江戸読本に著作権が存在せず、出版権を握った版元が利潤追求の生業として出版していたことは、
近世後期作品の内容にも大きな影響を及ぼしている。
まだまだ出版自体が始まったばかりの時期では出版することに莫大な投資が必要であったことから、
内容についての企画やプロデュースを担当したのは著者ではなく版元であった。
当時の読本は庶民が買うことのできる値段ではなく、一般的に貸本屋を通じて庶民に読まれたことからも、
一冊出版するのに版元が金銭的に大きなリスクを背負っていたことが分かる。
だからこそ江戸読本にはそれまでの文学とは違う着眼が求められ、
流行に合致しているかどうかや、読者うけする内容かどうかが文学にとって大事な要素となり始めたのである。
これはそれまでの一部の上級階級のみに限定されていた文学の窓口を
広く庶民にまで開放したというプラスの面もある一方、
文学が商品となるという新たな側面を生み出しそれが現代まで続くことになる。
この出版機構との関係なしに滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を語るのは片手落ちになることは言うまでもない。
版元の注文を取り入れながら馬琴がこの作品を書いたことが推測される。
近世以前はひとつひとつを筆で写してゆくという原始的な複写の手段のなかで、
ごくごく限られた人間たちとだけ筆者と読者という接点を持っていればよかった。
それが出版機構の拡大によって広く開放された場を提供される。
そこには表紙に意匠をこらしたり、商品として形成するように様々な装飾などもあわせ流通してゆく。
版元の拡販の意図にそぐわない部分は、作者の意図から離れようとも削除されたのだろう。
これは江戸読本に著作権が存在しなかったことの明らかな負の部分である。
これによって、滝沢馬琴のようなメガヒット作品を世に出した人間でさえ、
一生書き続けなければならないという矛盾が生まれてしまったのである。
馬琴はそういう江戸読本の特徴に合わせていくつかの迎合と抵抗をしている。
まずは「女」である。物語に男と女がいなくては、物語として成立しない。
逆に、男と女がいさえすればそこに物語が成立する。
まだまだ文学というものになじみが浅かった庶民をターゲットに読まそうとするのが江戸読本であったとすれば、
版元にとっては大衆うけする素材は必須であったのだろう。
それが、「女」である。
『南総里見八犬伝』に登場する女たちは話題性に富んでいる。
処女懐妊した伏姫は古来からある処女純潔を重視する思想の影響があるし、
薄幸の浜路も男性上位の社会の典型的な思想そのものである。
悪女船虫の乱れた性愛、実はそれは前夫・鴨尻の並四郎への敵討ちから
発生したものとしてあるところにまだ救いがあるが、性という文学のテーマであって
かつ庶民が誰でも興味を持つ対象を上手く題材としている。
船虫の起こす事件や流転の生き様、牛に裂かれるという暴力的な死に様もまた、庶民の興味対象であるものであった。
馬琴は様々な女性を巧みに描き、女という性を浮かび上がらせることで庶民大衆の興味を広く捉えたと言うことができる。
ここではそれを文学的ではないと非難しているのではなく、
そうすることで物語としてあるべき道になったのではないだろうかと考えている。
繰り返しになるが、この時代に出版された作品にはそれまでとは大きく違った前提が求められたのであった。
日常社会を逸脱したような階級向けの物語ではなく、万人の心を掴むことの大事さが前提であったのだ。
そして馬琴はそれだけに留まらず、江戸読本を教養人の読み物まで高めた功績が特筆に価する。
教養豊かな馬琴は日本の神話などをふんだんに盛り込み、
中国の三国志や水滸伝などの白話小説も取り入れ、難しい専門知識と言葉を使うことで
内容を非常に重厚で奥行きのあるものに創り上げた。
これによって江戸読本が営利活動としての出版だけに迎合せず、独特の文学的立場を保つことを確立したのである。
これが江戸読本と他の戯作などの庶民文学との決定的な差であって、『南総里見八犬伝』が今も文学として評価される所以である。
出版機構の確立は文学を振るいにかけることになった。
例えば、日常の生活や色恋だけに焦点を当てて庶民の興味を誘うことだけに
終始しまうものと、それだけに留まらず『南総里見八犬伝』のように文学としての価値を保つものを分けることになる。
その振るいになったのが近世の出版機構と言うことができよう。
出版業の創設という大きな過渡期を通して、パイオニアである滝沢馬琴は
作家として金銭的には恵まれず、制度の犠牲になったともいえる。
しかし、江戸読本というものを高尚な形で爆発的に庶民に広めたことは世紀の成功であった。
現代に続く、大きな制度確立が馬琴によってなされたのだ。