は世界にたった一人しかいないユニークな存在であり、そんなユニークな人たちが集まった社会だから何があっても変じゃない、という雰囲気をここでは感じる。日本ではほとんどの人が中間的なポジションにいて、少数の人が奇抜であり、社会は中間的な人が住みやすいようにできているのだと僕は思っていた。どちらが優れているかは、僕の乏しい経験では何とも言えないが、せっかく僕は今アメリカにいるのだからこの雰囲気にどっぷりと漬かり、頭をアメリカンに切り替え、何かをつかんでみよう。そうだ、僕はアメリカン。何でもOKだ。5分を遅れなどと考えてはいけない。
誰もが今は特別な気分でいるはず。間もなく各々の冒険旅行が始まろうとしているのだから。日本の長距離バスにも乗ったことがあるが、車内は至って静かなものだった。このグレイハウンドの車内はとても騒がしい。いや、それが騒音とは感じられずとても楽しそうに思えて、なんだか羨ましい。
花火があがっていた、出発のファンファーレが鳴っていた、僕の頭の中で。これから僕は未知のエリアに入る。新しい自分自身を見つけ出すための冒険旅行だ。僕は遂にスタートする。自分自身の力だけで生き残れ!新しい流れを自分自身で切り開け!
このバスが出てしまえば、僕は本当にたった一人で全てをこなさなくてはいけなくなる。保証と呼べるものは数えられるぐらいしかない。僕は間もなく、自分自身を冒険の谷底へと叩き落とす。僕は間もなく、自分自身に冒険の谷底へと叩き落とされる。あぁ、このバスが走り出したら、計画を重ねてきた冒険旅行がいよいよ本当に始まるのか。時は来た。いよいよ実行の時だ!
──バスが動く、僕の過去を置き去りに。この先にあるもの、一体それはどんなストーリーなのだろう。僕はこの31日間にどんな冒険をするのだろう。バスの行く先の、そのまた先に見ようとしているのは、今から築き上げる栄光。深海に潜んでいた、能力ある本来の自分自身の姿だ。この冒険旅行は決して過去の栄光のためではない。全ては今から、全てはこれからのこの身ひとつにかかっている。
バスが動く。僕は変わる。僕は心の中で冒険旅行の出発を、心から祝った。
12時05分──シアトル出発。
──教訓。始めが肝心だ。出発してから数時間を過ぎても隣の女性と一言も交わしていない。つい最初に話しそびれてしまった。長旅だし、どうも打ち解けないと座っていて落着かない。今更それに気が付いても、既に一番の時を逃している。失敗してしまったなぁ、今から自己紹介なんてしたらおかしいかなぁ、とか考えてみるけれども、どうもそんな気になれない。いや、本当は今からでも話し掛けた方が、後々で話し掛けるよりもずっとダメージは少ないはずなんだ。
最初から縮こまっているいつも通りの自分自身がいた。これか、僕はこれを変えるために冒険旅行に出るのか。長年の自分の性格とはいえ、これは斬新な冒険旅行なのだから、新しく、新しくいかなくては駄目だ。教訓をひとつ得た。――打破すべき醜い己の姿を確かに見た。
バスがシアトル市街を抜け、北アメリカ大陸を東西に横断するフリーウェイ・I-90に乗ると、辺りはのっぺりとした丘に低木が点々と並ぶ景色が続くようになった。それ以外は平らな牧草地で、地面にべたっ、と横たわっている。
刈り取られた牧草が大きな雪ダルマのひしゃげた形に丸められていて、幾つも積み重ねられてある。なんだかその光景を見ているとほのぼのするよ。だって、無邪気な雪ダルマたちがそこら辺に幾つも幾つも転がっているのだからね。一体どれだけの子供たちがその雪ダルマを作るために遊び疲れたのかという話だ。
道路ではその雪ダルマを荷台一杯に積んで走る怪物サイズのトラックともすれ違う。可愛い雪ダルマといかつい怪物トラックとの組み合わせ。成功したミスマッチングが僕の目を楽しませてくれる。
バスの中では赤ちゃんが泣き叫ぶ。誰かのいびきがやかましい。後ろの席ではいかにも欧米の若者たちがするような、陽気な騒ぎ方をしている。最前席ではおばあさんが神経質に手すりをしっかりと握り、決してフロントガラスから目を離そうとしない。──満員のグレイハウンドはそんな色々な人たちを乗せて、さっきから一向に変化のない牧草地帯を走り続けた。なんでもありのこのバスを取りまとめるドライバーだ、そこはなんとも状況に合っていて彼は縦にも横にもたっぷりと大型だ。見事に絵になっているし、実に頼もしい限りだ。
幾ら僕が自然の景色をこよなく愛する人間だとはいえ、さすがにこの金太郎飴の眺めには飽きてきた。バスの中の人間観察も1時間で飽きてしまった。窓の外をぼんやり眺めながらゆめ見るぐらいしかない訳だ。長距離バスでの移動の辛さがほんの少しだけ身近なものに感じられてきた。
──冒険はもうしばらくお預けのようです。せめての保証の時間にゆっくりと甘えておきましょう。リビングストンへ着いてしまったら最後、あとは自分自身で冒険を進めなくてはいけないのですから。そう思えば、窮屈なシートも愛しい恋人の腕の中に思えてきたりしませんか?
途中途中にバスストップと呼ばれる小休憩があった。日本でいうコンビニ、こちらでは個人経営の売店なのだが、そういう店の前でバスが止まって10分程度の休憩となる。喫煙家の方々がここぞとばかりに外に出て、煙を上げている。周りに何もない小さな村のような場所でも人は降り、新しい人が乗ってくる。それが僕には分からない。一体ここで何をする人たちなのだろうか。
でも、僕はすぐに自分自身に言い聞かせる。こんなのは車社会と狩猟民族のことを前提に考えれば、いちいち気にするべきことではないのだろう。それに人はどこにでもいる。人は来て、人は去るもの。人の出入りはいつでもどこでも当たり前のようにやってくるもの。自分の常識はこの冒険旅行の非常識、自分の非常識はこの冒険旅行での常識だと思おう。自分の狭量を戒めよう。
それにしてもバスストップは難しい。なにしろドライバーは出発する際にバスの中の人数を数える訳でもなく、ただ時間が来るといきなり出発してしまうのだ。これが僕にとっては恐怖だった。早口英語のアナウンスなんてちっとも聞き取れない。恐怖に駆られた僕は外に出る際、必ず出発時刻をドライバーに確認することにした。しかし確認したとはいえ、突然自分を置いたままバスが出てしまうのではないかと余計な心配をしてしまい、全然落ち着いて休むことができない。まだまだ僕は本当に初心者だね。
出発からたっぷり6時間も同じような景色で過ごすと、いい加減に飽きるという次元を通り越して諦めるという次元にたどり着くことを知った。ヒマだ、ヒマだっ、ヒマだぁ~!早く着けぇ~!同じ景色を6時間も楽しむなんて無理だっ!もしも、いつもの生活をしている僕にこの景色の一欠片でも見せようものなら大変な感動が間違いなしなのだが、今の僕の目にはもう既に連続用紙、あくびが出る。
――それは突然だった。遠くに蜃気楼が見えた。騙されてはいけないね。余りにインチキくさい景色だ、こんな場所にそれがあるはずがない。到底信じられないな、僕は簡単に騙されるような人間ではないよ。その蜃気楼の景色は、自分を都会だと主張しているのだ。
そんな馬鹿なことがあるか。そうだ、そんな馬鹿なことがあってたまるか。牧草地の真ん中に突然都会が現れるものか。他のみんなは騙せても、俺様は騙せんぞ、騙されてたまるものか!思わず僕は、その光景を受け入れることに全力で抵抗していた。
僕の反抗をこれみよがしに、ドライバーは「スポケンに着いたよ」というアナウンスと流した!ワシントン州最東部の街、スポケン。シアトルに次ぐワシントン州第2の都市であり、僕も名前は知っている。それでは、あれは幻ではないというのか。
――どうやら、これは目の前の景色を信じてもいいのらしい。僕を騙すために作られた幻ではないようなのだ。しかしまさかこんな牧草地帯の真ん中に街があるとはね。駆け出しの身の僕にはちょっと難し過ぎる問題だった。
この冒険中に起こる出来事にいちいち驚いていては身がもたない、とさっき誓ったばかりだろう?この先、僕の乏しい想像力はまだまだ笑われ続けるに違いない。もっとも、笑われる僕の常識こそが今回の冒険旅行というもののはずであるから、僕は大歓迎だ。そうだ、どんどん僕の無知を笑ってくれ!
スポケンのバスディーポは長距離列車アムトラックの駅と一緒になっていて、とても綺麗な建物だった。1時間のまとまった休憩となり、一旦全員がバスを降ろされる。もちろん僕は降りる際にドライバーに出発時間を再確認した。車内放送は本当に早口で聞き取りずらい。1時間では街に出る余裕もないので、この綺麗なディーポのベンチに腰を下ろして出発からこれまでの出来事を手帳に記録することにした。この冒険旅行であった出来事は毎日の日記としてひとつ残さず記録するつもりだ。今日を濃く過ごしても、また明日が濃い一日なのだから、日をはさんでしまえば忘れてしまうこともある。時間のある内にメモ、メモ。今みたいな時こそメモ、メモ。一時たりとも、この貴重な冒険のことを記録し損なっては生涯の大損だ。
スポケンから新たに乗ってくる人たちよりも、それ以前に乗っていた人たちが優先して乗車できるルールになっていた。考えれば当然であるはずのそういったルールも、僕にはただ珍しくて、好奇心を大いにかき立てられる。ドライバーが入口の前で逐一チケットを確認し、スポケンからの人の列を横で待たせ、それ以前からの人を先に中に入れている。僕もちょっとした優越感に浸りながら、スポケンからの人たちを横目に堂々とバスに乗り込み、服を置いてキープしていたさっきの席に座る。
スポケンを出る頃には、黄昏時の美しい太陽が僕を楽しませてくれた。もう牧草地に見るものはないが、彼方の大地に沈んでゆく太陽の呼吸を追っているだけで、ぼーっと考え事に没頭できた。音なく消えてゆく太陽の後ろ姿を見続けていると、僕は心の落ち着きを取り戻す。さっきまで自己防衛本能に染まっていた瞳が、優しく変わるのが分かる。すると、今の正直な心が鮮明に浮かび上がってくるではないか。
あぁ、まだ冒険旅行を始めているのだと実感できていない僕は、不安で不安で仕方がないのだ。早く実績を作って安心してしまいたい、それが僕の本心だ。気は焦ってばかりで、しかし先に進むのは恐くもあり、心に矛盾の嵐が吹き荒れている。行ったり来たりで、埒も無いこの無様な心よ。きっと今夜だけ、こんな夜も今日だけだ。
アイダホ州に入る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。暗くなったら、もう眠るだけしかない。どこを走っているのか皆目見当がつかないし、読書灯などという気の利いたサービスはない。さぁ、僕自身の力で何もできない時間帯に突入だ。不便だと思わず、普段の快適な生活ではなかなかお目にかかれない貴重な時間だと思おう。こんな時間も人生でなかなかないよ!行き先はバスに任せて潔く眠ろう。まだ自力で走り出すのが叶わないことの歯がゆさは忘れ、とにかく今は眠ろう。
人類は大地の大体を制覇した。大空を駆け巡ることも憶えた。未だ人事の及ばぬ場所はどこだ?地中だ。海底だ。とりわけ、深海こそが恐怖の固まりだ。未知数の存在がごろごろしているに違いない。深海に秘められた謎。我々は何の予測も立てられない。
バスは深海の底へ底へと進んで行く。道を照らす光がある内はまだ良かった。闇に閉ざされた途端に何とも言えぬ不安がつきまってくる。今はまだいい、バスに頼ることができるのだから。だが、そんな深海の途中でバスを降りてしまった後、僕はどうすればいい?自分の臆病の中で有り得もしない敵を作り出し、一人で幻想と闘い命を落とす姿が想像できてしまうのだ。そして僕は数時間後、本当にこのバスを下りる。僕は己の深海を照らし出そうとする冒険旅行に出ているのだ。
――グレイハウンドの座席は狭い。狭過ぎる。シートを倒すこともできないし、眠るとなれば背筋をピン!と伸ばした状態で、無理矢理眠らないといけない。どんな場所でも眠る経験を積んだ人でないと厳しいね。僕はこういう状況で眠った経験が全然ない。昔から、電車やバスなど公共の場で眠ることが嫌いだった。何だかそういう所で眠ってしまうと自分だけ世界から取り残されてしまう気がして、どうしても駄目だった。日本からアメリカへ来る時の飛行機の中でぐらいだろう、公共の場で満足に眠ったのは。
こういう仮眠に不慣れで、冒険旅行も始めたばかりの僕だ。1時間も眠れないでは起き、そのうちまた浅い眠りに就いては起きるということを繰り返す。夜になり、バスの中が我慢できない程寒くなってきた。ガイドブックに書いてあった通りだ。ちゃんと上着を持ち込んでいたのでここは大丈夫だ。しかし、夜行バスでの移動は本当にハードだぞ。宿代が浮くのはいいが、利用する時には翌日に必要な体力のことも考えておかなくてはいけない。できれば余り利用したくないものだ。
環境が悪かろうが、今はとにかく眠らなければならない。全く未定の明日がある。どうしても今の内に眠っておくのだ。明日の初冒険のために今できる唯一の準備は、睡眠を取ること。今の最上の策が、できるだけ体力を温存しておくことなのだ。今までに経験がないとか、状況が悪いだとかは言っていられない。冒険旅行をやり遂げるために必要なハードルであるのだ。今はともかく、そのうちきっとこの技術さえも取り込んでみせる。
まとまった眠りが取れず、途中途中で目が覚めてしまうことに加え、所々にあるバスストップで強制的に灯りを点けられる。あぁ、我に眠りを与えたまえ!今夜の内に体力を貯えておかないといけないのだ。先の見えない深海で一人降ろされる僕だ、体力が必要だろう。
そうそう、昼間バスの中でガイドブックを読み直して考えていたが、どうもリビングストンよりその手前のボーズマンという町の方が、良いバスの接続がある可能性が高い気がしてきた。リビングストンにしろボーズマンにしろ、どちらも賭けであることに違いはない。どちらでも接続するバスの時間が分かっていないからだ。早朝から何時間も待つのは気が重いが、待つことにも変わりはない。ここは幾らかより確実であろうと思えてきたボーズマンに賭けてみたくなった。随分前から計画していた冒険旅行の、しかも一番最初の予定なのにこの期に及んで変更してしまうとは、僕の企画力もあてにならないのかなぁ。
まぁ、全ては明日だ。あとは明日に任せて、今夜はとにかく眠ろう。