詩的日記

日本型ファシズムの特質・天皇制、軍部が政治主導権を握った原因

日本の軍部が政党にかわり政治の主導権を握った要因が、 日本型ファシズムの特質にあるということに着目してみた。 日本ファシズムが中国・朝鮮の抗日運動への対抗策であることと、 アジアでの植民地拡大のためということ、そして第二次世界大戦の戦争を 遂行させるために必要なものとして軍部により意図的に喧伝されたという事実も 忘れてはならないが、それ以前にどうして日本国民に割合抵抗なく この日本ファシズムのシステムが受け入れられたのかに注目しなくてはならない。 それは日本ファシズムが、天皇制を基本とする天皇制ファシズムであった ということが最大の理由ではないか。 遡れば、明治維新以来、天皇が発した詔勅が神武天皇以来の神皇に触れ、 天皇の絶対的権威・神秘性を高めんがために 皇室の神話的性格を強調したことにたどりつく。 国家神道の形成は自由民権運動の高揚に対抗する 国家の支配的イデオロギー政策の重要な一環であった。 基盤の弱い明治政府が、大衆コントロールのために取った政策である。 「軍事勅論」によって日本軍隊は「皇軍」の理念確立がなされる。 この流れで日清・日露戦争が進められていったのであり、 日本国民の意識に「戦争は天皇の名においてされるもの」というものが根付いてゆく。 韓国併合の条約が天皇の名においてなされたように、 この意識統一の流れは深く日本国民に浸透していった。 何故日本ファシズムが民衆の抵抗によって、イタリアやスペインのように 政権を打破するまでに高揚しなかったのかという疑問も、 日本の場合は道徳上侵してはならない天皇を頂点とする 特有のファシズム形態であったが故に国民の活動が自制された、という考え方で解決することができる。 国家神道の教育は明治以降のものであるが、明治憲法の制定や歴史教育を経て 広く国民に浸透していったこの国家イデオロギーを否定しない限り、 日本ファシズムと正面から対抗できないのである。 日本ファシズムの頂点は天皇に設定されていた。 事実上は軍部が主導権を握っていたとはいえ、表向きには天皇がその上に君臨している。 ここに民衆が超えることのできない道徳という壁があった。 当時の民衆意識、これは明治以降の長い天皇崇拝教育によるものだが、 そこに天皇否定という考え方は存在しないのである。 天皇の名のもとで進められる国家総動員法や治安維持法に国民は抵抗できない。 教育によってカリスマ性を植え付けられた天皇という存在には抵抗できないのが国民だったのだ。 それを計算した軍部のやり方が、大衆支配という点では一応の成功を収めているのだ。 当時の支配者層が天皇という存在をいかに重要視したのかは、 戦後の天皇の戦争責任の所在について連合国に問われた時の彼らの対応に垣間見ることができる。 ポツダム宣言を受諾する際にも、政府は 「天皇の国家統治の大権を変更することないのが条件」として最初から交渉に挑んでいる。 最終的には「あこがれの中心としての天皇の地位が不変という解釈における 『国体』は護持されたという結論に落ち着くのだから、 その方向性を結局最後まで押し通したことになるのだ。 天皇が戦犯として裁かれることを防ぐために、当時の内閣を中心とした支配層は 敗戦の責任は努力が足りなかった国民にあるような言い方をした。 戦争責任も軍部に押し付け、悪いのは軍人であって天皇ではないと主張した。 連合国側記者の質問にも、東久邇首相らは天皇には戦争責任がないように受け答えしているのである。 最終的にアメリカは天皇に戦争責任を負わせることをしなかった。 これは日本国民にある天皇に対する特殊な感情を逆なでしてはならない、 という判断が勝ってきたからである。 この第三者的立場にあったアメリカが、日本国民が天皇に持つ特殊な感情を 重要視したことは、日本ファシズムの特異性を考える上で重要である。 現代社会で暮らす我々が具体的に想像できない、 当時の民衆が持つ天皇への強烈な崇拝心というものが、 このことによって客観的に証明されているからだ。 日本国民内からも天皇の責任追及の決定的な声があがらず、現代まで不十分な結末で終わっている。 ドイツにおける全国民規模でのナチス戦犯の追及や、 イタリア国民によるファシスト戦犯追及とは大きな違いがあり、 これもまた日本国民における天皇という存在の特殊性を示すものであろう。 確かに戦時中は事実上、軍部が政権を握っており、天皇は、旧憲法によれば 統治、総帥、開戦講和など多くの大権保有者とされていた。 だが事実上は、その権力を行使しない存在であった、ということに留まっている。 他の諸国と違い、日本には明治維新以来政府が粘り強く培ってきた 支配者イデオロギーとしての天皇崇拝という特殊土壌が国民の中に浸透していた。 戦時中に軍部がその天皇制を全否定することなく、天皇という存在を上手く利用して、 天皇を頂点とする日本独自のファシズム形態をとったことが、 結果として民衆の抵抗を抑え、民衆を従わせる一種不思議な強制力を与えたのである。 この特殊な形態をとったことで、日本ファシズムは一応の社会的安定性と 国民に対する合理的理由を得ることができ、一時代を築くことができたのである。 公共性とは、政府・官僚の立場、地方農村内での共同意識? 「公共性」とはどのような概念で使われていた言葉か。 また、現代日本においてはどのような独自の意味合いが含まれているのだろう。 そもそも「公共性」とは社会全体に共通する利益を優先する概念を指し示す言葉であって、 例えば世間一般に必要なニュースを伝えることであったり、 社会で共有している財産の管理であるとか、誰がそれを行うということは関係なく、 行為そのものに「公共性」があることが重要であった。 ところが日本においては意味合いが違っており、 明治維新によって「家」や「ムラ」という農民社会の頂点に組み込まれた天皇が この「公共性」の持ち主であり、その天皇につながる政府や官僚の領域に入らないと 「公共性」があるとは認識されにくい風潮が現在も残っている。 これは不思議なものである。行為そのものが判断基準にされるのではなく、 天皇の内にいるか外にいるかで公か私かが判断されるのである。 この考え方では、国家公務員や大企業の社員と、それに順ずる一部の人しか 「公共性」のある行為ができないということになってしまう。 これは長い江戸時代に士農工商の身分制社会があり、 武士がする政治に対して農工商が口をはさむものではなかったという 日本の政治文化が尾を引いていたこともあるだろう。 また、「公共性」を考えて何かを行うとあるが全員がかなう利益の配分はないのだから、 どのような諸価値の配分にコミットするのかという政治的な駆け引きがあるのだ。 それではいつから日本では「公共性」という言葉が権威の象徴になり、 庶民の上に立つ特権者しか使えなくなる風潮が生まれたのか。 それを紐解いてゆくと、明治維新において政府が諸藩を解体した時に遡る。 明治政府は維新後の庶民の心の拠り所として、国家は家であり、天皇は親、国民は子だとした。 このことで国民と天皇の間に擬似親子関係が発生し、 親に尽くす子は当然とする「家族国家」が出来上がったことが問題の始まりである。 そして、もうひとつ別の解釈の「公共性」は、農村に根付いている「ムラ」の中での共同意識だ。 「ムラ」という共同体の中では互いが身内同士として対面関係を重要視する。 明治維新以降の重工業育成による近代化はこの村社会を徐々に崩壊させていったが、戦前戦後にはまだ顕著な意識であった。 「公共性」のイメージが官僚に独占されてしまったところに現代日本での問題性がある。 広く一般にまで浸透してしまったこのイメージによって、 公的な組織に所属する公人のみが人を規制する資格を持つ、という原則が日本国内にできあがってしまったからだ。 そしてもうひとつの問題は、この「公共性」の立場から外れているときは すべて私人であると人々は認識し、私人であれば多少は節度を守らなくても善しとされてしまったのである。 「公共性」のない中小企業であれば、ゴミの不法投棄も重要な問題にはならない。 ムラから離れた場所にいるときには、何をしてもそれは私人の遊びの範疇であるから問題ではない。 「公共性」のない立場の者は何をしてもいい、 ムラにいなければ縦横のつながりがないのだから何をしても許される。 長い間、日本の農村で培われてきたモラルが崩壊し、欲望だけに突き動かされる時代がやってきたのである。 特に農村から都会に流出してきた労働者たちにその意識は顕著で、 街は金を稼ぐだけの場所になり、隣人関係や地元意識は忘れ去られてしまう。 土地や仕事に愛着を持てない人間たちが国家という家の頂点である天皇に対して敬意を払うわけがない。 その行末に待っているのは家族国家論の崩壊である。 「ムラ」意識の崩壊はこうして家族国家論の矛盾までつながってしまう。 いや、太平洋戦争の敗北で天皇すらその象徴の権威を薄めてしまったのだから、残っているのは自己中心主義だけである。 会社や近所でお互いを思いやる気持ちを持つのではなく、 自分にとって利益のある人とだけつながっておけばよい、という身勝手な意識が生まれてしまう。 官僚や公共機関が上から見下す視点のものだけを「公共性」と呼ぶのではない。 同業社内や同グループ内だけにはびこる仲間内だけの「ムラ」社会でもなく、 本来は誰でも自由にみんなの利益になることに取り込む姿勢そのものが「公共政策」と呼ばれるものなのである。 民間の中にこそ「公共性」があって然るべきである。 官僚独占による公共のイメージを捨てて、オープンな場所で大勢が意見を出し合って物事を決めるとき、 そこに本来の「公共性」は存在するのである。 その意味ではインターネット上の掲示板に書かれた無名の意見には本来の「公共性」があると言うこともできる。 そうして市民が議論を交わしてルールを決めることが本来の民主主義であり、政治の原点であるのだ。 「公共性」の誤ったイメージを拭うためには市民の意識が変わらないといけない。 行政の立場から見る「公共性」と、民間の立場での「公共性」は自然に違ってくることだろう。 政府見解や裁判所の判例にばかり根拠を頼るのは日本政治文化として 今も残りがちではあるが、自分たちの意見を主張することが本当の「公共性」を作り上げることにつながるのだ。




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火おんどり

夜闇の火祭り、ピントも炎も人の表情も最高な、奇跡の一枚

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