新城市作手には、奥三河の山城が幾つか残っていることは知っていた。
そう、縄張り設計が今でもはっきり分かるのだ、ほぼ完全な形で遺構が残る古宮城。
ただね、ブログというか静止画の限界がありまして、幾ら写真で見ても全体像はあなたに伝わらない。
上の写真で土塁が残っているのは分かるかな。
上の写真にあった丸馬出は感動したな。
こんな割合小規模な山城にも、武田流築城術の目玉芸みたいな「丸馬出」がはっきり残っていたのだから。
両袖枡形虎口(ちょっと軸ずらし)、それが大ヒノキのところにある、これが死地ってやつだ。
土塁と堀がはっきり分かる、夏草ある6月にきてもこうだから、冬季だったらもっと遺構が見えるのだろう。
小山を改造して防衛の罠を作ったのね、馬場信春さん。
進軍ルートがはっきり分かる、そしてそのルートを歩いていたら三方四方から集中砲火された様子も分かる。
虎口へと向かう道、その虎口の向こうは丸馬出だった、無傷で通れるはずがない。
大堀切、どうしてこんな大作業をしなくてはならないのか、自分達の命と土地を守るための必死さゆえか。
ココがポイント
有名でもない古宮城が「続日本100名城」になっている理由(遺構の良好な保存状態)は、はっきりしているから。
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「古宮城・作手亀山城〜お城Vlog㊶奥三河の山城、文殊山城・野田城」動画を、YouTubeにあげました!
三河亀山城の写真、作手城とも呼ばれ、奥三河の山家三方衆「奥平氏」の居城。
上の写真は、大手門から本丸への直線、まっすぐ前の空堀が幅高く、ここが一番見応えあった。
二の丸から本丸への虎口、亀山城はまぁまぁ保存状態良いが、そう見所や遺構がある訳でもない。
長篠城の籠城戦で知られる奥平貞昌の父の時代、ここを奥平氏が居城としていた。
作手(つくで)も豊かな平地、奥三河の山間部には珍しく平野がたくさんある場所。
本丸跡からは見晴らしが良い。
亀山城址と書いてありますね、亀山城という名を持つ城は多い、ここは作手亀山城もしくは三河亀山城。
文殊山城「一夜城」の写真
奥平氏が武田氏との和睦交渉の中で、一夜にして?作ったと伝えられる山上の砦。
物見台みたいなものと、模擬の柵があります、確かに土塁や土橋は残っていた。
もはや山中の展望台、低登山であって、お城巡りとは言えない感じ。
ナビに善福寺まで誘導されたが、そこからは車で行ける道がない。
迷っていると善福寺のお母様に話しかけられ、善福寺から文殊山城まで歩いて行けると。
善福寺のお母様は教えてくれた、作手総合支所からだと山道を車で文殊山城直前まで行けるとのこと。
結局は善福寺から15分の低登山をして文殊山城まで。
善福寺の石段は長かったな、歴史ありそうな昔ながらのお寺。
古宮城と亀山城の中間地点、それが文殊山城でした。一夜城かどうかは怪しいけど。
川尻城というのも作手にあって、奥平氏が亀山城に入る前に使っていた、小規模な山城。
門や柵が整備されていたのは驚き、きっと誰も訪れることない場所だろうに。
奥平家をここから再興したと聞くと、意味も価値もある川尻城。
作手には数多くの山城が残されているね、幾つも回れて楽しい山城訪問ブログになった。