愛日常〜御坂の桃・拝島キャバクラ、本物のアイディア

2004年2月1日

日常に満たされることのない現代の若者たちが偶然集まる。

学生時代に鍛えた肉体を、仕事の毎日に

すっかり鈍らせてしまったオーバーワークのサラリーマン。

留年してまでも自分が本当に進みたいと思う道を探そうとしている偏屈な大学生。

何も考えずただ車を買うお金欲しさにキャバクラで働き始めた今時の十八歳の少女。

男性顔負けにバリバリ仕事しながらも内心は矛盾だらけを抱えているキャリアウーマン。

彼らの悩みはそれぞれ現代らしいもので、

はっきりとした将来の答えがない現代社会でこそのことであった。

そんな彼らも流されるまま生きる一方で、

内心ではその怠惰な生活を打開する方法を模索していたのであった。

そんな時、偶然出逢った彼ら四人に、

ふと浮かび上がってきた本物のアイディア。

社会にこれほど様々な選択肢がある中で、彼らは自分たちの力だけで

桃の花を咲かすという現代らしからぬシンプルなアイディアを選ぶ。

彼らはその作業を通して自分たちのあるべき道を探そうとする。

太陽の下で土を耕して汗をかく。

およそ現代の若者とはかけ離れた作業をあえて自ら選んだのだ。

彼らの地道な努力が重なり、一年後桃の花が咲く時、

それぞれで何か確かなものを手に入れた彼らがいた。

この作品は、奇をてらい端的な一面ばかりにスポットを浴びさせる

現代小説に対しての挑戦でもある。

ここには特別な登場人物が出てくることもないし、

何か大きな出来事が起こるわけでもない。

そこにあるのはただ純粋な現代の若者の悩みである。

昭和の戦後混乱期からの復興と高度成長を成し遂げてしまった今、

逆に豊かな時代に行く宛てをなくして迷走を続ける

新現代を迎える人々にこの作品を放ちたい。

 


——それはアイディアだよ。本物のアイディアだよ。

 頭から離れなくなってしまった。フルムーンサイクリング。満月の夜、白砂の砂漠がバイシクリストだけに開放されるらしい。

 砂漠が白砂。とても想像できない。実際にこの目で見なくては分からないよ。ただ、そんな場所を満月の下、マウンテンバイクで走ると考えたら僕の心は震えた。

 フルムーンを浴びて白砂漠は輝くのだろう。眩しく、温かく、そして妖しく。月色に染まる白い砂漠をフルムーンサイクリング。五感が麻痺してしまう。僕はすっかりそのイメージに夢中になっていた。

 遅い帰宅の電車に揺られながら、旅行雑誌で見かけたフルムーンサイクリングのことを考えていたら、あっという間に乗り換えの駅に着いていた。これから各駅電車を乗り継いで最終駅の拝島までまだかかる。夜中になると接続の待ち時間が長いのが辛い。

 ふと僕の着メロが鳴り、ケータイを出そうとしたら、それが隣で電車待ちをしていた男からだと気が付いた。同じ着メロとは珍しい。男はボソボソと小さな声で話し始めてすぐに切った。

 国立公園のホームページに載っていたフルムーンサイクリングの案内を鞄から出して薄い明かりの下で広げる。すると、また着信音。今度は僕のケータイにメールだ。月曜を休む先輩から仕事の引継ぎメールだ。隣の男も同じ着メロに気が付いたようで、こちらをちらりと見た。

 ケータイをしまおうとしたら、フルムーンサイクリングの紙が落ちた。風に転がされて隣の男の足元まで飛んだ。男は無表情にそれを拾う。拾う途中に男の視線が紙の文字と絵に注がれたのを僕は見た。彼に分かるのだろうか。

 「音同じですね。落ちましたよ」

 親しみのある声色。着メロが同じなんてなかなかないから近くに感じるのだろう。

 「ありがとうございます、珍しいですよね」

 礼を言って受け取ろうとする。すると、隣のフォームに入ってきた電車が風を起こした。飛ばされそうになって男は咄嗟に紙を両手で掴む。

 「おっ、危ない危ない」

 電車が止まるまで男はしっかり掴んでいてくれた。

 「どうもありがとうございます、すいません」

 僕は丁寧に礼を言った。

 「いいえ。同じ着メロ同士ですから」

 そう言うと男は小さく笑った。まだ若い。僕より少し下ぐらいだろう。

面白い。僕はそう思った。着信音が同じというだけで互いに近くに感じることができる。そうだ、どうせ時間は余っている。こんな深夜の駅でやることなんて何もないし、ちょっと試してみるのも面白いかもしれない。

 「どうですか、それは。どう思われます?」

 突飛な聞き方になった。

 「ん?これですか、」

 男は紙に目を通し始めた。英語のホームページの切り抜きだが、砂漠や満月の写真があるから何となく分かるだろう。

 じっと見ている男。他の人がどう思うのか是非とも聞きたい。たまらず話しかけていた。

 「満月の夜に、白砂の砂漠が、自転車の人たちだけに、開放されるんです。どうです、素晴らしいと思いませんか?」

 本心からの言葉。これは話し言葉ではないよね。何も言わず男は見続けていた。

 「僕にはたまりませんね。本物のアイディアだと思います」

 フォームが暗いからだ。迷わず独り言が出る。

 「あぁ、大体こんな感じですよ、いいでしょう」

 男が言う。どうもひっかかる言い方だ。

 「大体、ですか?僕にはこれ以上のアイディアはないと思いますけどね」

 「興味はありますよ。でもちょっと違うかな。僕はもっと大きなことを探しているから。そうでなければシンプルなヤツね。まぁ、これはシンプルなものの中ではいい方だと思いますよ」

 ――この男は。ひまつぶしにするつもりが、逆に遊ばれてしまった。悔しいので更に突っ込んでみる。

 「シンプル。シンプルですか。確かにそうだ。でも、こんなアイディア本当になかなかないですよ。想像できます?」

 「できますよ。アメリカにそんな白い砂漠があるとは初めて聞いたけど、一面真っ白な世界に道一本!いいね!しかも車を締め出した満月の夜なんでしょう?」

 「そう!車じゃなくて、またマウンテンバイクっていうのがポイントでね」

「時季がいいよ、時季が。これを見ると五月頭と九月末でしょう。暑くもなく、寒くもなく。いやぁ、いいね!いい!」

男はプリントをパーンと指で叩きながらそう言う。食らいついてきた。

どうせ暇だし、次の電車が来るまでのつなぎにでもなればいいと思っていたら、これがなかなか話が終わらない。結局、電車に乗ってからも続いていた。

 「で、その白い砂漠にはいつ行くんですか?」

 それはちょっと話が早い。

 「いやぁ、行かないよ。こういうのは空想だけの方がいい」

 「あれ?そうですか。まぁ、そういう考えもありですけどね」

 「仕事してるから休みも取れないし。でも、これぐらい素晴らしいとイメージするだけで伝わってくるものがない?それで充分だよ」

 「確かに。これって、どんな人のアイディアなんだろう。普通の人では無理でしょ」

 「何か分かる気がするなぁ。偶然なのか、意図的なのか、見回りのレンジャーがマウンテンバイクで走ったんじゃないかな。それが満月の夜だったとか」

 「それで、あまりに素晴らしかったのでそのレンジャーが企画した、と」

 「そう。それなら説明がつく」

 「ははは。なるほど」

 僕以上に男が乗ってきたから話が長くなった。拝島駅に着いても、改札を出ても会話が終わらない。

仕方ない、どちらからともなく周りを見渡してまだ開いている店を探した。こんな最果ての駅にはファミレスもないし、もう十二時近くになっていたからファーストフードも閉まっている。 

ひとつだけ開いている店を知っていた。Time’s Barという、こんな場末の町には相応しくないほどお洒落なBarだ。何度か入ったことがあるのでそこに行くことにした。

店に入るとマスターが迎えてくれた。金曜の夜なのに客がいない。テーブルに座り、ソルティドッグと野菜スティックを頼む。彼はギネスの黒ビールを注文した。会社を出たところで食べていたのでお腹は空いていない。

「シンプルなのがいいと言ったね。例えば、このつまみはどう?揚げ物とかも美味しそうだけどあえて野菜スティックを頼んでみた。生野菜を塩や味噌だけで食べるのはシンプルってことなのかな?

 「そう、そういうこと。いいねぇ、生野菜。いいねぇ」

 彼は機嫌よく頷いていた。

 「できればもっと大きなのがいいけど、そういうシンプルで小さいのも僕は好きだからさ」

 まただ。彼は大きなことと言う。僕はそれに興味はない。大きなこと、か。社会を知らない学生にありがちなことを考えているのだろう。かつての僕もそうだったから分かるよ。

 「それで君は大学生?」

 今更ながら初めて個人的なことを聞いてみた。ふと、階段の軋む音がした。他に客が来たのらしい。中年太りのサラリーマンと若い女。マスターが出迎えて席に通した。男がうるさい。結構飲んでるな。静かにしていてくれよ。

 「四年目を留年中。卒業後に何をするのか迷っててね」

 少しも悪びれることなく彼は言う。

「いいんじゃない。時間あるんだからよく考えればいいと思うよ」

「そうですか。で、どうです社会人って。まるで想像できないんですよ、会社勤めは」

 「何とか凌いでいる感じだね。特別の感動もないけど、生活は安定している。自立できたし、そんなに悪くない」

 それが素直な感想だった。わずかそれだけの言葉で的確にまとめられる。その容易さに我ながら呆れてしまう。

 「自立。自立かぁ。難しいですよね、そこの割り振りが。大き過ぎたら足元がないし、かといって足元だけじゃぁねぇ……

 何言っている。分かる気もするが、やっぱり分からない。

 「今年卒業?決めてるの、進路は?」

 「未定。不定。暫定だけは嫌なんで」

 そう。それなら別に何も聞かないよ。僕だってサラリーマンなんて嫌だった。でも、親にそれ以上面倒かけることはしたくなかったからすぐに就職した。まぁ、道なんていくらでもある。みんなそれぞれ個々の状況に生きているのだから他人が口を挟むことじゃない。

 向こうのテーブルからは男の話し声ばかりが聞こえてきた。だいぶ飲んでいるらしく声が大きい。女は相槌を打って話を合わせようとしている。

 「どうしてあなたはフルムーンサイクリングが気に入ったのだと思います?」

 どうして。それは意外な質問だった。考えたこともなかったが、考えてみると答えは既に出ていた。

 「はっきりしてる。会社勤めしているからだね。妥協の中に長く漬かっているからこそ見えてきたものだと思う」

 「へぇ。それはどうして?聞きたいなぁ。是非聞きたいなぁ」

 身を乗り出すようにして彼が聞いてくる。サラリーマンがそんなに興味あることなのか。

 「いいけどさ、後で僕も聞きたいことあるから聞くからね」

 「ん?何?いいですけど」

 「そう。あのさ、やっぱり会社勤めをするのに感情はいらないんだよね。もちろんずっと無表情のままってわけじゃないけど、凄く感動するとか、大きく失望するとか、そんなことはなかったよ。毎日は平凡で、感情の高低は不要で、そんな中にずっといるとなんとかしなくちゃ、自分の人生をなんとかしなくちゃ、って思えてくるんだ」

 「うん、うん」

 彼はよく聞いていた。

 「僕の場合は働き始めて四年も経たないうちにそうなったよ。一時仕事に全情熱を注いだ時があったけど、それが所詮は無意味だと知った時からそうなった。どれだけやっても、結局一人の仕事じゃ何も変わらないんだ。それからもうずっとこんなこと考えている」

 彼に分かるのだろうか。社会経験のない彼にこんなことまで言ってしまっていいものなのだろうか。

 「最近そんな僕の心に自然体で入ってくるものがあってね。それが、君の言うところのその『シンプル』なヤツなんだ。朝の挨拶を爽やかにするのでもいい。仕事の合間に当たり障りのない天気の話をするのでもいい。ただぶらぶらと公園を歩くのも、無邪気に動物と触れ合うことも、僕の心を捉えて離さないんだ。下らないことだと思うだろう?でも今の僕には違うんだ」

 「現代の『癒し』って奴ね」

 「そうかもしれない。自分ではそうは思っていないけどやっぱりそうなのかな。忙し過ぎる仕事に、ややこしい人間関係。人の下らなさも一杯知ったし、数は少ないけどいい思いだってした。全体的に後悔だらけで傑作はわずかかなぁ。とにかく、右から左まであらゆる日常を見てきて最後に残ったものがそういうことだったんだ。これは貴重だよ、これこそ本物だよ」

 分かるのだろうか。彼に分かってもらえるのだろうか。

 「なるほど。分かる気がします。僕が言っても説得力ないと思いますけど」

 「いやいや、少しでも分かってもらえるなら嬉しいよ。フルムーンサイクリングをいいって言ったぐらいだから、君も分かってくれているんだと思う」

 なんだか安心した。誰かに届いた。ただの独りよがりではなかった。

 「で、聞きたいことって?」

 「そうそう。『大きなこと』って何?やりたいって言ってた『大きなこと』って」

 「あぁ、それ。具体的じゃないんで聞き流して下さい。自分でもはっきりとは分かりません。ただ、大きなことですよ。大金を稼ぐことかもしれないし、大きな人助けかもしれない。あなたの言うような『シンプル』なことかもしれないですね。その『大きなこと』が自分にとっては何なのか、まだ自分でも分かっていないんです。ただ、妥協じゃなくて、自分が心から納得できる何かという、それだけです」

 「分かった。そういうことね」

 「まだまだ全然見えてこなくて」

 社会経験のない彼にどうしてフルムーンサイクリングの良さが分かるのか不思議だった。でも、これを聞いて分かった気がする。僕にもやはり同じようなことを考えていた時期があった。社会に出てからしばらくはそれが止まっていたが、今また復活したと思っている。彼の言う『大きなこと』が、僕にとっての『シンプル』なことなのではないだろうか。そうだとすれば、僕たちは同じようなことを考えていて、だからフルムーンサイクリングで一致したのだろう。


 ――突然、男の怒声が響いた。

 「いい加減にしろ!可愛いからって黙ってればいいってもんじゃねぇ!何とか言え!人形か、お前は!」

 テーブル席のさっきの男が女にわめき散らしている。キレた男に驚いたのか、女は身を縮めたまま何も言えずにいた。

 「チッ!いい金払ったのに馬鹿馬鹿しい!ガキが!!」

 憎たらしそうに舌打ちすると、男は金を払って出て行った。一人取り残された女は俯いて動こうとしない。

 Barに嫌な空気が漂った。僕はこの場にいたたまれなくなった。あの二人の関係なんてどうでもいい。いずれにせよ、男がかなりの金を使って女をここに誘うまで漕ぎつけたのだろう。その結末がこれだ。あぁ、嫌だ。どんな事情であれ、男女のつまらない修羅場なんて見て嬉しいものではない。

 「いや、良かった!いやぁ、良かったじゃないの!うるさい奴を巻けたでしょ、これで当分は平和だって!」

 突然、彼が独り言のようにそう言い出した。女に直接語りかけるのでもない。女は反応せず俯いたままだ。構わず彼は続ける。

 「結局のところ、男が女に求めるのは愛嬌なんだよ。いくら可愛くても、黙っていちゃぁ男にとっての女の価値は下がるようですよ。中身はなくても、間をつくらず話ができる女性の方が魅力的だ。これは仕方ない。男の目から見ればそうなってしまうんだよ。所詮人間だからね、人間。そこは分かっておいた方が良い。そんなうわべだけしか求められていないんだから、真面目に考える必要なんかない」

 その容赦のない物言いに僕は呆れた。別に好きでもなんでもない男だったのだろうが、あんな言葉を受けたばかりの女性に言うべき台詞ではない。大体そんな男性的な論理を聞いてどこの女性が慰められるのか。まるで分かってないな。

 女が顔を上げた。どきっとするぐらいに彼女は若く、そして可愛い顔立ちをしていた。目の前のグラスを勢いよく飲むと、飲みかけのグラスを手にしたまま彼女はこっちに近寄ってくる。そしてヒステリックをぶちまけた。

 「何?!じゃぁ、どうすれば良かった?!客だからと思ってこんな時間に外まで付き合ってやったのにどうしてあんなこと言われるんだよ?!」

 グラスから溢れた液体が彼女の服を濡らした。手にグラスを持ったまま、顔を長い髪に埋めて彼女は立ち尽くしている。恐らく自分がどうすれば良いのか分かていないのだろう。そのあまりの弱々しさに僕は顔を背けたくなった。

 「大したことじゃない。この世の中にあるゴミのひとつだよ。明日になれば忘れられる。気にしないでお帰り」

 言葉は優しいくせに、口調は優しくない。馬鹿にされた気がしたのだろう。彼女が噛み付いてくる。

 「大したことあるから!せっかくできた初めての常連さんなのにもうおしまいじゃない!無理してこんな所まで着いてきたのにどうしてくれるんだよ?!」

 「いいや、君では遅からずこうなっていたと思うよ。それがちょっと早くなっただけ。いずれ結果は同じになるんだから、別に今日のせいじゃない」

 言い過ぎだろう。僕は思わずフォローに走っていた。

 「すいません、ちょっとこの人は口が悪くてね。あなたをかばおうとしてるつもりで、言い回しに容赦が無さ過ぎるんですよ。あまり気にされないでください」

 「本当のことだよ」

 まだ言う。余計なことを。

 「だから!大したことあるから!……でも、本当は大したことない」

 彼女の声が小さくなった。

 「……そう、わたし、大したことはしてない。確かにあのオヤジの言う通り、わたし、お客さんと上手く話せないから……。それは自分でも分かってる」

 益々小さくなってゆく声。

 「わたし、店に出ちゃダメかも。でも、これが一番手っ取り早いから……

 「いいんだよ!大した仕事をしなくてもいい!大したことなんて誰にもできやしないんだから!」

 今度はあいつ、そこで妙に同調し始めた。急に声が元気になっている。

 「えっ?」

 彼女には分からない。

 「だから!大きな仕事なんて誰にもできっこないよ!人一人の限界なんて知れているものだから。大したことをできる人間なんていない!」

 「そっか……。わたしなんかに大したことできっこない」

 「そうだそうだ!よっぽどの強運でもない限り人は大きなことなんてできない!」

少女を安心させるためか。それとも自分の本心か。僕には区別がつかない。ただし、僕はその言葉に賛成できないのだった。

人は大した仕事をするべきだと僕は思う。どんな事情があろうともプロなのだから、お金を貰う以上はしっかり仕事して欲しい。この厳しい社会の中では、若過ぎるからだなんて理由にならない。

 「みんな同じだよ!立派なことを成し遂げられる人間なんてほんのわずかだ!彼らだってきっと自分の力じゃない。周りの人たちの助けを借りてるだろうし、それ以上に時代や環境に恵まれただけなんだよ。才能じゃない、運だよ、運。普通の人は大したことをする必要なんかない!ただ平凡な今あるのみだ!人間なんてつまらないものだ!あははは、そんなもんさ!あははは、真面目に考えるなんて馬鹿馬鹿しくて笑っちまう!あはは!笑止!笑止!!」

 僕も彼女も呆気に取られた。何だ、コイツは。自分で言い出したことに自分で笑って腹を抱えている。

 こんなことでいいのだろうか。人間、そんな無責任なもんじゃないだろう。みんながどううってことじゃなくて、みんながみんな、自分だけはしっかりやって欲しい。

 「そうかな、」

 だから僕は口を挟まずにはいられない。他人の意見は尊重したいが、できない時だってある。

 「人が大した仕事をできない?そんなことがあるのかな」

 僕は反対だった。やはり違うと思う。

 「人間の可能性は偉大なものだよ。自らそれを狭めちゃ駄目だ。それに、僕たちの若さでそんな絶望的なことを言っていてどうするんだよ。きっとできる、必ず何かできるさ」

 「いやぁ、どうかな」

 彼は随分あっさりと返す。

 「とてもそうは思えない。できる人もいるけど、普通の人はなぁ。ムリだよ、ムリ。人間にはムリ。人間じゃムリ」

 そのつまらない言い分。

 「何かしなくちゃ駄目だ。最初から諦めていては何も始まらない。何かさ、やりたいことってないの?」

「特にないね」

 彼は首を振った。彼女も目を伏せたまま何もリアクションをしない。聞いていない様子でもない。聞こえているのに無視か。それならこいつも同類だ。

 「それは僕だってミュージシャンのようになりたい。想像力ひとつで小宇宙を創り上げてしまうミュージシャンに。あの可能性は確かに人間にしては偉大だよ。でも、僕みたいな平凡な人間じゃ無理だ。大体、そういう君だって本当は何かをできるって思ってんのかよ?やりたいことなんてあんの?」

 挑発かよ。僕は闘わなくちゃいけない。

「僕にはある!」

「何?」

「僕にはある。社会人になって消えてしまうどころか、逆に大きくなってきている夢だ。僕は若い。身体は段々鈍ってきてるが、僕はまだ若い。若さの証として何かを今、刻み付けたい。何かをする夢だよ。見返りを求めない夢だ。何でもいいんだ、方法は。結果も対価もどうでもいい。ただ、何かを自分自身の力だけで成し遂げて、確かに自分は何かやったぞ、っていう実感を得たいだけだ。何かをすることだよ!」

「何するんだよ?」

「だから、何でもいいんだ!」

「だから!何するんだよ?具体的に!どうせないんだろ?!」

「ある!例えば……

「例えば?!」

「例えば……花、とかだ」

 あぁ。勢いで言ってしまった。

「――花?」

露骨に怪訝な顔をされた。彼女もおかしなものを見るような顔で僕を一瞥した。

……そうだ、花だよ。一番シンプルなものだろう?何もない土地を自分自身の力だけで耕して草花を植えたい。機械なんて使わずに、全部自分の手だけで花畑を創ってみせるんだ。どうだ、最高のアイディアだろう?分かるか?」

 何だか僕は興奮している。後には退けない。勢いに任せて一気に言っていた。そんな真剣に考えていたことでもないのに。

 「せっかく五体満足に生まれてきた人生だ、何でもできるじゃないか!とにかく何かしろよ!何もしなくちゃ始まらない!頭の中だけで悩んでて何かが変わるのなら教えてくれ!」

 「どーせ、口先だけだろ?自分だって本当にそんなことやる気あるのかよ?言うのは誰にだってできる。君は空想の人だな!」

 本当にふてぶてしい野郎だ。それに、まるで興味なさそうな顔でこっちを覗く彼女にもいい加減腹が立つ。

 「冷めた奴らだな!本当にやるんだから一緒にするな!」

 「どうだか。ねぇ?」

 男に振られると少女は力なく口元を緩めて冷笑した。そのやる気のない目の色。まるで僕の言葉が信じられていない。思わず売り言葉に買い言葉で口を開いていた。

「やる気があるなら来週この時間にここにいてみろよ!僕の夢を一緒に創らしてやるぞ!オマエらこそ口先だけじゃないのか?!」

 自分で言ってて何だか恥ずかしくなってきた。僕はこんなに非現実的な夢を持った男だったのか。なんだか今日の僕はおかしい。でも今更口は止められない。

 「とにかく若いんだから何かやろうぜ、つべこべ言わずにな!」

 そう言うと僕は金を払って店を出た。あいつらは何も言葉をかけてこなかった。

妙に興奮していた。僕はあの二人の無気力に怒っていたんだ。大したことをしなくても仕事が成り立つと言ったあいつらが許せなかったんだ。

 人間、そういうものではない。やはりそう思いたい。若さが死んでいては世界は終わりだ。せめて僕は自分の若さを朽ち果てさせないようにしよう。僕はやるのだ!必ずやり遂げてみせよう!急に言葉にしてしまったが、これは以前からぼんやりとは考えていたことだった。それが急に今、クローズアップされてきた。あの自然をこの手で復活させてみせよう。僕のこの、怠け切った手で。

 無性に故郷に帰りたくなってきた。あの桃畑。学生時代にいつも走っていたあの桃の老木の場所。幼い僕を豊かに耕してくれた場所。あの場所を、今の僕の若さで素敵な場所にしてあげられないだろうか。

今までこんな具体的に考えたことはなかった。勢いに任せて、思いつきでさっきああ言ってしまった時、僕の心はまた震えた。フルムーンサイクリング以上の甘美な夢を見つけてしまったからだ。

 何をしたいのかではない。何のためでもない。目的はともかく、若さは行動だ。僕は本気だった。汗を費やして、あの桃園を再建しよう。それが今の僕の若さの証ではないか。あんな二人のことなんてどうでもいい。僕はやる。一人でもやってみせよう。

 そんな夢を見ながらアパートまで歩いて帰った。――夢。これは深夜の夢。幻を見ていたのだ。叶う筈のない、アルコールが見せる夢だ。


 翌朝、目が覚めたベッドの中で後悔していた。なんで昨夜はあんなに熱くなってしまったのだろう。初めて会った人たちに本心をさらけ出してしまうなんて。

 せっかくの週末は、あっという間に終わってしまった。何をしていたのだろう。ビデオを借りて、食事を作って、洗濯して、なんだかそれで終わってしまった気がする。多摩川沿いを走って鈍った身体を鍛えるつもりだったのに、結局走らなかった。

あの夜に僕が言ったこととはまるで逆だ。何もしていない。せっかくの週末を何もせずに終わらせてしまった。よくあることだ。何もしなかった、という実感は毎回自分を苦しめるのだが、本当はそんなこと考えなくてもいいのかもしれない。

 きっと、考え過ぎなのだ。こんなことで悩んでいるのは僕だけに違いない。週末は平日の疲れを癒すためのものだろう。何かをする必要はない。元々何もしなくていいんだ。やりたいことだけを適当にやっていればいいじゃないか。

 そうだ、僕は考え過ぎだ。一日をやり終えたはずなのに、毎晩僕はそのまま眠れない。何かやらなくちゃいけないことがあるんだって思い込んでいるから、夜だって何か時間が惜しくて、でも仕事をした後の夜なんて大したことできるわけないのに、やっぱり何かやらなくちゃいけないんじゃないかって思い込んでいる。こんな生活ばかり繰り返してきた。早く眠れば明日が楽なのに。解決できないこの心。

 金曜日はどうしよう。言い出した本人が行かないのはまずいよな。でも、名前も連絡先も知らない人たちだ。気が向いたら行けばいい。大体さ、仕事が忙しいんだから行けるとは限らないじゃないか。

 そして平日は始まってゆく。週末のスローな時間が嘘のように、長々と時間を拘束され、無駄な通勤時間を垂れ流し、やりたいことはできず、月曜日から金曜日までの五日間がノルマのように思えてくる。人生は、五日のノルマをクリアしなくては自由な二日を手に入れることができないのだろうか。五対二という比率に正当性はあるのか。そもそも人生の中心はどっちなのか。毎度ながら、本当に分からない。

 僕は悩んでいた。月曜から火曜、水曜と進むにつれて益々結論が出ない。

――結論が出ない。それは違うのか。答えはとっくに出ているのだ。ただ、踏ん切りがつかないだけ。僕は行くしかないだろう。見ず知らずの彼らが来るとは思わないが、少なくとも自分自身にけじめをつけるためにも、僕は行かなくてはならない。

 木曜日、僕はかなり働いた。金曜の夜になるべく早く会社を出たかったからだ。待ちきれなくなっていた。一度行くと腹を決めたら、一気に新しいイメージの波が押し寄せてきた。

 馬鹿正直に本心を吐露してしまったあの夜。青臭い。センスがない。だが、あれはあれで良かった。凡庸とした平日の渦中に思い出せば、なんとドラマティックで、なんとエキサイティングな一時だったのだろう。あの続きがしたい。できないか。あの少女が来るとは思わないが、あの変わった彼なら来てくれる可能性もゼロではない。それに、別に誰かと一緒にやる必要もないじゃないか。自分自身だけでできることだ。

 金曜日の朝は爽やかな気持ちだった。いつもは憎たらしく見える出勤途中の駅さえも晴れやかに思えてくる。あと何時間かすれば僕はここに戻ってきて、新しい自分自身を探す冒険に出ている。変化のない生活にピリオドを打とうとしていることが新鮮で堪らなかった。

 来週に回せる仕事は可能な限り回して、夜八時にはタイムカードを切った。普通に残業してしまったが、うちの会社では結構早い方だ。この時間帯なら途中で乗り継がなくても直行電車がある。身体が先を急いでいた。遂にこの時が来た。テストの結果待ちを何倍も濃くしたような動悸。あの悪戯の結末はどうなるのだろうか。

 Time’s Barに着いたのが九時半。僕は軽い気持ちで階段を下った。いるわけがない。誰もいるわけがない。

 薄暗い店内に入ると、カウンターに人影があった。あいつだ。彼だ。あいつがいた。

 「――待ち兼ねたよ。ようやく来た」

 あいつは楽しそうに笑って僕を迎えた。本当に、いやがったぞ、コイツ。

 「昭です。よろしく」

 思わず名乗っていた。

 「慶です。興味がある。やってやろうじゃないか」

 楽しそうな彼の声。僕は冷静にこう言う。

 「男が二人もいれば何かはできる。あの娘は来ないだろうが、大の男が力を合わせれば何かしらできるさ。お互い自分自身の為に頑張ろう」

 「その言い方は素直で良いね。お互い自分自身の為に頑張る、か。互いのことはともかく、共通の目標がある限りはチームを組んでみるってね。腹黒を隠して」

 「おいおい、悪用はしないでよ!ちゃんとルールはわきまえてくれよな!」

 笑いながら彼に言う。妙に素直で良い。

 「分かってるよ。大丈夫。で、一応もうちょっと待ってみる?一応」

 彼も気にしているようだった。でも、来るわけがないのはお互い承知だ。

 「一応ね、一応」

 「じゃぁ、飲もう。マスター、僕は黒ビール。ギネスね」

 「カシスソーダお願いします」

 横顔のまま慶が続ける。

 「Barで男を待つなんてロクなもんじゃないと思っていたけど、これがまたなかなか悪くない。いやぁ、待ったよ。八時の店のオープンから来ていた」

 「早過ぎ。そんな時間無理。これでも今日は結構無理して早く上がってきたけど。実はさぁ、自分から言い出しておいて変だけど今日が待ちきれなかった」

 本当にそうだ。待ち切れなくなっていた。

 「僕も考えました。あれからあの言葉が頭から離れなかった。あれは、とてもいいですよ。聞いた時はすぐに分からなかったけど、一日また一日と経つにつれて分かってきた。あの言葉はあなたの一番の本物の部分から放たれたものだと思う。あの娘は黙っていたよ。ちょっとして帰る、と言うから大丈夫かなとは思ったけど、そのまま一人で帰らせた」

 「彼女は来ないでしょ。あの年じゃ僕の真意はまだ伝わらない。どう見てもまだ十代だろ?それに、男二人の中に入って来ようとするわけがない」

 「だね。あなたが変わっているから」

 慶はぼそっ、とつぶやいた。僕は鼻で笑い飛ばしてやった。変わっているのはどっちだ。僕もそうだが、それ以上にお前だろう!

 グラスを合わせて乾杯した。場末の町で偶然知り得た男だが、貴重な友人となってくれるのだろうか。僕の人生にかすかな灯りでも点してくれる一因となってくれるのだろうか。

 美夜子には分からなかった。なんで、土いじりなんてしたいんだよ。土とか、虫とか大っ嫌い。汗かきたくないし、服も汚したくない。

 わたしはただお金が欲しいだけ。めんどくさいのはヤダ。カレシや友達と遊ぶ時間だけが楽しい。仕事も、言われた以上のことなんてしない。時間だけあげるからお金を頂戴。時間と交換。時間なんて幾らでもあげる。お金を頂戴。車が欲しい。

 金曜になると、昼間からビールを飲んだ。仕事は入れていない。そのくせ、あのBarに行く気はなかった。心のどこかでは行きたいと思っている自分自身を認めようとしなかった。缶ビールを開けるとベッドに寝っ転がる。

 親は構ってくれない。仕事のことも知っているくせに、強く言えない父と母。それがイヤ。うるさいことは言われるのもヤダけど。

 でも、何も言わない親の弱さがもっとイヤ。どうして強く叱ってくれないんだろう。昔は違った。まだ小さかった頃は父も母も厳しかったのに、高校生になったぐらいから、わたしが黙っていると何も言ってこなくなった。

 それが都合良かった。高校の頃はよく外泊もしたし、ハデな格好もした。でも何も言われなかった。今でもそれが続いている。わたしがキャバの店で働いていることも知っているくせに、何も言わない。よくもまぁ、自分の娘がキャバクラで働いていても黙っていられるもんだ。だから、わたしのことなんて興味ないんでしょ。こっちだって親に頼らない。お金とか家とかはしょうがないけど、後は親なんかに何も頼らない。

 部屋でひとり、ビール飲んでる姿なんて誰にも言えない。今日はカレシも休みじゃないし、わたし、どうして休みなんてとったんだろう。行かない。わたしは行かない。そんなヒマなことしてられない。

 酔っ払ってベッドで寝返りを打つ。近所のガキの声がうざい。赤ちゃんとか最悪。

天井が見える。あいつは呑気でいいなぁ。何も考えない白い天井のようになりたい。カレシと二人で見る時には全然興味ないのに、こうして一人で寝ていると天井って結構カワイイんだ、って思えてくる。――行かないから、絶対に行かないから。

しばらくして、美夜子は自分が寝ていたことに気が付いた。いつの間にか時計が二時間も飛んでる。

美夜子にとって、時間はどうでも良い存在だった。何を感じるわけではなく、それはごくありふれたもの。安全や空気や水と同じように、いつでもどこでもタダで手に入るものだった。

家に居てもつまんない。親に黙って外に出た。でも違うから。あのBarに行くためじゃないから。それははっきりさせとく。チャリに乗って駅前の本屋に向かった。立ち読みでもしよう。読みたい本なんてないけど、なんとなく。なんとなく。

駅前の本屋は遅くまでやってるからいつも結構人入ってる。立ち読みばっか。ファッション誌を手に取った。いいなぁ、わたしもこういうカワイイ服着て渋谷に行きたい。カレシにもこういう服を見せたいし。でもお金足りない。入ったばかりでまだ初給料ももらってない。買いたい物だらけ。無駄遣いもできないし。お金を貯めて車を買うんだから。そのために働いているんだから。

カレシのバイクのタンデムシートに乗って出かけるのもいいけど、やっぱり車がいい。カレシは専門学校に入ったばかりで、まだバイトも見つかっていないからお金はないし、車なんて普通に無理。

キャバで働き始めたことは黙っている。深夜の工場で部品組み立てのバイトだって言っておいた。心配してくれてるのがちょっと嬉しいかな。絶対にバレたくない。キャバって知られたら絶対にあいつはキレる。隠し通すつもり。

ふと雑誌から顔を上げた時、イヤな奴を見た。昨夜店に来たオヤジだ。酒が入ってきたらヤラしい手つきで触ってきた汚いオヤジ。目が合うとヤバイ。逃げよう。

雑誌を置いて出ようとした時、オヤジと視線が合った。ヤバイ。早く出よう。オヤジもこっちに歩いて来るのが見えた。美夜子は早足で店を出た。なんだよ、あんなに酔ってたのにわたしを覚えてるんだ。ヤな奴。知らないフリすればいい。

後ろを振り向かずに、美夜子は駅の方向に早足で歩き出した。あぁ、イヤ。お願いだから話し掛けないでよ!

「――ユミちゃん?ユミちゃんでしょ?」

そんな声が聞こえた。今歩いているわたしはユミじゃない。そんな人は店の外を歩かない。だからほら、わたしじゃない。

「――ユミちゃん、ユミちゃんたら、服変えても分かるよ。ほら、昨日の。覚えてるでしょ?」

知らない。昨日と一緒にしないでよ。美夜子は無視して足を早めた。

「ほらぁ~、やっぱりユミちゃんだ。分かるって」

オヤジはすぐ横で顔を覗き込んできた。キモい。ムリ。

「違います。ごめんなさい」

下を向き、そう言って過ごそうとした。

「冷たいんじゃな~い?またお店行くからさぁ~」

何だよ、何が言いたいんだよ。シツコいんだよ。

「ごめんなさい」

そう言ってやり過ごそうとした美夜子の腕が、オヤジに掴まれた。


――その少し前。四季は金曜の夜にしか乗らない電車に揺られていた。いつもは中目黒のマンションで過ごすが、たまの週末には実家に帰る。遠いのがネックだが、週末ぐらいは都心を離れたい。今週もくたくた。忙しくて毎日帰りが遅かったから。

四季は誰もが知っている大企業の海外人事部で働いていた。入社五年目になり、重要なプロジェクトを一人で任されるようにもなってきた。やりがいはあるし、段々責任も重くなってきた。後輩たちも入ってきて、いつの間にか自分の知識と経験が先輩としての価値を持ち始めてきたことを知った。

一方で、最近の四季は大きな選択を前にしていた。今の仕事や、高校の時の英国留学経験とアメリカの大学卒の肩書きが買われたのか、友人経由でブランドショップの国際調達部からの引き抜きの誘いがきている。アメリカの有名ブランドの日本支店だから信頼もできるし、これまでの話では業界未経験者なのに今のお給料よりも貰えるようだから悪い話ではないみたい。そろそろ結論を出したいとは思っている。

――でも、週末ぐらいは何も考えたくない。

昨年までは実家に帰るのもお正月ぐらいだった。週末はマスターコースのスクールに通いがてらジムで汗を流すのが日課だったわ。ヨーロッパの拠点統合の大きなプロジェクトが終わった後、自分へのご褒美のつもりで週末に実家でのんびり過ごしていたら、それが好きになっていたみたい。仕事をバリバリこなすという当初の目標が、随分早く達成できているから今はそれでも良いと思っているの。

今はショッピングが唯一の楽しみ。バッグと靴はかなり増えてしまったし、会社に着ていくスーツは収納に並んでいる。でも理性が利くからショッピング依存症なんてならないし、お給料にも余裕が出てきたから貯金もできている。順調。とにかくこれまでの私は順調なのよ。

こんなこと決して自分から口に出さないけど、私はスタイルにも自信がある。食事や運動にも気を使っているから、同年代の一部の女性たちがなり始めてきたような体型とは縁がない。

仕事中は冷たい顔になる時だってある。でも、本当はそうじゃないって周りから思われているのも私は知っている。対応は良くしてあるし、愛嬌も忘れていないから冷たい女性とは思われていないはずよ。

悲しいけど、社会が最終的に女性に求めるものが何であるかは理解しているつもり。いくら男女平等の現代といっても、建前と男性社会の普遍的な本音が相反するものであると私は分かっている。それを分かっていなくちゃ上手くやってゆけない。

会社では誰もが私を一人前に扱ってくれる。上司も先輩や同僚の男性たちも、周りの女性たちも立派な一人の大人として私を見てくれる。それは嬉しい。入社する前の一番の心配事はそれだったから。総合職としての採用だったけど、本当に私を一女性社員としてではなく、一人の社会人として扱ってくれるのか、それが一番大事なことだった。

嫌いなのは女性を女性としか認識しない男。その種の男を私は嫌い、そして憎む。バブル時代のOLのように、お茶汲みだとか、雑用だとか、書記の役割だけを押し付けようとする男が今の時代にも存在することに私は怒りを覚えている。時代の変革を理解しない無能な男。全ての男がそうではないけど、いまだに一部の男どもはそういう考えを持っているの。それが私には手に取るように分かる。

私は違う。私はそういう女性ではない。そう信じて今まで過ごしてきた。それが私のささやかなプライドだったわ。その信念を曲げてまでも仕事をしたいとは思わない。私は社会人。仕事に、性別による差はないわ。細かい点では色々あるのは認めるけど、大きな部分で差なんてない、絶対にない。

私には男性と同等の仕事を与えて欲しい。女性だからといって甘やかさないで欲しい。そういう配慮は、他の女性にはともかく、この私にとっては侮辱でしかないのだから。そういうことを周囲にそれとなく訴えてきたつもり。今はそれがちゃんと受け入れられていると思っている。今の職場に対して、その意味での不満はないわ。

その裏腹で、私もまたどうしようもないものを抱えている。女性でありたい。女であり続けたい。いつまでも美しく、柔らかく、華の雰囲気をまとっていたい。これが私の心底からの願望。もっと言えば、全ての物事に優先する一番の願望。社会で女性としてだけで見られたくない、という憤りとは正反対に位置する意識なんだけどね。

誰にも言えないこと。でも一番大切なこと。私は女。いつの日も、誰であれ私を一人の女として見て欲しい。私はずっと美しくいるから。仕事では女としてだけで見られたくないけど、オフィスで着ている服には女性としての可愛さを見つけて欲しい。新しい服で出社したらちゃんと可愛いって誉めてよ。

――こんなの、誰にも言えないことだから。

矛盾した気持ち。整理できないふたつの願望。世界の不条理以上に、私が矛盾している。この化け物を抱えながら私は生きて行かなくてはならない。現代を生きる一社会人として、そして一人の女性として、凛として歩いて行かなければならない。これが四季という人間の本性。誰も知らない。決して知らない。

終着駅の垢抜けしない雰囲気に四季は深呼吸していた。人気も建物もない暗闇は森林のようで、柔らかな空気が沸々と湧き出してきているのが分かる。わずかに見える自動販売機の灯りはキャンドル。クラシックな駅は、四季を遥か昔、子供の頃へとタイムスリップさせるかのよう。マックスマーラの上等なスーツを着ている自分自身が場違いで恥ずかしくなってきた。私こそ、現代のStrangerだ。

改札を出て、駅前の狭い広場を歩く。なんとなく雑誌でも買おうと本屋へ向かう。たまには童心に返るのは良いことだわ。親戚の女の子に買うような振りをして、マンガでも買ってみようかしら。恥ずかしい。きっと無理ね。買える人が羨ましい。私じゃ、買ったところで明日にはゴミ箱行きね。旅行の雑誌にしよう。温泉行きたい。


本屋のドアが乱暴に開けられ、一人の女性が早足でこちらに向かってくるのを四季は見た。その後ろからスーツ姿の男性が現れると、小走りで女性に近付いて話しかける。女性の態度は冷たい。下を向きながらひたすら歩いている。

――止めてよ。

四季はそう言ってやりたかった。その女性はまだ少女と呼ぶ方が相応しく、男性はもういい年だ。親子には見えない。よく分からないが、とにかくあまり社会的に好ましくない光景に遭遇してしまったようなのだ。

男性はしつこい。横から覗き込むように声をかけている。厭らしい笑い方。

――止めてよ、私の前から消えてよ。お願いだから、そういうことは私の前ではしないでよ。

逃げようとする少女。無視を続け、男の顔も見ずひたすら足を速めた。次の瞬間、男性の顔から厭らしい表情が消え失せた。次は世間の部長の顔だ。ひたすら上から怒鳴り散らすだけの、あの一方的で、愚鈍な表情だ。部長は大股に闊歩した。そして、少女の腕を掴むとこう言った。

「――調子に乗るなよ!そんなに客が嫌ならキャバクラなんかに出るんじゃねぇ!」

知らずと足が動いていた。ヒールの音をわざと高々に鳴らしながら、四季が少女に近寄る。部長に威嚇の声をかけられて黙ったままの少女に向かい、必死の声色を繕った。

「――美恵!!どうしたの?!」

適当な名前を呼び、小走りで駆け寄る。思わず部長は手を離した。

「姉です!何ですか?!貴方はどなたですか?!」

有無を言わさぬ口調で四季はまくし立てた。今までの社会経験で学んだ、女性特有のずるい口調だ。思い詰めた女性にはどんな男も困惑するのを知っている。さすがに部長も居づらそうな顔になった。だがこれは演技だ。四季の巧妙な演技だ。

部長は笑った。誤魔化しの笑い。意味のない笑い顔だけで上手に、曖昧に笑っている。しかし、四季の演技はそれを上回っていた。

「一体何なんですか?!はっきりしてください!!」

四季はヒステリックな声を出した。曖昧な笑いで水に流すつもりだったらしい部長の咽喉元に突きつけるような狂気の声。四季のテクニックとも気が付かず、今度は部長も困った表情になった。

「――分かったよ、分かりましたよ、じゃぁユミちゃん、またお店でね~」

そして部長は大笑した。引き際を悟ったらしく、豪快な笑いぶりを偽造し、若干腰を屈めて、しかし自分のプライドが傷つかないように絶妙に防御しながら消えて行った。狸同士の化かし合いは、差し詰め勝敗なしといったところ。部長は長い社会経験から大技を繰り出して追っ手を阻んだ。

四季は部長の後姿をずっと目で追っていた。追ってこさせないための用心だ。ふと、横の気配を感じて四季は振り向いた。少女の冷めた目が四季を見ていた。

――その少女の表情を見た時、四季はどこか胸の痛みを感じた。

「助かったけど、そんなにうるさくしないでよ」

それだけ言うと少女は立ち去ろうとする。四季はそれでもいいと思った。もちろん全く知らない少女だ。しつこそうな男性にからまれているのを見て、とっさに機転を利かせて助けてあげただけだ。別に少女を守りたかったからではない。ああいうタイプの男性が嫌いで嫌いで、見ていられなかったからだ。

子供相手に本音を言わなくてもいい。しかし、何もなかったかのように歩き始めた少女の後姿を見ていたら、嫌な塊が胸の奥から込み上げてくるのを抑えられなかった。

「あれは演技。あなたも、このぐらいすぐにできるようになるわよ」

あぁ。意地悪なことを言ってしまった。ありがとうも言えない少女に気分を損ねていたのだろう。我ながら珍しいと四季は思った。

それを聞くと少女は立ち止まって四季を振り向いた。

薄暗い電柱の灯りの下で二人の女が向かい合う。四季はいつも通りの表情だ。自信に満ち溢れた顔。それでいて冷静な知性と、大人の女性美が混在している。少女の口元は不満気だった。誰にも騙されないぞ、という虚勢が顔の全体に巡らされている。

ありのままの表情を四季は続けた。それはほんの数秒だったのだろう。ふと、瞬きの間に少女の表情が一変していた。およそ四季には不可能な変わり方。少女の顔に取り付いていた醜いものが瞬時に消え失せて、そこには愛らしい表情の女の子が微笑んで立っていた。

「お姉さん。ついでにお願い♪」

――何よ、この娘は。四季は動転した。どうしてこういう表情ができるのよ。こんな素直な表情、社会にはないわ。この娘は何か自分の要求を聞いてもらうためにこんな表情をしているのでしょう。

でも、自分の要望を通すためには二通りの方法しかないはず。恫喝と謙譲。頭ごなしに命令する下品な方法と、自らをやや引いて相手の常識に訴える限定的な方法。社会の交渉の場で交わされるのは常にそのどちらかだったはずなのに。

四季はすっかり参ってしまった。少女の真っ直ぐな表情を見て、心にさざなみが立った。同情なのか、社会の先輩としての義務なのか、四季から面倒臭いという意識がこぼれ落ちた。四季の心が、少女の明るさの前に膝を折った。生身の社会というものを体得したはずの四季が白旗を揚げる。こんなこと、全く経験のないことだった。

どうして。どうしてこの娘はこんなことができるの。きっと彼女の若さと社会経験のなさが生み出す、ビギナーズラックのような一時の力。限られた回数しかない奇跡の技。

「ねぇ、お姉さん。わたし一人じゃ行けない場所があるんだ。聞いてよ~」

どうやら少しお酒が入っているようだった。立ったまま少女はよくしゃべった。先週、客に連れられていったBarで出会ったおかしな人たちのこと。上客には愛想を尽かされたが、その後で話した変な男二人のうち、マジメな方が突然言い出した土いじりという地味な夢のこと。そして、何故かそれに加わりたいと思い始めてきたこと。彼女自身もよく分かっていないようなのだが、その話が妙に頭から離れないということ。でも、変な男二人の中に自分一人だけで入って行くのは躊躇があるということ。

初めて少女を見た時から四季には感じるものがあった。可愛いい顔立ちの奥に潜む不安の影。そこには無力さと自信の無さが充満していて、それを少女の若さと肌の輝きが包み込んでいる。鉛と金が不思議と同居していた。哀しいミスマッチ。四季にとってその少女の表情は見てしまってはいけない深い傷のようであった。

都会ですれ違う群集にはいないタイプ。かつての幼い頃の自分自身の無垢な姿を重ね合わせたのか、それとも多分に卑下の感情が含まれた同情心か。少なくとも、善意の優しさだけではなかった。氷の短剣で胸を突かれたかのように、四季の心は麻痺していたのだ。

彼女は少女に伴われてBarの階段を下ることになる。こんなことはまるで初めてだった。我ながら軽率な行動をしているとは思ったが、少女の誠実な部分を見てしまった以上、少女を疑うことはできなかった。


午後十一時。Barは賑わっていた。酔客の中に昭と慶の姿もある。十二時まで待ってみようと言い出したのが昭で、それを一時まで延ばそうと言ったのが慶だ。そのくせ、あまり待っている素振りはない。飲みながらただ楽しそうに話し続けているだけだった。

「いやぁ、自然に帰るというのは本当にアイディアだよ。文字通り地に根を張った立派なアイディアだ。どうして僕にはそれが思い浮かばなかったんだろう。僕はね、それこそが『大きなこと』じゃないかってさえ疑ってきた。まだ分からないけどね」

「そう?そう思うならよく考えてみるといい。僕がこんなことを思い始めたのも本当にここ一~二年のことだよ。それまでは自然なんて意識したこともなかった。自分を東京の街にどうやって重ねてゆくのか、それだけしか考えていなかった」

「同じ。先は見えてないけど、選択肢に自然はなかったなぁ。この前言われた言葉が、あれから頭の中でぐるぐる回りだした。これが最終結論とは思っていないけど、今は君がやろうとしていることに賭けてみたい。自分でも不思議な冒険だよ」

僕は嬉しかった。先週出逢ったばかりのこのちょっと変わった男は、僕の空想を本気で一緒にやろうと思ってくれているらしい。

「東京に住む人たちに、守らなくてはならない環境がないからだよ」

突然何だ。どういう意味だ。

「守らなくてはならない環境?」

鸚鵡返しに聞いてみた。

「そう。東京には日本全国や世界中から人が集まっているからね、誰もが東京を自分の故郷だとは思っていない。そんな人たちが住むから無責任な生き方になってしまうんだ。自分の周りの自然や生活環境を保全しようという気が全くない」

「そういうことね。分かった」

「昔からそうなんだ。そのツケが今になって東京中に現れている。五十年という時間に自然喪失を急加速させてしまったこの東京では、取り返すために五十年、いや百年の時間を必要とするのだろう。哀しいじゃないか。僕たちが生きている間にですら取り戻すことはできない」

慶が饒舌にしゃべり始めた。あぁ、言ってくれ。もっと怒りをぶちまけてくれ。

「都心に流れる川を見たことはあるかい?僕はない。何故なら、コンクリートで岸を固められたあの水の流れは、川と呼ぶことができないからだよ。単なる排水路だ。マンホールで目隠しもされず、野ざらしにされた排水路だ」

「そうだね。僕の故郷の川と比べたら大違いだ」

「そうだろう。川辺に葦が生え、浅瀬があり、小さな水生昆虫がいて、様々な生態系が混在しているのが川だ。川って本当はそういうものだよ。……で、どこなんですか、故郷は?」

急に口調を変えて慶が聞いてくる。

「山梨の御坂、っていう町だけど知らないでしょ」

「知らない」

「何もない町だから。桃畑だけだね。あるとすれば」

「あるじゃないか!桃畑なんてものがあればそれだけで立派なものだ」

「そうかな。子供の頃はそんなことちっとも考えなかった」

「子供の頃は誰だってそんなものだよ」

この男は変わっている。改めてそう思った。まだ大学生なのに色々考えている様子といい、なんか普通ではない。僕が大学生だった頃とは全然違う。身体を鍛えることと、酒を飲んでばかりで過ごした僕の大学時代。何かを真剣に考えたことはあったのだろうか。考えることよりも短絡的な行動ばかりが先走っていたというイメージしかない。

「僕はね、育ちは東京だけど、北海道の釧路で生まれたんだ、」

慶がそう言った時だ。入口の扉が開く鈍い音がして、僕たちは一応振り向いた。

――本当に来た。あの少女だ。

意外だった。まさか本当に来るとは思っていなかった。あまりに嬉しかったので笑いながら彼女に手を振った。ふと、その手が止まる。少女の後ろからもう一人女性が入ってきたからだ。どうしたのだろう。

「さっき知り合ったお姉さん。一人じゃ来辛くて」

僕たちの前まで来ると、少女はちょっと手を出して紹介した。上品なスーツを着た、知的な顔立ちの女性だ。僕より少し年上だろうか。紹介されると女性は愛想よく笑みを浮かべて会釈をした。こんな場には相応しくないほどしっかりした仕草。

「四季です。連れてこられてしまいました」

「ようこそいらっしゃいました。さっき知り合ったって凄いですね」

歓迎したいし、何があったのか遠回しにも聞いてみたい。まずは普通に挨拶しておいた。

「ええ、ちょっと。お二人はこの娘のお友達?」

はい、そうです、と僕が言いかけた時だった。凄い勢いで横から慶が割り込んできた。

「いえいえ!今から友達になるところですよ!」

その勢いに女性も面食らったようだった。あいつが一気に口を開く。

「いや、正確に言うと友達にはなれないかもしれません。彼女がここに来た以上、仲間になれる者同士かなとは思いますけど。で、はっきり言っておきますけど、別にこの娘を狙っているとかそういうことじゃないんですよ。先週知り合ったばかりですからね。決してまだ友達じゃないし、これから一時的な仲間になろうとしている関係です、ご心配なく」

こいつには説教癖があるぞ。まずい、いきなりこんなのじゃダメだ。

「まぁ、まぁ。とにかく座りましょう。あ、マスター、ちょっと席移ります」

慌ててそう言いテーブル席に女性二人を座らせる。僕たちもグラスを持ってテーブルに着いた。彼女らのオーダーを聞いて注文する。少女の方はカクテルを、女性はアルコール飲まないから、とマスターにスペシャルのソフトドリンクを作ってもらうことにした。

少女は口を開かないし、慶は一転して周囲を眺めるだけで上の空になった。女性は僕たち男二人を観察しているようだ。話しづらいな。別に世間話がしたいわけではないし、どうせ最初から肝心な話だけしようと思っていたから、いきなり言ってやることにした。

「初めから言っておくよ。別に知り合いじゃないんだし、気が乗らなかったら遠慮なくこの店を出てゆけばいい。誰も止める人はいないよ。時間の無駄は避けた方がいいからね」

「そうだ」

慶が小さく頷いてそう言う。少女はテーブルを見つめて黙ったままだ。女性は平静な表情で聞いていた。

「僕には今までの人生で築き上げてきたものが何もない。本当にひとつもないと思っているんだ。それどころか、学生の頃に鍛えた身体の衰えが激しい。あの頃は幾ら走っても音を上げなかった身体が、今はそれこそ数百メートル走っただけで息が上がる」

こんな言葉、どこでも言えるわけじゃない。薄暗いBarの雰囲気と、この言葉を聞いている人たちがどうせ他人だという意識が、僕の独り言をスムーズにしてくれる。

「大学卒業以来、五年仕事をしてきたけど、僕は悩んでいるんだ。男の生き甲斐は仕事だ、って言うでしょ。でも、今の僕にそうとは思えない。仕事は作業で、作業は所詮作業だよ。決して生き甲斐があるわけじゃないし、別に会社組織の中で上へ上がることが良いとも思っていない。それよりも、僕が昔から興味があったのは自分の身体を鍛えることなんだ。子供の頃から近所を走り回って、学校に入ってからはクラブ活動で身体を鍛えた。当時は何も考えていなかったけど、走ることが自分を向上させていたと思うんだ。そういうピュアなことこそが人生では大切だと思うのに、今は会社への往復の毎日と、疲れて何もしない週末の繰り返しの生活だ。僕の身体が日常に埋没してゆく。これじゃいけない、これじゃいけないと思ってもうかなりの時間が経った」

マスターがドリンクを運んできてくれたので女性二人に渡す。

「乾杯しよう。何のためか分からないけどさ」

慶がそう言って自分からグラスを上げた。何のためでもなく静かにみんながグラスを合わせる。

「――で?」

慶がそう振ってきた。

「もうしばらくしゃべらせてください。つまり、今の僕には何も生き甲斐が見当たらないということだよ。社会人になった途端に僕の毎日は崩れだした。入社当時は社会人としての知識や常識を身に付けることに必死だったけど、五年も働けばそれももう大体身に付いた。ここら辺で自分に相応しい道を選ばなくてはならないのに、選ぶべき道が分からない。これがどうしようもないんだ」

自分でも驚くぐらい言葉が出てきた。元々頭の中にはあったのだろうが、今夜は頭の迷いを随分素直に口が代弁してくれる。アルコールのせいか。今週分の仕事疲れの反動か。

「最近僕は分かってきたんだ。自分のやりたいことが。やりたいことというか、その前の段階の話かな。話が飛躍するよ。最終的に僕は自分の肉体を蘇らせたい。そのために今できることがある。僕にとって肉体の象徴は、故郷の桃畑なんだ。学生時代にいつも走っていた桃畑。その場所の自然を蘇らせたい。今はきっと荒れ放題になっている。蘇らせてそこでどうしたい、ということではないんだけど、とにかく今はその場所を再生させたい。その見返りを求めない作業を日常的に続けることが、ひいては僕の再生につながると思うんだ。今まで何もなかった人生だから、この人生に区切りと確かな証拠を残したいんだ。お金じゃない、恋愛でもなく、酒でも仕事でもない。自然だよ。肉体だよ。自分の身体だけを使って、自然を蘇らせたい。この身体ひとつで立派な桃畑を創ろう。桃畑だ!」

一気に言いたいことを言った。ほら、おかしな言葉だよ。こんな地味なことを考えている自分が恥ずかしい。みんな黙って言葉がない。恥ずかしくなって僕は目の前のグラスに口をつけた。

「いいわね!」

驚いたことに、真っ先に口を開いたのは四季だった。見ると目が輝いている。意外な展開に僕は戸惑った。こんな土臭い誘いに、彼女のような都会的な女性が乗ってくるとは思わないからだ。

「それはいいわよ!」

彼女ははっきりした口調で繰り返した。意外だったのは僕だけではないようだ。隣の慶もそして少女も驚いたように四季を見つめている。

「私は賛成。私も仲間に入りたい。ねぇ、美夜ちゃん、私も一緒してもいい?」

美夜と呼ばれた少女は疑うような目を向ける。

「いいけど、逆に本当にいいの?」

「賛成。やりたい。一緒にやろうよ」

やっぱり同じ返事だ。

「良かった!わたし、一人でどうしようかと思ってたとこだったから!」

そう言って少女も笑った。それ以上に喜んだのは僕だった。慶に続いて仲間が二人も増えたようだ。四人もいればきっと何かできる。

その反面で警戒もした。こんなに上手くゆくわけがない。何でだ。どうしてこの人たちは、互いに初対面なのに仲間になろうとしているのだろう。理解できない。理解できないから聞いてみよう。

「みなさん物好きな人だね、」

そこまで言ったら自然と笑みがこぼれた。真面目に言おうと思っていたのに。

「変わった人たちだ」

慶が言ってやはり笑った。

「本当」

女性と少女も互いに見合いながら笑って頷く。この時、四人の距離は一気に縮まったのだと思う。変わり者であることを誰も否定しなかった。どうやら心配はいらないようだ。僕は僕で目的があって言い出したことだが、きっとみんなもそれぞれで自分の目的があるのだろう。だからこれでいいんだ。変な風にも思えるけど、多分これでいいんだよ。

「僕は昭です。彼は慶。あまり個人的なことは聞かないけど、名前ぐらいは教えて」

「私は四季です」

彼女は礼儀正しく頭を下げた。

「美夜子です」

少女も名乗る。今は名前だけ分かっていればいい。純粋にそう思う。それよりもみんなの動機が知りたい。でもそれはまず僕から言い出すべきだろうな。自分の本心を口にするのは抵抗あるけど、もう一度言ってしまったことだし、自分から誘った話だからちゃんと言っておかないのも無責任か。

「僕はね、学生の頃相当身体を鍛えてたんだ。いつも実家近くの桃畑を走っていた。学校のマラソン大会は毎回一位だった」

「陸上部?」

「いや、うちの高校には陸上部がなくてね、僕はバレーボール部。でも、バレーボールをしてたことより、部活サボって走ってた記憶の方が強いかな」

みんなは黙って話を聞いてくれていた。いつの間にか他の客が退き始め、静かなBarになっている。なんか思い切ったことを言えそうな雰囲気だ。声を大きくする必要もなく、僕はまた独り言のように語り始めるのだった。

「自分の体力には絶対の自信があったよ。誰にも負けないという意識もあったし、何より自分自身に誇りがあった。いや、他人と比較してどうこうということじゃなくて、いつも問題は自分だけだったかな。とにかく自分を高めないといけない、という意識に駆られていてね、身体を鍛えることだけに夢中だった。プロのマラソンランナーになろうと思ってたわけじゃない。とにかく走って自分を磨こう、っていうただそれだけだった」

スムーズに言葉が出る。こんなこと、誰にも言えなかったのに、この初対面の彼らには抵抗がない。不思議なことがあるものだ。何のせいだ。やっぱりこのBarの空気か。

「大学も地元だったけど、やっぱり僕は走っていたかな。勉強だってバイトだってしたけどね、身体を鍛える方が全然好きだった。当時の僕は毎日走っていたんだと思う」

言葉の精霊が宿ったのか、僕の口は止まらない。

「だから走ることとか、山登りとか、そういう持久力には絶対の自信があったね。山も登ったよ、それも一般的な所要時間をぶっち切りで短縮させてね。それが快感だった。僕は強い、僕は強いって信じたかった。身体だけじゃないよ、身体を鍛えるのは心を磨くことだし、何より鍛えることで自分自身に自信がついた。会社に入ってからも、自分に自信があったから頑張って仕事を憶えようとした。体力にまかせて残業だっていくらでもやった。馬鹿じゃないと思うし、要領も悪くはなかったから、今はそれなりの仕事はできている。ちゃんと自立しているんだ」

――何だ、この話は。ここだけ聞くと自慢話みたいじゃないか。でもこれは自慢なんかじゃない。一番のコンプレックスの暴露だ。

「最近だよ、本当にここ最近の話。知らないうちに身体が鈍くなっていることに気付いたんだ。たまの休日に走ってみるだろう、まとまった休みに山登りしてみるだろう。あんなに鍛えた僕の身体が、あの頃のようには動いてくれないんだ。確かにね、大学を出てこっちに越してきて、会社に入ってからは走ってないし、休日にちょっと身体を動かす程度だよ。いくら鍛えた身体でもほおっておけば鈍ってくる。当たり前の話なんだけどね」

そこで慶が口を挟んできた。

「走り続けなかったのが悪いよ」

「その通り。それは分かっている」

「今いくつ?」

美夜子が聞いてきた。

「二十六だよ」

「二十六かぁ~」

そう聞いたところで、十代の彼女には分からないだろう。

「でも、その体力があるから会社でもしっかり働けるんでしょ?悪くないじゃない」

今度は四季だ。

「そう、入社してすぐの頃はそう思ってた。でもね、最近は違うんだよ」

「そこが知りたいね。話してよ」

慶らしい言い方。話すから聞いてくれよ。

「僕はね、走ることで鍛え上げた身体と心が、今までの人生で獲得した唯一の宝物だと思っているんだ。社会人になって、親の世話にならず自立したのは大切なことだったよ。そのための仕事だったけど、最近は仕事の重要さをこれまでのように感じなくなってきている。それよりも、唯一の宝物だった肉体が鈍くなってきたことの失望の方が大きい。自立か肉体かと言われれば、今の僕にとっては肉体の方が優先だ。それも自立することが前提だよ。この年齢になって、自立をカバーした上で肉体にまで興味を出す余裕がようやく生まれた。でも現実はそうじゃなくて、毎日遅くまで働いて、土曜まで働くこともあって、日曜は休むだけの生活だよ。ちゃんと走ればいいのにそんな気分にもなれない。自分の弱さが一番悪いとは知ってるんだけど、言い訳ばかりだ。僕はこれ以上身体を醜くしたくはない。同時に仕事もこなす。その両方のきっかけを作ろうとしてずっと考えていたんだ」

「まさか、みんなで一緒に走るとかじゃないよね?!」

美夜子がそう聞いてきた。いや、そういうことじゃない。

「違うよ。僕が自発的に走るようになればいいだけ。そこまでみんなの力を借りるわけじゃないから」

「でも、それがどうして土いじり?ヘンだよ」

「うん、僕はもうひとつ思っていることがあるんだ。長くなるけど聞いてください。東京で働いて、初めて自然が貴重だっていうことに気が付いた。故郷にいる時は、田舎は嫌だな、東京に出たい、って言う気持ちだけだった。古臭い山梨に一生いたいと思わなかったから東京で就職したんだ。最初は会社の寮がある大森に住んでいてね、三年で退寮しないといけないからこっちに引っ越してきた。会社から遠くなったけど、こっちの方がいい。まだ自然がある」

僕はどこまで話すのだ。ついでに全部話してしまえ。

「だってさ、東京には自然がないんだよ。なんだよ、あのビルとアスファルトで作られた街は。空気は悪いし、あんな所で走った方が逆に身体に悪いぐらいだ。そんな街で暮らしていて、たまに郊外に出たりした時にふと自然の偉大さに気が付くようになった。でも僕の仕事場は東京なんだし、思い切って地方に移住する決心もつかないし、別にそれをどうこうしようということじゃない。それでも、僕はもう一度自然に触れてみたいと思った。いつかの鍛え上げられた僕の身体と自然には共通点があるんだ。利益追求ではなく、見返りを求めていないこと。究極はそこにたどりつく」

一息つく。まだ続けるぞ。

「昔は走ること以外全部できないと思っていたのに、今は走ることだけができないと思っている。会社の仕事は労働。同じ身体を使っても運動じゃないからいくら動いたところで身体にはよくないんだ。僕は自然に触れることをきっかけとして自分自身をもう一度見直したい。どうせなら、昔僕が身体を鍛えていた場所が実家の山梨にあるから、そこの自然に手を加えたいんだ。あぁ、これが叶うなら僕にとってはそれ以上の宝はないよ!」

すっかり全部話してしまった。僕という人間の今は、そのまま今の言葉に置き換えることが出来る。他人にここまで話してしまって良かったのか。第一、ちゃんと理解されているのか。

「やっぱり私は賛成だわ」

ゆっくりと、そしてはっきりした口調で四季が言った。

「私も何かをやりたい。昭クンの言う通り、会社にいると結局自分が何をしたのか最後には分からなくなってしまうもんね。何かはっきり形に残せるものをひとつひとつ重ねてゆくのも大切だと思う」

的を射た言葉。どうしてそれが彼女に分かるのだろう。何の負い目もない女性に見えるのだが、やはり彼女も人間ならば何かに悩んでいるのだろうか。その悩みのどこかで僕に共感する部分があったからか。

「私もね、誰にも負けないぐらい仕事をこなしているけど、本当の自分の居場所がどこなのかが見つからないの。あーあ、どうしてこう広がり過ぎちゃったのかしらね。選択肢が多過ぎるからどこに行けばいいのかはっきりしないのよ。だから、小さくても確かなものを、目に見える形として創り上げるのは素晴らしいわ。……ところで、美夜ちゃんはどうしてなの?通りがかりの私を誘ってまで来たかった理由が知りたいわ。若いんだし、私や昭クンとは全然違うこと?」

四季が優しい口ぶりで美夜子に尋ねる。美夜子はえへへ、と笑いながら答える。

「なんとなく。みんなみたいに何か考えてじゃない。ただ最近落ち込んでたから気を紛らわそうと思ったのかな」

曖昧に笑いながら美夜子はそう言った。何もないのか。それもまたひとつの答えだろう。彼女自身が気付かずとも彼女のどこかにもまた僕と共通するものがあるのだと思う。下衆な興味じゃなくて参考のためそれを知りたい。もう少し話していれば出てくると思う。

「ごめん、いくつなの?かなり若いんでしょ?」

まずはそこら辺から普通に聞いてみよう。

「十八。そんなに若くないですよ~」

マスターに聞かれないように声を落として答える。

「いや、全然若いよ!若さのピークだって!」

「でも~高校卒業したらもうヤバイ。現役の高校生のコとか若く見えるしー」

「それはない!そんなこと言ってたらこの先どうするんだよ」

「え~。ヤッパ違うよ~」

僕の言ったことにちっとも納得していない。分かってないなぁ。でも僕も十八ぐらいの時は年のひとつの数字が大きな壁に思えてたからな、分かるはずないか。さすがに二十六にもなると十八の彼女とは距離を感じる。

「その年で花とか木とかに興味あるわけでもないでしょ?珍しい。ただの気まぐれ?」

「えー、興味ありますよぉ。いっつもお店では花言葉がネタなんだから」

意外な言葉を聞いた。

「花言葉?!またどうして花言葉?」

まさかこの彼女から花言葉とは。

「中学の頃からなんか好き。なんか良くない?わたしは五月十五生まれ。わすれな草で花言葉は『真実の愛』。どう?良くない?」

「へぇ~。いい日だね~」

「ちょっと、誕生日言ってみてよ」

「二月一日」

「さくら草。『若い時代と苦悩』ね。あは、ぴったりじゃん。どう?」

彼女は即答した。

「凄い!覚えてるんだ。ひょっとして三百六十五日全部覚えているとか?」

「全部はムリー。でも結構。こんなことばっかり覚えてきたから」

「凄いねー。高校生の時にクラスの女子で流行ったけどもう何も覚えてないよー」

感心したような顔で四季が見ていた。

「四季さんは?」

と美夜子。

「一月三日だよ」

「花サフラン。『悔いなき青春』」

「あぁ~そうそう。昔聞いた。あんまり好きじゃなかった」

「慶は?」

僕が聞くと、慶はあまり興味なさそうに言った。

「九月の十六」

「あ~分かんない。ちょっと待って。ケータイで探すから」

ケータイをいじりだす美夜子。

「いつもこれで探すんだ。えーとね、りんどう?『悲しむ君が好き』だって」

「うーん、微妙、ね」

四季が言う。本当だ。難しいな、花言葉って。合ってるようでそうとも限らない。

「でも、よく覚えてるね。凄い記憶力」

本当に偉いと思った。彼女のことを見直した。

「わたし、このぐらいしかお店で話できないから。ほら、ほとんどが初対面のお客さんだし、全員年上だし、何を話せばいいか分かんない。まだ一ヶ月だから慣れなくて。こんなのばっかり使ってる」

そういう使い方もあるんだ。それにしても、こんな若い娘に花言葉なんて言われた日にはなんだか唐突な感じで、驚いちゃうよな。

「今年高校卒業したんでしょ?」

「うん」

「でも、偉いよね。その年で働き始めるのは」

「でも、夜のお仕事だし。誰にも言えない」

「親とか大丈夫なの?」

「親とカレシには夜勤の工場のバイトしてるってウソついてる。親は気付いているみたいだけど何も言わないし。カレシは気付いてないっぽいけど、心配してるみたいで終わったら毎日夜中でも電話しろ、ってうるさい」

「迎えに来ないの?分かっちゃうんじゃない?」

「大丈夫。迎えに来ないで、ってしつこく言ってあるし。わたしね、車欲しいんだ。だからキャバで働いている。車買ったらさっさと辞めるつもり。カレシには親に買ってもらった、って言って」

そうだったのか。そんな目的があってキャバクラで働いているのか。自分で稼ごうとするのは偉い。その年なら迷わず親に買わせる奴らもいることだろうに。

「偉いけど、これで益々分からなくなった。どうしてこんなことに興味があるの?」

素直に謎だった。みんなも同じだと思う。

「分かんない。けど、なんか感じた。面白いことができそうだって」

「こんな僕たちなのになぁ。まぁ、本当に良く来てくれたねぇ。正直、来るとは思っていなかった。なぁ?」

慶に聞いてみる。

「いやーホント。予想外。びっくりだよ」

「四季さんがいなかったら来れなかった。でも、なんか四季さん、わたし以上に乗り気じゃない?」

「そうなの。だって面白そうでしょ?」

そう言って四季は楽しそうに笑った。

この美夜子という少女が何故こんなところに来たのか、まだ見えてこないが、恐らく彼女もまた心に空白を抱える現代の若者の一人なのだろう。彼女自身でも分からないというその何らかの空白が、ここに足を運ばせたのだ。

「次は、慶だな」

そう言いながら女性二人の顔を見渡すと、彼女たちも興味津々で聞こうとしている。他人のこういうことを聞くのは下世話だが楽しい。

「今大学四年生です。四年目をダブっています」

あいつは女性に照れるタイプだと思う。おどおどしてはいないが、僕と話していた時とは口調が違ってる。さぁ、どんなのが聞けるのか。僕と一対一の時とはまた違う彼が見られそうだ。

「卒業後のやりたいことが見つからなくて、わざとダブりました。悪い奴でしょう。私立だから学費も高いのにさぁ。でも、どうしてもそのまま就職する気になれなかった。大学院で勉強する気もないし、もう単位はほとんど取ったんだけどね、まだブラブラしてる」

「フリーターになればいいのに」

美夜子がつぶやく。何故か怒っている。

「フリーターは世間で身分が保障されていないでしょう。大学卒業しても就職しない、って親に言ったら無職だけは止めてくれ、って凄く抵抗されたんだ。それならまだ留年しろってね。一年間猶予をもらったとも言えるし、親に押し切られただけかもしれない。親は明らかに世間体を気にしていた」

「絶対に甘えてる!」

美夜子がまた言った。

「分かっているよ、それはその通り。否定のしようもない。これが最後の甘えだと知っているつもりだよ」

わずかに寂しさを覗かせて慶が言う。

「いいかい。今という社会は、僕たちにあまりに多くの道を与えてくれる。一億総中流なんていう言葉があるが、正にその通りだ。特に僕たち若者が何かをやろうとすればそれが幾らでもできる仕組みになっている。商人の子は商人、農民の子は農民と決められていた時代や、労働者と資本家との階級闘争時代とは大違いだよ。日本は豊かなんだな。資本主義と民主主義が現代で頂点にゆきついて、今のこの自由が有り余っている。贅沢な悩みだよ、本当に贅沢なんだよ」

今度は苦悩の表情を浮かべながら彼はそう言い切った。

「全く贅沢な悩みなのだが、それはそれで僕たちを迷わせるのだ。さっきあなたも言ったね。選択肢が多過ぎてどこに行ったらいいのかはっきりしないのが現代なのだ。自分が選んだ道にある程度満足したとしても、実は他の道の方が幸せなんじゃないのか、と疑うことを避けられない。それは他の道にも進むことができる可能性が残されているからでもあるんだよ。自由が逆に迷いにもなる。今ある環境、与えられた現状をいかに良くしようかと考えるのではなく、いっそ全く別の場所に行ってしまった方がいいんじゃないかと、大体それは幻のはずなんだが、そう考えがちになる。みんなも分かるだろう?僕はこの悩みを解決できない。道を選べなくて手前で立ち止まっている」

深い。慶の悩みは深いぞ。

「じゃぁ、君もきっかけを求めているのか」

頷く慶。やはりそうか。求めているものは僕と似ている。

「そうだよ。今まで、僕は決定的な解決方法だけに絞って探し続けてきた。Only Oneになることだけを考えてきた。それからすれば昭のしようとしていることは小さな一歩だけど、実はそういう現実的な経験を積んでこそ、大きな解決の道が見えるんじゃないかって、そう思えてきたんだ。何だろうね、何か日常的に打ち込めるものを見つけたい」

慶の告白こそ本音であろう。僕より幾つも若い彼がこんなにも将来のことを考えているとは。僕のように何も考えることなく社会に飛び込む人間がいれば、あらかじめ飛び込む先をじっくりと考えてから飛び込もうとする人間もいる。僕だけの常識では測れない尺度の広い話になった。

この四人は誰もが悩みを抱えている。それぞれで中身は違うが、いずれも現代らしい悩みではないか。この四人が偶然集まったことに意味はあるのか。互いに何か呼び合うものがあったと、大袈裟でも信じてみようか。僕一人だけの計画だったものが、こうして彼らの目に触れることで、彼らにも何か意味のあるものになってくれればと思う。できることなら、これは僕一人の世界だけに留まっていて欲しくない。

「色々な人がいる」

美夜子がそう言った。

「本当。面白い!」

四季は嬉しそうだった。

「仲良くしたいね、仲良く」

慶もそう言う。

「いやぁ~嬉しいことだよ。仲間が増えた」

僕も本当に嬉しかったんだ。一人より二人。それが四人もいれば必ず何かができる。四人が四人とも、何かを求めて集まるのだから尚更だ。

「具体的にはどうするつもり?」

「車あるから、中央道で山梨まで行こう。一宮御坂インターで降りるとすぐだよ。昔走っていた桃園がある。そこで地道な作業をして桃を復活させよう。それで、言っておくけどすぐには終わらない。分かんないけど、何ヶ月かかかるよ」

「平日に?休日?」

「週末。仕事あるからね。行ける人は土曜の朝、ここで集合しない?日帰りできるよ。みんな、時間取れる?土曜で大丈夫?毎回じゃなくて来れる時だけ来ればいいけど、多分数ヶ月だよ。覚悟いい?」

祈るようにみんなに聞いてみる。ここまで来たんだからなんとか都合が合って欲しい。

「私は大丈夫。土日休み。家は都内だけど、週末はこっちの実家に帰って来てるから」

四季がそう言った。よし。まず彼女は大丈夫。

「土曜は休む。大丈夫だから」

そう美夜子が言ってくれた。彼女が一番心配なんだ。本当に大丈夫なのかな。

「美夜ちゃん、大丈夫?週末の方が忙しいんでしょ?」

四季も心配そうだった。でも、美夜子は割合あっさりとしている。

「いーの。基本給ないし、出たい時だけ出ればいい店なんだから。まだ営業もしてないダメキャバ嬢だよ、わたし」

良かった。じゃぁ、大丈夫なのかもしれない。

「もちろん大丈夫だよ、明日から行けるぐらいだ」

慶も大丈夫か。それは留年大学生なんだから時間あるよな。

「早いなぁ、僕はもちろん明日からだって大丈夫だけどさ」

どうやら全員大丈夫そうだったので僕は嬉しくてそう言ってみた。

「私も。美夜ちゃんは?」

おっ。四季が乗ってきてくれた。

「わたしねー、明日はお店入れてるんだ。でも、七時までに入ればいいからそれまでに帰って来れるなら行こーよ」

――本当?そんなに話が上手くいっていいの?

「じゃぁ、決まり。何時にどこ集合?」

慶が強引に話を進めてゆく。夢のような話。夢だと思わないようにしてみようか。

「ホントに明日下見してみる?みんなに意志を再確認して欲しいし。十時ぐらいにこの店の前に集まれる?」

そうしたらみんな大丈夫だと言うんだ。本当に随分急な展開になった。自分でも信じられない。そうだ、あとこれだけは言っておこう。

「それじゃぁ、明日本当に来てください。でも、気が乗らない人は来なくてもいいよ。今日はまだ連絡先とか聞かないようにしよう。でさぁ、ひとつ提案。ここでは年齢の先輩後輩とかはなしね。それに、当分はお互い他人同士で、さばさばした関係でいようよ。普通の友達関係みたいなのは持ち込み禁止。あくまで自分の目的だけのために自主的に集まる、っていうことで。嫌になったらいつでも気兼ねなく止められる。そういう割り切った集まりの方がやりやすくない?」

僕が気にしていたのは、いつもの人間関係をこの場に持ち込まれることだった。上手くゆけばいいのだが、時として上手くとも限らない。それよりも、最初から何の絆もない関係の方がいい。ケータイやメールで頻繁につながる今。何もコミュニケーションの手段がないくせに、実は心でつながっているような仲間もたまにはいいんじゃないかな。

「いいよ。そっちのほうが気楽だね」

慶はそう言ったが、問題は女性二人だ。僕の言葉は彼女たちに怪しまれないためでもあった。勘違いしないで欲しい。普通の男たちのように、あなたたちを女として狙っているとかじゃない。性別を超えた純粋な仲間になりたいだけだ。そんな変なこと、上手く言えないけど本当にそうなんだ。

「大丈夫。明日必ず来る。美夜ちゃんも、私がいるから安心して来てね」

「うん。ちゃんと来るから」

良かった。何とかここも乗り切ったようだ。

「悪い奴じゃないから心配しないで。とにかく危なくはないって」

慶と自分を指差しながらもう一度念押ししておく。

「昭クンが善い人だってことは分かる。慶クンも変わっているけど多分悪い人じゃないでしょう」

と、四季。それを聞いて笑ったから美夜子も同感なのかな。

「多分!そうだっ、多分悪い人じゃないっ!」

慶は自分でそんなことを言っていた。その態度はやっぱり変わっているのでみんなに笑われる。たまに面白くなるな、この男は。

「じゃぁ、今夜はもう遅いから。明日来てくれると信じてここは払っておくよ」

女性二人はサイフを出して払うと言ったが、慶がそんな二人を当たり前のように遮った。

「いいから、いいから。こういう時、一度言い出したら何を言っても聞かないのが男。ポーズはいいよ」

そうはっきり言われると気持ちが良い。四季はサイフをすぐにしまった。美夜子も真似る。僕はみんなの分を払うと外に出た。

「じゃぁ、一人ずつ帰ろう。まずは美夜ちゃんから?」

「えっ、一人ずつ?四季さん、方向一緒だったら途中まで一緒に帰ろ。わたしあっち」

「あ、同じ。じゃ、美夜ちゃんと帰るね。明日は十時ね。汚れてもいい格好で来るから」

「そっか。わたしも」

「明日絶対来てくださいー。待ってるよ!」

「大丈夫。心配しないでよ~。じゃぁ、オヤスミ~。ゴチソウ様でした~」

女性二人はあっさりと背を向けて帰って行った。

「じゃぁ、僕も行く。もちろん来るよ。言い出しっぺの君は絶対に来ないといけないぞ」

「分かってるって。来ないはずがないじゃないか。なぁ、頼むから本当に来てくれよ?男一人じゃ辛い」

「ははは!僕もだ。お互い、互いが必要だ。じゃぁ」

そうして慶も去って行った。きっと来てくれる。みんな集まってくれる。僕はいつも考え過ぎなのだ。たまには信じてみようよ。

いよいよ明日からか。急に実現したからって怖気づいたりはしない。さぁ、今日は早く帰ってさっさと寝ておこう。


次の朝になると僕はまた後悔した。昨夜も熱かったかなぁ。みんな乗り気だったようだけど、あれはみんなの手前だったからで、来ない人がいても不思議じゃない。美夜子が来ないと言ったら四季も来ないだろうし、慶も本当にちゃんと来てくれるかなぁ。まぁ、考えたところでどうしようもない。それぞれでもう答えは出ているだろう。信じるしかない。

これからのプランを考えてみた。場所は決まっているし、あの桃の老木もそのまま残っているとしよう。雑草が伸びているだろうから最初は草むしりだな。その後どうしようか。

故郷の御坂は桃の名産地だ。せっかくだから桃の花畑がいい。それも、桃の実を主目的としない桃園だ。なんだか象徴的じゃないか。実益を求めない僕たちの関係と同じだ。結果を求めず、過程を大切にしたい。

改めて部屋を見渡しても、使えそうなものなんて何もない。軍手や鎌は最低限必要だろう。大体こんな計画、僕がイメージを膨らましただけだから、計画より空想、いや、夢想という言葉の方が相応しい。農作業の経験もない。近くの農家の人に教えてもらいながらやってゆけばちゃんとできるかな。心配は尽きない。とりあえず、今日は僕が行かなくちゃ始まらない。早目に行っておくことにした。

Barまでの車で僕はみんなのことをぼんやりと思い返していた。

慶は変わった奴だ。ただ、悪い方向だけに屈折しているようでもない。あいつも何か今の自分に納得が出来なくて、新しい道を開こうともがいている感じがする。彼のことは理解できるし、上手くやってゆけそうだ。

分からないのは女性二人だ。美夜子はまだ十八で、それもキャバクラで働き始めたばかりだという。そんな娘にしては金を稼ぐ目的がしっかりしている。キャバクラで働くことに対しての引け目なんて今の時代ではいらないと思う。

――それにしても。僕には彼女の若さが哀しくて仕方がない。十八才の若さがキャバクラでの毎日に削られてゆくのだろう。本人は気付かなくとも、それは必ずやってくる。僕の身体が会社での怠惰な日々に埋没していったように。彼女の若さと、そしていくらかでも純真さの残った心は日ごとに彼女自身から遠ざかってゆく。キャバクラという仕事の性質上、そのスピードはおそらく速い。どうしてあの少女が土いじりなんかに興味を持ったのか。それが僕には分からない。

四季のことも分からない。会社ではさぞかし有能な人なのだろう。そんな印象を受ける。てきぱきしているし、頼りになりそうで、それに対応が丁寧だ。上司からは信頼され、後輩からは慕われている女性、という感じがする。不満なんて何もないんじゃないか。美夜子もカワイイけど、四季には知的な美しさがある。何が足りないんだ。ないものねだりなんじゃないのか。まだ僕には分からない。この二人のことはまるで分からない。

そんなことを考えていたらBarの前に着いていた。三十分も早い。それはまだ誰もいないよ。

中央道の手前に日用品店があるから、軍手だけでも買って行こう。いきなり雑草むしりなんてやらせたらみんな嫌になるかなぁ。それと、桃より桜の方がいいとか言い出されると辛いなぁ。桜の方が一般的には人気あるからなぁ。でも桃のほうが歴史は古いし、長寿の意味があったり、邪悪を払う力があるとか言われて縁起いいんだぞ。みんな知らないだけだ。

色々考えていたら四季と美夜子が一緒に歩いて来た。

「おはよ~!美夜ちゃんと途中で待ち合わせて来たのよ」

「おはよう!いやーよく来てくれました!」

ジーンズをはいた四季は昨夜とは感じが違う。作業着っていうよりオシャレなんだよね。こんな都会的な女性が土いじりか。やっぱり彼女も心配だなぁ。

美夜子はジャージで来た。あぁ、よくこういう格好で自転車に二人乗りしている十代の娘、いるなぁ。あぁ、こういう娘か。どっちにしろ心配だなぁ。

「おはようございます。あとは慶さんだけですか?」

美夜子はたどたどしい様子で挨拶をした。いや、遠慮してもらっては困るな。

「おはようございます、ほら、年とか関係ないからさ、敬語はいらないよ。昨日も言ったけど、いつも通りにしてよ」

「ホント?ん~でも抵抗ある」

「敬語ないほうが私もやりやすいわ~」

四季がさり気なくそう言ってくれた。

「マジで?四季さんがそう言ってくれるならいつも通りにするぅ~」

「おっ。それでいい」

僕が笑うと、美夜子も笑った。低い声の、あまり品のない笑い方だ。まるっきり今時の娘だな。彼女にはもっと普段のままでいて欲しい。僕の知らない世界の人だから、何もかもが面白くて。ありのままの姿が見たい。

「慶はまだだね。そのうち来るよ。あいつは乗り気だったから必ず来る」

時間つぶしがてらみんなに僕の車を見せていたら慶が来た。なんだ、アイツは。両手一杯に荷物を抱えている。

「早いね!ほら、用意してきたぞ。手袋からナイフからライト・縄・チャッカマンでしょ。日陰が欲しいから屋根代わりのビニールシートも」

どこからそんなの持ってきたんだよ、この男は。

「キャンプ?!ウケる!」

美夜子がそう言って爆笑していた。ホント大袈裟だよ。まぁ、ヤツの本気さはそれで充分伝わってくるけどね。

車に荷物を詰め込むと、真っ先に慶が助手席に乗り込んだ。彼に急かされるようにして僕たちも車に乗り、中央道を目指して車を走らせた。

みんなご機嫌だった。後ろの女性二人がよくしゃべり、僕たちのことを聞いてくる。そうだよね、どんな人なのか分からないままじゃ仲間になりづらいか。あまり個人的なことには突っ込む必要のない関係とはいえ、最低限のことは話さなくちゃ。

僕のことはもういいだろう。二十六歳で、ビール会社の営業補佐で、両親は山梨で、拝島で一人暮らし。会社は高田馬場にある。趣味はマラソンのはずなんだけど、今はすっかり走ることも少なくなって、興味があるのはK-1とかPRIDEとかの格闘技を見ることぐらい。彼女はいなくて、彼女なし暦二年。特に四季も美夜子もタイプってわけじゃない、ってこと。さすがに最後のは言えなかったが、他は全部しゃべらされた。

慶は二十二で、大学四年目を留年中、バイトもしていない。ではどうやって生活しているのかといえば、留年が決まったと同時に親にそれまでのアパートを解約されて、拝島の叔母の家へ一年の約束で居候させてもらっている。子供のない夫婦なので歓迎してくれているようだ。意外なことに(!)付き合って三年の彼女がいるらしい。僕にはそれが許せない!この変人を理解してくれる女性がいるとは納得できないじゃないか。

想像はしていたが、親は釧路にある大手海運会社の社長だそうだ。道理で、留年させる金があるわけだ。趣味は音楽、それも演奏は出来なくて、聴く方専門だそうだ。大学の専攻は日本史だという。

散々僕たちにはしゃべらせたくせに、四季はあまり多くを語らなかった。有名企業の海外人事担当であること、中目黒に住んでいること、親は拝島にいること、誰にも認められるぐらいバリバリ仕事しようと頑張っていること、転職するかどうか迷っていること、最後になってようやく二十七の年齢と、付き合っている人とか好きな人はいないが、付き合ってくれと言われている何人かの男性がいることをしゃべった。

逆に美夜子はサバサバした口調であっさりとしゃべった。この三月に高校を卒業したが定職には就かなかったこと、車を買うお金が欲しいから拝島のキャバクラで働き出したこと、それを親や彼氏に内緒にしていること、そこまでは昨夜聞いた。同じ年の彼氏とはケータイのメールで知り合ったこと、彼氏が最近バイトを始めたのでなかなか逢う時間がつくれないのがさみしいこと。

そうこう話している間に車は一宮御坂インターチェンジを降り、僕の実家へと向かっていた。道の両脇は桃園だらけだからつい昔のことをしゃべった。御坂の桃は山梨でも一番美味しいということ、小学校の給食ではやっぱりよく桃が出たこと、ついでに桃の花がキレイなこともアピールしておいた。桜のような艶やかさはないが、独特の色の美しさがあって、昔の教養人たちは桜よりも桃をもてはやしたことなんかをね。

車は懐かしの我が家に着いていた。家に帰るのはほとんど二年以上ぶりになる。社会人になってから全然帰っていない。家が嫌いなんじゃなくて、もうここには何も得るものがないと思って出た故郷だから、帰って来ても思い出に浸るぐらいしかできないからだ。後ろ向きにはなりたくない。親にせがまれて二度ばかり正月に帰ったぐらいだ。

人を連れて帰るよ、と今朝電話しておいたら気の早い母親は結婚の挨拶かと早とちりしたらしく慌てていた。ただの友達で、ちょっと山梨までドライブしに行く途中で寄るから、と言ってようやく落ち着かせた。

車を停め、家に入る。みんな遠慮がちに玄関に上がった。父は市役所で働いていて土日は休みだが、今日は地元の会合で出かけて行ったらしい。母はみんなを居間に通すと冷たい飲み物を振舞ってくれた。

唐突に僕は本題を切り出す。僕が昔走っていたあの桃の老木の場所は母も知っている。みんなであの場所を復活させに来た、と言うと母は物珍しそうに僕たちを見た。そのためにこの四人が集まって、これから週末にちょくちょくこっちに来るつもり、と説明するとこれには母も驚いた様子だった。それもそうだろう。話が飛躍し過ぎている。僕がそんなことをする理由なんてどこにも見当たらない。ましてや若者が四人も集まってすることじゃない。誰だって理解できないだろう。

鴨川さんというおじいさんがあそこの地主だということは僕も知っていた。その鴨川さんのことを聞くと、三年ぐらい前からもうすっかり現役を引退した、と母は言う。子供が跡を継いでいるわけでもないからあの土地はもう使われていないらしい。

地主にはあらかじめ断っておこうと思っていたところだった。そうするとあの老木の場所はどうなってしまったのか。まだ鴨川さんが現役で、桃園を自分で切り盛りしていた頃は豊かな場所だったが、今ももうすっかり廃れてしまったのだろうか。

母は何も詮索してこなかった。いいんじゃない?とばかりに賛成してくれているようだった。理由はどうあれ、息子が時々帰ってくることだけで嬉しいようだった。

まぁいいや。まずは場所を見に行こう。早速みんなを促してあの場所に向かうことにした。昔は遠回りして走っていたから三十分はかかったけど、直線距離を車で行けばあっという間に着く。

辺りの景色はあの頃と変わらない。いや、僕が小学校ぐらいの頃からあまり変わってないんじゃないかな。わずかながら人が来たり、出て行ったりはした。みんなが少しずつ年を取り、当時子供だった同級生たちのほとんどがこの町から出て行った。ただそれだけだ。

空き地に車を停めて歩く。乱雑に生えた竹林の細い道を行くのだ。本当に久しぶりの道。ここは社会人二年目の正月に帰ってきた時に来て以来だから、実に三年ぶりにもなる。

三年。以前は毎日来ていた場所が、今は三年ぶりになってしまう。それも一人ではない。他に三人も連れてだ。こんなこともあるんだな。あの頃では全然想像できなかったことだ。

鬱蒼とした竹林。足を踏み入れると同時に空気が冷たく変わった。竹林独特のこの感じ。あぁ、この感覚を僕の身体はまだ覚えていた。

「いいじゃない。涼しい竹林」

と四季は言ったが、みんなは足元に必死で周りを見る余裕なんてなさそうだった。鴨川さんが引退してしまった影響なのか道は酷くなっていた。積もった枯れ葉で滑りそうだし、でこぼこはできているし、落ち葉の下で導線のように張り巡られた竹の根で躓きそうになる。とても普通に歩ける道じゃない。昔はまだましだった。人が通らなくなって急激に廃れてしまったようだ。

この竹林を越えるとその奥は何もない雑木林が続く。昔はクヌギを積んで茸の養殖場として使っていたらしいが、僕が物心ついた頃にはもうすっかり荒れ果てていた。小学生の頃は友達とカブトムシやクワガタを採りに来る格好の遊び場だった。

ひとつ特徴がある。竹林を抜けると、雑木林との間にぽっかりと土地が空く。竹の屋根がなくなり、雑木林の屋根との中間に空間が取り残されている。野球場の内野を少し狭くしたぐらいだろうか、平らな草むらが広がっているのだ。草むらの中心にかけて少し小高い丘になっていて、奥と両脇は雑木林で、手前が竹林。本当にここだけが急にぽっかりと空に口を開けている。そこに一本の桃の老木がひっそりと佇んでいる。

桃の木にしては大きい。もう二十歳ぐらいの老木になる。桃の木の寿命はせいぜい二十年から二十五年だ。もう結構な老木なのに、朽ち果てるどころか堂々とした体躯はそのままだった。僕に忘れられ、地主にも見捨てられたはずの老木。それでもまだここにいた。僕はわずかな意外感に打ちひしがれていた。同時に、昔の友達に再会したかのような安堵感があった。

丘の中央まで歩き、みんなを招く。悪い足場を気にしながらもみんなが丘まで来る。

 「ここだよ。話してたのはあの桃の老木のことだよ。ここまで走ってたんだ。家から遠回りして、途中の桃園を突っ切ってね。いつもここがゴールだった。この丘で休んで、でも考え事してなかなか帰らなかった。懐かしい」

 ここの景色は変わらないのか。廃れたようにも見えるが、久しぶりに来た僕からすればあの頃のままだ。歳月を無視するかのような独特の時間が流れているからだろう。でも僕は違う。五年の間に明らかに変わった。進化か衰退か分からないが、我が身に変化は確実に訪れている。

 みんなの表情が気になってしまう。どうだろう、気に入ってくれただろうか。そんなに汚いない場所でもない。拝島から一時間半だから遠過ぎることもないと思う。どうかな、みんなは。

 「どう?この場所を蘇らせようと思うんだ。そんなに広くもないでしょ?四人もいればなんとかなる。雑木林と竹林に囲まれたこの狭い空き地に、一杯の桃の花を咲かせたい。そんな夢だよ」

 みんなの言葉を待った。

 「まるで洞窟の天井穴だ」

 珍しそうに空を見上げながら慶はそう言った。風は雑木林の天辺で凪いでいた。竹林の先が揺れる音。

 「ここは不思議な場所だな。竹林と雑木林の真ん中にぽっかりと開いた土地。昭が夢中になったのも分かる気がする。この特殊な空間が、今の穏やかな君の礎を築いたのだ」

 偉く難しいことを言った。腕組みをして空を見上げている。

 「あの大きな木がカワイイ」

 靴に付いた泥土を払いながら美夜子が言った。良かった。彼女にすればきっと良い意味だ。

 「酷い荒れ様。地主に見捨てられたのね。でも、いいじゃない。これなら私たちの勝手にできるでしょ?」

 四季がそう言ってくれると心強い。あぁ、良かった。少なくともみんなに反対はされなかった。

 「昔はこんなんじゃなかったんだ。まぁ、そんなに整備もされてなかったけどね。地主の鴨川さんがこまめに雑草刈りしていたし、あの老木だってまだ活き活きと葉を付けていた。毎年四月のここは良かったよ。あの桃の老木に花が咲き乱れてね、近所の人たちもここでお弁当を広げていたな。その時季だけは僕も独占はできなかった。この近所の人たちの春の楽しみのひとつだったんだよ。それ以外の季節には鴨川さんと僕しか来なかったけどね。鴨川さんも、もういい歳になったからな。現役を引退したと同時にここも廃れたみたい。丁度僕が社会人になった頃と同じだ。嫌な巡り合わせ。社会人になって僕の身体が廃れていったと時を同じくしてここの土地も荒れていった。ここも僕と同じ分だけ、無為な時間を重ねてしまったんだ」

 「ほう、随分とカタルシスを語ったね」

 半笑いしながら慶がそう言う。

 「そんなに自分を卑下しなくてもいいだろう。古いものは去り、新しいものが生まれる。当たり前のことだよ。別に君のレベルが下がったわけじゃない」

 「だから、もうちょっと優しくフォローすればいいのに!」

 よそを向いて美夜子がぼそっ、とつぶやいた。それを聞いた慶は黙る。面白い。さすがの慶も美夜子に言われると何も言い返せないようだ。彼女に溢れる若さが慶の悪い口も塞いでしまうのだ。

 近寄ってみると、老木の朽ち果て具合もだいぶ進行しているようだった。見た目にも随分痛々しい。以前はもっと幹が太かった気がする。せっかく実がなっているのに円型の病班がある。春先に雨が多い年には昔からこうなった。タンソ病というヤツだ。ミイラ化した末期症状の実も残ってるじゃないか。残っていちゃ他の実に悪いのに。

 それでも老木の存在感は圧倒的だった。この狭い平地の支配者は彼だ。否定のしようのない存在感。この老木があることで、この場が成立していた。大地を照らす太陽があれば、都会を見守る東京タワーがある。闇夜の大海の灯台。幼児にとっての母親。この中間に開けた空間は桃の老木によって締められている。幹は老いても芯は強い。

 ――あぁ。ここだ。この場所だ。ここで僕は再生しよう。この場所を再生させることで、自らを再生してみせよう。この仲間たちと共に。彼らにとってそれがどんな意味を持つのかよく分からないが、少なくても僕にははっきりとした目的がある。知らない仲でもどうか手を貸して欲しい。一人では頑張ろうとする勇気がどうしても弱いんだ。

 四季と美夜子は丘に上がって手で太陽を遮りながら周囲を見渡している。慶は足元の土を蹴って硬さを確かめていた。どうかな。みんな、気に入ってくれかな。いいかな、ここで始めてもいいかな。

 「みんな、」

 彼らの最終的な意思を確認したかった。

 「いい?ここは、好き?」

 そんな聞き方になってしまった。

 「嫌な人は遠慮なく言って欲しい。昨日話した通りの僕たちの関係だから、文句なんてない。個人の自由だからさ」

 四季と美夜子は顔を見合わせてニコニコしていた。しゃがみこんだ慶は頭の上に両手で丸を作った。OKサインじゃないか。馬鹿だな、僕。こんなに遠慮して。

 「よし!じゃぁ、決まりだ!!」

 良かった。なんとか上手くいった。これで本当に進められる。

「地主の鴨川さんっていうおじいさんはね、僕も知っている人だよ。鴨川さんも僕を覚えていると思う。走ってた頃、結構ここで出くわしたし、時々話もしていたからね。もう八十近いんじゃないかな。僕がここにいた頃までは現役だった。で、今日はまず鴨川さんに許可をもらいに行こうと思っている。さすがに黙って作業するわけにはいかないからね」

 「大丈夫?他人の土地でしょ?」

 心配そうに美夜子が聞いてくる。

 「大丈夫だよ、断られることはないと思う。別に土地をくれって言っているわけじゃないし、こんなに雑草ぼうぼうなんだから誰も使ってないんだよ。お願いすれば大丈夫だと思うよ。それに鴨川さん、昔結構僕のこと気に入ってくれてたし」

 鴨川さんの家に向かうことにした。車で行くような距離でもない。駐車場から桃園沿いに歩けばすぐだ。

 「この道を毎日走ったんだ。今の季節はいいけどね、ほら、桃は木が低いでしょ。夏は日差しが容赦ないし、冬は風が寒くて。まぁよく走ったよ。あれは本当に何だったんだろう。今考えると不思議な情熱だなぁ。今やれと言われても同じことはできない。別のやりかたを選ぶだろう」

 また愚痴っぽくなった。走っていた頃の自分を思い出したら、眩しく感じたからだ。ごめんね、みんな。僕が弱気でいちゃ駄目なんだよね。

 「もう今年は終わったけど、この辺りの桃の花のシーズンは凄いよ。山梨には一杯桃の見所があるけど、特にこの御坂は名所中の名所。大勢の人が見に来る。でもここら辺は他と離れているからあまり観光客は来ない方。それがね、道の両脇がきれいに桃の花で埋まるんだ。圧巻だよ。知ってる人は知ってるし、地元の人が集まるからその時だけここで渋滞が起こるんだよ」

 「え~っ、本当?こんなところに渋滞?ちょっとオーバーじゃない??」

 四季と美夜子が顔を見合わせる。あっ、信じてないな。

 「それが本当なんだって。今はどのぐらいか知らないけどさ、当時は凄かった。地元の人が桃を見に来る場所だよ。それが全部鴨川さんの仕事だったんだよ。あの頃はあれが当たり前だと思っていたけど、鴨川さんの桃園は本当に凄かったんだな、って今になってようやく分かる。凄い情熱を持って仕事をしてたんだろう。それが今は人に任せて引退して、自分は一番の生き甲斐を失ったってわけだ。人間変わってないか心配だよ」

 「ご家族はいないの?」

 「いないはず。随分前に奥さんを亡くしてる。子供は独立しているから一人暮らし。僕が知っている鴨川さんはいつも一人だった」

 「それは可哀想。私たちの一人暮らしと一緒じゃないもんね」

 「そう。もういい年なのに」

 僕と四季が同情していると、慶が相変わらずの言葉を挟んできた。

 「自由でいいね、自由で。後腐れの心配がない。これで子供たちが遺産のことで目をギラつかせていなければ言うことがない」

おいおい、どんな考え方だよ。慶らしいと言えばらしいが、もうちょっと楽しい発想をしてもいいのに。四季や美夜子は冗談にとってくれたようだけど、僕には分かるぞ。いや、四季だって絶対に気付いている。美夜子だって感じているかもしれない。あれは冗談じゃない。ヤツは本気だ。悪気はないけど、あれは本気だ。

 そうこうしている間に鴨川さんの家が見えてきた。

 「古い家だよ。この辺りでもかなり古い方。これで大地主さんなんだからね。昔はこの辺りなんて何もなかったんだから、土地はいくらでも買えたみたい」

 「今でも何もないから!」

 美夜子がそう突っ込む。

 「まぁね!」

「何かあったら怖いけど!」

四季も笑って乗ってきた。するとまた慶が余計なことを言う。

 「桃園っていうその何かがあるけどね!」

 そう言うと慶は一人で笑い続けていた。馬鹿にしているのか。していないのか。あいつは本当に変だよ。変でもいいんだけどさ。まだ一人で笑ってる。

玄関が近くなってきたのでみんなの会話はそこで止まった。

 「着いたよ。いるかなぁ?」

 僕の顔を覚えてくれているだろうか。走っていれば分かるかな。ランニングウェアで汗まみれになっていた方がいいかな。こんなことだったらあの頃もっと仲良くなっておけば良かった。

 庭にはきちんと人の手が行き届いていた。トマトやシシトウの自家菜園がある。雑草はきちんと刈り取られているし、鉢植えの草花もきれいに咲いている。誰かの仕事が入っていることが一目で分かった。

 砂利道を進むと玄関だ。僕も家に上がったことはない。突然五年ぶりに、それも知らない若者を三人も連れてだからびっくりするだろうな。それにお願いをすることがおかしい。理解の範囲をきっと超えてしまう。土地をよこせ、と脅しているように勘違いされないように気を付けよう。

 インターフォンはないから静かに引き戸を開け、みんなの前だから勇気を振り絞って呼びかけた。

 「ごめんください」

 すると遠くのほうでおう、という声がした。鴨川さんの声だと思った。しばらくその場で待っていたが玄関まで出て来る気配がない。

 「ごめんください、」

 もう一度声を出すと、今度は奥からはっきり声が聞こえた。

 「おるよ。上がってこ」

 「上がって来い、って。上がろうぜ」

 慶はそう言うが僕と四季は顔を見合わせた。そうだよ、いきなり自分から上がって行くのはマズイよ。

 「ほら、行こうぜ。お邪魔しまーす」

 慶が靴を脱いで玄関に上がる。

 「おい、待てよ」

 月並みなセリフで慶を止めながら僕も上がる。よし、行ってしまおう。どうにかなるさ。僕は居間の入口で遠慮がちに声を出す。

 「失礼しまーす」

 頭を下げながら居間に入る。鴨川さんはテレビを見ていた。僕を振り返って見た時、かすかに鴨川さんの表情が反応したように思えた。

 「おう」

 鴨川さんはそう言ってくれた。僕があの青年であることを認識したのだ。

 「お久しぶりです、三丁目の町内会長の息子です。以前良くこの辺りを走らせていただいてました」

 馬鹿丁寧に挨拶をした。

 「おうおう、分かるよ。しばらく見かけなかったなぁ。まぁ座れ」

 しっかりした口調で鴨川さんはそう言った。

 「お邪魔しまーす」

 僕が入ると、後ろからみんなが続いた。さすがに鴨川さんの表情にも警戒の兆しが見られた。

 「あっ、友達です」

 言われる前にそう言っておく。でも鴨川さんはそれ以上何も聞かなかったし、みんなにも座るように促すぐらい平静だった。

 「ずいぶん賑やかだな。ちゃんと実家には帰っとるのか?親父さんとはこの前の町内会で一緒だったぞ」

 「久しぶりに帰ってきました。家にも寄ってきたところです。おじいさんもお変わりないようですね」

 「何言っとる。もう耄碌じゃわ」

 シワだらけの顔で笑いながらそう言い返された。耄碌したようには思えないが、身体が一回り小さくなったんじゃないかな。久しぶりに見るからか。

 「何だ、結婚でもすんのか?」

 四季と美夜子の顔を見渡しながら鴨川さんは呑気にそう言った。それを聞いた二人は爆笑だ。

 「いえいえ!とんでもない!ただの友達です!」

 「なんじゃ。べっぴんさんが二人もいるのに」

 四季と美夜子が笑う様子を見て鴨川さんも何となく分かったらしい。冗談めいた口調で言ってカラカラと笑った。

「違います違います!」

首を振り、両手まで横に振って全力で否定した。

「っていうか~、どっちかがカノジョなんですぅ~。どっちでしょ~?」

悪乗りする美夜子。おいっ、ヘンなことするな!

「本当に違うんですってばー。おじいちゃん、僕まだ二十六ですよ。まだ早いですって」

焦って否定する僕。

「早くないぞ。わしは二十四の時だったからなぁ」

眼鏡を外して鴨川さんが笑っていた。テレビはマラソンを放送していた。縁側から太陽の眩しい灯りが差し込んでくる。こののんびりした匂いは田舎特有のものだ。実家にもない。僕の親よりもっと年配の家特有の匂いだ。こんな空気は久しぶりだった。

「実は、さっきあの桃の老木のところにみんなで行って来たんですよ」

鴨川さんの目が少し曇った。

「あの土地が残っていて安心しました。凄く懐かしい気がしました」

鴨川さんは目を細めて僕を眺めていた。表情はあまり明るくない。

「あそこはまだおじいさんの土地なんですか?」

黙って首を縦に振る。

 「このみんなで力を合わせてあの場所を整備したいと思っているんです」

 僕がそう言うと、一瞬鴨川さんの目の奥が揺れたように見えた。

 「決して迷惑はおかけしませんし、土地を荒らすわけでもありません。ただ、あの場所を復活させたいだけなんです。機械も使いません。自分たちの手だけで耕して、桃の木を再生してもいいでしょうか?」

 必死になって僕は言った。どうかお願いです、そんなに無理な話ではないでしょう。

 「ええよ。好きにせい」

 鴨川さんはすぐにそう言った。何の感情もこもっていない声だと思った。

 「えっ、よろしいんですか?」

 一応念を押してみた。鴨川さんは頷くだけだ。

 「ありがとうございます、ではお言葉に甘えまして」

 横から慶がそう口出ししてきた。おい、そんな言い方じゃ気を悪くするじゃないか。

 「お前さんがなぁ。どうしてくれるのかなぁ」

 そんなことを鴨川さんはつぶやいていた。

何だか拍子抜けしたが、OKがもらえればもう問題ない。これで計画通りに進められる。みんながお礼を述べても、鴨川さんは無関気味のままだった。それどころか、最後に釘を刺された。

 「わしに相談する時はよっぽど困った時だけにせいよ。若い衆が四人もいるんだから自分たちで何とかせい」

 痛い。なかなか厳しいことを言われてしまった。何しろ僕たちはズブの素人だから、実は鴨川さんの知識を期待していた。でもそう言われた以上は仕方ない。なんとか自分たちだけでやってみよう。本当に困った時は相談すればいい。

 それにしてもあっけない返事だ。もう興味をなくしたのか鴨川さんはテレビを見始めている。あの土地はそんな大切じゃなかったのかな。数ある土地のうちの一箇所に過ぎなかったのかな。

 丁寧にお礼を言って鴨川さんの家を後にするともう四時を周っていた。美夜子の時間があるからそろそろ帰らなくてはいけない。

 「これで大体イメージできたでしょ?OKもらったから、あとはひらすら地味な作業だよ。最初は雑草むしりから。整備できたら、桃の木を移植する方法を考えて、最後はちゃんと花が咲くように手入れすればいい。あとは勝手に育ってくれる」

 車へ戻る道でみんなにそう話す。

 「先が見えてきたわ。でも、随分話が早くない?ご実家も地主さんも問題なかったし、それどころか歓迎してくれてた。あとは桃の木をどこからもらってくるかとかぐらい?」

 「うーん、それはまだ考えてないけど、親とか近所の人とかに相談すればなんとかなるよ。なにしろここは桃どころだからさぁ」

 四季の心配は最もだが、あまり心配してない。なんとかなるさ。幾らかかるのか知らないけど、それはきっとなんとかなる。

 意外にも美夜子がもう一度老木の場所に行きたいと言い出した。もうしばらくなら時間があるからみんなで向かうことにした。

竹林に入るとまた僕の時代が戻った。この空気だ。竹林の涼しい空気に触れるとあの頃に戻ってしまう。

 静かな緑。どうして彼らはこんなに穏やかなのだろう。緑色は優しく、何もかも許してくれる。丘の上に立てば、喧騒が消えて小鳥たちの独壇場。竹林から風が小さな音を立てて転がってくる。雑音がない。緑と風と鳥がどうして雑音だろうか。

あぁ、こんな澄み切った世界でかつての僕は育っていた。あの頃はどうしてこれが分からなかったのだろう。今はこうしてはっきりと僕の目の前に現れているのに。見えていないくせに夢中になっていた。理解もせずに、好きになるだけ好きになっていた。

 「あれは?水路の跡?」

 丘の下にある細長い窪みを指差しながら慶が聞いてきた。

 「そう。中学までだったかな、小さな流れがあった記憶がある」

今でもそれと分かるぐらいの薄い溝が左右に流れて残っている。

 「何とかしたいな」

 慶は顎をさすりながら考えていた。

 「面白い、水引いてよ」

 美夜子は言うが、それって絶対簡単じゃない。

 「この先に川があるから、用水路を引き込めばできるかもしれないよ。でも、そんな簡単にできないよ。確かにさ、水が流れていたら絵になるのは分かるけど大変。結構大変。かなり大変」

 「丘にベンチ置こう。座りたいもん」

 思いつきで美夜子が続ける。

 「いいね。そのぐらいゆとりのある場所にしたい」

 それには僕も賛成だ。

「それから……なんだろう。あ、分かんない」

次の思いつきは出てこなかった。

「いいわね、川とベンチか~。私、賛成!」

僕も賛成だ。四季もそう言ってくれたし。段々先が見えてきたと思った。雑草を綺麗にして、桃の老木の周りを整えて、できれば小川を引いて、みんながゆっくりできるベンチを置こう。

なんだか想像できてくる。全部やり遂げた後、みんなで揃ってベンチに座りながら、お昼でも食べて談笑している姿が。のんびりしてていいね。これまでの僕にすればそれは地味で、弱々しくて、薄っぺらなものだが、今の僕には宝物に見える。

ほら、僕の空想は止まらない。春、桃の花が満開の季節。自分たちがやり遂げた成果を見届けながらここで乾杯するシーンが浮かんできた。

未来のことが、実在した過去の記憶のようにはっきりと見えてくるのは何故だ。あやうく話のすり代わりが行われようとしている。これは過去じゃない、未来だ。空想だけに終わらせたくはないから、これからの自分たちだと信じ込めばいい。信じることで現に可能性は膨らむのだ。

「これは本当にアイディアよね。東京で働いていて、自然に目を向ける時間なんてないじゃない。私だけだったらいつまでも思いつかなかったと思うの」

改めて四季がそう言う。深く息を吐くようにして。

「そう?それは嬉しい」

僕は本当にそう思っている。

「昭クンはいつ思いついたの?どんな時に?」

「う~んと、はっきりとは覚えていないんだけどね、仕事が本当に忙しくて、毎日終電まで残業が続いた時があったんだ。会社に泊まる日もあった。さすがに嫌気がしてた。だって、その仕事は僕のじゃなかったんだよ。上司か先輩がやるべきだったのに、僕に振られた。それも、僕が凄い時間を費やしてやり遂げた仕事が自分の成果にはならずに、何故かその上司と先輩の手柄になるんだ。他人に吸い取られてしまうのが嫌で嫌でたまらなかった。次第に何か自分自身で最初から最後までやり遂げたいと思い始めてたんだ。それも、どうせならスケールの大きいことをしたかった。数万数十万の金を会社のために稼ぐような小さい仕事じゃなくて、もっと大きなことがやりたかった。それで思いついたのがこれだよ。疲れ果てて電車に乗っていた時にぼんやりと思いついたんだと思う」

「ふーん、会社ってそんなに大変なんだ」

美夜子が言う。大変なんだぞ、本当に。

「でも、分かんない。多分サラリーマンよりわたしがお店でもらうお給料の方が多いよ。そんな長い時間働いてないし、少ないし苦労したんじゃバカバカしくない?」

そんなことを言われても困る。僕だって好きでサラリーマンやってるわけじゃない。

「お金なんて入ってこればいいじゃん。ツライのはどれも同じ。だったら多く貰えるほうがよくない?」

はっきり言うなぁ。それはそうなんだが、弱気な僕じゃ美夜子の若さに向かって正論を吐く度胸はない。どうしよう。困った。何て言えばいいんだ。

「大した仕事もせずに大金を稼げてしまう。その罪を人は知らない」

急に慶が言った。困っていたから助かったが、あいつの言葉はいつもピントがずれている。それじゃ美夜子には分からない。誰にも分からない。僕にも分からない。

「は?」

よく聞き取れなかったようだ。美夜子が小馬鹿にした感じで聞き返す。

「今はいい、今は。快楽もいいし、理想もいいけど、長い目で見たら現実が大切じゃないかな?はっきりした証なしにどうして明日を乗り切る?いつかツケが回ってしまうぞ。自分に言い訳するのはもうなしだ」

「?」

美夜子は胡散臭そうな目で慶を見ている。

「だから!言葉が足らないんだよ、それじゃカノジョ大変だ」

吐き捨てるように美夜子がそう言う。なんか雰囲気が悪くなってきた。この二人、どうも合わない。僕が旨くフォローしなくちゃ。

 「ほら、今日ここに来てみてなんとなく分かったでしょ?ここはただの林じゃない。言ってみればひとつの世界だよ。小宇宙だよ。そこを自分たちの力だけで蘇らすと想像してごらん。こんなに偉大な仕事はない。こういうのをやりたいんだ」

 僕はそう言って話を戻そうとする。見兼ねたのか四季も乗ってきてくれた。

 「私には分かる。社会人になっちゃった昭クンや私には伝わりやすいと思うの。なんでもそうだけど、自分自身の仕事ってないのよ。自分が責任を持ってやってるつもりでも、あくまでそれは部や会社としての話であって、私が、私だけが、っていうのがないの。よく組織の中の歯車のひとつ、って例えられるけど、それが本当なのよ」

 「ふぅ~ん」

 さすがの美夜子も四季の話には耳を傾ける。

 「ねぇ、美夜ちゃん。私はこれに参加したい。やり遂げたい。分かってくれるかな。美夜子ちゃんにはきっとつまらなくて、くだらなく映っていると思うけど、昭クンの言う通り、こんなちっちゃな場所でも私たちだけの力できれいにできたら本当に最高のことよ。私にとっても、初めて自分自身で自分自身のための成果を得ることになるかもしれない。私も美夜ちゃんの年だったら理解できなかったと思うからあまり上手く言えないけど、できれば私たちを信じて欲しい」

 「――うん。いいよ。四季さんがそう言うなら信じる」

 「ありがとう、美夜ちゃん。ありがとう」

 なんだ。仲良いみたいだな。随分対照的な二人なのに、どうして上手くいっちゃうのかな。女同士はそれが不思議だ。年齢だったり、性格だったり、そういうのをどうやったら越えられるんだろう。僕には分からない。

 「下らなくはないよ。小さくも、みじめでもないし、ヒマつぶしでもなければ、冗談でもない。世界に、宇宙に、真正面から向かってゆく真剣勝負だ。傍から見ればおかしくても僕にとっては自分再生の大仕事だ。みんなもそれを分かった上で、自分の大きな何かを賭けて望んで欲しい」

この冒険にゴールはない。自分たちが満足した時、そこがゴールになる。小さいようでも、本当は大きいハードルなんだ。

 「かぁ~マジメだねぇ」

 とぼけた調子で慶が割り込んできた。

 「そんなに繰り返さなくても分かるって。とりあえずは雑草で、あの水路だろ?話は明快だ」

 「桃の木を増やすんでしょう?」

 「ベンチ忘れないでよ」

 四季も美夜子も続けて言葉をかぶせてくる。みんな乗り気だな。

 「そうだよ、分かってるよ。最初は雑草からだけど、川から水は引くし、駐車場からここまでの道もきれいにする。もちろんベンチもね。桃だって増やすし、他の花も植えようか」

 「桃は『気立ての良さ』『私はあなたに夢中』」

 これは美夜子だ。

 「美夜ちゃん、それ花言葉?」

 「そう。ここにはどんな言葉がぴったりなのかな?それで花選ぶとか」

 面白い。花言葉から植える花を決めるなんて、それもひとつのアイディアだ。

 「バラは?確か、『愛』でしょ。それだけ覚えてる」

 「合ってるけど、それってうちらに関係ないでしょ~」

 「そっか~」

 「慶、何かない?」

 僕が聞くとあいつは口を開いた。

 「海とか風とか。音楽とか肉体とか。この辺りでぴったりくる花は何かないの?」

 「っていうか!辞書じゃないから!」

都合良く使われたと思ったのか美夜子は凄く抵抗した。

「冗談だよ」

慶はあっけらかんと返した。

「まぁ、それはおいおい考えることにしましょう」

そう言って四季が静めてくれた。危ないので僕も口を入れる。

「そうだね。で、まずは雑草むしりだから大変だよ~。汚い仕事だからって逃げ出さないでよ~」

僕は女性二人を見回しながら言った。実は本当にそれを心配している。

「あら、大丈夫よ。男が二人もいるんだから」

あっさりと四季に言ってのけたられた。隣で美夜子が笑っている。

「いっ?!」

 びっくりした。

「嘘、嘘。分かってる。ちゃんとお手伝いするから」

「あ~良かった。でも、こっちだって分かっているからさ、力仕事は男でやるから安心してよ」

「二人とも力あるの?あんま見えない」

僕たちの身体を見ながら美夜子が言う。口の悪い娘だ。

「構うな、構うな。そのうち分かる!」

慶が僕にそう言う。

「そうしますか。――さぁ、戻ろうよ。そろそろ出ないと間に合わないぞ」

それで今日は終わりになった。昨日の今日だったのに随分進んだものだ。来週以降、みんなのスケジュールがつく日にまた来よう。これからが本番だ。

丘を降り、竹林を歩く。笹の間を通る風が、桃の老木へと逆行している。ここの風はこれから何を老木に相談しに行くのか。老木は穏やかな顔をして色々なものを引き寄せる。僕たちも老木に集められた数多い相談者の一人なのだろう。

中央道が空いていたので時間通りに拝島に戻ってこれた。今日はみんなのケータイの番号とメルアドを交換して別れた。みんな次の土曜日も集まれると言う。今朝の場所にまた集合だ。

来週までの宿題が山積みだな。調べておくことがあるから本屋に寄ったが、園芸の専門書なんて置いてない。会社の外出のついでに大きな本屋で一杯買いこんでこよう。これから忙しくなるぞ。

心地良い一日の終わり。今日だけでも達成感がある。仲間ができたし、その仲間たちが乗り気になってくれた。僕一人だけではない。こんなに大きな喜びは、僕にはやや眩し過ぎる。それでも光から決して目を背けることなく、僕は進んで行こう。


それから僕の毎日に張り合いができた。いつもは上の空の月曜日。変われば変わるもので、月曜の朝さえも新鮮に感じる。

通勤の途中で勝手な想像をしてみる。造園の知識はなくても、想像の中ではいつも色とりどりの草花が咲き乱れ、自分の思い通りに桃園が出来上がった。

仕事の意味が変わった。その一日のための仕事ではなく、あくまで週末出勤をしないために、金曜になるべく早く帰るために仕事をするようになった。月曜から木曜ごとき、いくら遅くまで仕事をしたっていいさ。名もない平日に用はない。週末にいかに花を咲かすか、それだけが僕の平日になった。

大きな本屋で造園の本を探すが、僕たちの事情にぴったりくるものがない。確かに考えれば趣味の盆栽ではないし、プロの農業でもなく、庭で家庭菜園をするわけでもない。とにかく目的が一般的じゃないから、それらしい本がないのだ。こんなマニアックなことを店員さんに相談するのも気が引けた。

果樹の解説書があったので買ってみた。桃についての記載もある。こんな本が鞄の中に入っているのを見られたら、何て説明すればいいんだろう。説明できないよなぁ。何時間かけて話したところで、僕の新しい仲間たちのように理解してくれる人なんて滅多にいるもんじゃない。昼休みに机で読むわけにもいかないな。電車の中と家で読もう。

あれからみんなどんな毎日を過ごしているのだろう。乾いた平日に目を冷まされたりはしていないだろうか。土曜日までほっておくつもりだったが、とてもそれまで待ちきれない。みんなに同報でメールをしてみた。

「土曜は天気良いみたい。みんな来てくれよな~。昭」

すると、美夜子からすぐに返事が来た。

「ハ~ィ↑ 休みにしたから! (^o^)/

 しばらくして慶からもメールがあった。

 「心配しなくてもみんな来るって。君こそ仕事で駄目になったりしたら許さないぞ」

 昼間に打ったから四季は仕事で返事できなかったんだろう。夜になってメールが届いた。

 「今日もお疲れ様。土曜日早く来ないかしらね (~o~)

 短いメールだから、選ぶ言葉にちゃんと意味がある。この饒舌な社会に落とされた珍しいコミュニケーションツール。簡単かつ本物なのだ。

返事を読んで自分が小さく見えてきた。もうみんなを疑うようなことは止めにしよう。僕は何を心配している。これはもう僕自身だけの話じゃない。みんながそれぞれ意味を持ち始めているのだ。

 それに較べるとこんな仕事が何だ!仕事なんて簡単だ。やればできる。大したことじゃない、やればできてしまうのだ。随分前倒しに処理したから、金曜日は六時半に切り上げた。そのまま飲みに行くのでもなく、帰って何をするのでもなく、ただ早く寝た。月曜からの計画通りにできたので僕は至極満足だった。

 びっくりだ。目覚めは早いし、気分が良い。こんなのなかなかないぞ。早々と荷造りしてBarに車を向かわせた。今日はみんなを拾ったら途中のホームセンターで道具を揃えて行こう。いよいよ本番だ。

 また三十分もフライングだ。駅前の牛丼屋で朝食を取ることにした。会社帰りによく立ち寄るけど、私服で入るとまたなんか新鮮な感じ。運ばれてきたら一気に食べる。まだまだ時間はあるのにゆっくりしていられない。何だこの感じ。僕はまた何かを焦っている。

 先週と同じ場所で待っているとみんなが来た。四季と美夜子は一緒に、慶はまた大荷物を抱えて。どこで買ってきたのか、大きな鎌が四つも袋から刃先を出している。それを見た美夜子は露骨に引いていた。あれじゃ丸っきり危ない人だぞ。

 途中でゴミ袋やバケツを買った。冷たい飲み物も欲しいからクーラーボックスも買う。軍手や鎌は慶が持ってきたから大丈夫だし、縄やシャベルは買った。あと必要な物は何だろう。鴨川さんの力を借りてはいけないんだから、道具だって自分たちで用意しなくちゃ。

「ところでみなさん。そうだとは思ってるけど、今回は一切機械なしでしょ?自分たちの力だけでしょ?」

慶が聞いてくる。僕は女性二人を気にしながら当然のように言ってやった。

「もちろん。機械なんて無粋な物、僕たちに必要ない。でも、二人は心配しないでよ。基本的に力仕事は僕と慶でやるからさ」

「だから~。余計な気を使わないでよ。私たちだってちゃんとやるから。そういう遠慮はお願いだから止めてよね」

「そうだよ~。せっかくやる気なのに!」

嫌気がさして逃げられたら困るからそう言ったのに、逆に怒られてしまった。そうか、二人も本気なんだ。こんなことはもう言わないようにしよう。

「はい、すいません!頼りにしています!」

心の中は感謝の気持ちで一杯だった。こんな気持ちこそ口に出してもいいのに、どうも僕は、そして男という動物は、それを素直に言うことができない。

「でも、いいねぇ。己の肉体だけで何かを創り上げる。芸術の基礎であり、本質だ」

慶がしみじみと言う。

「朝から演説!後にして、後、後!」

美夜子がそう言って笑っていた。彼女にとってはそういう理解か。四季はどうだろう。彼女も笑っているのは美夜子に合わせているからか。僕は慶に賛成だ。慶はいい事を言った。芸術の本質。その通りだと思う。

これまでの人生で慶がどんな日々を過ごしていたのか、僕の知るところではない。まだ出逢ったばかりの仲だが、それでも今までの彼の言動や、仕草や表情からある程度は読み取ることができる。僕とはどこかで共通したものがあると最初からそう思っていた。それは、これまでの人生で決定的な自分の生の確証を掴んでいないという共通点だ。

慶の言葉はいつも強気で、迷いがないように聞こえる。しかし、その裏づけが乏しいと感じるのは僕だけではないはずだ。彼のこれまでは決して幸せではなかったのではないだろうか。幸せな人間ならば、裏にもっと幸せの痕跡が見え隠れする。若さに悩みや苦しみはつきものとはいえ、彼の場合はその生来の変わった性格が災いして、随分多くの壁に阻まれてきたのだろう。それも僕に似ている。

僕は一旦昔に栄光を掴んだが、今では遠い昔話になってしまった。今、それを取り戻すために桃の老木へと向かっている。現実と戦っているのだ。社会生活という妥協の中でも、精神面の弱い妥協を乗り越え、己に非妥協的である自分を再生させようと願っている。一方的に社会に背を向ける非妥協ではなく、かといって生活の妥協の中で精神の非妥協を貫くほどの信念もなく、どこにでも存在する妥協の中で、なし崩し的な己の弱い妥協から守るために、今回は非妥協を目指そうとしている。

留年や下宿という妥協を選択し、自分の人間関係のまずさや端的な知識を世間と妥協させられず、やや勘違いして徹底した非妥協を選ぼうかとしている慶。やはり共通するところがあると思う。

「でもほら、あのぐらいの広さでしょ。逆に機械を探したり、習ったりする方が効率悪い。全部自分たちの力だけにした方が絶対早いって」

僕が繰り返す。

「言った!美夜ちゃん、泣きついてきても絶対に認めないようにしよう!」

「はいはい、認めなくていいですよ。ぜ~ったい機械なんて使わないから」

そういうことでみんなの方針は固まった。便利な東京をわざわざ離れるんだ。東京と同じものを持ち込まなくてもいいと思う。今は違う場所にいるんだから、そこでしかできないことをやろう。どうせなら、その過程の不便ささえも楽しんでみよう。

御坂に着くと、桃の老木へ向かう前に鴨川さんのところへ挨拶だけしに行った。縁側に座って庭の盆栽を見ながらお茶を飲んでいた鴨川さんに、これから作業を始めてきます、と言ったがどうもリアクションがない。あまり関心がないようなのだ。僕にはそれが不可解だった。そんなはずはないんだけどなぁ。わざと無関心を装っているようにしか思えない。

老木まで着くと、すっかり太陽は上がり、まだ五月になったばかりというのに半袖でも耐えられないような暑さを感じた。屋根がないから直射日光が厳しい。これで蝉の声でも聞こえたら本当に夏だ。

みんなで鎌を持ち、まずは桃の老木の一帯から手前の水路跡に向かって雑草を刈ることにした。横一列に並び、足元の草を刈り始める。切ると草の独特の匂いがむっと立ち込めた。

「この匂い。なんか、久しぶり」

僕がそう言うとみんなも何のことか分かった様子だった。

「本当。私もこれ嫌いだった」

「あ、キライ、わたしも」

女性二人はそう言った。そうだろうな。こんなの好きな女性はいない。僕も好きだったわけじゃない。草刈後の畑の横を走る時、この匂いを嗅ぐことがあった。その時は口だけで呼吸するようにしてたもんな。

続けていると腰が痛くなった。慣れないから最初は辛い。ちょっと腰を上げて、背伸びをする。ふと、伸び上がった視線から仲間たちの姿を見た。――ありがとう。いきなりそう言いたくなる。見ず知らずの彼らが、どうして僕の桃園で雑草刈りをしてくれているのか。考えるほど不思議で仕方がない。

予想以上にみんなの手は早く、一時間もしないうちに老木から水路跡まではきれいに片付いた。まだ若い夏草だったから、膝下ぐらいまでしか伸びていなかった。

太陽を浴びて身体を動かしたから汗が出た。背中や額にも汗が滲んでいるのが分かる。重労働だな。みんなも袖口やタオルで汗を拭っていたようだった。仕事で流す汗が悲涙だとすれば、この汗は喜びの涙。僕には作業ではなく、楽しい遊びだ。久しぶりにいい汗にかいたら気分が良くなった。これぞ、汗。

「ちょっと休もうか」

そう僕が言うと、みんなも立ち上がって腰を伸ばした。丘にシートを引いて腰を下ろし、クーラーボックスの氷で冷やしておいた飲み物を飲む。

「ビールが飲みたいなぁ」

突然慶がそんなことを言う。

「飲めないくせに!飲ましたら仕事にならないだろ!」

「冗談だよ、冗談。酒飲みってよくこう言うだろ。ちょっとその気持ちが分かったような気がしてね、一度言ってみたかったんだ」

そう言って慶は一人で笑った。こんなに地味な汗を極上の酒のつまみだと思うとは、彼のやる気も本物というか、感覚が僕に近い。

汗が心地良い。汗よ、全身から流れろ。腐敗した日々の擦り傷や、知らないうちにこびりついてしまった社会の毒だとか、そういうものを洗い流してくれ。土や草木に密着した汗臭い汗はこんなにも気持ちの良いものだとは、今の今まで僕は分かっていなかった。

しばらく休んだ後、今度は丘から下に向けて草を刈ることにした。まだ昼前だが、陽はすっかり上がり、ますます暑くなってきた。帽子を忘れたな。日焼けしないように長袖の服の方がいいみたいだ。

しばらくすると周りの雑草はきれいに姿を消した。お昼になったので、途中で買ってきたお弁当を食べることにした。丘の上のレジャーシートにみんなで座る。

「ここまでは順調だね」

「ホント。順調」

「午後はどうする?」

「水を引くのはまだまだ早い。その前に道を作ろうよ。竹林からこの丘の上まで、土を固めて道を作ろう。でこぼこあるから歩きづらいでしょ?歩く道は大切だよ。それに、舗装していない土の道って、僕たちのコンセプトに合うんじゃないかな」

僕が提案する。すると慶がいいことを言った。

「じゃぁ、水路を掘ろう。そうすれば土が出るから、それを道に使えばいい」

「賛成!」

それを聞いた美夜子が拍手する。

「おっ、たまにはまともな意見出すじゃない。それはいいね、午後はそうしよう」

男二人がシャベルを持ち、竹林の端から端までの水路の溝を深くすることにした。深く掘り過ぎないようにしようと話しておいた。あまり深くしても後で水を流す時にうまく流れなくなってしまうかもしれない。あくまで自然体なものがいい。本物の小川の流れに準じたものにしたい。

「わたしたちどうすればいい?」

持て余した様子で美夜子が聞いてきた。力仕事なので男二人が場所を取ってしまった。

「じゃぁね、刈った草を集めておいてくれるかなぁ。隅っこのほうに山にしておいてよ。そのうち捨てるか燃やすから」

そう言うと、彼女は四季と一緒に草を集め出した。嫌がる様子がない。偉いというか、ちょっと変じゃないかな。僕があのぐらいの年のときはあんな素直に言うことを聞かなかっただろう。何が彼女を動かすのか。まだまだ僕には分からない。

きつい力仕事になった。水路の土を掘っては、出た土をバケツに入れる。それを四季と美夜子が運んで、丘に向かって道の線を描くように撒いた。

「道の脇にはお花植えたほうが可愛くない?」

四季と美夜子がそう言って道なりに何を植えるのか話しているのが聞こえた。それは賛成だね。僕たちの道らしくなる。

水路の溝も順調で、くっきりと溝が出来てきた。広場の掘り終えると、今度は二手に分かれて横の竹林の中まで掘ることにした。掘ってはバケツを土一杯にして戻る。渡すと彼女たちはそれを道に撒いて、なんだか笑いながら道を踏み固めていた。何でも楽しんでしまっている。あれは凄いな。男にはなかなかできない。何でも楽しんでしまうのは女性の特権だと思う。

 溝はだいぶ掘ったから、僕たちも道の方を手伝うことにした。竹林の出口から丘への道はもう出来上がっていた。問題は竹林の中だ。落ち葉が絨毯のように重なって道のようにはなっているのだが、でこぼこがひどい。まずはシャベルである程度慣らしておく。土を撒いたら堅く踏みしめる。結構厚く撒かないと道にならない。今後は土が足りなくなって慶と土堀に走る。

いつの間にか陽は斜めに傾いていた。竹林の道も出来上がってきた。身体中が汗まみれだし、土の匂いが服にこびりついている。

――あぁ。

思わずため息が出た。嬉しい。こんな夢を実現できているとは。それも一人ではなく、仲間たちがいる。なんて満足な一日だろう。

「おぉ~い。もう終わりにしよう」

僕はみんなに呼びかけた。駐車場の近くの道を仕上げていた慶が戻ってくる。四季も美夜子もそれぞれ汗を拭って集まってきた。それで今日は終わりにすることにした。

「今日は成果あったんじゃない?いいねっ、このペース」

「ねー。いい感じ!」

女性二人の会話に慶が口を挟む。

「最初は上手くゆくよ。問題はこれからだ。これから沢山障害があるぞ」

すると美夜子が慶をじろりと見た。やばい、何か言いそうだ。僕がすかさず割り込む。

「いやぁ、とにかくみんなよく頑張った。こんな作業ばかりだけど嫌じゃないよね?楽しい?」

しつこいかと思ったが、そう聞いてみる。

「結構いい運動になるよね。嫌じゃないよ」

四季が助けてくれた。

「じゃぁ、鴨川さんのところにちょっと寄ってから帰ろうよ」

丘へ荷物を取りに戻る。改めて見渡すと、今朝とは景色が違っていた。元々そんなに長くなかったが、乱雑に生えていた夏草が刈り取られて、横に水路溝ができた。竹林から丘までの土色の道だって出来上がった。だいぶいいんじゃないかな。これが、僕たちの一日分の成果だ。

作った道を踏みしめながら竹林を抜け、駐車場に戻る。道は格段に歩きやすくなった。アスファルトではない自然の道。僕たちらしい純粋な道だ。

鴨川さんは家にはいなかった。それから作業道具を預けるため実家に寄ると、母が夕飯を食べていけと勧める。さすがにみんなは遠慮していたが、もう作ってしまったから、という母の強引な言葉に押し切られた。

今日は親父もいた。運転があるから僕には飲ましてくれなかったが、みんなにビールを振る舞って、若い女性二人を前にした親父は恥ずかしいぐらいにデレデレになっていた。飲み過ぎだよ、親父は。飲んだ勢いで色々聞いてきやがったが、四季がとっさの機転を働かせて切り抜ける。拝島のスポーツサークルで知り合ったメンバーで、サークルの課題をここでやることにしたのです、と言うと親父は納得した様子だった。上手い。さすが。

またいつでも来て下さい、と言う両親。こういう時、ウチの親は偉大だ。決して物事を曲げて捉えたりせずに正面から広い心で接してくれる。田舎者といえばそれまでなのだが、東京に出てからその優しさの意味が僕には分かった。

夜の高速で拝島に戻る。飲んでテンションが上がっている四季と美夜子がずっと後ろで騒いでいた。食事付き、ビール付き、送迎付きだから結構いいバイトね~、給料はないけどそれ以外は待遇いいね~、とわざと僕たちらしくないことを言ってふざけていた。

来週もどうかと聞くとみんなは口を揃えて大丈夫、と言ってくれた。良かった。まだ続けられる。実際に始めてみるとこれが結構楽しい。きっと、一人でやったら虚しい気分になっていたことだろう。仲間がいることでそれが楽しさに変わった。一人と二人では大違いなのに、今はそれが四人もいるんだ。ありがたいこと。みんなに感謝しなくちゃいけない。

Barの前でみんなと別れた。また来週ね、と声を掛け合ってみんなが帰ってゆく。家まで送ったりはしないよ。そこまで踏み込まないのがルールだから。互いを信頼して、個人的生活のことはあまり多く聞かない方がいい。こんな仲。逆にこっちの方がいい。

個人的なことに深く踏み込む必要性のないのが現代。何故ならあまりに多くの人間とすれ違う仕組みになってしまっているからだ。同じ目的がある時だけ、同じ時間を共有できればそれでいい。楽しく共有できれば尚更だ。こんなドライな付き合い方が良く思えるのも人間関係が希薄な証拠だろうか。それでも、これが互いにぴったりなのだからこのままでゆこう。こんな関係が永遠に続くとも思っていない。実り豊かな今の一時だけ、存分に噛み締めていこう。

平日が楽しくなった。下らない五日間も、週末の命の輝きを考えれば笑って流すことができる。心に良く斬れる刃を秘めていれば、恐いものなんて何もない。最早この僕から誰もこの楽しみを奪い取ることはできないのだ。たった一度の土いじりだけで僕はすっかり自分の誇りを取り戻したように感じていた。

だから僕は仕事にも立ち向かえるようになった。人の低俗な本性よ、どんどん僕にぶつかってこい!心にプライドがある僕だから、どんな汚れさえも飲み込んで命を輝かせてやる。つまらない仕事の押し付けだとか、責任者の無責任だとか、そんなのも僕は気にしなくなった。人の日常はゴミなのだ。その中で僕は自分のやるべきことだけをやればいい。そんなものか。全てが命の一点のために回り始めた気がした。


翌週もまたみんなが集まった。揃ったところで僕は安心の大きなため息を吐いた。いつになったらこの心配をしなくてもいいようになるのか。いや、これからもそれは無理なのかもしれない。みんなが来てくれることを僕は心から望んでいるからだ。

今日は水路を開こうと車内で決めた。よっぽどのことがない限りは自分たちでやってみろ、と言われていたが、さすがに無断で水を引いてしまうのはどうかと思う。まずは鴨川さんに相談してみようということになった。

鴨川さんは庭で盆栽の手入れをしていた。水を引こうとしていることを説明すると、ふぅーん、と聞き流された。駄目とは言わないし、いいとも言わない。ただ、好きなようにせい、とだけ言って盆栽をいじっている。あの近くに水路はありませんか、と聞いても自分たちで探せとしか言ってくれない。

それからみんなが交互に水路の場所を聞いたり、何年前にあの水路を掘ったのだとか口々に聞くと、鴨川さんもいい加減にうるさくなったのか、新聞広告の裏に地図を書き始めた。少し離れたところに今は使っていない農業用の水路があるらしい。もう何年も整備していないからどうなっているか知らんがそれを使え、と教えてくれた。

お礼を言って桃園に向かい早速水路を探してみる。水路溝に沿って雑木林の中をかき分けながら歩くと、結構距離はあったが農業用の水路にぶつかった。ただし、水の流れが細い。

その流れをさらに遡ってみると川に着いた。これだ。この水が水路に流れ込むように工作すればいい。せき止めている石をちょっといじればいい。僕たちの流れ分だけ、幾らか水を引き寄せよう。用水路の下流に迷惑をかけない程度に水を引っ張ってこよう。

どうすればいいのかは分かったが、その作業の膨大さを思うと呆然とした。これは大変だぞ。水をいじるのは簡単だ。石を外すだけ。問題はその後で、用水路から老木の広場まで距離にして一キロはあるだろう。今何も流れていない水路跡に溝を掘って、水を引っ張ってこなくてはいけない。かなりの労力と時間が必要だ。

老木の土地から下流へも水を通さなければならない。今度は戻ってその下流をチェックしてみることにした。こっちは問題なく、数百メートルも進むとこのあたりの農家が共有している用水路に行き着いた。ここに水を戻せばいいだけだから簡単だ。周りの農家の理解だけ得ればいい。

僕たちの水路に用途はない。ただの観賞用だ。それなのにどうしてこんな大変な困難を抱えてまで水を引っ張ろうとするのか。無駄なんじゃないかな、と思ったりもするけど、逆に狙い通りなんだ。僕たちのこの計画自体に利益はない。見返りを求めない旅をしている。苦労をしてまで、利益のない水の流れを作ろうとする。その考え方が今の僕たちそのものなのだ。あえて困難に突き進む姿が僕たちにはせいぜい相応しい。

 みんなの意見を聞くが、否定的な言葉は出てこなかった。みんなやる気だ。僕だってもちろんその気だ。そうだ、無駄なことを有意義にしようよ。

僕と慶がシャベルで溝を掘り始める。用水路の水はまだ何もいじらないままだ。上流から桃の老木の方向に向かって掘り込んでゆく。昔の溝もまだ残っているので、ゼロから掘るわけじゃない。残った跡を深く刻んでゆく作業だ。

四季と美夜子には出た土で周りを固めて、水路の土手を整えることをお願いした。これも大事な作業だ。上手く土手を固めてもらわないと水を流した時に決壊してしまう。

やり始めてみて改めて大変な作業だと思い知らされる。腰を入れてシャベルを突くが、土が乾燥しているから硬く、思ったように削れない。今日も太陽が暑かった。土埃の籠もった匂いと、草のむせ返りにもやられてしまいそうになる。

一時間も続けると肩と腰が音を上げてきた。ちょっと休憩を取っていると、休んでいる僕を横目で見ているくせに慶は一人黙々と働いていた。一緒に休めばいいのに。案外辛抱強い男のようだ。それともただのひねくれで、頑固なだけか。

振り返ると四季と美夜子はすぐ隣に固まって何か話しながら作業をしていた。あの二人もなぁ。ホント、対照的な性格だと思うんだけど、どうして仲良くなれるんだろう。不思議だなぁ。

それから昼までかけてやったが、あまり進まない。さすがに疲れたのでお昼にすることにした。声をかけるとみんなは待っていました、とばかりに道具を置いた。そうだろう、この作業は先週と比べものにならないぐらいに辛い。車に戻ってお弁当を老木の広場まで運ぶ。

「なかなか進まないね」

食べながら僕がそう言うとみんなも口々に言い出した。

「本当。先が思いやられる」

「荒れ放題だし、土が硬い。マジ大変」

初めての困難だ。これを僕たちはなんとかできるか。もちろんだ。こんな小さな障害ぐらいでどうにかなってしまう僕たちの理想ではない。

「でも、やっとそれらしくなってきたんじゃない」

僕がそう言うとみんな頷く。

「土遊びなんて小学生以来。結構楽しいかも。昭クンも慶クンも腰、大丈夫?」

「大丈夫じゃないね~」

本当に大丈夫じゃないぞ。明日になるのが怖い。来週は階段上がるのとか結構辛いかも。

「これも全て美夜子様のご希望を叶えるために」

慶がすっとぼけて言う。

「え~メンドーならいいんだよ。でも、川あった方が絶対いいから」

「そうね。私も川は賛成!」

四季と美夜子にチームを組まれては勝ち目がない。まぁ、元々やる気で始めたのだ。ちゃんと最後までやってみせるさ。僕だってどうせなら川はあったほうがいいと思う。それにそれが何であれ、今は目の前のものに正面から立ち向かいたい気分だ。せっかくこんな酔狂を始めたのだからどんな物にでもぶつかってみよう。

午後も作業を続けた。慶がいいアイディアを出した。掘る場所に前もって川の水を含ませて柔らかくしておくのだ。これが調子いい。水を汲んで運ぶのは辛いが、スコップの入りが格段に違ってくる。こっちの方が楽なのでこの方法で作業することにした。

作業の合間でふと腰を伸ばす。ようやく雑木林の下に入ったので暑さも厳しくなくてすむようになった。木漏れ日の心地良い太陽。何でもたまにがいいと思った。太陽だけ浴びても辛いし、雑木林の下だけもじめじめして気が晴れない。それと同じように、平日全部がこの豊かな作業でもきっと嫌になってしまう。たまにすることで、貴重さを感じて思わぬパワーが出る。だからきっと土曜日だけにここに来るのが正解なんだと思うよ。

みんなは文句ひとつ言うことなくこの地味な作業を続けた。長い一日になった。結局夕方までかけたが、四分の一しか終わらなかった。先は本当に長い。思わず弱音すら出てきそうになる。

「思ったんだけど、」

慶が声をかけてきた。

「俺たち二人だけでも来週は泊りがけでやらない?これはかなりかかるぞ。さすがに彼女たちに泊まれ、とは言えないからさ。二人で一気にやっちまおうぜ」

賛成だ。それはいいね。梅雨入りする前にこの水路だけでも終わらせてしまいたい。雨が降っていては気分的にこの作業は辛いだろうし、グズグズしていると桃の収穫で農家の人たちが一番忙しくなる時期に入ってしまう。用水路のことも、ベンチや桃の木の件もその前に目途をつけておきたかった。

今日のところはこれで終わり。みんなを呼ぶとさすがにぐったりしていた。真っ直ぐ帰ることにして、母に捕まらないように急いで実家に荷物を残すと、車を走らせる。

帰りの高速でみんなすぐに眠ってしまった。雲行きが怪しくなったと思ったら、談合坂の手前から雨が降り出した。静かな車の窓を雨が叩く。ワイパーのメトロームつきだし、こんないい子守唄を聞かされたら僕まで眠ってしまいそうだ。誰か付き合ってくれないかな。僕も寝ちゃっていいかな。今日という一日に満足しているから僕もぐっすり眠れそうなんだ。

人は醜いと誰かが言う。僕はそれに反対ではないが、それだけとも思わない。確かに人に醜い部分はある。だが、人の世にも雨は降るのだ。稀に空から与えられる雨という世界は美しい。その美しさが毎日毎日与えられるとは限らないことは知っている。それは人がいつも美しくないのと同じ。だが、少なくとも雨が降る時だけは人も美しくなる。だから人間だって捨てたもんじゃない。

結局拝島駅まで僕一人だったからそんなことを考えていた。そうしたら、慶の声が聞こえてきそうだった。雨は自然が降らすものだから人間の美しさとは関係ないよ、と説教を垂れる、人間全体を否定する慶の顔が雨のスクリーンに映し出されてきそうだった。

Barで車を止めたらみんなを起こそうと思っていたのに、そのまま静かにしていた。なんか、こんな時間が好き。車内にみんなの疲れが充満している気がした。自然の肉体労働の匂い。これはいいね。なんだか気分がいい。しばらくこうしていたい。目を閉じてしばらくその空気を味わっていた。

そのままでいたら、みんなが起き出した。少し窓を開けるとその隙間から錐で突くように冷たい空気が流れてくる。外は霧雨に変わっていた。シャワーだから触れると気持ち良い。

僕たち二人は来週実家に泊まりがけで作業しておくよ、と言うと女性二人から文句が出た。私たちは足手まといだから誘ってくれないの?と責められる。慌てて否定すると、それなら私たちも泊まりがけで来ると言い出された。実家は問題ないと思うから泊められることは泊められる。でもいいのかな。四季だけかと思ったら、美夜子も泊まると言い始めるのだ。

まぁ、そう言われた以上拒む理由はないのだが、本当にいいのだろうか。見ず知らずの男性の実家に泊まるなんて非常識ではないか。彼女たちに任せるが、僕は考えさせられた。何がそんなに彼女たちの女性としての警戒心を解くのか。僕たち男二人が無害であることを分かってもらえたことは嬉しいが、それはそれで男として何かさみしい気もする。そんな馬鹿なことも考えていた。

何だろう、そんなこと以上に、この作業自体に魅力があるから自発的に来ようとしているのか。他に何もすることがないわけでもないだろう。彼女たちがそんなに土いじりを好きになるとも思えない。不思議だったが、ここは彼女たちに任せることにした。

翌週も単調な作業を続けた。これが掘っても掘っても終わらない。汗まみれで奮闘する男たちを見兼ねたのか、四季と美夜子は鴨川さんのところからシャベルを借りてきて自分たちも掘り始めた。そのお蔭もあり、午前中掘り続けてようやく半分まで終わった。

昼前になって、鴨川さんが初めてここに姿を見せた。でも何も言わず眺めるように歩くだけで、せっかくなんだから何かアドバイスでもくれればいいのに、そのままふらりと帰ってしまった。

「さっき美夜ちゃんが後で来てね~って言ったから来てくれたのかな」

鴨川さんが行ってしまった後で四季が言う。

「え~、あれって手伝いに来い、って意味だったんだけどな~」

と美夜子。はっきり言うなぁ。僕だったら鴨川さんにそんなのお願いできないよ。

一日中掘って、ようやく三分の二が終わった。なんてゴールの遠い作業だ。四人の汗の力が丸一日分集まっても、道を通すまでには至らない。シャベルの握り過ぎでみんなの両手は真っ赤になっていた。これはタフな仕事だ。

でも、僕は満足だった。こうして流す汗を美しく感じるからだ。こういう純粋な労働はなんて素晴らしいのだろう。こういうことをするために、僕は戻ってきたのだ。

今日はもう終わりにしようと言うと、みんなシャベルを置いて身体を伸ばした。丸一日同じことばっかり続けてお疲れ様。今日は終わりだと思ったら、なんか疲れが一気にどっと来た。それからみんなで丘の上に座ってだらだらしていた。

今日は風が強いから竹林が賑やかだ。風になびいて、薄緑色の竹林全体が右に左にスウィングしている。あっちこっちから話し声が聞こえてくるようだ。

「ね、なんか林間学校みたい。中学生の時、こんなのあった。山歩いたりキャンプファイヤーしたり飯盒でご飯炊いたり。カレーだったかな。みんなで手分けして作るの。なんか思い出すなぁ」

四季が懐かしいことを言い出す。

「そう言われてみればキャンプっぽいね」

「キャンプいいねぇ、ここでテント張るなんていいねぇ」

調子に乗って慶がを言う。

「え~テントはヤ。虫と一緒に寝たくない!」

そうだよな、美夜子にテントは無理だよな。

「女の子にテントって無理よねー。私、キャンプファイヤーだけは好きだったな。木のパチパチっていう音が気持ち良くて。美夜ちゃん、学校でキャンプファイヤーやった?あれって今もやってるのかな?」

「マイムマイム踊るヤツでしょ?やったよー」

「あはは。そうそう、マイムマイムやる。いっつもあれだよねー」

「結構好きだったけどねー」

「それならさ、」

僕が言った。

「あとでここでキャンプファイヤーしようよ。踊らないけどね!」

「えー踊ろうよー」

美夜子が冗談っぽく言った。ダメだよ、僕踊れない。

「踊りはなし!――って、木もないから本当はキャンプファイヤーでもないんだけどね。ほら、ここ上が空いているでしょ。星も見れる。夕飯食べたらここで星を見るってのはどう?それに今日はほとんど満月だ。フルムーンとは言わないけどさ、フルムーンサイクリングの代わりになるかもよ、慶」

慶に振る。

「フルムーンサイクリング?――って何?」

四季が聞き返してきた。二人にはまだ言ってなかったから、僕と慶が最初に話すきっかけになったフルムーンサイクリングのことを説明してみた。でも、彼女たちにその男っぽい感覚は伝わらなかったようだ。

「迷子になりそう」「暗くて危ないじゃん」「何見るの?」とか、そういう反応しかない。駄目か。こればかりは性別の壁がある。

それはともかく、夕食後に星と月を見に来るのは反対ではないらしい。実家に戻ると母がまた豪華な食事を作ってくれていた。

「御坂の桃は山梨でも一番だが、今じゃ若い連中は興味持たんだろう。君たちは珍しい。昭なんて小さい頃から桃は全然食べなかったのに」

父は不思議で仕方ないらしい。相手が親だからね、本当のことを言うは恥ずかしいってのもあるし、それに上手く説明できないからやっぱり言えないよ。

「いや、近いからだよ。課題に合ってて、実家も近いし便利だったから。ただの成り行きだって」

とりあえずそのぐらいで濁しておいた。それから、あの周りの農家に用水路のことを話しておかなくちゃいけないんだ、と相談してみると父は明日でも一緒に挨拶に行ってやると言ってくれた。

夕食後にみんなで外に出た。今夜は満月に近いから必要ないのに母が懐中電灯を持たせてくれた。車を走らせ、いつもの場所で降りると月は前の竹林に隠れて見えない。足元が暗いので懐中電灯が役に立った。先週舗装しておかなかったら夜はとても歩けなかっただろうね。僕が先導し、その後をみんなが続いた。

「おっと。そこで電気消してみて」

いいものを見つけたので僕が言う。みんなすぐに消した。そして足元に注意しながらゆっくりと歩いてきて、竹林を出る直前で思わず声が上がった。

「あー、出てる!」

美夜子のそんな声。彼女にすら伝わる万能の美しさ。開けた空に丸い月が出ていた。僕たちに向かって、「いやぁ来たの、よく来たね」とでも呼びかけている元気な月が。

こんな夜だから懐中電灯はもういらなかった。シートを敷いてみんなが丘に座る。携帯用のガスバーナーとミネラルウォーターを持って来ていたので、みんなに食後の紅茶を淹れてあげることにした。こういう場所で飲む紅茶は最高に旨いんだ。

「はぁ~。美味しい。昭クン、なかなか趣味いいんじゃない?こんなところで紅茶飲ませるなんて」

「ホント。ロマンチックってヤツ?」

 「チックはないでしょ、その響きがロマンティックじゃない。ティックだよ、ティック」

「はいはい」

慶がまた余計なことを美夜子に突っ込んでいた。どうでもいいのに。

「こういう場所で紅茶っていいでしょう。本当は自分が飲みたいからだけど。寝る前はやっぱり紅茶だね。ほら、眠れなくなるっていうけど僕には逆にこれがないと眠れない」

寝酒するぐらいなら僕は紅茶を飲む。身体的にというか、意識的に落ち着いて眠りに落ちやすくなるのだ。昔から癖になってる。

 「寝ちゃったら置いてくから!」

 「こんなところで寝ないよー!で、ホント、みんな泊まって大丈夫?美夜ちゃんも彼氏はいいの?」

僕の言葉に他意はない。いつも美夜子だけが心配だ。彼氏とケンカになるんじゃないかな。僕でも怒るかもしれない。せっかくの週末に彼女が泊まりに行ってしまうのだ、それも男が二人もいる集まりで。実際は健康馬鹿の平和極まりない集まりなのだが、そんなの第三者に分かるわけない。

「平気。大丈夫だから」

大丈夫なはずがない。絶対無理してる。彼氏よりここでの時間の方が大切なわけがないじゃないか。何が彼女を無理させるのか。ここにはもっと楽しい何かがあるのか。彼女の無理が分からない。

「本当に大丈夫?電話ぐらい入れておいたら?家とかもいいの?」

心配なのか四季もそう言うが、美夜子はそのまま涼しい顔をしている。

「親なんてわたしのこと気にしてないし、全然平気。ケンにはみんなのこと言っておいたから。わたしが楽しいならそれでいいって。ケン、いいヤツなんだから」

「へ~。理解ある~。いいなぁ~。で、どうなの~?二人は?」

聞かれて嬉しかったのか、美夜子は調子良くしゃべり始めた。

「ケンはね、優しいし、わたしに真っ直ぐだからいいんだ。絶対に浮気とかしないんだよ。同い年なのに可愛いヤツっていうか、でも頼もしかったり。とにかくいいヤツ」

「写真ないの?写真?ケータイの待ち受けは?」

やっぱり待ち受けはツーショットだった。でも、暗い林の中で小さく光る画面を見たら、僕には一目で分かる気がした。美夜子が言うような誠実な男じゃないんじゃないかな。僕の友達にもいるタイプだけど、典型的なお調子者の顔だ。僕が違うかもしれない。でも、そんなに外れていないと思う。

「イケてない?ウチラの友達のカレシのうちじゃ、一番かっこいいんだよ!」

嬉しそうに言う。

「出逢いは?どうやって?」

僕でもそのぐらいは聞けるから話を振ってみた。

「えっとね、友達がやってたメールサイト。周りで一番遅かったけど、やっとケータイ持ったからメル友欲しくて。登録したらケンの他にも一杯メール来たけど、ケンのが一番良かった。ほら、寂しいじゃん?メールも着信も来ないケータイって。着信こないと何か、自分だけ取り残されちゃう気がする。友達にも恥ずかしくて言えないし。だからメールばっかりやってたら、なんか好きになった」

灰色の太雲が丸い光をすっぽりと覆い隠した。それで暗くなったからか、美夜子の口は遠慮なく動き始める。

「いつの間にか~、なんか顔も知らないヤツだったけど~、なんか近くに感じるようになって~。なんか一人じゃ寂しくて~、だから逢おうってメールして~。そしたら付き合い始めるようになって~。どお?ドラマみたくない?」

テンション高く美夜子が言った。僕はそんなドラマあったっけ?と言いたくなる気持ちを抑えてわざと話を合わせておいた。

「へぇ~。そんな出逢いもあるんだ~」

「えへ。自慢しちゃった。今幸せ。一人じゃ生きていけないって言うじゃん?一人ってつまんないからねー。ケッコンとか憧れる。いいよねーなんか」

嬉しそうな美夜子。そんなにいいヤツなのか。本人がそう思うならいいんじゃないかな。でも、一人では生きていけないという言葉の解釈はそういう単純なことじゃない。

 「どぉ~?どんなヤツに聞こえる~?」

 無邪気に美夜子が聞いてくる。

 「うーんとね、マメにメールとかくれそうな人?」

「ん~、そうだね~。毎日電話くれるよ~。い~でしょ~。カレシがちゃんと毎日電話くれるってなんかよくな~い?ほら~、友達とかも結局はカレシに走っちゃうでしょ~。だから~、わたしも~、ケンを信じてる~。家とか仕事とかあんま信じられないし~、自分のことだって信じらんないけど~、ケンだったら信じられそ~」

自分さえも信じられないくせに、彼氏だったら信じられると美夜子は言う。

「そっか。いいなー」

口数少なく無難なことを返すだけ。それ以上は何も言えない。口を開くと美夜子を傷付けること言ってしまいそうだ。彼女の夢を勝手に壊してはいけない。

月が出ていた。ふと感じることがある。このまま大気汚染が進めば、そのうちに月さえ見えない空になるのではないだろうか。せっかくの明るいものも闇に閉ざしてしまう大気汚染が、美夜子の空にもかからなければいい。

やがて自慢話を喋り疲れた美夜子が帰ろうと言い出したので、その日は眠ることにした。

翌朝はあいにくの雨だった。せっかくの一日をふいにするのは惜しい。雨脚も強くはなかったので、作業もできそうだった。誘ってみるとみんなも嫌がる様子はない。合羽を借りて行ったが、作業場所は雑木林の傘の下に入っていたから逆に雨が涼しいぐらいで丁度良かった。

「よぅし。今日頑張れば全部通るかな」

気合入っていた。朝から僕は全力でシャベルを振りかざした。昨日の筋肉痛なんて平気だ。昨日はだいぶハードだったからなんか今朝は肩と腰が筋肉痛みたいだけど、僕は強いから全然大丈夫。

それよりもこんな単純作業はさっさと片付けてしまおう。早く次の作業がしたい。もっと大きな計画があってそれを描くためにここに来た。それにはまだちょっと早いが、僕はこの先を夢見て、地味な作業を一刻も早く、しかし決して手を抜かずに終わらせようとしていた。

昼前になると雨もあがった。無意識の中にも良かった、とつぶやいている僕。雨は桃の果実の成熟を妨げるから、この一帯では春から初夏にかけての雨は嫌がられている。寒くても駄目だし、日当たりが悪くても実が実らないのが桃。だから僕も春先の雨は嫌いなんだな。これも育った環境なんだろうね。

でも、今日の雨には助けられた。涼しいし、雨を含んだ土は軽快なリズムで削られていってくれる。いいペースで仕事が進むのだ。御坂にいて雨をありがたいと感じるのは珍しいことなんだ。

途中でまた鴨川さんが来た。やっぱりアドバイスらしいことは言ってくれないが、僕のシャベルの使い方に横から文句をつけてきた。腰が入っていないだの、角度が悪いから余計に力を使うだの、それはそれでありがたいのだが、じゃぁお手本を見せてと頼むと逃げるように帰ってしまった。

それから、昼になると父と母が来た。お弁当を沢山抱えてだ。まさかこの年になって両親とピクニックをするとは思わなかったな。丁度お腹も空いていたし、みんなで丘の上にシートを広げてお弁当を食べた。親父は一人で昼から酒を飲んで上機嫌だ。なんだよ、こっちは仕事しているのに!でも、両親の心遣いが染みてくる。

昨日約束した用水路のことで来たようだった。食べ終わると親父はみんなを連れて近所の農家へ向かう。ずっと御坂育ちだし、町内会の会長をやるような人だから顔が広い。周りの農家の戸を叩いてはあっさりとみんなの承諾を取り付けてくれた。

僕なんかじゃこうはスムーズにゆかなかったに違いない。ありがたい、これで堂々と水路をつなげられる。久しぶりに親父を見直した。でも、ありがとうの一言を僕が口に出せないまま両親は行ってしまった。あぁ、またやってしまった。どうしてこんな簡単な言葉が言えない。

午後になるとすっかり陽が出た。雑木林に暑さが戻ってきている。僕たちは相変わらずシャベルを振り続けていた。もう少しだ。あとニ百メートルも掘ればこの作業から開放される。朝からの雨にも助けられて急ピッチで作業を進めていた。

慣れてきたせいもあって順調だ。三時の時点で残すところ五十メートルまできた。この作業には三日もかかったぞ。それももう終わりだ。みんなもいい加減次をやりたかったのだろう。最後の最後になって手が早い。しゃべることも少なくなって、必死でシャベルを入れていた。

そうしたら美夜子のケータイが鳴った。しょっちゅうメールとかも来ているから別に珍しくもないけど、今回は向こうに話に行ったままなかなか帰ってこなかった。なにやら深刻そうに話している。どうしたんだろう。気にはなるが、とりあえず作業を続けていた。

「わたし、帰らないといけないかも」

電話を切った美夜子が困った様子でそう言ってくる。

「どうした?悪いこと?」

「帰って来いってケンが一人でキレてる。わたし、帰らなくちゃ」

それか。それはそうだよな、せっかくの週末に彼女がいなくちゃ怒るのも無理はない。こうなるとは思っていた。驚くことじゃない。

「みんな、悪いけど帰る。ごめんなさい」

「仕方ないよ。みんな、帰ろう。ほら、ほとんど完成したし今週はこのぐらいでいいでしょう」

美夜子の気持ちが分かる気がしたので、わざとみんなにそう呼びかける。この集まりでは別に誰もそれを恨んだり嫌だと思ったりはしないさ。

「うん、帰ろう」

四季がさっさと帰り支度を始める。慶も片付けにかかる。

「ごめんね、みんな」

「今日はもう十分だよ。またいつでも来れるんだから心配ないって」

本当にそうだ。あとはこの水路を通して、桃の木を移植してこればいいだけ。もう厳しい肉体労働はない。それよりも美夜子が来なくなる方がよっぽど困る。今日ぐらい早く帰ろう。彼氏の怒りを解いてもらうのが優先だ。

「みんな、ごめんね」

帰りの車でも美夜子は繰り返していた。ケータイがたくさん鳴っている。彼氏のメールだろう。大丈夫かなぁ。

「――アイツ、信じらんない」

そう美夜子が洩らした。そんな。君には彼氏だけは信じていて欲しい。

「でも、来週また来るから。仲間外れにはしないでよ」

「そんなのしないよ。絶対また来てよ。来週が無理だったらその次でも、もっと先でもいいからさ。もう一度言っておくけど、この集まりに遠慮とか、余計な心配はいらないからね。ただ来てくれるだけでいいから」

本気で言う僕。

「みんな待ってるから絶対来てね。彼とケンカしちゃ駄目よ」

そう言って四季が美夜子をなぐさめていた。不思議なものだ。この僕たちの希薄な関係にもいつしか、仲間意識ができ始めていた。


平日の途中にメールが入ってきた。美夜子からで、「みんなごめんなさいっ (>_<) 今度の土曜はムリそう その次はゼッタイ行くから許して~ (ToT)/~~~ 」とある。

一週間ぐらい何でもないよ。ただ、メールの送信が朝の七時だったのが気になった。仕事してたら絶対寝てる時間なのに。何かあったからそんな時間に送ってきたんだろう。また心配だ。

みんなにメールで連絡しておいた。今週末はキャンセル。翌々土曜日に集合。僕一人でも行って作業しようかと思ったけど、それを知ったら美夜子が辛く感じるだろうから止めておいた。

その週末は完全オフにした。つまらない週末だった。こんな時ばっかりいい天気な気がする。土曜日は昼まで寝てて、昼下がりのTVをダラダラと見ていたらもう三時になっていた。三時!三時っていえば、先週まではひと仕事もふた仕事も終わらせていた時間じゃないか。びっくりして外に出ると図書館に向かう。参考になりそうな本を物色していたが、混んだ席で狭く読んでもちっとも頭に入ってこないから止めた。

メールでもしようかと思ったけど、今日みんなに送ったら嫌味かなって心配してメールもできない。どうしようかな。何もすることがないので、しょうがなく古い映画でも借りて時間を潰して一日が終わった。日曜日もそんな感じ。僕って一人じゃ全然駄目だ。

その次の土曜日、美夜子はちゃんと来た。四季から「大丈夫?どうだったの?」と聞かれてもあまり答えようとはせず、「大丈夫」とか「平気」とか無難な言葉を言うだけだ。

彼女に演技はできないだろうから、あれから今日までに何かがあったのは態度ですぐに分かる。妙に強気なフリをしているんだ。でも、今日ここに来れるぐらいなのだからそれなりに上手くいったのだろう。僕たちの関係では何事も本人の意思に任せることがルールだったから、それ以上あえて聞かないことにした。

「心配してたのよ。誕生日はちゃんと祝ってもらえた?」

「うん、まぁまぁ。いいじゃん、もう聞かないことにしよ」

そうか。そう言われれば美夜子の誕生日は先週だ。それもあってケンカになったのか。とにかく彼女がああいう以上、もう僕たちが心配することはない。

老木の場所はこの前のままになっていた。さっそく続きを始める。たったの二百メートルだけだったし、朝の元気でみんな張り切っていた。なかでも美夜子が随分頑張ってシャベルを入れていた。そんなに頑張らなくてもいいのに何かに悪気を感じているのか。彼女も頑固だから、僕たちに迷惑をかけた分を取り戻そうと思っているのだろう。そんな必要全くないのに。

昼には桃の老木の広場までつながった。くっきりと刻まれたその線を眺めながら丘の上でご飯を食べる。もう一仕事してしまおう、ということになって、そこから下流の用水路まで一気に掘った。こっちの土は割合柔らかく、それに昔の溝がしっかり残っていたからあまり手をかけなくてもすぐに用水路までつながった。

まだ水は流れていないが、これで水路は完成だった。一段落して満足した僕たちは報告しがてらトイレを借りに鴨川さんを訪れることにした。今日はTVを見ながら遅いお昼を食べていた。長野の戸隠にいる古い知り合いから美味い蕎麦が送られてきたからといって、無理矢理僕たちにも食べさせようとする。丁度食べたところなんですよ、と言ったのに強引に僕たちを座らせると自分はさっさと台所に立って蕎麦を茹で始めた。だから、さっき食べたばっかりだって!

「ほら、食え。美味いぞ」

咽喉に通してみると確かにこの蕎麦が美味い。いや、本当に美味しい蕎麦だ。

「いやぁ、本当にさっき食べたばかりなんですけど、これだったらいくらでも食えますね!」

迂闊にも慶がそんなことを言ってしまったものだから、鴨川さんは冷蔵庫から薬味を一杯もってきてテーブルに置いた。

「若いうちはいくらでも食える。がっちり食っとけ、がっちり」

それから鴨川さんは容赦なく蕎麦を茹で始めた。まだ食わすの~?ざるに一杯になった蕎麦を手分けして食べなくちゃならなくなった。美味しいのはいいんだけど、だからっていくらでも食えるってわけじゃない。四季と美夜子は早々とギブアップした。しょうがない。男二人で平らげるか。

「おじいさん、ウチら結構頑張ったんだよ、水路できたんだから!」

僕たちが頑張りながら食べる姿も見飽きたのか、美夜子が話しかける。

「ほう。どこからどこまでだ?」

これまでの仕事ぶりを美夜子が必死に伝えていた。いつもの言葉遣いのまま話すから 時々四季が通訳してあげないと鴨川さんには分からない。話を聞くうちに鴨川さんの表情が変わってくるのを僕は見た。蕎麦つゆが薄まってゆくのと同じで、話を聞くにつれて鴨川さんの目は段々虚ろに閉じられてゆく。手元の蕎麦つゆを追加したらドバっと出ちゃった。おっとっと。今度は急に辛くなった。

「次は丘の上にピクニックデスク置くから。どっかで探して買う。みんなで座ってくつろげるし」

すると鴨川さんが意外なことを言った。

「心当たりあるから聞いてやる。ええのがあるかもしれん」

「え、マジで?!」

何だよ、今さら。あの鴨川さんが進んで協力してくれるなんて変じゃないか。自分たちで全部やれ、って最初あんなに言ってたくせに。

まぁ、でもありがたい。僕もどこから集めればいいのか全然見当ついていなかったから。蕎麦を三皿も食わされた甲斐があったというものだ。

午後はいよいよ水を引くことにした。上流の川から用水路に引き込むところに、石で作られた小さなダムがある。周りの農家の了承はもらっているから、せき止めの石をいくつか外した。それで用水路にだいぶ水が流れるようになった。

次は用水路から僕たちの水路への道を開いてやる。土の堤防を崩して水を誘導してやると、二分した流れの片方が僕たちの溝へ来てくれた。

「やった!」

乾いた溝を水が走ってゆく。その流れる様が面白くて僕たちは一緒になって歩いた。最初は水も恐れ恐れ進む。手探り状態が続いたと思ったら、追い水に背中を押されて今度は調子が出る。加速した泥水を追い、僕たちは早歩きになった。

「やった、やった、はははは!!」

笑いが止まらなくなった。だって、水が来たんだよ!僕たちの計画通りに。こんなに面白いことはない。ほら、一緒に歩いているみんなも馬鹿みたいに笑ってる。僕たちは何もしていないのに、水が桃の老木へ向かってゆく。止まらない。早い早い。どんどん土の上を滑ってゆく。

ふと、途中で水がつっかえた。溝が浅かったようだ。流れが止まったのを見ると僕は思わず溝に飛び込んでいた。足元を濡らされながらも慌ててシャベルで土を掻くと水が通った。

それからそんな場所がいくつかあった。僕と慶がかわりばんこに飛び入って土を削る。溝の土手は厚く土を盛っておいたから決壊しない。

何とか順調に水は老木の広場に達して通過する。下流の用水路まではもう少しだ。僕たちは飽きもせずに追いかけていた。お腹に溜まった蕎麦が苦しくても、こればかりは自分の目で最後まで見ておきたかった。

水が流れる様がただおかしかった。みんな笑いっぱなし。笑いながら水に沿って歩いた。苦労の山が笑いで蒸発してしまったんだ。あいつが笑っているのがまた笑える。笑っている自分がおかしい。笑いが笑いを呼んで、遂に水が用水路に合流すると僕たちは意味もなくお腹が痛くなるまで笑い転げていた。

水溝の出来は良かった。途中で決壊することもなかったし、水がたまってしまうこともなく、思ったより水が多くなったのが気になるが、まずは誘導した通りに流れてくれた。

「ちょっと水多いんじゃない?溢れるとまずいし」

四季も同じことを思っていたようだった。僕たちは点検も兼ねてもう一度上流まで歩いた。一キロはあるからかなり長い。でも大きな損傷は見られない。途中上手く流れてない部分にシャベルを入れたり、土手を補強したりはしたがあまり問題はないようだった。用水路へのダムに石を積み、水を調節しておいた。

「――ほら!良く出来たんじゃない?!」

ハイテンションの美夜子が言う。丘の上に戻った僕たちは改めて周りを見渡していた。

桃の老木。その存在感は相変わらずだ。土色の道がいいなぁ。緑色と薄茶色の地面に、茶の一線がある。竹林から丘の上へとなだらかに線を描いている道。その道と交差するのが僕たちの水路だ。橋なんてない。跨いで渡れるぐらいの川幅だから必要ないんだ。人工的なものはなるべく排除したいからこれでいい。

「やっぱり川、良かった~。わたしの思い通り~」

偉そうに美夜子が言う。確かにその通りだよ。水の流れがあるとないとではだいぶ違うもんだな。

「本当。ぐっと引き締まった感じ」

四季も言う。そんな感じだ。水の色の具合で緑にも一層深みが出たような気がする。水は体内の水分と共鳴するからかな。人は緑より水の方が近い存在だからね。どんな場所にも水は必要なのか。

「うーん、カンペキ」

美夜子がそう言うと、慶が不思議そうな顔で高い声を出した。

「カンペキ?」

「そぉ~。カンペキ」

「何がカンペキ?」

怪訝な顔。どうした?

「うーんと、わたしたちがぁ~?」

「カンペキ?!人間が完璧?!ははははは。カンペキ!完璧!ははははは!!」

突然あいつが笑い出した。何だ、意味が分からない。

「面白いね!自然ならまだしも、人間がかい?!ははははは!おかしな話だ!」

また一人で爆笑し始めたぞ。

「笑える!人間が完璧、っていうと醜くなる!人間が紺碧、ってなるとこれは美しい!カンペキとかコンペキとかって全然違う!カンペキ?コンペキ?笑える!ぎゃははははは!」

一人で大爆笑。もう慣れたよ。別に嫌味な様子じゃないし、僕たちに悪意があるようでもないからそのままにしておいた。いつものことだよ。ひとりで言葉遊びに興じていればいい。奇人の生態に逐一構っていられないよ。

それから僕たちは場の穏やかな余韻に浸っていた。三日も頑張ったんだからね。ちょっと休もうよ。シートを引いてまた一服することにした。

「どうする、今日?なんならもう帰ってもいいよ。美夜ちゃん、帰る?」

僕が話を振る。気になっているんだよ、彼氏とのこと。

「今日はホント大丈夫。気遣ってくれてありがと。ケンとは昨日逢ったし、明日も逢うからいいし。ちゃんと話しておいたし。今日は余裕」

「そう。まぁ、今日は適当に帰ろう」

「ホント大丈夫だって。やることあるでしょ。ちょっと休んだらやろーよ」

美夜子は時々強情になる。ずっと年下なんだから、別に対等でいて欲しいとも思っていないし、甘えてくれてもいいのに。互いに干渉しない関係の弊害で、逆にそういうことができなくなってしまうのかもしれない。

「誤解しないでね。美夜ちゃん。みんな心配してるから聞くよ。あれから彼とは大丈夫なの?もう行くなとか言われたんじゃないの?」

四季から聞かれると美夜子も素直に返事をした。

「言われた。今も言われてる。でも、わたし来たいから来てる。いくらケンでも止められない。だからいい」

「そっか~。美夜ちゃんがそう言うならいいと思う。私たち、本当に心配してるだけだよ。何かあったら遠慮なく言ってね」

「ありがと~。困ったらちゃんと言うし~」

それから作業を続けた。次は竹林の掃除だ。人の手が入っていないから、朽ち果てた古竹がそのまま残っていたりする。足元に積もった枯れ皮も多過ぎて、それはそれで美観を損ねるものだ。自然の中にも人工的な美観を創り出したいから重なった竹を除いたり、多過ぎるのは間引きしたり、シンプルできれいな竹林にするための人工的な工夫をこらしてみた。

 慶が竹を打って乾いた音を出す。あぁ、いい音。こんなに外が堅いのに中は空洞なんだな。あいつは黙って竹を見上げていた。

「どうしたの?何か見える?」

あいつは目を閉じて面白いことを言った。

Big Waveを待っている」

「あはは。風のこと?海じゃないって~。面白いそ~。私も~」

風が竹林を揺らす音だと四季にはすぐに分かったらしい。黙って一緒に竹林を見上げていた。美夜子も真似するから僕もした。

目を閉じずに見上げる。すると、天井のドームの隙間から花火のような太陽が見えてきた。竹の木漏れ日は花火の散った瞬間のよう。フラッシュのように注いでくる。

竹林のふちに腰掛けて、僕たちはBig Waveを待っている。曲がってそびえ立つ竹の根元から、身体の曲がりを伝って竹の天辺まで目で追った時だった。強い風が吹いて竹林にBig Waveを巻き起こした。竹が揺れるのは竹林全体が笑っているようで、つられて僕たちも笑ってしまった。

それから掃除を周りの雑木林にも広げた。なにしろ広過ぎるから全部は無理だ。丘から目の届く範囲ぐらいは整備しておくことにした。

そんなに大変な作業ではなかったけど、ゴミが一杯出た。ゴミ袋に詰めてゆくのだが、これが面白いほど袋が一杯になってゆく。林がきれいになったら今度はゴミの片付けだ。丸々と太って重くなったゴミ袋を車まで引きずってゆく。さて、どうやって運ぼう。手じゃ持って行けないし、軽トラックがあればいいのだが、そんな便利なものはない。嫌だったけど車のトランクに乗せてゴミ捨て場まで運ぶことにした。車にこぼれるなよ~。草の匂いだらけになるのはイヤだぞ~。

何回もゴミ捨て場を往復した。黄昏ももう終わりにさしかかっていた。重くてとても運べない枯れ木を丘に残していたからそれを燃やすことにした。今日の仕事はこれで終わり。お湯を沸かし、みんなに紅茶を振舞う。薪を囲みながらみんなで紅茶を飲んだ。

 あまり乾いていない木だったから火が回るのに時間がかかる。細木で上手くやぐらを組んだら何とか焚き木らしくなった。やっとキャンプファイヤーができたね。

 「ね~、慶サンってカノジョとどうやって知り合ったの~?」

美夜子が聞いていた。

「きっかけなんてどうでもいいだろう。生きてれば誰かに出逢うものだ」

相変わらずクールな答え。でもそれが美夜子に通用するわけがないじゃないか。

「え~言ってよ。しゃべれ~」

そんな聞き方じゃ駄目だよ。そう思いながら細木を投げて火の勢いを作る。風を煽って火を育てる。今度は四季が聞いた。

「好きになったのはどっちから?慶クンの方?」

そうそう。そういう聞き方。

「え~。カノジョさんからってことはないでしょ~ぉ。こんな人だよ~。好きになるヤツいるかぁ~?」

うわっ。言うねぇ。

「そんなの分かんないぞ。色々な人がいて、色々な人を好きになってるんだから」

「で、どっちなの?」

「別に。どっちでもいいだろう?僕からじゃないことは間違いない」

「え、じゃ、まっさかカノジョさんの方から?え~っ、意外!」

本当にびっくりしたようだ。そうだよな、こんな変わった奴を好きになってくれる人がいるなんて僕だって驚きだ。

「え、なんで?そういうことだってあるぞ」

「変わってるっていうか~、いいカノジョさんじゃない。大切にしてあげなよ~」

くべた木全体に火が回ってきた。もうほっておいても大丈夫。

「分かってるよ。僕のことを好きになってくれる人なんてそう滅多にいるもんじゃない」

おっ。分かってるじゃないかアイツ。

「へぇ~。分かってるならいんだけど~。でも、大切にしてる~?好きになったのはカノジョさんからだからって、調子に乗ったりしてないよね~?」

「そんなことないよ。大事にしてる。僕のことを愛してくれてる人だよ」

火がパチリを弾けた。火勢ができていい炎の色になった。

「はぁ~。羨ましい。自分を愛してくれる人、か。二人とも大事にしてね」

四季がそう言って空を見上げた。

「とかいって~、四季さんだってそんなキレイなんだから本当はカレシいるんでしょ~?」

「私はいいの。今は本当にいないから。いる人は大切にしてあげてね。後で後悔しないように」

「うん。分かってる~」

後悔か。思えば僕は後悔だらけだったなぁ。

「誰かに愛されるって幸せなことよ。私だって昔好きだった人に愛されたことある。もうとっくに終わっちゃったけどね。大切だったのに、今思い出すと後悔だらけ。だから慶クンや美夜ちゃんには大切にして欲しい」

 辺りはすっかり真っ暗な森のスクリーンに包まれていた。火にかざす手は見えても互いの顔ははっきりしない。

「――でも!後悔しようもないわね!美夜ちゃんの彼は嫉妬するほど美夜ちゃんが好きなんでしょ~。慶クンも彼女の気持ちを受け止めてあげた。付き合って二年っていったっけ?長いじゃない。それだけ一緒にいられれば大丈夫!」

こういう時の四季は優しい。他人をいたわる心が彼女にはある。すると、さっきからしゃべらなくなっていた慶が暗く口を開いた。

「君たちは、」

煌々と燃え上がる火を見つめながら話し始める。

「君たちは、音楽に後悔させられたことはあるかい?」

聞き慣れない言葉だ。後悔はともかく、音楽にとは何だろう。

「僕にはあるんだ。僕は後悔だらけで生きてきたよ。心の一番深い所の傷だからあまり思い出したくはないんだけど、しゃべったら楽になるかなぁ……

誰に同意を求めるわけでもなく、彼はそう言った。ゆっくりとした口調で、なんだか昔話でも語るように一人で続ける。

「十九の時から二年付き合った人がいてね。今の彼女とは僕が一方的に愛される立場と言ったけど、その人とは互いに愛し、愛される関係だった。今から思えば馬鹿馬鹿しい限りだけどさ、二年目になってからなかなか逢えない時間が続いて、何故か幻滅して別れてしまったんだ。その時はこれでいい、これでいいと思っていたんだけど、時間が経つごとに僕は苦しくなってきてさ」

木が燃える音に混じって、遠くの川の蛙の合唱が聞こえてくる。

「ある黄昏時だよ。宛てもなく多摩川沿いを運転していた時、カーラジオから知っているラブソングが流れてきた。ラブソングといっても失恋のほう。昔から知っていた曲だったから聞き流していたんだ。久しぶりの切ない歌詞に一瞬心を掴まれて、僕は少し心に油断の穴を開けていたんだと思う。そうしたら、ギターソロが爆発するように滑り込んできた。心が無の状態になっていたからね、そのソロのカットインのギターで僕はまるで雷に打たれたかのようになった。心は宙に飛び、空っぽになった。それまでは穏やかだった心の海が、太陽が現れると、ギターが響くと一変したんだ」

――蛙の合唱。

「爆発した次のギターソロでは、まるで海面をキラキラと輝かせて光る夏の海のように、幾つもの思い出たちが僕に向かって照らしかけてきた。きらめいて、きらめいて、ギターソロが終わると海はまたいつもの静けさを取り戻した。ほんの一瞬の出来事。でも一瞬にしては大き過ぎた傷だったから、僕は忘れることができない。それ以来その曲は僕にとって二度と聴けない曲になったんだ。思わず道端に車を停めて放心していたよ。この曲のことは知っていたし、CDも持っていた。なのに突然、僕に向かって何かを読み取って欲しいと訴えかけてきたように聴こえた。真っ先に感じたのは後悔の念、それ以外にはなかった。音楽に後悔させられる痛みを僕は知ったんだ」

そこまで言うと慶はさみしそうにうつむくのだった。

「――ねぇ、元々そういう気持ちがあったんでしょう?きっかけをその曲が作り出したに過ぎないと思う」

これは四季の言葉だった。確かにそうに違いない。

「あったね。でも今は今の彼女と付き合っているのだからそんなこと考えてはいけないと封じ込めていた。どうしてなんだろう。どうして今になって悔やむことがあるんだろう」

「だから、今のカノジョさんを大切にしてあげてよ。お互い納得して別れたんだったらそれまでのことじゃない?」

美夜子なりの精一杯の言葉だったように思う。

「いいや、そうとも言い切れないんだ。一時の感情に惑わされてお互い喧嘩別れのような感じになってしまった。思えば、本当に愛し、愛されていたのに」

美夜子なりの精一杯の優しい言葉と分かったらしく、慶は穏やかな口調でそう言ってやんわりと否定した。

「一緒に旅行に行く度、彼女はいつも新しいドレスで僕のベッドに飛び込んできてくれた。最高の笑顔でだよ。旅行の度に新しいドレスで、それを着ている姿を僕に見せたいと言った。本当に似合っていたから、僕もキレイだね、って言ってあげた。そのドレスを着た彼女も、ドレスを僕に見せようとする彼女も可愛くて、僕は心から愛していた。なのになんでだろう……。どうしてだろう……。本当に愛して、愛されていたのに……

心の底から絞り出すような告白。そんな叫びを聞かされても、僕には何か気の利いたセリフすら言ってあげられない。

「昔のMDが出てきたんだ。彼女と付き合っていた頃に録音したMDが。中の曲を聴いて僕は唖然とした。彼女への想いだらけの曲が録音されている。こんなにも愛していたんだって、今になってようやくそう気付いて。とっくに終わった恋だから、鍵をかけて封印した筈なのにな。今ようやく鍵の場所を忘れかけた頃なのに。どうしてだろう。どうしてなんだろう……

顔を両手で覆い慶は黙り込んだ。誰も彼に声をかけられない。何を言っていいのか分からない。どんな言葉だろうと今は安物に成り下がってしまう。言葉ではなく、僕は彼の肩をそっと叩いてやった。

色々ある。本当に色々あるよ、人生は。特に思い出は時が経つ程輝くものだ。幾らか年長者の僕がそう言うのだから間違いない。けれどそれは君自身が気付けばいいこと。他人からとやかく言われてもそう実感できないことだろう。君にはもう少しの時間が必要だ。

「自分だけはこんな過ちは繰り返さないって、そうずっと昔から信じていたのに。映画や音楽で厭っていう程、後悔の恋愛を忠告されてきたのに。どうして僕までもが同じ過ちを繰り返すのか。これじゃぁ人間は成長できないわけだよ。人間も変わらない。僕も変わらない。愚かな過ちばかりを繰り返して、きっとまた繰り返して……

がっくりと項垂れた背中にはいつもの傲慢さが見当たらない。

「今の彼女を水のように愛しながらも、昔の人を火のごとく愛する部分がある。人はこんなものも飲み込みながら生きてゆかなくちゃならないのだ。愛した人を抱かずしてこれからも僕は生きてゆかなくちゃならないだなんて……。どこに意味があるのか……。人間死んでは意味がないが、これじゃぁ生きていても意味はない。この不埒、人間の不条理よ……。不条理の人間よ……

痛ましいばかりの言葉。突然の慶の独白。

「僕は愛したい。愛されるんじゃなくて、自分から、かけがえのないたった一人を愛したい。愛しい名前を口にしながら、愛して果てたい。もう僕にはそれができないのかな。愛して果てるという、それだけの行為が人生の全てだと思うのに……

焚き木の火は弱まったようだった。蛙の合唱はまだ続いていた。僕が慶の肩を優しく叩いていると、彼はようやく顔を上げて言った。

「ありがとう、楽になったよ」

それで今夜は終わりにすることにした。手分けして荷物を片付け、火を消し、車に戻る。拝島に戻る途中、慶は窓の外を見つめて口を閉ざしたままだった。いつも帰りは賑やかだったのに、今夜ばかりは誰も口を開かない。こんな夜もある。僕は黙ってハンドルを握り、虚しい闇に車を走らせていた。


次の土曜日はいよいよ桃の老木の手入れに取り掛かる予定だった。朝一番で鴨川さんがピクニックデスクが手に入った、と姿を見せた。しばらくして本当にピクニックデスクがトラックで運ばれてきた。

「近くの公園で余ってた物だそうだ。タダでもろうた。好きに使え」

鴨川さんはそのまま友人のトラックに乗ると僕たちを残してさっさと帰ってしまった。優しいのか優しくないのかよく分からないなぁ。

「どうする?どうやっても車じゃ運べないし、イスもだけど、デスクは重いぞ、これ」

「仕方ない。何とか運ぼうよ」

これが完全に無謀な計画だった。持ち上げてみるが、ピクニックデスクとなると半端ではない重さで、男二人の力だけで到底手に負えるシロモノではない。これは無理だ。すっかり降参した。僕たちの手と足だけではどうにもならない。だからといって機械は使わないってみんなに約束してしまっている。

担ぐか。曳くか。いや、担げないな。曳くしかない。道具が必要だ。誰かに借りてこよう。そうだよ、どうせ桃の木を移植する時に同じ作業をするんだ。ウチの親が持っているわけないし、やっぱり鴨川さんだな。

みんなに説明をし、鴨川さんから道具を借りようということでまた家まで車を出す。鴨川さんには今度は何だ、という小難しい顔をされたが、道具は倉庫にあるということで結局はちゃんと貸してもらえた。やり方を聞くが、鴨川さんにじろっと見られた。駄目かな、と思ったら一応、基本的なことは一通り簡単に教えてくれた。

丸太と角材が揃った。この上にモノを乗せて、ロープで曳くのだ。力も必要だが、バランスが大事だ。木をずらしながらゆっくり曳こうとみんなによく説明する。僕だってこんなの使った経験はないけど、多分何とかなるだろう。

 まずは竹林の道に道板を敷く。その上に鴨川さんがコロと呼んだ丸棒を並べ、コシタという厚板を重ねる。コシタの上に荷物を置くのだ。

 軽めのイスから試してみることにした。軽いといっても結構な重さがあるから、いっぺんにふたつもみっつも運ぶのは諦めた。よく重心を考えてコシタに乗せる。乗ったはいいが、丸太で上手くバランス取りながらこれを運ぶのは大変だな。

 「危ないよ。落ちそう」

 みんなそう感じたので、コシタとイスを固定することにした。丁度線路を走る列車の形になった。線路のコロの幅を狭くして安定が取りやすいようにする。イスにロープをくくりつけ、余った部分をコシタにも結んだ。前から女性二人にロープで引っ張ってもらうことにした。問題はコロに上手くコシタを乗せることだ。この作業が危ない。ちょっとコロがずれてしまったらイスが落ちてしまう。コロを入れる時に指でも挟もうものなら大事故じゃないか。時間をかけて用心深く進めることにした。

 「せーの!」

 声を合わせて四季と美夜子がゆっくりとロープを曳く。するとコシタが前に出る。コシタが踏みつけ終えたコロを後ろから抜くと、すかさず前に持ってきてかませる。このかませるタイミングがポイントだ。絶対に指は挟まないようにしなくちゃいけない。コシタは角材だが、先の部分はコロを入れやすいようにと、わざと下部分がくり貫いてあった。先人の知恵だ。

 土をかぶせて凸凹をなくしておいたから道はしっかりしている。でも、竹林の狭い道は大変だった。微妙にカーブしている所では何度も道板とコロを調節してカーブをクリアする。

丘に出ると川を越えるのが一苦労だった。石を橋げたにして板の橋を作ろうとした。でもやっぱりスムーズにはいかない。本物の橋を渡しておかなかったの失敗だった。男二人、全身の力をフル動員させて強引に持ち上げながらなんとかクリアさせた。

 これは偉く時間のかかる作業だった。昼前に二つのイスを運ぶのが精一杯で、重いベンチは昼食後にありったけの労力を払ってなんとか持って来た。さすがの僕たちも疲れ切っていた。こういう作業を甘く見ていたようだ。

丘の天辺にデスクとイスを設置し、念入りに足元を固定させる。ようやく完成だ。これで僕たちの場所も益々形になった。まだ花はないが、水の流れがあり、くつろぐことができるベンチがある。もう立派な公園だよ。

「やったぁ~。これでお昼もここで食べれる~」

言い出しっぺの美夜子が嬉しそうにしていた。運ぶ時には散々ロープで手が痛いだの、重過ぎるから代われだの言っていた彼女だが、いざこうしてみると満足らしい。そういえば、川もピクニックデスクも彼女のアイディアだな。こんな娘がアウトドア派ってわけじゃないと思うのに、どうしてだろ。

あとは残すところ花だけになった。一仕事こなしたので、みんなでピクニックデスクに座ってこれからのことを話していた。今日も紅茶が美味しい。

必要な環境はだいぶ整った。初めてここに来た時から二ヶ月が経っていた。道理で暑くなったわけだ。初日に刈った雑草も本格的な夏草になり、段々背を伸ばしてきている。

その日の午後は勉強に当てることにした。僕たちは桃について何の知識も持っていなかった。どんな種類があって、どんな方法で育てて、どうやって咲かせるのか。まずはその知識が必要だ。本から得るのもいいが、せっかくこの桃の里にいるのだからプロの人に聞いたが方が早いし、確実ではある。

「でも全く知らないで聞くのも失礼じゃない?やっぱり鴨川さんに聞くんでしょう?ちょっとは勉強して行こうよ。そうすれば教えてくれる気になるんじゃない?何も知らないで行ったら、私は駄目だと思うよ」

それは四季の提案だった。

「なるほどね。さっすが!」

美夜子が賛成する。正直、勉強は面倒だなぁ。でも、最もだから四季の言う通りにしてみよう。それに、面倒でも良かったんだったな。この旅は面倒を嫌がらない旅のはずだから。

町中の本屋まで車を走らせて資料を探すが、参考になる本がない。図書館で探してみたら、少しは資料が見つかった。

元々桃は古くから日本に野生していたらしい。我々の祖先は桃に邪悪を払う力があると信じていたという。今僕たちが目にする桃は明治時代に中国から輸入された種類のものを品質改良したものだ。中国でも桃は長寿の象徴であったり、桜や梅よりもその花の美しさが愛でられていたり、人間に関わり合いの深い果樹として扱われてきた。

暖かい場所の方が栽培に適しているようだが、寒さにも強い。開花期に多雨であったり寒さが厳しい場所には適さないようだ。日本では山梨が一番栽培量が多く、他は福島や長野で多く栽培されている。比較的害虫の少ない果樹だが、水はけが悪くなると病害にかかりやすくなる。通気性があり、日当たりのよい場所であることが重要だ。三月末から四月にかけて開花し、実の収穫は七月~八月。

これで鴨川さんに聞く準備ができたかな。夏休みの宿題のように一通りそれらしい知識だけつけると鴨川さんの家に行く。あいにく留守だった。仕方なく広場に戻ってみんなでぼんやりしていた。

「今のうちに考えておこうよ。次は桃の木の移植ね。この老木を手入れして復活させるのもそうだけど、この一本だけじゃさみしいから、二~三本でいいからもらってこようよ。春にちゃんと花が咲くように害虫とか疫病とかの防止策を練って。で、その後は考えてない。何かある?」

本当にそれ以降は考えていなかったから逆にみんなに聞いてみた。

「ねぇ、花は桃だけなの?」

と四季。

「あ、それ僕も言いたかった」

慶も言う。なるほどね。考えていなかった。

「任せます。確かに、他の花もあったほうが賑やかでいいかも」

ただ僕が思ったのは、あったほうがいいのはもっともだが、このコンセプトを考えると桃だけのほうがシンプルでいいと思う。できるだけ余計な飾りはせず、主役が大きく構えているのがいい。過度には複雑にしたくなかった。

「川の周りとか道沿いとかに小さな花を植えたらどう?桃の周りに他の花を植えちゃ邪魔だけど、センスよく他に散らす分にはいいと思うよ」

「それいいね!」

その慶の意見には賛成だった。そうか。ポイントポイントに散りばめるのは大賛成だね。桃の近くでバッティングさせるのはやっぱり下策だし。

「そうしよっか~。桃の時期に咲く花を探して植えよう~」

みんなも賛成のようだった。早速植える場所を決める。竹林を出て丘へ向かう道の両脇と川の両脇に花を植えることにした。何を植えればいいかは分からないから、花を売っている店で専門家の意見を聞いてからにしようと思った。今日のところはもう何もすることがないから、手分けして植える場所の整備をすることにした。土を耕して植える土壌を作っておく。

美夜子はケータイが気になるようだった。今日もちらちらとメールチェックしている。別にそれが気に食わないとかじゃないよ。自由な集まりだから本当に彼女のペースで楽しめばいい。でも大丈夫かな。僕は心配しているだけだ。彼女は結構無理をするから、一人で抱えてしまうことがあると思う。やっぱり今日も早く帰ったほうがいいんじゃないかな。

「ほら、今日も早目に帰ったほうがいいかな?」

それとなく慶に聞いてみた。

「だね。心配だ」

「やっぱり?あとで四季にも聞いとく」

夕方前にはそれぞれの作業が終わった。あとは花を買ってきて植えればいい。一服しようとピクニックデスクに集まる。やっぱりこういう場所があるといいね。お茶を飲みながら、花をどこで買おうかダラダラと会話をしていたら、美夜子のケータイが鳴った。

少し離れて美夜子は電話していた。僕たちは彼女を気遣いながら、そろそろ帰ろうと話していた。なかなか戻らない。当たり障りのない話をしていたが、どうも会話が浮いてくる。みんな心配しているんだ。美夜子が心配の種だった。

言い争いの声が聞こえてきた。そのまま十分以上も話していたのだろうか。イライラした様子で彼女が戻ってくる。

「ごめん!でも今日は帰らないから大丈夫」

そうは言われても気になって仕方がない。

「いやいや、今日はもうやることないし、そろそろ帰ろう、ってみんなで話していたところ。帰ろうか」

僕が言う。

「ちょっと待ってよ!そんなにわたしのこと気を使わないで!」

「違うよ。今日はもう終わったし、僕たちが帰りたいからだよ」

慶らしく慶が言う。

「そうそう」

四季も調子を合わせた。でもこういう言葉に素直に従える美夜子じゃない。逆に不満そうな顔をした。

「まぁ、もうちょっとお茶飲んだら帰ろうよ。ほら、風が出てきた。心地良いから」

僕がそう水を向けると美夜子もしぶしぶベンチに座る。携帯ガスストーブでお湯を沸かし、温かい紅茶をみんなに振舞った。

「もうアイスティーの季節かな」

そうつぶやく。七月に入り、日中はだいぶ暑くなった。早いもので今年も半分が過ぎている。もう半分か。ここに来るまで僕は何をしてきたのだろう。五月以前の時間を取り戻したい。

「あのね、」

美夜子が切り出してきた。

「ケンが変。ヤキモチ妬き過ぎ。ウザイ。信じらんない」

「どうしたの?」

「変だよ、アイツ。もう行くなってシツコイ。安心してよ。わたしは来たいから来てるんだし、これからも来るからね。でも、最近アイツ本当に変わった。前はこんなこと言わないでわたしのこと信じてくれてたのに」

美夜子は悩んでいる様子だった。

「ねぇ、四季さんとかどうなのかな?付き合った人ってそんな感じだった?」

すると四季はこう返した。

「私は参考にならないよ。考え方が違うから」

「違うってどこが?」

四季はすぐに答えようとしなかった。

「えっ、聞きたい。どんな感じだったの?」

そう催促されたら、思い切った様子で四季が言った。

「何もかも。ひねくれてるの、私。どうせ人は変わるものだから一生一人の相手じゃ駄目だって決め付けてる」

「えっ、」

美夜子は言葉を失った。思い切った表情のまま四季が続ける。

「これは私の持論。人は不変ではいられない。何もかもが変わってしまう。それはね、私にとっての全ての中心なの」

その言葉にはみんなが驚かされた。あんなに温かい人だと思っていた四季にもそんな一面があるだなんて。

「だってそうでしょう?私、ずっと思ってる。私がどうこうとか、誰かがどうとかじゃない。人間が、ってこと。変わらない人間なんていないのよ。いいえ、人間は変わるために生まれてきたのよ。変わらないと生きられないのが人間。ごめんね、美夜ちゃん。悪くとらないで。これは私だけの考え方なんだから」

「――うん。分かってる」

「私の名前。四季の名前の由来は、両親にしてみれば年間の四季の美しい移ろいを備えた女性になって欲しい、ということらしいの。でも、大人になって私は自分で変えちゃった。四季っていうのはね、移ろいゆく自分自身なの。変わってゆく自分ね。いつも変わってゆく。それもね、毎日がその途中なの。ある日を境に急に春から夏に変わるわけじゃない。春の一日が、夏への途中でしょ。それはどれも同じ。今日は明日の変化のためなの。だから不変のものなんて私にはない。……ごめんね、美夜ちゃん、聞き流して。でも、私にとって今日の恋愛は未来の別れの一歩でしかない。自分自身が変わってゆく、相手だって変わってゆく、互いに望まない方向にもね。だから別々の人間二人が、いつまでも一緒に居続けられるわけがない。そう思っている。それが私の四季なの。……ホントごめんね、あまり真面目に聞かないで」

そう言って四季は言葉を終わらせた。彼女の意外な一面。それが本心の彼女なのか。

「そう……。哀しい考え方。わたし、ケンとは一生やってゆけるって思ってる……

美夜子はそう言う。声は小さい。四季がごめんね、と繰り返して美夜子に謝っていた。

僕はどうだろう。考えると、答えがない。僕はそんなこと考えもしてこなかったのだ。ただあるがままに受け取り、流れるままにそれとなく過ごしてきた。せいぜい僕が言えるのは、若い理想は案外もろく壊れてしまうということだ。自分だけはそうではないと、誰もがそう思っている。僕だって、そうだった。でも、改めて僕の経験を思い出せば、ほとんどがもろくも崩壊していった。


翌週。親に聞いた甲府の植物店に直行した。色んな草花が売っている大きな店らしい。店員さんにみんなで相談してみる。初春から初夏ぐらいにかけて咲く花で、今から植えておいても大丈夫なもの。しかも屋外で育つもの。

そんな都合のいい花はないですね、と店員さんに笑われてしまった。それでもひとつ紹介してくれた。センパフローレンスというベゴニアの種類だ。『四季咲きベゴニア』と呼ばれる通り、冬の一時期以外は年中を通して花が咲くという。11月から冬の間だけ屋内にしまっておくことだけが条件なのだが、あとは僕たちの希望に合う。ある程度暑さにも強く、手間もそんなにかからないと言う。じゃぁ、それで決まりだ。

鉢植えで売っていたのでまとめて買う。色はピンクと赤と白があったが、桃とかぶるので赤と白にした。

 御坂に帰ると道沿いに赤色の花を、川沿いには白色を置いた。冬と春に移動させなくちゃいけないから土に直接植えるのはやめにした。鉢ごと植えて列にする。この場所でしっかりと育って欲しい。色に乏しかった場所がこれで一気に明るくなった。

丘の上から四季と美夜子が注文をつけてくる。あの花はまっすぐになってないだの、植える間隔が違うだの、バランスが悪いだの。そういうセンスは僕たち男にはないから黙って言われる通りにする。一通り終わった後で丘にあがってみると、景色はいよいよ素晴らしくなっていた。

 昼を食べた後で鴨川さんのところに向かう。いよいよ本題だ。庭にいた鴨川さんに桃の木を譲ってくれる農家を知らないか、あるいは鴨川さんが人に任せている桃園から譲ってもらえないか、とお願いするとさすがに驚かれた。あの老木以外に二~三本でいいから桃の木を増やしたいんだ、と言うと鴨川さんは僕たちの言いたいことは分かった様子だったが、露骨に迷惑そうな顔をした。

 「簡単に譲る農家がおるか」

 それは分かってるよ。そこをお願いしているんじゃないか。

「ウチのは駄目だ。わしからお願いして世話してもらっている人たちにそんなことは言えん。それに、そんな簡単に桃の木は根付くもんでない」

 そう言って僕たちを諭そうとする。尚も食い下がると、結局最後は何とか当てをさぐってやるから付いて来い、と言ってくれた。知り合いの農家を一緒に車で回る。だが、いい返事をくれる農家はなく、失笑を買うだけだった。

僕たちの考えが甘かったんだろう。彼ら農家は生活がかかっている。趣味でやっている僕らなんて酔狂としか思われなくて当たり前だ。ぼちぼち桃の実の収穫が始まっていて彼らが忙しくなってきている、というタイミングの悪さもあった。ください、と言われて、ほいきた、とくれる農家なんてあるわけがない。

「今日は駄目だ。待っとれ。他に話しておく」

そう鴨川さんが言ってくれたので、信じて待つことにした。こうなると僕たちにできることはない。無力だから黙って待つだけだ。

丘の上に戻っても特にやることはなかった。仕方ないから伸びてきた雑草でも刈ることにした。夕方、両親がふらっと来た。だいぶ形になってきた僕たちの景色に驚いている様だった。桃はまだまだとはいえ、他はちょっとした公園並みに出来上がっている。成果がはっきりと誰にも分かる形になってきているのだ。

何気なくさっきの桃の木の話をすると、両親は鴨川さんに任せるのが一番だと言う。父親の顔が広いとはいえ、農家ではないからそういうところの影響力はない。古くからここで農園を営んでいる鴨川さん以上の人はいないだろうと言われた。

親が帰ってからも僕たちはベンチに座って何気なく話をしていた。別に今すぐにしなくちゃいけないことはない。そろそろ帰ろうか、という頃に鴨川さんが姿を見せた。

「来週の土曜でいいか?三本でいいな。ただし、ちょいと虫食いがあるらしい。そこはお前らでなんとかせい。今年の実は駄目だそうだからもういらんとよ。いいな、土曜の朝、あの駐車場まで持ってきてくれるから運べ」

吉報だった。それはもう嬉しくて、僕たちは何回も何回も鴨川さんにお礼を言う。感謝の気持ちを表したいから、ベンチに座らせて紅茶を振舞う。美夜子だって残っていたシフォンケーキも全部あげようとする。鴨川さんはいらんいらん、とか言いながらもちゃんと食べていた。

「では、説明しますね」

大きく手を広げて僕がこの場所を紹介し始める。

「涼風の竹林を抜けると、雑木林の間に緑の広場が広がります。ほら、見てください。川が流れているでしょう。あそこで小鳥が水浴びをするんです。この小高い丘にはピクニックデスクがあります。ここで人間たちがお話をするんです。それからあの桃の大きな樹。春になるとあれが可憐に咲くんですよ。それにこれからある人の協力のお蔭で、桃の仲間が増えるんです。そうすると春は桃の花が咲き並んで、秋は紅葉と落ち葉。その景色を見ながらここでご飯を食べて、お茶をするんです」

「ほう」

目を細めて鴨川さんが辺りを見渡す。

「そして、」

僕はちょっとみんなを見ながら言う。

「このみんなが、この場所を創ったのです」

鴨川さんは何も言わない。

「結構良くできているでしょう?どうですか?」

横から慶が聞いた。

「よくできとる」

鴨川さんはそう言う。

「おぉ、よくできとるぞ。そうじゃな、わしが二十年も前にやったこととそっくりじゃ」

「二十年前?これと同じことをされたんですか?」

「えっ、そうなんですか?」

「おう、そうだ。二十年ぶりにここに水が流れているのを見たわ」

「へぇ~」

「大変じゃったろ?お前さんたちだけでやるのは」

「大変でしたよ~。へとへとですよ~」

鴨川さんはカラカラと笑う。

「二十年前はお一人でやられたんですか?」

「いや、まだ生きとったかぁちゃんと二人でやった」

「二人で?!」

「そうじゃ。せがれどもも手伝ってはくれたが、何ヶ月もかかったぞ。一から溝を掘るんじゃからな」

「え~想像できない作業ですね~」

「まだわしも若かったからな。あの桃の木はその頃、まだ若木だったやつを移植したものだ。年をとったな。こんな老木になって」

老木までゆっくりと歩く鴨川さん。静かに木を見上げている。

そうか。奥さんが生きていた頃に植えた木だったのか。あれから二十年経って木も老木もなったわけだ。それは思い出深いことだろう。そんな歴史があるとは始めて知った。

「なんか、私たち悪いことしてるのかな?おじいさんにとっては皮肉なことなんじゃない?」

四季がそう言う。そうだね、結構嫌味だったかもしれない。

「いいんだよ、知らなかったことだけど、もうやっちゃったんだからありのままでいいだろ?」

「わたしも仕方ないと思うよ」

小声で慶と美夜子も言う。

「そうね。仕方ないよね」

ベンチに戻ると鴨川さんは老木を指して言い始めた。

「じじいの割にまだ結構しっかりしとるわ。タンソ病とアブラムシぐらいだ。この場所は水はけが良かったからな、そんな重い病気ではない。病枝は切る。薬も撒くぞ」

あれ?手伝ってくれるのかな?

「随分長い間ほったらかしにしたのにまだ元気だ。大したもんじゃ」

「じゃぁ~一緒にやろ~よ。専門的なこと分かんないし~。ここまでやったから認めてよ」

ずけずけ言う。美夜子だから言えることだ。

「この桃の木はわし以外では駄目なんじゃ。わしがやる」

おっ。言い方は素直じゃないが、鴨川さんが遂にそんなことを言ってくれた。

「やったぁ~。それじゃよろしくね~」

「お前さんたちじゃ無理じゃからな」

「ありがとうございます、僕たちもできることはお手伝いさせていただきますから、是非よろしくお願いします」

そう言うと鴨川さんは笑う。

「分かった、分かった。――お前さんたち、よくここまでやったもんだ。わしも久しぶりに働くぞ」

「二十年前は何のためにされたんですか?」

四季が丁寧な口調で聞く。

「はっはっは。お前さんたちと同じじゃよ。こういう場所を作ってかぁちゃんや子供たちとゆっくりしたかった。それだけだ」

そうか。同じようなことを考えていたんだな。

「いや、まさか、お前さんたちのような若い衆とお嬢さんたちがこんなことをやるとは信じられんかった。変わり者じゃな」

「それは知っていますよ。変わり者になるために来たんです」

と、慶。

「変わり者にしては仕事が早かった。わしらが何ヶ月もかかったのを、四人じゃが、ここ二ヶ月ぐらいでやったのか」

「でも、肝心の桃の木がまだですから」

「あれは時間がかかるものだ。それに、時間がかかるだけで手間はそんなにかからん。素人が良くやったもんじゃ。昭君といったかな、昔はよく走ってから根性はあると思ってたが大したものじゃ」

鴨川さんが誉めてくれた。そうだよな、素人のくせにここまで大きな失敗もせずやってこれた。頑張ったよ、僕たち。

「じゃが、本当にお前さんたちは惚れたとか腫れたとかじゃないのか?隠さんでもいいぞ。親御さんには黙っとく」

みんなで爆笑した。いやぁ、本当にそう思われているんだな!

「だ・か・ら、違いますってば!!」

僕は強調して否定しておいた。お腹痛いね~。

「そうか。世の中も変わったのう」

鴨川さんは小さな声でそう一人で言う。

「わしらの頃は若い男女が集まってひとつのことをやるなんてまるっきりなかった。古いこと言ってすまんが、わしらの時代までは親が決めた結婚じゃろ、それこそ相手の顔なんて結婚式の日に知った、という奴等がごまんといたわ」

「えぇ、そういうことがあったって聞いてはいます。今はそうではなくなりました。良くも悪くも変わりました」

四季が言う。

「良いことだと思うぞ。惚れた相手と一緒になれる世の中なんて恵まれとる。家とか時代とかで別々に生きなくてはならないなんて、みじめなものだ」

「奥様とは?」

「見合いじゃ。親の薦め、という典型的なやつじゃった。だが、一緒になってみればそれはそれで情が移る。だから、結局は最初のきっかけなんて何でもいいんだと思うが、お前さんたち若者ではそうはいかないじゃろ」

「難しいですね。情報があり過ぎます」

「うむ。情報だな。自由になった。わしが若い頃にこうなっていたらわしもまた違った人生だったじゃろう。お前さんたちには選ぶ権利が多くていいのう。わしらは、ほんの限られた権利しかない場所を、みんなが同じ価値観を持って進むしかなかった。人生が限られていたのだよ」

 ふと、僕はBarでの会話と思い出した。選択肢が多過ぎて逆に困っているのが現代の若者だよ、と慶が言った。同じことを四季も言った。それの反対をこの鴨川さんが言っている。

「でも、おじいさん」

四季が続ける。

「私たちも困っているのです。おじいさんからすれば贅沢かもしれない。でも、私たちは私たちで、選択肢が多過ぎてどこに進めばよいのかで混乱しちゃっているんです。分からないかもしれないですね。とにかく、今はそういう時代なんです」

 鴨川さんは腕組みをして考え込んだ。

 「選ぶ道が自由で多過ぎるから困るだと?分からん。それはわしらの世代には考えられんことだな」

 「僕たちがここでこんなことをしているのも何のためだと思います?入り組んだ現代に迷ってしまったから、もう一度日常から足元を見つめ直そうと思ってなんですよ」

 慶が問いかける。

「分からん。分からんな。時間をくれい。わしも考えてみる。考えてみようと思う」

 ざわざわと竹林が揺れていた。夏の始まりだから夕方でも空気に日中の暑さが残る。紅茶を飲み乾して暑くなった身体を涼しい風が通り抜ける。気持ちいい場所を手に入れたものだと僕は思った。

翌週、桃の木が届いた。まだ細い若木だ。一見して何かの病気だということは分かった。あちらこちら樹皮が裂けてヤニが出ている。桃によく見られる病気だが、結構重症だな。

「胴枯病だ。水はけが悪い場所で、樹が弱いとこうなる。それにこいつは枝が少ないだろ?幹に直射日光を浴び過ぎた。悪い環境がみんな揃ってた」

悪いところのオンパレード?なんか大変そう。

「ひとついいのは、この病気は薬はいらん。お前さんたちの力だけでも治せる。根気があればだがな。ほら、運べ」

同じような木が三本あった。僕たちはまたコロとコシタを使って運ぶことにした。やっぱり鴨川さんは手伝ってくれない。手伝わないくせに横から口だけ挟む。縦にしたまま運ぶのは安定が悪いから、横に倒した。

三本運ぶのに午前中一杯かかった。一本だけ見届けると鴨川さんは家に帰ってしまうし。昼を食べていたらまたひょっこり顔を出した。

「ここの土は水はけがいいから、そのまま植えて構わん」

アドバイスを受けて僕たちは深穴を掘って植えることにした。こういう大事な作業になると鴨川さんは先頭に立って指示してくれる。僕たちは言われる通りに動いて根植えした。老木を中心に、囲むようにして並べる。丁度三本で三角を作って、その真ん中に老木だ。それから休むことなく疫病の防止にかかった。

「いいか、樹皮がぷくぷくと膨らんだ場所がそうだ。裂けてヤニが出ている部分は重症だぞ。丁寧に切り取って、その後の切り口を保護してやらにゃいかん。塗布剤を持ってくるからそれを塗り込め」

これは女性たちが嫌がった。枝葉にはアブラムシがうじゃうじゃいるし、悪い部分を処置していると遠慮なくアブラムシが落ちてくる。僕だって嫌だったけど、とりあえずヤニが出ている部分はきれいにした。他の場所までは手が回らなかった。一日は早く、もう日が暮れようとしている。

「よし。今日はこれまでにしよう」

それで僕たちは後片付けを始めた。今日も充実していた。それに、ひとつ前進があった。鴨川さんが僕たちと一緒に作業をしてくれるようになったのだ。こんな場所でも毎日には変化がないようで、しかし確実に何かが変わってきている。明るい兆しが見えてきた。

次の土曜日も木の治療のために費やした。今日は徹底的にアブラムシをやっつけることにした。鴨川さんに殺虫剤の種類を見繕ってもらい、みんなでアブラムシ用の物を買出しに出た。

それから老木の方はタンソ病が痛々しく、鴨川さんが言うには「年とった樹だから自分じゃ直らん。やはり薬じゃ」ということだったので、これの薬剤も一緒に買ってきた。何しろ一杯種類があるから僕たちだけじゃさっぱり分からなかったが、鴨川さんがいるから心強い。プロの経験と年長者の知識のお蔭ですぐにお目当ての物を手に入れられた。

戻ると、農薬散布対策用の服を借りて僕たちは薬を撒いた。あまり薬には頼りたくない。でも、最初が酷かった樹だからこのまま手作業だけでやるには限度があるらしい。そう説明されたら僕たちだって頑なに農薬を拒むわけにはいかない。鴨川さんの言うことだから信じてみようと思った。

午前中かけて全部の樹にアブラムシ対策の薬を散布する。アブラムシが固まっている場所を目掛けて憎たらしい敵に当たるように薬を撒く。

「若い枝を重点的にかけろ。葉の裏も忘れるな。丁寧にかけろ、丁寧に」

指示があるから楽だ。何かを運ぶとかの誰でもできる単純作業じゃないからね、こういう知識が大切だ。こんなに農作業が複雑なものだって知らなかったな。アブラムシの種類によってかける薬が違うんだよ。病気だって、一概に薬を撒けばいいってわけじゃない。胴枯病のように薬を撒いても何の効果もない病気だってある。

昔からこういう職業の人たちは先輩の知恵から学ぶことだらけだったのだろう。対して、僕のような仕事はそうとは限らない。先輩たちから教えてもらうのもある程度まで。あとは自分で成果をあげるための方法を考えるのだ。

これってあれと共通しているんじゃないかな。現代の若者の生き方の選択だ。誰もが同じことをするんじゃない。そういう時代は過ぎ去って、今は自分で価値を見つける時代。

何かこの作業を通して昔の人たちの感覚が伝わってくるような気がした。仮に自分がこういう職業についていたら、ある程度までしか自分の先を考えなくてよいと思うかもしれない。先達の人たちの後を追ってゆけばゴールにたどり着くだろうからだ。ただし、ここにいる四人の現代人はそういう人生を歩んではいなかった。そこに違いがある。

撒き終えるともうやることがなくなってしまった。鴨川さんにすることを聞くと、もう今日はこれで終わり、と言う。あとは一週間おきに二回か三回薬を撒けばいいらしい。その合間に胴枯病とタンソ病の部分を削る手入れだけすればあとは自然に育ってくれる、と言われてしまった。割と呆気ない。もっと大変になると思っていたのに。

鴨川さんが今日は帰るというから僕たちもお開きにした。外は暑い。もう七月も盛りになっていた。

翌週。桃の木の根元には大量のアブラムシの死骸があった。葉や枝にたむろしていたアブラムシの固まりもだいぶ減っている。目に見えて効果があった。

今日も撒くつもりだが、それを先にやってしまうと農薬を吸うのが嫌で近づけなくなってしまう。だから先にナイフで胴枯病とタンソ病の部分を手入れしていた。

太陽が真上に上がるとここには屋根になってくれるものがないから直射日光がきつい。せめて上手く桃の木の陰に隠れて作業を続けた。汗が背中とお腹を伝ってゆく。気持ちいい汗。でも空気が暑過ぎて心地悪い。

午後はまた農薬散布だ。これでまだ残っているアブラムシを全滅させてやろうと執拗にかけていたら鴨川さんに怒られた。樹を傷めないようにも気を使え、とのことだ。

それでまたすることがなくなった。鴨川さんは、もう毎週手を入れる必要はないと言う。だから僕たちにできる作業はもうほとんどが終わってしまった。これからどうしようか、ということになった。少なくとももう毎週は必要ないから、月に一度にすることをみんなに提案した。春まではそのペースで過ごして、みんなが自分なりに時間を使えばいい。みんなもその通りだと頷いた。何の束縛もない関係だから非常に話が早くて良い。

その間の手入れは鴨川さんが引き受けてくれた。手入れといってもたまに薬を撒いて、胴枯病とタンソ病の具合をチェックするだけだからそんなに手間ではない。わざわざ東京から来ることもない用事だぞ、と言って鴨川さんは快く引き受けてくれた。

その間、僕は待ち焦がれていた。何かをしようかと思った。家にいるとまた時間を持て余してしまうのだ。何もない土曜日の朝は辛かった。くだらない洗濯や掃除の日常的な仕事をして、それからビデオ屋に行って大して見たくもない映画を借りてきてしまったり、いつも通りの週末を過ごそうになっていた。

だから危うく僕がアブラムシに侵されそうになっている夢を見た。汗びっしょりになって起きると、僕は怖い夢に呆然とした。その足で僕はランニングウェアに着替えると早朝のランニングに出た。

僕の体力は衰えていた。それも著しく。何ヶ月ぶりのランニングだっただろう。僕はまた後悔した。自分を情けないと思った。身体が蝕まれている悲痛な声を確認しながら、違う夢を見た。本当の自分に戻ろうとしている自分の姿の夢だ。

次の月、夏も真っ盛り。確認するとアブラムシの病原は退治できていた。他の病気はまだ完治してない。元々時間のかかるものだ。鴨川さんは老木の弱っている箇所に添え木をしたりして補強してくれていた。

この日も頑張ろうとしたが、あまりやることはなかった。樹の点検をして、雑草を刈り、雑木林や川の流れを整える。暑いせいもあってみんな昼前にぐったりになった。だからもう切り上げることにして、涼みましょう、と鴨川さんの家に上がりこむ。

「いいか、あとはわしがやってやる。特に何もやることはありゃせんから暇人のわしに任せておけ。どうだ?遠慮はせんでもええ」

迷うところだ。確かにもうできることはない。でも、だからといって自分たちで最後までやり遂げなくてよいのか。

「いいんじゃない?」

四季だ。割と簡単に言うね。

「賛成。やることないなら来なくていいよ。ダラダラしてたら逆にわたしたちも駄目になっちゃうよ」

なるほど。その美夜子の意見は分かりやすかった。

「慶は?」

一応聞いてみる。

「どうせなら思い切り時間空けてみよう。確かにこのまま続けていたら煮詰まってしまう。次はいっそ花が咲く春まで。それまでで必要な作業あるなら昭だけが来ればいい。でしょ?」

そうだな。言われてみればそれもそうだ。あとは鴨川さんがちょこちょこ手入れをしてやる、と言ってくれてるんだし、必要に応じて僕が来ればいい。せいぜい十一月になったら道と川沿いのセンパフローレンスを屋内にしまう作業と、三月にまた屋外に出す作業だ。慶の言う通り、次は春、桃が咲いた頃にみんなを集めよう。

「よし!じゃぁ、春まで連絡取らないようにしよう。何かあったらメールするから。それでいい?」

みんなに異論はなかった。

「次はゴールの季節に逢おう。それまでお互い成長していればいいね。成長してここに戻ってきて欲しい」

その日を最後にみんなと逢うことを止めた。彼らとはもう半年近くも一緒にいた。だからしばらく距離を空けた方がいい。最初からああいう希薄な関係だったから、側に居続けても駄目になってしまう。

もうあのBarの前から始まる非現実的な一日を待つこともない。御坂に桃の果実が甘く漂うその夏の日を最後に、僕たちはその場所を離れ、意識的に連絡を取らないようにした。


それから昭の長い一人旅が始まった。

週末の夕方、暑さが引くのを待って多摩川沿いのランニングコースを走ってみる。なかなか足が向かなかった問題の場所だ。走り出す前は半信半疑だろうと、いざ走ろうとすれば今の昭の足は簡単に動くのだった。

心臓の音が近付いてくるのが分かる。自分の咽喉に大きな風穴が空いているのを感じる。随分前のことだが、何度か走ったことのある道だから道自体に感動はない。景色のあちこちが記憶に残っている。興味はそこではないのだ。遠く開けた道のその先に目指す場所がある。

変わらない道。走っても走っても何の変化もない道。最早横に慶もいなければ、四季や美夜子だっていてくれない。ただ純粋な己あるのみだ。仕事も生活も関係なく、自分の過去さえ捨て去って走る。ただ自由な一人の人間として昭は走る。

――はっ、はっ、はっ。

息切れが激しくなってくる。ひとつ目の橋を越えた。次の橋はまだまだ先だ。ゴールは遥か遠く、昭には手が届くかどうか分からない。苦しくて止めてしまいたくなる。それでもきっと走り続けることができるさ。きつい時には思い出せばいい、あの御坂での日々を。

次の週末には三つ目の橋を目指した。身体が毒を吐き出そうとしてもがいていた。筋肉痛というヤツだ。でもそんなのは小さなこと。昭の足を止める理由にはならない。思えば、十代の自分はこれを毎日繰り返していたのだ。それが本当に自分自身なのか、今ではやや自信がない。

あの頃は何のために走っていたのだろう?全身に滲む汗に問いかけてみる。

人を突き動かすものがあるとすれば愛、欲望、コンプレックス、自己表現に分けることができるんじゃないかな。あの頃は自分を向上させるために走っていた。でも、今こうして走りながら思い返すとそれだけじゃなかったような気もしてくる。

二つ目の橋を越える。ペースはゆっくりでいい。汗だけ止めずに、このまま走り続けていたい。

何かひたむきなものを求めて走っていたのだ。言い換えれば、他に打ち込む術がなかった十代の自分だから、走ることに真っ直ぐなものを投影させていたのだ。

前を向こうとするために走る。命を削るかのように走り続ける。身体は苦しくなくても、心の苦しい走りだった。

マイペースで三つ目の橋を越える。走り終わってもゆっくり歩き続ける。ドリンクを気持ち良さそうに飲み、いい笑顔で息を整える昭がいた。

季節が秋に移っても昭のランニングは続いていた。いつの間にかシューズもウェアも新しく買い揃えられている。もっと遠くの橋まで走るようになったし、ペースも安定してきた。

気の早い秋の黄昏を受けて昭が走る。スローモーションの空気を切り裂き、あの落陽の場所まで。

――一人でいるときでさえ一人ではない。

唇がそうつぶやく。その言葉を力にして昭は走り続ける。逞しい足運びで、気持ちよさそうに汗を流して。

冬の冷たい空気に囲まれても昭の姿は土手にあった。変わらずのペース。タイムを計っているようでもなく、自分の尺の中で一心に橋を目指している。

川面からすべるように吹き上げてくる寒風。昭の身体は怯む様子がない。わずかに唇だけを動かし、音もなくあの言葉をつぶやくとまた進んでゆく。

――一人でいるときでさえ一人ではない。

そう思えるようになるまでどれだけの時間がかかったことだろう。色々あって昭もここまで走り続けてきた。それまでの人生を通して様々な人たちが支えてくれた。家族がいた。友達がいた。恋人が、同僚が、仲間たちがいた。見知らぬ人の助けも随分と借りた。振り返れば、孤独な時にも支えてくれる誰かがいた。こんなに幸せに生きてきたんだ。

だからいつまでも走り続けられる。どんな状況でも足を止めない。あれから獲得してきたものの全てが昭を後押しする。自分のためだけじゃない。そんな傲慢には生きられない。

ゴールの橋が見えてくる。確実な走りで遠ざかってゆく昭の後姿が冬風に紛れて小さくなってゆく。

――一人でいるときでさえ一人ではない。そうだ、こんなに幸せに生きてきたんだ。

冬の冷たい風は花を内へと閉じ込める。固い皮の下で彼は花開く日を待ち、夢を見ている。その抑圧された情熱が春の花を美しく咲かせるのだ。風を遮るコートの中で思い描くことだろう。春になったら旅に出よう、新しい自分自身を発見する冒険に出よう、と。

春が待ち遠しい。僕のその気持ちは誰よりも強く、そして去年までとは意味が違っていた。この春は新しい自分を探す旅ではない。去年創り上げた成果を収穫する春だ。仲間たちとの再会の春だ。

僕は成長できたのだと思う。あの地味な作業がささやかな自信を取り戻させてくれた。何かを築き上げたという小さくても確かな意識が、僕の心に新しいスペースを与えてくれたのだ。

より優しく人に接することができるようになった。他人は僕の優しさを、ただの人の善さ、馬鹿正直さとしか捉えていないかもしれないが、それは違う。僕は人の醜さや愚かさを許して、優しさで包み込む。今の僕だからこそできること。この優しさは、本物だと思う。


三月のある夜、僕はメールを打っていた。久しぶりに目にするメールアドレス。みんなだ。

「いよいよですね。四月第一週の土曜日の朝、いつもの場所に集まれるかな?満開の桃を見に行こう!」

送信ボタンを押そうとして僕はちょっと躊躇した。たったこれだけの言葉のために、どれだけの時間と情熱を費やしたのだろう。ボタンを押すのは簡単だ。しかし、それはそれだけの意味ではない。そのことの意味深さと、ボタンを押すことの単純さが不釣合いで、僕は思わず苦笑いしていた。

メールを送ったら美夜子から一番に返事がきた。

「みんな!楽しみにしてるヵラ↑ (#^.^#)

彼女らしい。メールからは今どうしているのか想像できない。美夜子が来てくれればあとは自然と全員集まる気がする。このほっとする感じを久しぶりに思い出した。

それから、四季からも届いた。

「大丈夫です。なんだか待ち遠しいなぁ」

慶が来るのは間違いないと思っているから、これで僕はすっかり安心した。そうだね、本当に待ち遠しい。花を見に行くのにこんなにわくわくするなんて。

十二時過ぎになってようやく慶からも返事が届いた。遅い。迷惑な奴だ。

「桃園で乾杯をしようよ。四月から社会人です」

あの慶が就職したのか。この半年の成果がそれだと言いたいのだろう。彼の意志がはっきりと伝わってきた。本当に待ち遠しい。もうだいぶ暖かくなったが、次のカレンダーをめくるとまた一段と暖かくなる。春。今年は本当に春が来るのだと感じた。


四月最初の土曜日。今年は気温も順調に上がってきていて、山梨の桃は見頃を迎えているらしい。僕たちは歓迎されていると思った。前倒しで仕事をしたから昨日は早く帰れたし、充分に睡眠を取っておいた。目が覚めると、すぐに窓の外を見る僕。雲は薄く、太陽が出ている。よし。ありがとう!

今日のためにデパ地下でいい白ワインを買っておいた。七千円もするやつだよ。お祝いの日だからね、ちっとも惜しいとは感じない。白いシャツを着た。作業もないから汚れないし、何より今だけは真っ白な気分で過ごしたい。持って行くのはワインだけでいいだろう。

 いつもの場所で待っていると、もう慶がいる。いつも遅かった男が今日だけは早い。

 「おう!持って来たぞぉ!」

 高々と上げた右手には一升瓶がある。なんだ、大して飲めないくせにあいつも持ってきたのか。すぐにでも慶のことを色々聞きたかったが、それは我慢しておくことにした。四季や美夜子と合流してからにしよう。外見からは変化が分からないが、心なしか今日はいつもより楽しそうだ。

 しばらくして四季と美夜子が来た。二人も何か抱えている。

 「お待たせ~。美夜ちゃんと二人で作ってきたのよ!向こうで食べましょう!」

 これは嬉しい。二人でお弁当を作ってきてくれた。

 「い~ね~。宴会だ、宴会っ!」

 慶が笑ってそう言った。慶の手元を見て四季が聞く。

 「準備いい~。それって日本酒?飲めるの?」

 「まーねー。今日は花見だよ、花見。でもこれ日本酒じゃないんだ、一升瓶だけ乾杯のイメージでね。あとでのお楽しみ」

 そう言って流した。珍しく今日はよく笑う。

 「実はさぁ、僕も白ワイン持って来たんだけど……

 横から遠慮がちに僕が言うと、みんな顔を見合わせて笑った。

 「みんな持って来た!」

 四季がお腹を抱えて笑い出す。美夜子も慶も大笑いしている。

 「あははは、やっぱりいいわぁ、このメンバーは。あはは、久しぶりにお腹の底から笑ったじゃない」

 彼女の言葉からもまた本物の香りがした。誰かの偽りのない心は、今の僕の優しい心には自然と伝わってくるようだ。

 車を走らせる間もみんなはご機嫌だった。高速に乗ると、ますます調子に乗った慶がカーラジオの曲を歌いだした。そうしたらみんなで馬鹿みたいに合唱した。それから他愛のない話ばかりで妙に盛り上がる。久しぶりなのに、みんなの話にはならない。それは向こうに着いてからしよう、という暗黙の了解があったのだ。

 山梨に入ったらみんなにサングラスをかけさせた。色の濃いヤツだ。本当は目隠しでもさせようと思ったけど、まぁサングラスでもいいでしょう。途中で桃の花に飽きられないためだよ。もちろん僕もだ。

勝沼ぐらいから窓の外にピンクのものが見え始めてきた。御坂に近付くにつれ、ますますピンクが多くなる。その色が見えるたびに車中から悲鳴のような声が上がった。

「生殺し~。早く見せろ~」

とか何とか冗談で言うが誰もサングラスを取ろうとはしない。

「我慢しなさい!こうした方が後で感動が倍だから!」

本当にそうだ。今、御坂の町全体が艶やかな桃色に覆われている。桜よりも桃が目立つのがこの町だ。一年一度の最高の光景を最高のシチュエーションで見るとはなんとも贅沢だ。それにしても、この時季にこの町にいるのは僕も大学卒業以来になるのか。

「これが全部ピンク色?凄いね~。いいなぁ、昭クンって昔からこんなキレイな景色の中で育ってきたんでしょ?幸せね~」

四季が僕に言う。

「そうなんだけど、昔はこれが当たり前だと思っていたからね。僕の視界に入っていても焦点には映ることのなかった景色だよ。当時は何も感じていなかったなぁ」

 「そういうものかも。確かに、大人にならないと分からないかもね」

今改めて御坂の桃を見渡せば、その素晴らしさにようやく気が付く。ここを毎日走っていた頃は本当に何も感じていなかった。季節の移ろいは目にしていたが、その美しさを慈しむ気持ちだとか、それを喜びに感じる心だとか、そういうものとは無縁だった。走ること。それだけが当時の僕を動かしていたのだと痛切に胸に感じる。

鴨川さんの家に直行することにした。次第に道の両脇のピンク色は一層鮮やかに、そして密度を濃くしてゆく。鴨川さんの家までの道は桃色のアーチだ。そこの道にはやっぱり車が多かった。アーチをくぐるようにして、僕たちは鴨川さんの家の前までやってきた。

 「おじいさん!」

 玄関で僕が呼ぶと、鴨川さんはすぐに出てきた。実は先週のうちに電話を入れておいた。結局、センパフローレンスを取り込むのも、春にもう一度外に出すのも鴨川さんが一人でやってくれた。僕たちの大切な仲間の一人だから、今日は一緒に桃園を見たかったのだ。今日ばかりは嬉しそうな笑顔で鴨川さんも出てきたじゃないか。

 それから車を走らせ、いつもの空き地に停める。竹林への入口にロープと看板がかかっているのが見えた。看板には大きな字で『本日貸切のため立ち入りご遠慮ください。地主』とある。それを見てみんなは目を丸くした。鴨川さんが一人高笑いをする。

 「お前たちのためにじゃぞ!はっはっは!」

 笑いながらロープをくぐる鴨川さん。憎いね、そんな演出が。

 四月の心地良い太陽。今日は風がいい。竹林に入るとひんやりした空気に包まれるのは変わらない。竹林を揺らす風の独特の音を聴いて昨年の暑かった日々を思い出した。

 「もうサングラス取っていいよ。よ~く見てね」

 僕が言う。遂に来たね。どうなっているのか少し心配でもあり、でも楽しみなんだ。

 ――竹林のトンネルを抜けると、そこには理想郷があった。

足が止まる。僕の、僕たちの夢が叶っていることが一目で分かった。僕たちの場所が、桃色の低い雲に覆われている。雲は老木の周りを中心に、僕たちが植えた桃の木の一体に漂っているではないか。棒切れのようだった桃の木に、華やかさが宿っていた。

 「わぁ!!!」

 女性二人から歓声が上がった。

「どうじゃ?!」

鴨川さんは振り返ると悪戯な顔で笑った。自慢したくて仕方なさそうな表情だ。

僕はというと、声も出せずに立ち尽くしていた。――凄い。凄過ぎる。いや、想像以上だ。周りの桃園と較べれば花の量は少ないし、見劣りは否めない。だが、周りを雑木林や竹林に囲まれたこの場所だからこそ、ピンクの一点集中が見事な効果を出している。灰色と薄緑色の淡い世界に咲いた大輪の華だ。

自分の仕事がこんな素晴らしい成果をもたらしたことなど、今までの僕にはなかった。これが、僕たちの汗の結果だというのか。気後れがして足が進まなかった。

四季と美夜子は僕たちを追い越し、桃の雲へと駆け出していった。嬉しそうな声を上げて二人が走る。その姿には四季さんのプライドも、美夜子の無力もない。現実の喜びを堂々と享受しようとする自然体の人間の姿があった。

「昭!すげェぞ!!」

珍しく単純な言葉だったから、慶の驚きが分かった。僕を振り返る慶の表情は晴れやかに澄み渡っている。彼にとってもこの景色は格別だったのだろう。良かった、本当に良かった。慶があんな素直な表情をするなんて。

鴨川さんが近寄ってきて、僕の肩を叩きながらこう言った。

「――お前さんたちの力じゃ。よくやったな」

僕の肩を叩く力に力強さを感じた。ようやく鴨川さんに誉めてもらえた。こんなに力強く僕を励ましてくれるんだ。全身の力が一気に抜け、僕はとうとうその場に跪いてしまった。

「おいおい、どうした」

鴨川さんが笑って僕の腕をつかみ、立ち上がらせようとする。駄目だ。力が抜けてどうにもならない。慶にも片腕をとられて、僕はなんとか立ち上がることができた。

「早くぅ~。何してんの~!」

向こうから美夜子の大声が聞こえてくる。

「ほら、行くぞ、昭。鴨川さんも行きましょう」

そう言って慶は僕の腕を放すと、なんだか分からない奇声を上げながら走って行った。四季と美夜子が満開の老木の下で僕たちを手招きをしている。

「おう、おう、あの坊やも楽しそうじゃないか」

しわだらけの笑顔で鴨川さんがそう言った。そして鴨川さんもゆっくりと、桃の元へと歩いて行く。あとには僕だけが残った。

みんなが僕を呼んでいる。よく聞き取れないがみんなが様々に何か野次を飛ばしながら大きく手招きしている。あそこで僕が必要とされている気がした。行かなくては。僕は行かなくては。

その時、風が吹いて桃の花を揺らした。桃色の雲が左右に揺れる。あれは桃が手招きしているんだと思うと、僕の全身の力が戻った。行こう。僕は行こう。

――ガッツポーズ!!目を閉じて、両腕を思いっ切り上げると、なんだか楽しい気分になった。長い時間を必要としたが、会心の走りで今僕は完走を遂げる。ゴールを祝ってくれるかけがえのない仲間たちがいる。

走ることはこんなに大きな喜び。――僕は走った。みんなの元へ。

「それじゃぁ、乾杯は誰が言うのっ?!」

語尾が上がっている。いつにないテンションの四季。慶が一升瓶の中身をみんなに注ぎ回っていた。

「えぇ~鴨川さんでしょ~?」

僕が言うと鴨川さんは笑いながら首を横に振った。仕方ない、他の人にしよう。

「あっ、美夜ちゃんがやりたいらしい」

「ダメっ!」

調子に乗って言ってみたら、すぐに美夜子に拒絶された。

「ここはひとつ、慶さんに……

「オマエだっ!早く!」

慶に凄い早口で返された。ベンチのみんなが笑って僕の一言を待っていた。仕方ないから僕は軽く挨拶することにした。面白いことでも言おうとしたが、そんなのすぐに出てくるわけがない。どうせ月並みなことになってしまうのだろう。

「え~、本日は天気も良く、風も心地良く……

「おいっ!もっとマシなこと言えっ!」

美夜子に突っ込まれてしまった。

「はいはい、分かりました。――え~、今日はご覧の通り、素晴らしい景色に恵まれました。僕たちに相応しい、記念すべき日です」

「うんうん、そうそう」

今度は頷く。

「去年まではあの老木だけしかなかったこの場所にも、今年からはこれだけの桃の木が花を咲かせ、素晴らしい景色を見せてくれています。そして、それを創り上げたのが僕たちであることに、誇りを感じます」

「ちょっと固いな」

「シッ!」

慶が四季に注意されていた。僕も段々口が回り始めてきたようだ。

「現実になるだなんて思ってもいなかった。ほら、この景色は僕の昔の夢だ。叶いそうな夢じゃなくて、眠る時に見る夢のように、まるで遠くかけ離れた世界のはずだった。それがこうして実現したんだ。なんて幸せなんだろう。僕はこれだけでもう人生の意味の大半を勝ち得た気がする。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないけど、本当だよ」

みんなは黙って僕の言葉を聞いている。今しかない、今だからこそ言っておきたいことは全部しゃべっておこう。

「この夢を最初にみんなに話したのは、Time’s Barでだったね。慶や美夜ちゃんと初対面の日にだ。初めて会ったのによくもまぁ、こんな変わった誘いを口にできたものだ。今思うと恥ずかしい」

「浮いてたから!」

笑いながら美夜子は言った。

「ヘンだったぞ」

慶までがそう言う。

「本当だよね。あれって勇気を振り絞ったから言ったわけじゃない。まず、Barっていう非現実のイメージがある空間だからこそ言えた。初めて会った人たちで、どうせもう二度とは会うこともないと思ったからこそ言えた」

「それはずるいね。逃げちゃってるよ」

笑って慶が言う。

「ずるかったなぁ。でも、そんな変な話を認めてくれた人たちがいたんだから、そっちの方も驚いてよ」

「まぁね。よくもまぁ変人が集まったもんだ。――話が長くなるから先に乾杯しようよ。その後でも続けられる。で、今みんなに注いだのは酒じゃなくて名水。飲んでみれば分かる。昭、ほら続けて」

「それじゃぁ、みなさん。この桃の花は僕たちから生まれた新しい生命。これから僕たちが生きてゆくための心の寄り所です。みんな、ありがとう。乾杯!!」

「乾杯!!」

「カンパイ!!」

掲げられたみんなのグラスを通して、太陽の光が僕の目を射す。眩しい。痛いぐらいに眩しい。その眩しさに目をそむける僕。身に余る栄光だ。誰にどれだけの感謝をすれば足りるのだろうか。

「うん?これはどこの水だ?この辺の山の軟水もまろやかで旨いが、またちょっと違うな。うん、旨い」

鴨川さんがそう指摘する。

「さすがですね。あとで言いますけど北海道の釧路湿原の名水です。この乾杯に是非使いたかった」

慶はそこまで言ったが後は黙っていた。それからみんなはご機嫌に飲み、食べ、騒いだ。作ってきてくれたお弁当は手が込んでいて美味しかったし、開けた白ワインも上物だった。

だいぶいいペースで酒が入ったのか、慶がご機嫌のあまり歌を歌い出した。すかさず鴨川さんが空いた皿を箸で叩いて音を出す。四季と美夜子も立ち上がると、慶の左右に分かれて歌いだした。『桃太郎』だ。あぁ、どんな歌を歌うのだ。

知らずと僕も歌っていた。この独り善がりで、恥を捨てることができない僕が大声で歌っていた。それからみんなでいつまでも歌った。最後まで歌い切ると誰かがまた最初から歌う。誰一人として止めないのが不思議で、みんなで笑った。

こんなこと、今までの僕ではできなかった。こんなにくだらない歌を大声で歌う自分がいる。仕事上の付き合いではなく、自分から歌いたいという気持ちでだ。みんなもういい大人で、それぞれに築き上げてきたものがあるのに、今は全てを伏せて子供のように歌を歌う。それを楽しいと思うのは新しい発見だった。

今までできなかったこと。僕は大人であるところの自分を変に意識し過ぎていたのだと思う。これが退化ではなく、進化であると、今の僕ならば自信を持って言うことができるのだ。

笑い転げながら歌い終えると、鴨川さんが荷物から魔法瓶を取り出した。

「この季節にはこれを飲まなきゃな。わしからの褒美だ」

手近な桃の花を取ってくると、鴨川さんはみんなの器に薄いお茶を注ぎ、その中に桃の花びらを入れた。器の中で桃色の花が浮いている。シンプルな美しさに思わず見とれた。

「それじゃ、わしは行く。ゆっくりしてゆけ」

「えっ?!鴨川さんもゆっくりしてゆきましょうよ」

突然帰ると言い出されたからびっくりした。まだパーティーは始まったばかりなのに。

「そうですよ~。お弁当まだ残っていますよ~」

「僕たちじゃワイン一本は空けられません!」

みんなも同じ意見だ。鴨川さんはもう僕たちの仲間なのだから。遠慮なんかしないで欲しい。

「いいんじゃ、あとはお前たちだけにせい。お前さん方はよくやった。……わしはな、お前ら若い衆が頑張ってここで汗かく姿に涙が出そうになった。それもこんなに見事に花を咲かせよったしな。五年前お前さんがもう走らなくなってから、わしは失望してもう手入れはするまいと諦めた場所だ。せいぜい幾つか知恵を授けられたことが満足じゃ。わしの時代は終わったんじゃよ。これからどうしてゆけばよいのかわしも考えてみる。当分は安心せい、桃の木はわしが面倒を見る。本当によくやったな。またいつでも来てくれい。そしたらな」

しみじみとした口調でそう言い残すと鴨川さんは一人、竹林へと去って行った。笑顔、笑顔なのだ。振り向き様に大きく笑う鴨川さんに僕たちも精一杯手を振った。

ありがとう、鴨川さん。世代を越えて分かり合えたことが嬉しかった。鴨川さんは鴨川さんでこのことに何か意味を見出すのだろう。まだ幼い僕たちにはたどり着くことのできない年輪のある地点へ。僕たちの行動が鴨川さんを少しでも豊かにしていたのならそれだけで満足だ。

また風が吹いてきた。桃雲が音を立てて笑う。今度は誰もしゃべらなくなった。しばらく僕たちの間を桃の風が整理するように走る。

「ほら。瞳を閉じて――」

四季が優しくそう言う。口を閉ざした僕たちは耳に意識を集中させた。風を感じる。目の前から色が消えると、風が自分の身体を通り抜けて行くように感じる。流れてゆく風に身を任せる心地良さに僕たちはわずかに甘えた。

誰もしゃべらない。もう目は開けている。それでも言葉は発せず、桃の雲を揺らす風の方向をたどっていた。穏やかな時間。なんて優しい一時なんだろう。時々誰かが笑って、でも誰もしゃべらずに桃の空気を味わっていた。

「わたし、」

しばらくして美夜子が口を開いた。少し俯いて、いつものような溢れる若さが感じられない口調で。

「ケンと別れちゃった。本当はわたし、ずっと前から他に好きな人いたんだ。でも、全然わたしなんか見てくれない人で、カノジョもいる」

「えぇ~、どうして?」

「ていうか、結局わたしケンのこと好きじゃなかったって思う。周りのトモダチがケータイ持ち始めたからわたしも持ったけど、最初ってさみしくない?サイトで知り合って、メールするようになって、ケータイを持ったことで逆にさみしくて、つい『メル友』とか『カレ』っていう言葉にすがっちゃった。『ケッコン』なんて夢見てたんだよ。バカだったな。メル友からすぐにカレにしたし。ノリとまでは言わないけど、ある意味そんな感じ。好きだったとは思うんだけど、好きだったのかどうか自信ない。あはは」

美夜子が初めて見せる哀しい笑い方だった。

 「その人はね、全然遠い人。わたしが一方的に好きって思ってるだけ。ねぇ、これがわたしの進歩だよ。なんかあれから考えた。まだよく分ってないけど、なんか普通にわたし、このままじゃヤダって思ったし」

 頭でではなく肌で感じるのも彼女のやり方だからそれでいいと思う。

「ムリだと思うけど、やってみる。あれからお店も続けてるんだ。営業とかあんましてないけどね。お金貯まったから車も買ったよ。やっぱ、今までみたいに『カレシ』っていう言葉に振回されるのはもう止めた。その人は今はムリ。でも、本当に好きな人を好きって思う方がまだいいって思ったし……

 それが美夜子の言いたいことだった。最後をはっきりまとめられないのはいつもの美夜子のままだ。彼女の言葉が途切れると、慶が言葉を入れてきた。

 「そうだよ、友達と自分を比較しちゃいけない。『彼氏』っていう虚名にしがみつくのはもう終わりだ。ほら、よく社長とか官僚とかが悪あがきをしてまで役職にしがみついているニュースがあるだろう。あれと同じことだよね。僕から言わせてもらえば、大切なのは人を愛することと、人に愛されることだよ。虚名は虚名。一応の形はあっても本当はどうかな。それよりも、例えば相手が振り向いてくれなくても、本当に誰かを愛することで人は成長できるよ。いつか僕が暴露した傷のことも忘れないで欲しい」

 その優しい言葉に僕は目頭が熱くなる思いだった。人を愛すること。そうだ、それで人は成長する。人に愛されること。それで他人に優しくできるようになる。

 「忘れないよ。ありがと」

 そう言って微笑む美夜子からは若さの光が薄れているように見えた。だが、それは後退ではない。ひたむきな一人旅は若さの光と痛みの繰り返し。それを乗り越えて大人への道が開ける。

 「美夜ちゃん。大人になったのね。私は歓迎するわ。全然恥ずかしくはないよ。私、嬉しい」

 美夜子の手を取り、満面の笑顔で四季が言う。

 「でも~、さみしくなったら分かんない」

 照れ隠しではなく、本当に美夜子はそう思っているようだった。それもまた十九歳の彼女の偽らざる言葉なのだろう。これから様々な痛みと喜びと平凡を乗り越えて彼女は大人になる。高校を卒業してこの一年で彼女の人生は随分と複雑になったことだろうが、これからまた入り乱れ、揉み合ってはどうにかほつれたり切れたりしていつの間にか年齢が重なってゆく。願わくば、その行く末が彼女の願いに少しでも近付いたものになって欲しい。

 「そうかぁ。僕も嬉しいよぉ。自分なりの道を見つけてくれたんだぁ」

 美夜子は微笑んでいた。あの地下の薄暗いBarで見た頃の少女では決してできない素敵な微笑。若さはやや失われたが、大人の優しさがわずかに感じられる良い表情だ。これが彼女の成果だとしたら、僕の計画は自分だけの成功ではなかったことになる。僕もみんなに発表しておこう、僕の成果を。

 「僕だって自分なりの道を見つけたよ。聞いてよ」

 残ったお茶を一気に飲み干すと唇に桃の花びらがくっついた。ゆっくり取り除いて器に落とす。

 「あれからずっと僕は走り続けてみたよ。週末に多摩川沿いとか、手入れのためにここに帰ってきた時にね。あの頃はどんなに距離があっても余裕で走れて、息もそんなにあがらなかった。まだ僕は二十六だし、今でもあの頃と何も変わらないつもりだった。でも、確実に体力は落ちていた。走ったらさ、もう身体がついてゆかないんだ。瞬発力はそんなに変わらないけど、持久力はもう目を覆いたくなるほどだった。自分で自分が悲しくなるほど身体が鈍っていた。走ってみてそれを痛感したよ」

 みんな黙って聞いているから続ける。

 「よく会社でつまらないぼやきを耳にする。まだ三十そこそこの先輩がさ、三十になるともう駄目だね、とかやけに否定的なことを言う。僕はそれを聞くたびにいつも否定していた。そんなことを言ってたら十年後どうするんだよ、って心の中で怒っていた。僕の言ってることはそんな情けない言葉とはちょっと違うんだよ」

言いたいことが伝わるだろうか。

 「走り出してすぐに自分の異常に気がついた。おかしいんだ、頭で描く線の上を身体がどんどん外れていくんだ。いつも通りじゃない。あの頃の通りには身体が動いてくれないんだ。年月が経っても頭の中にインプットされているのは昔のままでね、その昔の自分だったら平気のはずの動きを、今の僕はできなくなっていた。一キロ走るのも苦しかった。怠けてたから当たり前なんだけどさ、どうしても頭の中の記憶だけはあの頃のままで、身体だけが現実だった。そのギャップに今更ながら気が付いて、凄くショックだったなぁ。ノンストップで走るのが昔は当たり前だった。途中で休んだことなんかなかった。それが当然なのに、今の僕では一気に走れないんだよ。ショックだったな。我慢したんだけどね、足が途中で止まってしまう。そんなことここでは初めてだったから、本当にショックだったんだよ。休んでちょっと楽になったらまた走り出すだろう。やっぱりまた辛くて止まってしまうんだ。前とは全然違う。もうガタガタだった。いつの間にか身体をそんなにしちゃったんだ」

 一呼吸おく。

 「もう身体のことは諦めたよ。少なくとも、あの頃を超えるのは不可能だ。何て言うのかな、ピークは終わってしまったんだ。でもそれは哀しいことじゃない。止まってはまた走り出すことを続けていたら、僕は新しい考え方に辿り着くことができた。何度でも立ち止まってもいい、って。どんな形であろうとも最後まで辿り着けばそれでいい、って。こんな考え方、昔では絶対無理だった。退化でもなく、哀しいことでもなく、今はそれが現実なんだよ。だって今は他にも世界が一杯あるからね、今抱えている沢山のことにプラスして昔と同じことをするのは無理なんだ。他のことを考えれば全体的に昔を遥かに上回っている。確かに、肉体の部分だけを見れば違う。でも、あの頃の肉体を獲得するのはもう無理だ。ただし、結果が最後まで到達できればいい。これは諦めじゃないよ。途中で何度でも立ち止まってもいいじゃないか!最後まで諦めずにたどりつく心こそが大切なのだ!」

 久しぶりに僕は興奮していた。

 「肉体が滅びない程度に鍛えよう。過去の栄光に縛られるのはもう止めにしよう。とにかく途中で投げ出さなければいい。形はどうあれ最後までできればいい。負けない心。それが一番大事なこと。今は本当にそう思う。現実と妥協したとは思わないが、そう思われたって構わない。これが現実的な最良の方法だと思う。こんな結論に至るとは思ってもみなかった。僕は嬉しいんだよ。途中で止まることを潔しとしなかったあの頃とは違う。止まっても、止まっても、最後までいければいい!斬新だなぁ、新しいなぁ!僕は成長できたんだよ!」

 勢い良く言い放ったから誰もしゃべれない空気になってしまった。しばらく時間を空けて慶が口火を切る。

「そうか。良かった。昭のそのコンプレックスは深かったからな。納得ずくでクリアできたなら良かったじゃないか。君は意地っ張りだから途中で物事を中断するくせがなかったんだな。どう?止まってみればそれはそれで良いこともあるだろ?」

 「そうだね。別に、途中で止まるのが恥ずかしいなんて本当は誰もそう思っていなかったみたい。正体のない強迫観念だったようだね」

「そうだよ。ルールなんてないんだ」

「ありがとう。……その後、慶の方はどう?就職したとか。みんな聞きたがってる。話してよ」

「次は僕の番か。この三月で卒業したし、今月から働いているよ」

「メール見て驚いた。まさか慶クンが本当に社会人になるとは思わなかった」

「そうそう。意外~。絶対に働かないって思ってた」

やっぱり。みんなもそう思っていたんだ。

 「社会人なんてくだらない、と一方的に決め付けていた時期が僕にあったことは以前にも話したね。卒業後の自分がイメージできないから、すねかじりで留年をしたのもそれが原因だ。自分が何をしたいのか自分自身でも分かっていなかった。どうやら会社ってのは人生のかなりの時間を費やす場所になるそうじゃないか。だから、僕はその仕事ってのに生き甲斐を見つけてからスタートしたかった」

 「で、見つかったの?」

 美夜子が途中で口を挟む。

 「見つかった。自然保護だよ」

 「自然保護?!」

 これはまた意外な言葉が出てきたものだ。

 「そうだよ、自然保護だよ。今はね、釧路湿原を保護するNGOで働いている。まだ入ったばかりだからなんとも言えないけど、釧路湿原の貴重な生態系を生涯かけて維持してみせるつもり。あの水はね、釧路川源流部の湧き水だよ。湧き出ているところを見ると本当に感動するぞ。森や湿原の血液みたいなものだ。ああいうかけがいのないものを僕は仕事として守りたい」

 「へぇ~、でもどうしていきなりそうなったの?ここでの経験で?それとも何か別のきっかけがあったから?」

 「ここで久しぶりに自然に触れたのもきっかけだよ。いやぁ、昭のアイディアは本当に素晴らしかったしね。でも、それだけじゃない。僕の母は小笠原諸島の母島出身って言っただろう?母島には中学の頃に親に連れられて行った時のかすかな記憶しかなかったけど、なんかここの土を触っていてあの島のことがぼんやりと思い浮かんできたんだ。時間が経つごとにあの島のことがどんどん気になってきてさ、思い立って去年の十月に行ってきた」

「彼女と?」

 「いや、一人だよ」

 「そういえばカノジョさんとは?」

 急に美夜子が聞く。

 「ラブラブ。これから遠距離になるけど、そのうち一緒に住みたいなって話してる。僕を愛してくれる一番大切な人だよ。もちろんラブラブ」

 そう言って慶がイタズラな顔をした。

 「キャー」

 美夜子がヘンな音を出した。

 「小笠原ってどうやって行くの?飛行機?」

 僕が話を戻す。

 「飛行機飛んでないんだ。船で二十五時間半。さらにそこから二時間。だから人が集中しないし、自然も手付かずで残されたままだ」

 「なるほど。でも丸一日以上って辛いなぁ~。それを往復でしょ。きつ~い」

 「でもそれだけの、いや、それ以上の価値があったよ」

 「どんなところ?想像もできない」

 「聞きたい?じゃぁ、みんな目閉じて。耳だけ貸してよ」

 みんなの目を閉じさせると、慶は言葉の羅列で答えた。

 「青色を通り越した紺碧の海。天然記念物のメジロが鳴き続ける森。色のはっきりした黄昏。海面遥か下の珊瑚礁まで太陽の光が届く浅瀬。幾種の緑色が重なる亜熱帯のジャングル。よそ者の僕にも歩くとかかる島民の挨拶の声。珊瑚のかけらが波にさらわれる乾いた音。勢いよく蛇口をひねったかのようなスコール。大きく見えた流れ星」

 「あぁ、気持ち良い。聴いているだけで癒される」

 四季はそう嬉しそうに言った。

 「もう開けていいよ。そうでしょう。言葉だけでも伝わるものがあるんだから、実物の素晴らしさはもう想像力の世界だよ。東京では何も語らない自然が、あそこでは実に雄弁に語りかけてくれる。都会で学ぶことも多いと思うけど、わずか数日で僕はどれだけ多くの感動に出逢ったことだろう。予想外の連続で僕はもう参ってしまった」

 「それで、自然のことを見直したんだ」

 「そう。大袈裟ではなくて、自然の偉大さに僕はひれ伏した。小笠原の大自然の前では僕が僕である意味は打ち消され、ただ一人の人間になった。自然動物であるところの人間に戻ったんだ。その素の人間からは傲慢さも、他者への否定も、人間への諦めも、そういった類の醜いものが全てかき消され、僕は純粋な人間になることができた。これだと思ったね。これこそが、僕の心に沿う唯一の道だと思ったね。僕にとっての『大きなこと』がようやく見つかった気がした」

 慶は続ける。

「僕は気が付いたんだ。ラブソングを聴いて後悔した時、無意識に思い浮かべていた海。あの海は記憶の中の小笠原だったんだ。中学生の頃に見た小笠原の海が、記憶の底に眠っていたんだと思う。実物を見て僕は思い出したよ。それに僕がずっと抱えていた『大きなこと』っていうゴールが小笠原の海と重なった。ようやくイメージにたどり着いたよ」

 僕には少なからず意外なことだった。この慶という男は、普通の人間たちに絶望しているかのようなそぶりが見られ、人の俗事には興味を持たないかのようだった。彼が興味を持つのは人の限界点を越えた領域にあって、よく分からないが、例えば出家した修行僧だとか、巨大企業のトップだとか、そういう俗事を超越した観点で物事を眺めている位置だと思っていた。その彼の行き着いた先が、人間の一番基礎的な自然だという事実が、何かを顕著に指し示していたのだと感じていた。

 「最初のきっかけは昭のアイディアだよ。都会の社会人、それも仕事でぐだぐだに疲れた会社員や立派なキャリアウーマンが集まって、たまの週末に土いじりをする。そこに何故か若い娘や、駄目な留年大学生も参加する。何をするかといえばやっぱり土いじりだ。だが、そこにこそ人間が生きる全てがある。このアイディアはやっぱり、本物さ」

 「全然そんなこと考えていなかったよ。思い付きをそのまま実行しただけ。意味なんかなかった」

 「そのままでいい、そのままが素晴らしい。今の時代に必要な薬はそれだ。いやぁ、意図が深い。昭は最初からそこまで計算していたんだな」

 こんなに何かを誉める慶も珍しい。小笠原に行って何か一段と大きくなったようだ。

 「だから、違うって」

 一応突っ込んでおく。計算なんてしていないから。

 「でも、結局のところ僕は社会人には絶望したままなんだ。ただ、今回のことを通してとにかくやってみることの大切さを学んだ。頭の中で考えているばかりじゃ何も進まない。実際に知りもしないのに社会のことをああだこうだと否定してばかりでは何も変わらない、って気が付き始めた。とりあえずは卒業して、なんらかの仕事をしてみて、社会という世界を現実のものとして知ってみてから、どういうものかという判断をしようと思ったんだ。この選択肢の多過ぎる時代。成長しきった社会だから己の深部に入り込むしか展開方法がない。この時代だからこそ、何が答えではなくて、自分自身の真実がそれで答えなんじゃないかな」

 「凄い!」

 四季は叫んだ。

 「大人になった。今までの慶クンを見ていて、今いち言葉に説得力が足りないと感じていたの。それは経験が乏しいからよ。そうよ、実際に経験してみなくちゃ。それから好きなようにすればいい。経験した上でなら、見限るも続けるもあなた次第。偉い!頑張って!」

 「ありがとう。働いてまだ一週間しか経ってないから白なのか黒なのか判断の基準にもならないけど、これからじっくり見極めていこうと思うんだ。僕は、人間は駄目なものだって思ってた。科学の世界では万人の平凡な人間よりも、たった一人の天才の方が未知の可能性に届く可能性があるらしい。それって今までの僕にはたまらない屈辱だった。人間全体を否定されたかのようだったよ。でもさ、角度を変えて見ればそれって人間にはわずかながら無限の可能性があるってことにも取れる。人間には奇跡だって起こりうるかな。酒とか芸能人とか俗っぽい普通の人間の生活にはそれはないよ。でも、確かに音楽とか肉体とか、人間でもそういう稀なところには小宇宙があるのを僕だって知っていた。そういう時の無から有を創り出す人間の能力は凄いんだ。僕はこっちに取ってみようと思った。始めてそう前向きに捉えることができた」

 へぇ。あの慶がこんなことを言うとはね。

「僕はもう人間を諦めなくていいのかな。凡庸とした生活のかけらを馬鹿にするのではなく、逆にそれさえも楽しむ喜びを手に入れられることができるのかな。例えば極めたその指一本で、凡人の世界とは狭間を創ってしまうような達人の、その違いが分かるようになるのかな。何を恐れていたのか、一体僕は」

言い終えたらしく慶は深くため息をつく。

 「あぁ。何も恐れる必要はないから」

 僕が言う。四季も続いた。

 「そうよ。恐れちゃいけない。私もね、もう何も恐れないことにしたんだ。このメンバーからはどう思われているか分からないけど、これでも私、会社では仕事のできる女っていう評価を得ているの。みんなにはそんな姿見せたことないからピンとこないかもしれないけど、本当にそうなのよ」

 「それは分かりますよ。的を得たこと言うし、批判したり評価したりもできるし、しっかりしていることはみんな分かってますよ」

 「そう。ありがとう」

 四季は目を閉じて微笑んだ。どうやら次は彼女の番らしい。

 「みんなと出逢うまでの私にはね、どうしても割り切れないことがあったの。社会人の自分と、一人の女性としての自分が上手く切り分けできなくってずっと悩んでた。いつか話したよね。昭クンは分かるでしょう?会社で仕事をするのは、学生の頃の仲間うちで生きるのとは全然別で、ひとりひとりが独立した個人として仕事をしなくちゃならない。それにね、はっきり言うと、仕事はできる人に集中するの。自分が頑張って仕事すればするほど、同じグループの人たちと同じ仕事をしている、というより自分一人だけでひとつの仕事を担当している、っていう感じになる。そこに待っているのは孤独よ。甘えの許されない一人。私は一人で仕事をしている、っていう意識を拭い去れなかった。周りは助けてくれない。上司は私の仕事に興味を持ってくれない。一人で仕事をするのが凄く嫌な孤独だった。孤独を通り過ぎて、無様に思えたわ。周りの人に拒まれて生きているかのように思っていたの。正直、辛かった」

 先輩に言われるがままに仕事をしてきた僕には分からないが、あの四季がそう言うぐらいなのだから、きっと本当なのだろう。

 「それが嫌だったのよ。私、何でこんな寂しい女なのかって。波長の合う彼氏もいなかった。職場ぐらいでしか男の人と知り合う機会もないのに、いつの間にか私は仕事はできるけど、冷たくて愛想のない女だって思われるようになってきた。そんなことはなかったのにね。私は私で、仕事よりも一人の女性であることを優先させてきたつもり。でもね、周りにとってはそうじゃなかったらしいの」

 遠い目。四季は美夜子にとってはいいお姉さんで、慶や僕にとっても頼もしい女性で、いつも遠い存在の素敵な人だった。少なくとも彼女を無感情の人だなんて思ったことはなかった。

 「ほら、言ったでしょう。私は会社の男性たちから書記みたいな仕事をさせられるのが一番嫌いだって。こんなこと言うのは本当は恥ずかしいんだけど、せっかくだから言うね。その裏腹で、私は一人の女性として見られたかった。仕事ができる女って、冷たくてお高い女って思われるのと同じぐらいにね。嫌だったわぁ、そんなの。どうしようもない矛盾でしょう?一女社員として絶対に軽視されたくなかったくせに、自分は一人の女性であることを絶対に守り通したかったなんて。仕事をやりたいくせに、実は周りとの人間関係を求めようとしていた。割り切れていなかったのよ。どっちつかずって言ってもいいわ。変でしょう?おかしいよね。ホントおかしい」

 自分の言葉に動揺してか、四季は自嘲的に笑った。

 「でもね、それを吹っ切ることができたのよ。ここでの時間を通して私は方法を見つけた。ほら、みんなそれぞれ素直でしょう?昭クンは素直そのままで、慶クンも本当は素直な人だし、美夜ちゃんも素直でいい子。私は素直にはなれなかったな。会社ではいつでも構えていて、人の輪の中に入れなかった。好んで孤立したわけでも、それに別に実際目立って孤立していたわけでもないけど、周りとの距離は否定できなかった。それがね、みんなとの時間では違ったんだ。仕事じゃなかったからかな、利害関係がなかったから素直になれたのかもしれない。とにかく、ここで私は吹っ切れたのよ」

 「どう吹っ切れたのかな?」

 「慶クン。私、全てを受け入れることにしたのよ。一人で仕事をするのは仕方ないこと。それを無様だとは思わないようにした。人との距離も甘受することにした。それってもちろん悪い部分はあるわ。でも、いい部分の方が大きい。ウチの会社は、少なくとも大昔のように男性と女性で仕事内容に差別を加えたりはしない。昇進できるかどうかは分からないけど、女性を使い捨ての事務員としか見ないような会社じゃないことは確か。男性に負けない重要な仕事を任せてくれる。ずっとしたいと思っていた仕事は今、できているの。だからいいじゃない、って思ったの。細かい部分をどうこう考えるのはもう止めた。全部飲み込んで、私、素直に生きることにしたの。転職のお話も断っちゃった。みんなと一緒に過ごした時間は、私も素直だった。気持ち良かったわ。素顔のまま。飾らない私。でも、会社にいる今の私ももう飾っていない私よ。私をそのまま出してしまって、どうしても発生してしまう細かい毒なんかは無視すればよかったのよ。そう、全部飲み込んでしまえばよかったのよ!」

 周りを見渡すと、みんなはいい顔で四季の告白を聞いていた。その表情は温かく四季を受け止めている。彼女だけはパーフェクトだと僕はずっと思っていた。ところが彼女が実はそんなことに悩みながら生きていたとは。何がゴールなのか分からない時代に一番飲み込まれていたのは、他の誰でもなく四季自身だったのだ。

思えば、妙に楽しそうに土いじりをしていた彼女の姿を思い出す。それとは対照的な表情をしながら平日の会社のデスクで仕事をこなしていたのだろう。彼女の行動は日常の裏返しだったのだ。平日と週末のそれぞれが、互いの満ち足りないものを発散させる生き方。表か裏か分からないが、僕たちが片方のその受け皿となれたことは光栄なことだ。だがもう彼女は両方の裏返しに悩まなくてもいい。毒は発生しないんだ。


 「凄い~!みんな変わった!!」

 それを言おうとしたのに美夜子に先を越されてしまった。

 「あぁ!こんなに嬉しいことはない!ほら、みんな乾杯しよう、乾杯!」

 ご機嫌な慶の声が大きい。

 「そうね!今日は本当にいい日。嬉しい!」

 みんなにワインを注いで周る。あぁ、僕も嬉しいよ。桃の花を背景にしたみんなの表情や言葉に偽りの影は微塵もない。本物の気持ちを交歓し合えている。今、僕たちの周りに汚れた、低俗なものは存在していない。こんなに純粋な時間に恵まれるとはなんて幸せなのだろう。

 「最高の時間に乾杯!みんなお疲れ様!!」

 胸にしみじみと込み上げてくるものを感じた。暗くなってはいけないと思い、僕はわざと明るく言った。みんなの乾杯の声が重なって、この狭い森の中が一気に賑やかになった。

 「本当に、これは奇跡のような時間だったわね。私たち、何も接点のない者同士だったのよ。それがちょっとした偶然で集まるようになって、こうして最後まで一緒にやり遂げることができたんだから」

 「その通り。まさか僕のあんな独りよがりの計画がみんなの何かを引き出すことになるとは思ってもいなかった」

 「昭のお蔭だよ。本当に嬉しい偶然だった。これは小さい出来事だよ。小さな計画で、小さな努力だったんだよ。それが結果的に大きなものに膨らんだ。四季の言う通り、これは奇跡だ。幸運過ぎて戸惑ってしまうほどに!」

 「ホント~。行動って大事なんだ~。やっぱり何かをしなくちゃぁ~」

 美夜子がのんびりそう言う。

「あぁ、そうか!」

慶が思いついたように言う。

「美夜ちゃんみたいにシンプルな言葉にしてみればいいんだ。僕たちは考え過ぎだよ。簡単じゃないか。行動していなかったから壁を打破できなかっただけ。壁があるように見えていたのは行動していなかったからだ。昭のシンプルなアイディアと、それを興味半分でもやってみようとした酔狂が結局壁を消し去った。行動だ。考えても始まらないことは、まず行動してみること。これだ!」

「言われてみれば私もいつも考え過ぎだった。行動する前に諦めちゃうことも多かったわ。駄目ね、習慣って」

四季も同調する。

「そうそう!わたしからすれば、結局み~んな大差ないよ。人は人。み~んな同じ。自分だけが複雑なんてウソ!ウソウソ!!」

「美夜ちゃんらしい考えだね。でもなんか今回のことを振り返れば本当にそうだった。ヘンな空想をみんなに話して良かった。偶然じゃなく、これが奇跡か」

そうつぶやいて僕は青空を見上げた。雨雲は時の彼方に、今は若々しい白雲。どこに流れてゆくのか知ったことではないが、その色は若々しく輝いている。

「ましてや、僕たちは若いんだ。若さに特別な意味なんてないと思うけど、大切なのは若さのエネルギーの道を自分で塞いでしまわないことだろうね。行動だよ。停滞から始まる可能性はない。こんな真面目な方法だけとは限らないけどね。無意味でも無報酬でも行動から道は開けると信じよう」

「素人の僕たちでもやればこの桃だって満開にできた」

慶の言葉に僕は大きく頷いた。そう、満開にできた。

「わたし、」

美夜子が何か言おうとしている。

「わたし、この一年で人生が凄く複雑になった。高校卒業して、お店に入って。別れちゃったけど、元カレのこと。今好きな人のこと。なによりもお仕事のことかな。でもね、なんか一番大切なことは正直な気持ちだって、なんかそう感じて。みんなありがと」

改めて礼を述べる彼女。四季は遂にこの少女からありがとうという言葉を聞いた。出逢った時にこだわってしまったのがその言葉だった。

「美夜ちゃん、」

僕はとうとうこれを言う時が来たのだ。

「最初に美夜ちゃんを見た時、僕の心は激しく乱れたよ。あ、告白とかじゃないから安心して聞いて。美夜ちゃんからは十八歳の若さが全身から輝くように出ていた。きっと自分でも分からなかったと思うけど、はっきり感じたよ。それはね、僕が十八の時に持っていた良いものときっと一緒なんだ。美夜ちゃんの若さを見て僕は自分自身を恥じた。社会にもまれてすっかり俗人に成り下がってしまった自分自身に対して引け目を感じたもん。だから、その引け目から逃げようとして、なりふり構わず口に出したのがこの計画のことだった。正直、あの時の美夜ちゃんはショックだった。若さを一気に死滅させて大人の俗道へと堕ちる哀しい少女の姿に思えて、僕の心は張り裂けるように痛んだ。若さが奪われる様には耐えられなかったよ。美夜ちゃんが全てのきっかけだったんだ。――でもさ、今回のことを通して美夜ちゃんも、そして僕たち全員が、なんか本物の若さを取り戻した気がしない?これで全部クリアだ。やっと楽になった」

「――愛日常。僕たちの日常の愛がこうして実を結んだってワケだな」

「愛かー。愛ねー。これを愛と呼んでいいのかー。でもそうだね、慶。言ってみればまぁ、そんなところだ」

日常を怠惰に放棄しないこと。くだらなくとも日常に愛を注ぐこと。それがかつて人間の生活に冷めていた慶の見つけた「大きなこと」なのだろう。

 愛日常。それにしても慶の言い方が突然でおかしかったので思わず笑いがこぼれた。

笑いに転化する。余裕で微笑む。この優しさを得るために僕はどれだけの時間を費やしてきたことだろう。今まで僕が獲得してきたものの全てがこれだと言ってもいい。 

「そっか。私もね、それと似た印象を美夜ちゃんから最初受けたんだ。そんな正直な傷を見せてもらったからここに参加した。美夜ちゃんの傷に嘘はなかったから。哀し過ぎるほど」

「でしょう?あれは哀しかった。でも、今の美夜ちゃんからは生き生きとした別の若さが感じられる。変わったんだよ。誇りに思っていていい」

「そうね。それってみんなからも感じられるわよ。やったじゃない!」

「やったよ!最高!」 

感涙寸前の僕がそう叫んだ時、竹林からのゆっくりとした風が近くの木からさらったのか、目の前に置いてあった紙コップに桃の花が落ちようとしていた。その優雅に風に舞う一枚のピンク色の姿をみんなが見つめる。

桃の花はひらりひらりと風を行き来して、自分の行き場を迷った挙句、最後は思い切った様子で素直に紙コップの中へ落ちていった。風のしがらみを振り切った桃の花びらはとても美しかった。