グランドキャニオン谷底→サウスリム登り、見習い芸術家の冒険24話

9月15日(日)

  おはようございます!午前6時、出発しどきです。今朝は5時半には目を覚ましました。昨夜ドミトリーに戻るとすぐに寝てしまいました。早く起きて早く歩き出そうと考えていましたが、6時でも遅い方!みんなはもっと早く出ていきました。ふっ、みんなに丁度いいハンデキャップを与えたという訳だ。ここから僕の早朝猛スパートが始まる。全員ごぼう抜きにしてやろうではないか。

  食料を食べてだいぶ荷物は軽くなったが、昨日の足の痛みが今朝も消えていなかった。でも、この程度なら大丈夫だという自信があった。無理をする訳ではないよ。無理ができるのも自分自身だけの冒険の特権だが、こんな場所でそれをしてしまうことの無意味さは承知している。足は大丈夫だ。歩く速度に影響は全くでないと思う。自分自分以外の誰にも甘えることができない状態だから、自分自身の力を理解しつつ最大限に引き出して行こう。

  まだ辺りは薄暗く涼しい。僕はファントムランチから歩き出した。昨日一日の休憩(?)で気力も体力も充実している。さぁ、登り道でも誰にも抜かされない伝説を創るぞ!

  45分程、人をガンガン抜かしながら歩いた。滅茶苦茶なハイペースは、大物を目の前にして興奮を抑えられなかったからだ。そして、気まぐれな僕は下りの時にも立ち寄ったコロラド川の川辺で30分の朝食タイムを取っていた。ちょっと無邪気に飛ばし過ぎて沢山抜かしてしまったから、このペースのままでは後の方に抜かす人がいなくて、面白味が無くなってしまう。生意気なことを考えて、余裕の休憩を挟んだ。

朝の空気の中、コロラド川の流れが耳に入ってくる。きっと僕の人生で最後に聞く、コロラド川の流れる音。ただ残念なのは、僕はこれからの爆走のことにすっかり夢中になっていて、ゆっくりと川の流れに耳を傾けている時間がなかった、ということだ。食事を取っただけで、今回ばかりはメモ帳を取り出す時間もなく再び僕は歩き出した。

  朝日が上がってきた。ゴールドの太陽に照らされて、グランドキャニオンが一日の生命を吹き込まれてゆくかのようだ。ただし、今朝も大絶壁の遮りのせいで僕の位置から太陽本人は見ることができない。壁の向こうで燦燦と輝く太陽に光に手を伸ばしたい。ちょっと背丈が足りないようだ。

  国立公園専門の冒険旅行を続けていて、太陽の光を浴びないというのは気分がめげる。いつもは太陽が僕の体力を奪い気力を妨げていたのに、この谷底では妙に太陽が恋しいと思う。もっと上に登れば太陽を浴びるし、浴びたら浴びたできっと邪魔者扱いするのだろうが、どうも日陰を歩く道に見習い芸術家の冒険の精神はないような気がしてたまらないのだ。厳しい道を歩いてこその冒険だと思う。

  第一の関門が見えてきた。下りの時にだらだらと歩いた、あの中途半端な勾配が連続する坂道だ。こいつは鋭い威力を全然持っていないくせに、のらりくらりと攻撃をかわし、時間だけ余計に使わなくてはいけないという面倒なヤツだ。だが、出発して間もなく元気溢れる僕に当たったのが不運だと思う。僕は強引に突破することにした。

  体力はまだまだ余っている。僕は更に音楽という切り札を使ったので、いとも簡単に攻略することができた。緩やかな登りがただ横に長くなり、それが連続しているだけだ。体力よりも気力を削ごうとする相手だろうが、朝の気力にかかっては何も問題ある場所ではない。

全然辛いとは思わない登り坂だったが、その途中途中で下を見る度に登ってきた道が遠くに見えてくるので、自分自身を誇りに思ったね。この登り坂は僕にとっての関門には相当しない。若い勢いに任せ、圧勝で立ち上がりを飾ってみた。

  その小さな障害の次にあるのは平らな道の連続だ。本気で闘う相手を求めている僕に、今更とげのない相手など全く必要ない。意味のない道から一刻も早くさよならしたくて猛スピードで歩いていると、道端の木陰に休んでいる冒険者たちの姿があった。のんびりとしたあいつらに構っていられないね、と彼らの横を通過しようとしたら「コンニチハ」と日本語で挨拶された。

余りのタイミングに、僕は自分の狭い心を見透かされた気がした。他人に心を許すことができない惨めな自分自身を見透かされた気がしたのだ。でも、僕は大丈夫だった。ちょっと体勢を取り直し、ギラギラした眼を休めて「こんにちはっ!」と優しく挨拶することができた。あぁ、良かった。人の善意にはちゃんと善意で応えることができて本当に良かった。

  足にエンジンがかかってきた。良く晴れているが余り暑くもないし、水もそんなに飲んでいない。不安を全く感じさせない順調な歩きだ。余裕を残したまま、インディアンガーデンへ着いた。

  しかしここも水道で水を補給するだけで、僕はすぐさま先に進む。まだまだ道の半ば、これからが本番だね。今朝、僕より先にファントムランチを出発した人たちを全員抜かし切ってはいない。圧勝で全員を抜かしてあげようではないか!

  谷底のファントムランチから地上のサウスリムまで。それは1,300m級の登山であり、通常6~8時間は必要だと聞くが、その予測は僕のような人間を対象としていない。今の僕は気力・体力共に常人のレベルを超えている。僕の身体は休む時間など必要としていない。さぁ、登るぞ。なんだか、5時間ぐらいで上まで登り切れる気がする。抜群という言葉に相応しい栄光を勝ち取ろう。

  下りの時のように足元ばかりを確認せずに進めるから、登りの方が楽だ。視線が先に向かっているからスピードも出るしね。腕まくりをした白いTシャツが汗を吸っている。いよいよ太陽が身体に当たるようになってきた。

  恐れるものないと豪語して歩く自分に偽りはない。だが、迫りくる断崖絶壁を目の当りにする度に冒険家に課せられる緊張の度合いは増してゆく。一昨日、出発した時は全く別人に思っていた絶壁が段々と現実味を帯び、自分に課せられたノルマに見えてきた。

見上げればきりの無い崖。垂直に登っても大した高さがあるのに、それを右に左に遠回りしながらクリアしなくてはならないなんて狂気の沙汰だっ!大体、なんでわざわざ自分で降りておいて、また登らなくてはいけないんだ!意味が分からん!僕は頭が悪いのか!
また登るのなら最初から降りなければよかったじゃないか!

  ――下らない言葉の垂れ流しは止めておき、先を急ごう。

  埃っぽいトレイルを僕は歩き続けた。太陽が自分の活動の場を得る時間帯になっていた。遅れを取り戻そうと、容赦なしに谷底を照らしつけやがる。キャンプ場の森を抜けてしまうと、垂直に繰り出される光線を遮るものはない。太陽が顔を出す前の涼しい時間帯が過ぎ、光を遮断する木陰もなくなった。いよいよ本格的な困難に僕はぶつかった。これこそが健康的な冒険、僕が求めているもの。汗をかいて働く姿は美しいのだよ!

  音楽という覚醒剤を使い、僕は身体の存在能力を引き出している。身体への配慮を欠くレベルでフルパワーを出すと、肉体を殺してしまうと聞いているが、そこまではいっていないから大丈夫だろう。音楽の覚醒剤はそこの限度をわきまえてくれているので信用がおける。斜面という斜面が、僕にはちっとも急に見えてこない。なんだ、グランドキャニオンの登りとはこの程度か。辛いとは感じないトレイルだな。音楽の追い風を受けてスーパーマンになった僕がいる。

  出発から2時間半。時刻にして午前8時半過ぎ。いよいよ僕はグランドキャニオン大冒険で、最大の障害を前にしていた。遠く離れた日本にいた頃から、僕はこの瞬間を夢描いていた。何が僕をこの1ヶ月の冒険旅行に駆り立てたか。その一番の目的がここにある。心沸き上がる瞬間だろう。冒険旅行の意味を賭けた挑戦。今──僕は、グランドキャニオンの絶壁の真下にいる。

――あぁ、緊張感が全然生まれない!

それが不思議だ。僕の身体はこの絶壁を特別扱いせず、ごく普通の挑戦として見ていたではないか。何故だ、そんなはずはない。この冒険旅行に難関は幾つあるが、ここがその最たるものでなくて、どこが僕を震え上がらせるのだろう。

僕の足は普通にスタート切る。哀しいようで、頼もしい。寂しいようで、喜ばしい。僕の肉体は大峡谷と比べて遜色がない程までに磨き上げられている。

  それからの僕は今朝と変わらないペースで進んでいた。幅の狭いトレイルを横端から横端まで歩いては上に折り返し、幾らか高い場所へ登る。今までの疲労はあることはあるし、道は平らではないし、太陽は真っ盛りだ。苦しい道のりに無口になり、聴こえるのが自分の息遣いだけになってきた。中途半端な登りのトレイルを繰り返すだけの時間帯に入った。少しずつ高度を稼ぎ、距離を稼ぐ。地味な行動で、僕は着実に先を進んで行った。

  ファントムランチ出発から、随分と人を抜かしたのでもう敵はいなくなっている。獲物のいない狩りだから、つまらないレースだ。他人と遊ぶ時間は過ぎた。これからは自分の限界に挑戦する時間なのだ。今、僕の先に歩いている人は間違いなく昨夜インディアンガーデンのキャンプ場で宿を取った人だろう。ここまで僕より先に来ることができる訳がないからだ。そんな人たちを抜かしてもちっとも面白くない。自分自身との我慢比べが始まった。

  僕はコーナーを曲がるだけの男となった。音楽も止めたので、何も考えることはない。この登り坂をねじ伏せるためだけに歩き、コーナーを曲がっていた。トレイルを端まで歩き、コーナーを曲がる。また我武者羅にトレイルをクリアする。汗まみれの身体から熱い息遣いを感じる。

  躓かないように足元を注意しながらコーナーを曲がっていると、すぐ数歩前にミュールツアーの一行が下ってきたのに遭遇していた。足元ばかり見ていた僕はそこでようやく彼らに気が付いた。僕の位置はすれ違うのに良い場所ではなかったので、僕は一歩踏み出して割合広いスペースによけようとした。そこならすれ違うのに充分な足場があると判断したのだ。気が付いてからほんの瞬間の判断で一歩を踏み出した僕に、傲慢な先導者はちっともスピードを緩めずにそのまま突っ込んできた!おい、それでは僕に行き場所がないではないか!!

  その結果、荷物を背負っていたこともあり、僕はよろけて横の岩に手をついてしまった。なんとか衝突は避けることができたが、よろけて岩に手をつくなど、勇敢な冒険家にとってなんたる屈辱か!いいや、そんなことはどうでもいい。その先導者が間髪入れず「止まってよけろ!」という勝手な言葉を残して進んで行きやがるではないか!!

その言葉にキレた僕は、遠ざかって行くその醜い先導者を憎しみの籠もった眼で睨みつけた。するとそいつもこっちを睨み返すではないか。あっという間に他のミュールたちがそいつとの間へ割り込んでいく。僕は、わずかな時間差を大変に後悔した!あいつが通り過ぎたその瞬間に最高の侮蔑の言葉を送ってやればよかった!

あぁ、その野郎との間にどんどんミュールが割り込んでゆく。あぁ、僕は負けた!一瞬の躊躇が僕のグランドキャニオン無敗伝説に傷をつけてしまった!あぁ、何たる様よ。余りに心地の良い冒険旅行ばかりを続けていたから、すぐに黒い心に変わることができなかった。

  確かに、ミュールツアーと遭遇した時は人間が道を譲るのがルールだ。それは分かっているが、幾らなんでもあの野郎の態度はない!珍しく心から怒りを覚えた。あぁ、次第に後悔の念が募り、怒りが高まってゆくのが辛い!後悔が止まず、負けを喫してしまったことのいらだちを発散させるために、通り過ぎるミュールツアーの無実の参加者たちに八つ当たりをしていた。好意的な眼差しをするミュールツアー客には睨みをきかせ、前を歩く冒険者には後ろから煽りをかけ、すれ違う人たちには通行の妨げをし、とにかく怒り狂った僕はすれ違う全ての人たちに八つ当たりをした。あぁ、腹が立つ!!怒りに任せて歩いていると、更にアイツのことが思い出されてきて、益々歩く足が速まるばかりだ。気付けば、僕のペースは尋常ではないものになっていた。

怒りの表情で、トレイルの真ん中を猛スピードで突き進む若いアジア人。台風か、砂嵐のようだ。冷静な頭ではちゃんと分かっていたんだ。自分がやられたことを逆にやり返すだけでは何も世界は変わらない、と。でも、怒りを止めようがなかった。暴力には出さない。暴言も吐かない。ただ、怒りのエネルギーを歩くスピードに変えて発散させていた。そんな僕の姿がちゃんと美しい絵になっていたとは思わないが、割合健全な方向にエネルギーを発散させたようで、それはそれで良かったのではないだろうか。

  そんなことを1時間も続けていると、ようやく腹の虫が落ち着いてきた。気が付けば、そこはもうほとんど崖を上がった位置だ。僕の怒りは本物だった。この崖の一番下を登り始めた時と比べてほぼ倍のスピードで歩き続けていた。これが怒りによって暴れ出したエネルギーだ。

  我ながらこれは豪いペースを出してしまったぞ。登り始めてから一回も休憩していないし、時計を見れば凄い記録が出そうでびっくりした。肉体の潜在能力を、音楽ではなく怒りが引き出す。これは新説だ!新説だっ!!

  冷静になりつつある僕は、もうそのハイペースで歩き続ける必要はなくなっていたが、そのまま続けてみようという気分になっていた。怒りは、身体から汗となり流れて行く。身体に疲労は感じる。それには負けず、僕は新しい目標を見つけた。僕は一体どれぐらいでファントムランチからサウスリムまで登ることができるか。これだ。

  暑さは気にならない。足の重さも無視しよう。崖の肌に見る美しいラインを前にしても、 詩の心を解放させたりはしなかった。今はグランドキャニオンを踏破することに身も心も捧げようではないか。すれ違う人たちと優しい挨拶を交わす気力なんていらない。今僕にあるのは記録だけだ。ガイドブックに書いてあった所要時間をどのぐらい縮めることができるのか。それだけが僕を歩かせていた。

  あのミュールツアーに心を害されることがなければ、安らかな登山の楽しみ方というものがあったのだろうが、こうなってしまった以上仕方のないことだ。ゴールの記録だけが僕を支えている。朝6時にファントムランチを歩き出して、今は10時ちょっと過ぎ。コロラド川での30分の休憩を除けば、このペースだと4時間ジャストで登り切る計算になる。

  一昨日の下りでは写真を撮り、自然を楽しみ、景色を満喫しながらの道中だったから、1時間の休憩を入れて、たっぷり5時間はかかった。登り道は下りの倍は辛いはずなのだが、休憩30分と正味4時間で踏破しようとしているこの僕。1,300mの山を、登りも下りも一緒の時間でクリアできる人間なんているものか!

僕は今、その伝説に挑戦している。若い見習いは、芸術家であることを忘れて、冒険家の挑戦に夢中になっていた。頂上まであとわずか。きっと、僕は大記録を達成できる!!

  午前10時半。ファントムランチ出発から4時間半。僕は一昨日の出発地、サウスリムのブライトエンジェルトレイルのスタート地点に到着していた。本当に正味4時間でグランドキャニオンの谷底から頂上までをクリアしてみせたのだ!1,300m級の登山を時速4kmで歩く男の伝説を僕は成し遂げてしまった。平らな陸路を歩くのと同じスピードで標高1,300mの山を登るとは!──あぁ、今までの僕には決定的な作品が、傑作と呼ぶべき作品がなかったが、これは傑作と断言してもいいのではないだろうか?!

  ゴールラインはなく、誰かからの祝福はない。それなのに僕の満足は頂点に達していた。足を止め、弾む息を整え、熱い喉に水を流して改めて下を望んでみる。今朝まで自分がいた場所が遥か遠くの景色になっていた。こんな距離を4時間で踏破できるんだ。僕は、僕だから踏破できるんだ。

誇りに思う、まともな休憩もなしに、たったの4時間で制覇した自分自身を。雄大な景色と絶大な自信に満ち溢れ、両手を大きく天にかざしてサウスリムからノースリムへの10マイルの空間に吠えた。大したヤツだ、我ながら。こんな偉業を成し遂げたヤツなんて他にはいないだろうね。きっとグランドキャニオンも驚いている。

  なんだか今はあのミュールツアーの野郎にも感謝できる。どうであれ、力をプラスに変えることができる能力を僕が持っていることを証明してくれた。納得できない部分はあるが、それも今は善しとしよう。

子供の頃にゆめ見た、僕にとってのアメリカンドリーム。それは自分自身の足でグランドキャオンの谷底へ降り、谷底を冒険し、そしてその絶壁を登るという大冒険だった。僕は今、それを確かに成し遂げたよ!自分でも想像していなかった程の、実際に求めていなかった以上の成果を僕は手に入れた。僕に、最高の自信を手に入れた。

  グランドキャニオンの大峡谷よ。あなたを訪れる人間の数は数え切れないだろう。そんな中で、僕は偉大な功績を収めさせてもらった。夢見ていた理想を叶えてみせた。所詮人生なんて、なりふり構わず自分の欲しい物だけを奪い合う戦場だろう。僕はやったよ、間違いなくやったよ!僕の軌跡をあなたが認めてくれたのならこんなに嬉しいことはない!

  こうしてグランドキャニオン谷底への冒険旅行は終わりを告げた。このことは、僕の今後の人生の中でも永遠の誇りとして残り続けるだろう。それ程大きな達成感に僕は包まれていた。グランドキャニオンを踏破した男!最速で突破した男!

  それからサウスリムを歩くと、なんだか自分が異星人であるかのように感じていた。道には人が溢れ、豊かな緑と色とりどりの景色に溢れたサウスリム。俗世というか、豊かというか、懐かしい場所へ帰ってきたな、と思っていた。シャトルバスに乗ってその俗世を横切り、ジェネラスストアで食料を調達した。心配だった放置テントに半分諦めた気持ちで戻ると、全く無事でいてくれた。どうやらいない間に雨が降ったらしく、テントの中に雨が入り込んでいて小説が濡れてしまっていたのが唯一の被害と言えば被害だ。あぁ、良かった。キャンパーの優しい心に感謝をしたい。周りに誰もいないのをいいことに、サイトを乗っ取って食事を始めた。

  時間に追われず、ゆっくりと食事を作れば小鳥も僕に寄ってくる。最高の達成感を心の中で転がしながら牛肉を焼く。心身共に、ヒーリング効果はばっちりだ。擦り切れた身体へ栄養を。緊張の糸を絶った心へ安らぎを。足元にはリスが戯れてきた。落ち着いて取る食事は幸せなものだね。

食事を終え、キャンプ場を引き払う。雨に濡れて服が重くなっているのも迷惑だな。久々のフル装備はかなり重かった。えっちらおっちらと歩き、僕はツーリストインフォメーションセンターを目指した。

いつからか、国立公園で集め出したものがある。国立公園のオフィシャルガイドブックだ。ガイドブックといっても薄くて小さいものなのだが、無料でもらえるということもあり、イエローストーンを手始めにロッキーマウンテン・カールスバッド・ホワイトサンズと、今まで回った国立公園では全部手に入れている。なんだかその場に行かなければもらえない、というプレミアが付いているような気がして妙に欲しくなる。ここグランドキャニオンでもやはりツーリストインフォメーションセンターにあったよ。

  これでもう思い残すことはない。写真も撮ったし、思い出もつくったし、言葉も詠んだし、やることは全て終えたようだ。次のバスでフラグスタッフまで戻ろう。出発時間は5時だから、まだそれまで2時間ばかり空いている。大峡谷の偉人に別れを告げるのに調度いい時間だろう。崖まで行って、もう少し言葉の続きを詠もう。

  僕はブライトエンジェルロッジの裏付近で2時間程言葉を詠んでいた。目の前に広がるグランドキャニオンが、以前よりはやや身近な存在に感じられてきた。今改めて僕の冒険の成果を彼に問いかける。僕の頭にはこんな言葉たちが浮かんできた。

          ちょうど足元をかけ回るアリのように

            この大峡谷を歩き回ったよ

          レベルを思い知らされるように幾度も遠回りしてはその高さを克服し

            陽の光さえも遮り そびえ立つ岩壁の谷間を歩いて

              10マイルの空間の中では僕はアリのような存在だった

          誰もが知らぬ小さなアリではあったが

            確かにその時 この空間は僕のものだった

  他にも一杯、一杯言葉を詠んではグランドキャニオンと討論していた。書いては消し、書いては直し、言葉を重ねてゆくなかで僕は僕の心にグランドキャニオンが入り込んでいる事実を確信した。僕は胸を張って語ることのできる冒険をしたぞ!グランドキャニオンからもらった大きな自信。ひとまずグランドキャニオンから学ぶことはこのぐらいでいいと思う。今の時点ではグランドキャニオンを卒業したんだ。

この時を逃さず、僕はここからさよならをしよう。僕は感じるよ、今回は今回で充分な教訓をもらったが、グランドキャニオンとはこれで終わりにならないだろうことを。きっとまたここを訪れる機会があり、別の大きなことを学ぶだろう。今日はほんの顔合わせにしか過ぎなかった。最も、それは信じられないぐらいに大きな収穫のある顔合わせだったが。

  ありがとう、グランドキャニオン。僕はここで大きな自信を手に入れた。あなたがくれた自信は僕の血となり肉となり、これからの人生で僕の大きな武器となることでしょう。

  5時になる頃、大きく手を振りながらグランドキャニオンに別れを告げ、晴れやかに歩き出した僕がいた。ブライドエンジェルロッジの前でしばらく待つと、バスはすぐにやってきた。

どうやら結構な人数が乗るようで、バスもあらかじめ2台来ている。乗り込むと驚く出来事があった。なんと、シアトルの同じ学校に留学している松岡という日本人の知り合いがいたのだ。考えられないな!確かに今は長い夏休み中で、ここはアメリカの国立公園で最も有名な場所とはいえ、同じバスで出逢うとは奇跡に近い。僕程ではないが、そいつもよく日焼けをしていた。聞けば長距離列車のアムトラックで各地を回っているとのことだ。フラグスタッフまでそれぞれの色々な冒険の話をして過ごした。世の中には本当に偶然があるものだな。

  フラグスタッフに着き、松岡と夕食を一緒に取る約束をした後、僕はあのユースホステルに一泊の宿を求めてみた。空きのベッドはあった。別のモーテルに部屋を取っていた松岡と約束の時刻に落ち合い、ファーストフードで夕食を取りながら冒険旅行の続きを話していた。

ニューオリンズが圧倒的な雰囲気を持っていた、と彼は言う。そういえばロッキーマウンテンで逢った日本人もそんなことを言っていたな。アムトラックの中でやはり同じ学校の、僕も良く知っている日本人に逢ったという。凄いな。偶然ではないのか。世の中はそんなに狭いのかな。もしかしたらこのアメリカもそんなに広い場所ではないのかもね。

彼の冒険譚もなかなかだったが、僕の口から語られる冒険の物語は圧巻だった。一体どこの誰が、イエローストーンの園内をマウンテンバイクで走り回り、グランドキャニオンの谷底まで徒歩で歩いて往復した、という自慢ができる?それ以外にも、細かい自慢話なら山程ある。松岡も僕の話にびっくりしていたようだった。はっはっは。これが俺様の偉業だ!だが、俺様はまだまだこんなものではないぞ!!

  松岡は夜も暇らしいので、ユースホステルへ誘ってみた。絶対に誰かがいると思ったからだ。予想通り日本人が三人いて、すぐに仲良くなり五人で話が盛り上がった。またまた個性的な三人でね。ちょっと紹介してみようか。

  髭面でごつい身体、世界各国を回ったが中でもタイが一番好きだという旅慣れた人。アボリジニーの楽器を持ち歩く、無口で大人しく、細身で髭面の放浪者。金がない、を口癖にする鳥取県米子出身の摩訶不思議な会社員。三人とも、それぞれが独特過ぎて調和が取れないのだ!だが、こんなに面白いパーティーも他にはない。ここのユースホステルではかなり僕はツイている。

  髭の二人は世界各地を冒険しているらしく、冒険の経験が豊富そうだ。タイが好きな人の方が場の主導権を握り、実に的確に話題を拾ってゆく。細い方は余り口数が多くないが、適所に意見を言って盛り上げる。米子の会社員は完全な道化役だ。天然で、憎めない非常識人だ。この三人はここで初めて集まったとは思えない程、不調和の中にも楽しいバランスを保っている。

  米子の人は全くの海外素人で、英語も駄目、風貌も冴えない、だけども親しみがたっぷりの、愛嬌の旅人だ。彼には生産的な能力はないが、その憎めないキャラクターでどんな世界でも歩けてしまう無敵のキャラだ。たった一夜の語らいの中でも笑える天然の話を沢山伝えてくれた。

  彼は米子から飛行機に乗せてマウンテンバイクを持って来たという。ロサンジェルスに着いてからもマウンテンバイクだけで死の谷と呼ばれるデスバレーを越え、ラスベガスまで移動したという強者だ。デスバレーの暑さで死にかけたという!当たり前だ!幾らなんでもマウンテンバイクでデスバレーは行かないぞ。この僕でも避けるぞ。

アメリカの常識を知らない彼は、ラスベガスのような大都会でちょっと水を買うために店に入り、その間マウンテンバイクに鍵もかけずに放置した所、簡単に盗まれてしまったという。

  普通に言われればなんとも哀しい話なのに、彼のあっけらかんとした言葉で説明された日には笑わずにいられない。全員が腹を抱えて笑っていた。すっかり彼の話が座の主役となり、部屋中が笑いに包まれた。あぁ、こんな人生の達人もいるのか~。僕は面白くなって、この無粋かつ純粋な人を尊敬した。彼の天然ボケでこの夜は最高の笑いをすることができた。

こうして長い一日が終わった。グランドキャニオンの谷底に起きて、フラグスタッフのユースホステルに眠る。日中に汗を流し、夜は笑いに包まれて――。




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まつきよ

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