表面は銀なしの銀閣寺、心の中の銀色を見つける修行の一環。
すみっコぐらし堂@銀閣寺店で家族が遊んでいる合間に、28mm単焦点レンズを携えてやってきた。
5年以上ぶりの銀閣寺、まずこの銀閣寺垣の美しさに改めて感激。
広角レンズで撮る銀閣寺は久しぶり、日本の美を求めて角度を凝らす。
いつ来ても銀閣寺の美しさは変わらずね、変わって来ているのは僕の心情。
28mmなら北斗石も含めて、銀閣寺全体が写せた。
銀沙灘と向月台を一枚に収めた写真も珍しい。
新型コロナウィルスに負けない強い心とは、この銀閣寺の如く、平静を貫くことなのだろう。
何十年も変わることなく、一つの道をずっと貫くことで、極める何か。
こういう日本の美のところに、いきなり銀玉とか銀色のアルミフィルムとか会ったら興醒め。
観光客数が随分と減った2020年秋の銀閣寺。
写真が撮りやすい、人が入らないのでありがたい。
PLフィルター持ってきて、水面の反射は除去したかったな。
新緑でもないのに、竹林の美しさは特筆すべき。
緑に埋もれた銀閣寺、「碧閣寺」とでも改名すれば良いのに。
和のハイセンスを魅せてくれます銀閣寺。
臨済宗相国寺派、銀閣慈照寺という正式名称は覚えられません。
銀閣寺という分かりやすいニックネームを愛して。
カメラ技術の向上、美を見つけるセンス磨き、そのために僕は銀閣寺を訪れた。
2014年撮影
普通の感性では追いつけないよ、銀閣寺の美は。
一体何が「銀」なのか、分かったような顔つきで歩いていたけど、本当は分かっていない。
金閣寺は外観が金だから猿でも分かるが、銀閣寺は銀色ではない、目に見える銀はない。
色彩をそぎ落とした極致で、簡素な美を追い求めた心は想像できる。
銀色はないのに、銀色がある。
相反するそんな美学が銀閣寺にあるのだろうが、僕はまだ理解に至っていない。
「銀閣寺の方が落ち着いていて僕は好きだな、金閣寺はキラキラ過ぎる」
なんてカッコいいセリフを言いたいけど・・・。
銀閣寺は苔が素晴らしい、苔寺と呼びたいぐらいに整備された苔が豊かだ。
外国人にはこのシルバーテンプルが銀色に輝いていない理由は分かるの?
外国人だからこそ銀色に見えているの?
桜の名所・哲学の道のお隣にあるのに、桜の数はわずか。
色の濃い美は必要ないのでしょう、銀閣寺には。
写真で見る銀閣寺は見どころが多いが、実際に足で回ると地味にしか思えない。
あと何十回訪れれば、僕の心の目に銀色に光る銀閣寺が見えてくるのか。
ねぇ、教えてよ、足利義政公。
哲学の道、散った桜の花びらが川のように、絨毯のように。
桜の川を泳ぐカモさん、僕の目には夜空に煌く星のように見えていた。
稀としか言いようがない光景、なんていうパラダイス。
散った桜の花びらが水路を流れるのは当たり前のこと、
この量は哲学の道ならでは、しかもそれが渋滞して詰まっている。
1年に2-3日も見られない偶然だろう、
それも毎年現れる現象でもないとしたら、遭遇確率0.1%ぐらい?
ディズニー「バンビ」でクローバーの花を食べるとんすけのように、
カモさんたちも桜の花を食べているの?
銀閣寺の手前、哲学の道は桜の名所だが、まさかこんな桜の川(花いかだ)が現れるなんて・・・。
どアップにしてみると、こんなお姿になっているカモさん、
彼ら彼女らが春の喜びに浸っているかは分かりませんが。
地面に落ちた桜で埋まる哲学の道、これも絵になっている。
奇跡のような写真の連続ね、哲学の道、桜の川・花筏。
僕の人生でこんな光景にはもう出逢えないかもしれない。
銀色に塗られた主役を想像していたのに、銀閣寺の外見には銀がないという裏切り。
金閣寺と銀閣寺が良く似た兄弟ではないという意外。
落胆する旅行者を不可解な面持ちで眺める銀閣寺に、戸惑いの様はない。
四つの季節の美を、建物・庭園に織り交ぜ、精神的な到達を求めた東山文化の代表作・銀閣寺。
実力者がわざと気配を消して佇んでいる姿を、銀閣寺から僕は連想する。
目立つことを嫌い、でも隠せない本物の美は、京都の美の代表作として相応しいもの。
コドモはゴールデン金閣寺にインパクトを受け、オトナはシルバー銀閣寺に色気を感じるだろう。
そうだ、銀閣寺の「銀」という言葉は、単純な「銀色」ではないのだ!
木目や障子の色という地味なものが輝きを得た状態、錆びにくい輝き、それが銀閣寺の輝き。
いつまでも失われない輝きを、それが銀閣寺のコンセプトだとしたら。
色彩豊かな銀閣寺の一角、あえてモノクロ写真にしてみると、なんだかそのアイディアにつながるものがある。
目の前に映るものだけが銀閣寺じゃないよ、その裏に、脇役や隙間に、銀閣寺の美しさは潜んでいる。
美しくないものさえ美しい、そんな逆説さえ成り立ちそうな銀閣寺の写真の矛盾。
答えがないから、答えを求めて幾度でも歩くこともできるよ、銀閣寺の庭園。
音楽や映画も時代を経ると別の解釈が生まれるが、銀閣寺だって今と10年後では感じるものが違うのでしょう。
いつかあの観音殿でお茶でも飲むことができるのだろうか、正体の掴めない銀閣寺に憧れは募っていくばかり。