明智光秀公が出生し、落城時に逃れたのがこの明智長山城。
美濃国可児郡の明智庄、今の岐阜県可児市瀬田長山にある。
大手門・大手口は城の北側、光蓮寺の横から進もう。
桔梗坂、と名付けられた大手門からの登り坂。
桔梗は美濃土岐氏の家紋、土岐氏の流れを汲む明智家の家紋は「水色桔梗」。
ともかく、ここが桔梗坂と名付けられ、桔梗を植えてくださっている地元の方には頭が下がる。
しばらく桔梗坂を上がると整備された山頂本丸後に到着。
立派な明智光秀公の像があって、僕は感激せざるを得なかったよ。
脇差に加えて、鉄砲を抱えているね。
髪の毛が薄いように見えるのは、ちょっと理解できないが。
明智庄を見渡せる展望台があった。
真っ直ぐ前に望む水田と平地が明智庄だ、あの明智光秀公が守っていた領地。
これは望遠レンズで撮ったから肉眼ではこんな鮮明に見えないが、真ん中左の山が、美濃金山城がある場所。
超望遠レンズで拡大すると、さっき行ってきた美濃金山城の展望台が見えた。
明智長山城が斎藤義龍に攻められ、明智光秀が逃げたのが1556年。
森可成が織田信長から美濃金山城を与えられたのが1565年。
ご近所ですれ違っていたと思っていたけど、明智家と森家は近所同士にはなっていない。
本能寺で森蘭丸(美濃金山城主)が明智光秀の軍勢と戦ったことにも、なんの因果関係もない。
イメージ作りに逆茂木や馬防柵がある本丸一帯、やはり城名入りの石碑は撮りたくなる。
右手の階段が十兵衛坂で、桔梗坂とは別のルート。
やはり立派すぎる銅像、明智光秀公はこの地のスーパースターだから。
この明智長山城は取り壊されて長く経つから、当時の姿が残っているわけではない。
この本丸からすぐ横(上の写真の左にも家が見えている)には今は住宅が並んでいるほど、平地だったのだろうか。
本丸に広さもないし、小規模とは言わないが中規模の山城だった?
搦手道(裏口)へ向かう十兵衛坂はよく整備されていてありがたい。
進んでいくと、曲輪や堀切の跡をはっきりと見ることができた。
上の写真の右側に竪堀(たてぼり)を見て取れる。
もちろん搦手口にしかこうした防御の仕掛けがなかったのではなく、
大手口にはもっとあっただろう痕跡は時代の流れに消されただけ。
当時、明智光秀とその家族ら限られた人数はどこから逃げ落ちたのだろう。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の影響で、観光客が激増した明智長山城。
地元の方がしっかり整備してくださったおかげで、歩きやすい平城だった。
桔梗坂の手前の畑にも、桔梗が植えてあった。
良い季節に訪れたものだ、7月初旬はちょうど桔梗の花が咲く。
明智家ゆかりの天龍寺、なかなかの美しさ。
奥にある鐘楼そばには明智氏歴代の墓所があったので、手を合わせた。