詩的日記

カエサル・シーザーのガリア侵略成功、ローマ帝国の権力争い

ガリアとは現在の西ヨーロッパ一帯を指す広大な土地である。

そこではベルガエ人・アクィーターニー人・ガリー人の3つに別れて、それぞれが違う文化を持っていた。

そのガリアのうち、アルプス・ピレネー山脈以南の地域は当時既にローマの支配下におかれていたが、

フランス・ベルギーの一帯はローマの影響力が未だ及んでいない地域であり、

ガリアの総督を任命されたとはいえカエサルにはガリアを積極的に侵略する正当な口実はなかった。

スイス近辺で生活していたガリア系のヘルウェティー族がより広く有利な土地を求めて

西のガリアへと移動したことが、カエサルのガリア侵略のきっかけとなる。

ヘルウェティー人たちはローマ属領を避けて通ったのだが、

その移動のルートがローマの同盟国であるヘドゥイー族やアンバリー族の土地を

通るものであったから、同盟者たちをヘルウェティー族からの侵略から守る、

ということを口実としてカエサルは兵を進め、ヘルウェティー族を撃退した。

地上世界をローマの統一的な支配の下におく、というのがローマ人の考えた世界帝国思想であったのだが、

そこにはローマが行ってきた伝統的な対外政策のやり方がある。

ローマはパトリキ(貴族)とプレブス(平民)による身分闘争が決着をみた紀元前2世紀頃から、

他都市を自治市・同盟市・植民市と方法を使い分けながら事実上支配し、

そこからローマへと兵士を提供させることで軍事兵力を増加させてきた。

名目上は防衛戦争であるというのが常であったのだから、

カエサルがガリアに軍事介入するに当たって作り上げた強引な口実も、ローマのいつものやり方を踏襲したものであったのだ。

ガリア全土へ領土を伸ばしつつある勢力にゲルマニー人の王アリオウィストゥスがいた。

ヘルウェティー族撃退の後に全ガリアの首領を集めてカエサルは話を聞いたが、

ローマの同盟者であるハエドゥイー族やセークァニー族がローマに援助を求めてきたから介入する、という名目を持って

カエサルはこのアリオウィストゥスを退けることに成功する。

次にカエサルはベルギー地方に遠征してガリア人部族を制圧した。

そして頻繁に侵入してくるゲルマニー人たちを防ぐために当時のローマの支配の限界であるレーヌス河に橋を架けて

ゲルマニー人のスガンブリー族と戦って、ローマ人もまたレーヌス河をわたることができるのだ、

とゲルマニー人たちを威嚇した。

ガリア地方のケルト人と密接な同盟関係を持っていた

ブリタリニア人を討伐するために海を渡ってブリテン島へも遠征していくのである。

こうした8年に及ぶ戦いの結果に全ガリアを制圧したカエサルであり、

ガリア人のことを企てやすく、一般に変革を好む気まぐれな性質があることを

知っていたカエサルだったが、ローマに一時帰還している隙にガリアで大規模な反乱が発生してしまう。

それまで50以上の部族に分かれて何の連係もなかったガリア人たちが「ガリア解放」を合言葉に立ち上がったのである。

これにはガリー人の気まぐれもあったのだろうが、カエサルの搾取に対しての彼らの不満が募っていたのと、

ガリアを統一しようとしたカエサルの行動が逆にガリア人たちに民族団結の意識を植え付けてしまっていたのだ。

カエサルは急遽ガリアへ戻って反乱軍を撃破し、アウァリクム攻囲戦などで優れた攻城土手や櫓を駆使して勝利する。

丘の上にあるアレシア城に籠城したガリア人反乱軍の指導者・ウルウェルニー族の

ウェルキンゲトリクスとの戦いでは城を取り囲んだ上で三重の壕に刺を巡らせて戦った。

駆けつけたガリア族の援軍がカエサルに撃退されてしまうと、

穀物も援軍もなくなり進退窮まったウェルキンゲトリクスは降伏することになり、

ついにカエサルはレーヌス河を境界として全ガリアの地をローマの属領として決定的なものとしたのだ。

このガリア遠征はカエサルに、ローマにどのような利益をもたらせることになったのか。

注目すべきはこのガリア遠征においてローマは、ローマの総力を挙げて戦ったというよりも

カエサル個人の力で勝った印象が強いという点である。

ローマにいる時には経験できなかった軍事実戦の中で、

カエサルは自身の実力と名声を積み重ねることができたのである。

そして、ガリアに広がる大森林地帯から切り出す建築用材や金鉱山の資源によって

カエサルは豊富な資金を得て自らのローマ時代の負債を清算できたし、

周囲や部下たちにも富を分配して人気を高め、ローマにいる自身の支援者たちにも大量の金をばら撒くことで地盤固めができた。

昔からこうした属領支配によって繁栄を築いてきたのがローマ帝国である。

ラテン同盟に守られる立場から、逆にラテン同盟を結んでいた国々を支配する立場となり、

イタリア半島を勢力下に収め、そして地中海の覇権を握ってゆく過程で、

ローマでは上層市民のみならず広く下層市民もが勝利の利益分配を得ていたのである。

このことは市民全体に戦争を歓迎する気配が強かったことからも説明ができる。

ガリアでの戦勝はローマの威信を世界中に広めることにつながったし、

この実績はローマでのカエサルの政治的な地位を不動のものとしたのである。

指導的立場のコンスルや元老院はローマが地中海世界の支配者となることが正義である

という意識のもとに征服戦争を遂行していくのが常であった。

クラッススやポンペイウスと三頭政治を結び、伝統的な元老院支配に反抗してきたカエサルではあるが、

こうした元老院の利害とも一致する実績を残した以上、

元老院としてもカエサルを無視することはできなくなってしまったのである。

このガリア遠征の歴史的な意義として、西ヨーロッパのガリアという地を、

そしてガリアのみならずカエサルが足を踏み入れたドイツやイギリスまでも、

ローマ文明圏、広くは現代につながる欧州文化圏の中に巻き込んだということがある。

つまり、ガリア遠征がヨーロッパそのものの地政概念を創造したのである。

ガリアはローマ経済の輪の中に組み込まれ、ローマ式の道路・建築物・水道橋などの

ローマの文化によって経済繁栄を遂げることになる。

いわば、ガリアに対するローマの植民地政策が、ヨーロッパの基礎文化を成立させていったのだ。

ガリア遠征で成功したカエサルはポンペイウスとの内部対立を制して

ローマ帝国での権力を一手に握るまでに存在感を強めることになる。

ガリア遠征の成功による周囲からの評価と、培われた実力がカエサルを

その立場まで押し上げたのだが、そんなカエサルが共和政国家ではなく

独裁国家を築くのではないかと疑った元老院保守派によってその後カエサルが暗殺されたことは歴史の皮肉であろう。




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