鎌倉の大仏の大きさ11m、重さ121t・台座含13m高さ

どのぐらいなのでしょうか、鎌倉の大仏の大きさとは。

東大寺で奈良の大仏を見てしまった以上、大きさの比較がしたくなる。

鎌倉の大仏の大きさは11mの写真

東大寺・奈良の大仏の大きさは、およそ15m。

鎌倉の大仏の大きさは、およそ11m。

鎌倉の大仏の大きさは11mの写真

ほら、鎌倉の大仏には大仏殿がなく、雨ざらしのままで座っている。

鎌倉の大仏の大きさは11mの写真

少し俯き加減に、なんだか自分の殻に籠った感じさえするよ。

鎌倉の大仏の大きさは11mの写真

奈良の大仏は仏殿が何度も失われたのに、ちゃんと再建されている。

鎌倉の大仏は1,300年台に仏殿が失われて以来、一度も再建されていないんだとか。

鎌倉の大仏の大きさ11mの写真

鎌倉の大仏の身体を見ると金の色合いが残っているし、身体の作りも新しい感じがする。

鎌倉の大仏の大きさ11mの写真

1,250年に完成した鎌倉の大仏、700年代に造られた奈良の大仏とは明らかに年齢が違う。

鎌倉の大仏の大きさ11mの写真

鎌倉武士たちに愛されただろう鎌倉大仏、そのいで立ちに猛々しさは見受けられない。

瞑想する僧の佇まいに近いか、美男というが、武家社会に好かれる仏像には見えなくて。

鎌倉の大仏の大きさ11mの写真

ぐるりと一周して、大きめに写真を撮ってみると、面白い表情が撮れました。

こうすると鎌倉の大仏の大きさ・偉大さが見えてくるようだよね。

鎌倉の大仏の大きさ

鎌倉きっての有名人・鎌倉大仏、仏殿に包んで、ロウソクの灯りで照らすと神秘的かな。

鎌倉長谷寺の観光写真

鎌倉長谷寺の観光写真

鎌倉の長谷寺には思い出がある。

奥さんと付き合っていた頃に何度か訪れた場所で、鎌倉の美を発見したのが長谷寺。

入口すぐの池の前、春の頃の美しさに、当時はびっくりしていたっけ。

長谷観音の大きさにたまげたし、石仏のポーズとか、花が飾られている境内にも惹かれた。

鎌倉長谷寺の観光写真

竹林の澄んだ色に、灯籠を重ねて、若き日の僕は写真を撮っていたなぁ。

鎌倉長谷寺の観光写真

それが、今もカメラを向ける先、美しいと感じたものは同じ。

コンパクトカメラから一眼レフに変わり、写真の構図技術も格段に向上した。

美意識だって、小京都鎌倉を越え、京都・奈良のお寺文化を習熟したことで、レベルアップした。

この日の長谷寺では吹奏楽や空手のイベントが催されていて、結構な人出。

あぁ、長谷寺の上から見る長谷の海岸を覚えているなぁ。

長谷寺を歩きまわり、写真スポットを探す僕、ちょっと寂しさを感じていた。

昔は長谷寺がベストと思っていたのに、

もっと格式・文化の豊富な京都のお寺と較べると、長谷寺だってまぁまぁレベル。

いつの間にか自分の意識が変わっていることを痛感していた。

鎌倉長谷寺の観光写真

長谷寺の境内を降りて、洞窟へと向かう。

ここには無数の石仏があって、中の暗闇を歩くのは冒険気分だ。

庭も池も整備されているし、長谷寺は美を誇っているのだが、僕には色褪せて見えた。

10年の内に、僕の感覚は大きく変化している、それを痛感した鎌倉・長谷寺の旅。

あじさい寺・明月院の写真

あじさい寺、の愛称で知られる北鎌倉の明月院。

いつかあじさい満開の時期に来た時は、ものすごい人出でした。

何を思ったか、10月中旬の中途半端な時期に来たものだから、鎌倉なのに見物客がいない。

行列に並んで見たあじさいロードが、ほら、人も花もどちらも欠けている。

しかしこのお寺も独特の雰囲気、隠れ家的な空気があって素敵だなぁ。

あじさい寺・明月院の写真

本殿近くの畳部屋、丸窓に描かれた向こうの景色は、いつ見ても美をかきたてられる。

小さいなりに整えられた枯山水、庭園をキープするのも並々ならぬ努力がいるはず。

可愛い仏像があったり、緑の草木と小怪が絵になっていたり。

あじさいがなくても、あじさいロードはしっかり美しい。

あじさい寺の竹林は記憶に残っていて、僕の小説「代理愛人」にも登場している。

あじさい寺・明月院の写真

あじさい寺を出たら、北鎌倉駅まで堀川沿いを歩くのも、いつものことだなぁ。

北鎌倉らしい、隠れ家の雰囲気のお寺、あじさい寺・明月院。


あの鎌倉の大仏の大きさを調べている?
猫背気味の鎌倉大仏の大きさでいいなら、おじさんが教えてあげるよ。
やけに頭も大きく見えるのが鎌倉大仏、これもまた当時の流行によるもの。

鎌倉時代に造られた鎌倉の大仏だけど、当時は中国の宋風の仏像が大流行り。
鎌倉の大仏様は外国人の顔つき!
当時、アジアで最も輝いていた中国・宋からの輸入物、それが鎌倉の大仏様の姿なんだ。
身長は11.3メートル、台座を含めれば高さは13.3メートル。
体重は121トン、ちなみに材質は青銅です。

ほら、眉間にでっぱりがあるだろう?
あれは白毫(ビャクゴウ)と呼ばれるもので、白毫から照らす光は、夜の海原を照らす灯台スポットライトのように、
愚かな人間たちの暮らしを照らしだし、人々に幸福を与えてくれるのだ。
さすがは大きさハンパない鎌倉の大仏様、常人とは違う身体的特徴・三十二相があって、
その徳が民衆にありがたい幸せを授けてくれている。

鎌倉の大仏の大きさは、いわば計り知れない仏様のありがたさ。
あの頬は造立当初には塗金に輝いていたのだとか。
ゴールドに覆われている鎌倉の大仏の大きさ、ありがたさをイメージして、
おじさんはいつも高徳院のご本尊・鎌倉の大仏様を拝んでいるよ。

円覚寺の写真

北鎌倉駅を出てすぐにある名刹、円覚寺。

ここも何度となく昔に通ったお寺だなぁ。

円覚寺の写真

特別な何かはなくても、円覚寺ではたくさんシャッターを切ってしまう。

円覚寺の写真

鎌倉では例を見ないぐらいに大きなお寺、いくつもの場面が待っている。

この円覚寺の美は、落ち着いた美。

安定的に美を提供してくれるのが円覚寺。

一番素敵だったのは、この門を飾っていた彫刻だなぁ。

円覚寺の写真

この写真の通り、特に最高ってワケじゃないんだ。

小粋な散歩、北鎌倉の裏路地の隠れた美を探すと同じ感覚。

そういう意味では、唯一無二のお寺なのかもしれない。

主役のいないお寺が、こんなに美しく感じるなんてね。

北鎌倉の円覚寺は、そんなところでした。

鎌倉大仏の大きさ

鎌倉長谷の大仏が1252年頃にできたことと、奈良の大仏が752年頃にできたことの因果関係を空想せよ。

両者に流れる500年の差、奈良の大仏って本当に老舗なのねと改めて思わせてくれた。

1192年に鎌倉幕府が開かれ、現時の武士たちが鎌倉を新しい都とし始めてから60年後。

国力を内外に誇示するために、大きさを伴った鎌倉長谷の大仏が企画されたのだろう。

浄光という一僧侶だけが催したものとは思えない大きさなのだ。

11.39mが鎌倉長谷の大仏の像高で、奈良の大仏よりは5m近く背が低い。

顔つきが奈良の大仏と異なるのも気になるね。

鎌倉時代に流行していた、中国の宋の文化を取り入れたのが鎌倉長谷の大仏だと。

鎌倉武士の美学は巨大にすることだけではなかったのでしょう。

鎌倉大仏の大きさ

大きさは誰にも分かる普遍の価値観、しかし鎌倉長谷の大仏はそれに特化しなかった。

平面的な顔立ち、猫背、顔が大きい!など、平安貴族が好まない要素ばかり。

大きさだけに流されなかった鎌倉長谷の大仏は、分かりやすい一点集中がないため、

結果として奈良の大仏ほどのヒーローにはなりえなかったが、

お洒落な鎌倉文化が残る鎌倉・長谷の地で、大きく僕たちを迎えてくれる。

鎌倉大仏の大きさ

高徳院の大仏の大きさが、今の僕たちが目にするサイズ・11mだって思うのは、ちと甘い。

あれだけ大きくて有名で、鎌倉時代からずっと残っている鎌倉の大仏様、しかしその正体は不明だらけだ。

当時の紀行文(トラベル・ブログね)「東関紀行」に書かれていることを見れば、

1242年に完成前の高徳院大仏殿を訪れた人は、「大仏殿と木造の大仏が2/3は完成していた!」とある。

おぉ、これは鎌倉の大仏最大のミステリー!

21世紀に生きるあなたが目にした高徳院の大仏様は、木造ではなく青銅製。

木造を青銅で補強しているのではないよ、つまり高徳院の大仏様は二人いたということ。

影武者・高徳院の大仏様?!

空想すれば、木造の鎌倉の大仏様は原型で、鋳造の鎌倉の大仏様がリアル。

あるいは、木造の鎌倉の大仏様は何かしらの理由で崩壊してしまったのではないか。

しかし鎌倉高徳院のランドマークとなっていた高徳院の大仏の大きさを惜しむ声があって、

壊れにくい青銅製の大仏様が復活した、そんなドラマをイメージできるんだよ。

一方で、1252年の「深沢里」という書物には、青銅製の大仏様の鋳造が開始された、とある。

わずか10年たらずのうちに、完成しては崩壊していった木造の高徳院の大仏様。

失われたものにドラマやロマンスを求めるのは人の常。

あぁ、木造の高徳院の大仏様はひょっとして、身長100mの大巨人では?!

少なくとも奈良の大仏の大きさを上回る、びっくりトールマンかもしれない。

想像して楽しむよ、木造の高徳院の大仏の大きさを。

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