破壊の甘寧興覇〜三国志小説、天下二分の計・呉の武将

甘寧。

その甘く、寧(やすら)かに心を捉える名前。

赤壁や合肥の戦いで抜群の武功を残し、呉の先陣を任すなら甘寧か太史慈か、

と真っ先に挙げられたほどの三国志の勇将。

誰が知っているだろう、その甘寧が、破壊という魔力に突き動かされた鬼阿修羅だとは。

甘寧は今、日本にいる。

ある宝物へと姿を変えて、多くの人々の心の中に、今も甘寧は生き続けている。

 


 

甘寧は若い頃にいったんは官職についたものの、

すぐに職を放棄して水賊として生業を立てていた。

水賊。いわゆる強盗、ならず者、暴力の人。

河や湖で、船足の速い怪しげな船に近寄られたら、もうアウトだ。

加えてそこに鈴の音でも聞こえようものなら、

「鈴の甘寧」という腕っ節の強い水賊が現れたと、人々は甘寧を恐れた。

甘寧は自分の力を揮うことに取り憑かれた男だった。

矛を引っさげては相手を斬り倒し、仲間たちと徒党を組んでは敵集団を壊滅させる。

個人的に腕っ節が強いだけでなく、長として集団を統率する能力を生まれつき授かっていた。

仲間内でも最強の男だから、一対一の戦いでは誰も甘寧に敵う者はいない。

動物的な勘がやたらと強く、敵の作戦を見破る力に長けていて、

他所の賊との戦いでは連戦連勝だ。

盗んだ宝は惜しまず仲間たちに分配し、子分たちへの面倒見は良く、情にも厚い。

通りがかる商船は容赦なく襲うくせに、地元民からは何ひとつ奪うことをしないのが信条。

地元の私警を自称しては、地元で何か事件が起きると、

腐敗した警察では頼りにならないと、仲間たちを使って勝手に犯人を見つけ出し、

自分の裁量で犯人へ罰を加えた。

もっとも、この勝手な行動は地元民から感謝されて治安向上にはつながったが、

水賊の分際で自分たちの権力を無視するとは、と警察や役人からは目を付けられる原因となった。

甘寧は自分の力量で破壊することが楽しくてたまらなかった。

弓矢を放てば、矛を振るえば、相手は自分の足もとに倒れて動かなくなる。

仲間たちを従えて行きかう船を襲えば、船荷は容易に自分のものとなる。

社会も正義も関係ない、自分の力で破壊できればいい。

破壊することの甘美さと、確かな手ごたえだけは、常に心を満たしてくれる。

だから破壊あるのみ。

甘寧にとってはそれだけが、自らのアイデンティティとなりうる唯一のものだった。

そんな生活を十年も続けているうちに、

甘寧の水賊団は千人が集まってひとつの軍団を形成するようになっていた。

仲間が多ければ、より数多く、大きな行動を取ることができた。

そうだ破壊を、もっと多くの破壊を、もっと大きく美しい破壊を。

甘寧の夢は止まらない。

水賊の域を越えた地元の狭として幅を利かせていた甘寧のことを、

荊州太守・劉表の配下で、夏口城の主将・黄祖は警戒視していたが、

次第に甘寧を懐柔して取り込もうと態度を変えてきていた。

甘寧は迷った。

万人の軍兵を持つ黄祖と戦ってはさすがに相手にならないし、

このまま水賊を続けていてはいつか掃討されてしまう。

逆に彼ら劉表軍に所属すれば、もっと大きな破壊ができるのではないか。

そう思った甘寧は、乞われるがまま、部下共々黄祖の配下となった。

予期されたことではあるが、万人単位の軍では規律が重んぜられ、

それまで勝手放題をしてきた甘寧にとっては窮屈な箱に閉じ込められたようなものだった。

そもそも甘寧は、黄祖ごとき器の小さな将に仕えるような男でもない。

組織の一部将として、甘寧のストレスが溜まりに溜まっていた頃、

呉の孫権軍が攻めてきたという知らせが届いたのだった。

それは興奮したな。

数十隻の敵船団を壊滅させ、先陣の大将・凌操を射止め、数千人の敵軍を撃退する。

破壊の規模がまるで違っていて、水賊だった頃の数十倍の破壊が

公に許されているのだから、笑いが止まらない。

不思議なもので、敵将を射落としたら大功と呼ばれて、やけに評価される。

そのぐらい普通の破壊だし、それが功績なら俺様は今まで

数えきれないぐらいの功績を挙げてきたってことになるな。

破壊が称えられる、評価される、その甘みに甘寧は官仕えの嫌気を忘れた。

孫権軍先陣の大将・凌操を射止め、総攻撃の中心となって孫権軍を退却させる

という派手な功績を残したくせに、甘寧は少しも自慢気な態度をしなかった。

それはそうだ、甘寧は大量破壊の甘美さに魅せられていただけ。

だがその態度が逆に黄祖に妬まれ、甘寧は徐々に飼い殺しの目にあうように仕向けられていった。

甘寧は孫権軍に下った。

分かったことがある。

仕官したら、水賊の頃よりも大きな破壊を得ることはできる。

ただし、凡庸な劉表や、愚鈍な黄祖の元にいても、甘寧の望みが叶うはずもない。

仕えるなら、より有能な主君だ。

それは何のため?

決まっているさ、破壊をするためならば、甘寧はどこにでも行く。

新しい甘美な夢を見つけた。

より大きな器の元にある、より大きな破壊。

そこでは個人の武功など小さく、知恵を使って軍を動かせば、

より大きな破壊へとつながる夢を求めることができる。

一人の力では叶わないことも、数多の有能な人物を交わることで夢を増幅させることができるのだ。

呉軍で知り合った呂蒙は、今まで甘寧が出逢ったことのないタイプの男だった。

降伏してきた甘寧を、凌操将軍を討ち取ったという実績があるから有能である、

という理屈を付けて、将として厚遇してくれた。

上官と部下という関係ではなく、孫権軍の同志として横並びで戦に臨もうとする、

呂蒙はそんなオープンマインドの持ち主だった。

大きな破壊を狙う甘寧だが、それを他人に堂々と伝えるようなことはしない。

頭の狂った奴と思われるのがオチだから。

だからあえて破壊という言葉を使わず、しかし孫権軍にとってどうすれば

最高最大の戦いができるのか、甘寧は自分の欲望に揺られながら、

そのことに知恵を巡らせてみる。

すなわち、天下二分の計。

甘寧はその考えを呂蒙に語ってみた。

先代君主・孫策の働きによってすでに孫権軍は呉を手中に収めているが、

次は荊州を攻略し、その後は西蜀の地を取って、北の曹操軍と対抗する。

中華を広く南北に二分して、孫権軍は南の豊かな地力を活かして、北の曹操と対峙する。

袁紹を破って北の四州を領土にした曹操軍は、まぎれもなく現時点で

最強の勢力であり、それに等しい人材・物資・土地を確保しようとすれば、

呉だけでは不十分で、荊州はもちろん、西蜀を取ってようやく勢力均衡は成立するのだ。

この天下二分の計を聞いた呂蒙は、顔を真っ赤に高揚させて同調した。

その通りだな、甘寧。

曹操というスーパースターが現れているこの中華大陸において、

どれだけ我が呉軍の将兵の個人能力が優れていようとも、

魏と呉では軍兵を動員できる母数が一桁違うし、

土地の規模では明確な差があるのだから、如何ともし難い壁がある。

まずは黄祖がいる夏口城を攻め取って、荊州全土を呉軍のものとしよう。

俺たちに今できることは、それぐらいだろう。

呂蒙は改めて孫権に黄祖攻めの許可を申し出たのだった。

我が意得たり、破壊は近い。

心のうちで、甘寧は喜んだ。

黄祖ごとき、呉軍と俺様が一緒になって攻めかかれば、破壊できること間違いない。

勘違いして欲しくはないが、別に俺は黄祖のことを恨んでいるわけではない。

今可能な最大の破壊が、たまたま呉軍による黄祖攻めだっただけのこと。

裏切りだとか、逆恨みだとか、そんなことは関係なく、ただ欲しいのは破壊だけ、

狂おしい破壊だけが、俺様の心を満たしてくれるのだから。

呂蒙よ、貴殿にも悪いことをしたかな。

先の天下二分の計も、別に呉のために言い出しているのではなく、

俺が天下を二分する呉軍の将ともなれば、何万、何十万単位の破壊ができるからだ。

そう考えると、なんと甘く、魅力的な物語を描くことができるのか。

呂蒙や孫権が思い描いていることとは違う角度でいて、結果としては同じ方向に行くのだから許してくれるかな。

そして甘寧の破壊の意識は増幅してゆくばかり。

孫権軍の先陣を切り、甘寧は黄祖軍を壊滅させた。

水軍に長けると言われた黄祖軍も孫権軍も、水賊あがりの甘寧にとっては

子供の船遊びのようなもので、元水賊の仲間たちを率いては自由自在に船を操って黄祖軍を翻弄させる。

加えて孫権軍の後押しがあるから、愚鈍な黄祖ごとき、どうして対抗できよう。

もろくも黄祖軍は離散していき、夏口城陥落の戦功は甘寧へ与えられた。

名誉など必要ないが、将として認知されればもっと多く兵を任せられるだろうし、

それはより大きな破壊へと結び付くと知っているから、甘んじて受け入れるのも甘寧ならではのやり方であった。

孫権を主君とする呉には、優れた智勇の将が多い。

総指揮官の周喩を始め、魯粛・張昭・張鉱・程普・諸葛謹・顧雍ら、知謀の士。

武官では太史慈・黄蓋・周泰・呂蒙・韓当・蔣欽・陳武・凌統・丁奉・

徐盛・朱桓・董襲・潘璋・宋謙など、猛将らが居並ぶ。

新参者の甘寧は、精力的に戦場に出ては戦績を挙げることを繰り返していた。

それは何のため?

強い軍兵を持ち、優秀な将たちが集う呉軍の中で立身して

将軍になることができれば、強力な呉軍の総力を挙げて戦う戦で、

自分が中心となって破壊に携われるじゃないか。

それはどれだけ豊かな破壊となるのか、想像するだけでも身が震えてくる。

今まで味わったこともないような、甘く、充実した破壊になることが約束されているようなものだ。

そのためならば甘寧は全てを投げ打つ。

何もかもが破壊のため、破壊の魔力に取り憑かれた悪魔の男。

荊州太守・劉表が病死すると、その混乱に上手く乗じて曹操が荊州を降伏させた。

荊州に居候していた劉備も蹴散らして、曹操は一息に南下し、呉まで攻め下ってくる。

その突然の知らせは、呉軍へ大変な混乱をもたらした。

孫権の元に、その曹操からの手紙が届けられた。

我が80万人の軍兵と共に狩りをしよう、という降伏勧告である。

80万人!誇張はあるにしろ、呉軍を集結させとしても到底太刀打ちできるはずのない軍勢である。

周囲の誰もが、魏と呉の規模の違いに悲観していた。

今まで曹操と孫権は直接戦うことはなく、劣悪な関係だったというわけではない。

しかしこの戦乱の世では、曹操と戦って敗北すれば呉の取りつぶしは

避けられないだろうし、呉の将兵たちの多くを戦死させることになる。

開戦か、降伏か。

孫権の幕僚たちはこの議論の狭間で揺られていた。

絶対的多数の曹操軍襲来を聞いても、自分が破壊されるとは思っていなく、

負けるとも思っていない男がいた。

いいや、それどころか今までとは規模の違う巨大な破壊ができるのではないか、

と涎を垂らしながらウズウズしている。

呉の将軍たちは、仮にこの曹操との戦いに勝ったとして、

そのまま荊州を上手く手中にできるかという議論ばかり続けていた。

笑止、笑止。

今更荊州を曹操から奪ったところで大勢に影響はない。

曹操と対抗できるのは今や呉しかなく、この戦いに勝ち、

その後に呉は呉だけではなく、もっと領土を広げていけばいい。

当然荊州は奪い取るが、目先はそれ以上、西蜀に向けなくては意味がない。

それでこそ本当の天下二分の計が成り立つ。

呂蒙に再度それを伝えたら、面喰った様子だったが彼は賛同してくれた。

そうだな、甘寧。

誰も西蜀の地へ目を向けている者はいない。

呉が継続的に繁栄を遂げる術はそれしかないと、

呂蒙はその策を喜んで取り上げてくれた。

だが、驚く呂蒙の顔を横目に、甘寧は内心でため息をつく。

いいや、違うよ、呂蒙。

呉のための献策?それは違うよ。

より大きな破壊のために決まっているだろう。

蜀との戦いもそうだし、その後の魏との天下二分の戦いなんて、もっと大きな夢が、破壊があるのだから。

この心、分かってもらえるとは思わないが、心の中だけに欲望を埋めておくのも辛いものがある。

孫権や全幕僚の前でその策を提唱する手はずを呂蒙が整えてくれた。

甘寧の心は一大勝負に向けて燃え上がり、密かに涎を流しながら喜んでいた。

破壊こそ我が身上、我が美学は破壊にある。

それを叶えてくれるものならば、この甘寧、悪魔にでも魂を売ろう。

孫権が見守る中、甘寧は全将軍たちへと天下二分の計をぶちまけた。

継続的な呉の繁栄を考えるなら、西蜀を奪取するしかない。

この戦に勝つかどうかだけではなく、勝った後にも曹操に対抗できる勢力を

築くことができるかどうかがポイントであって、その具体的な方法としての、天下二分の計の献策。

将来へとつながるこのモチベーションさえあれば、目の前の曹操軍を赤壁で打ち破ることもできるだろう。

劉備と同盟を結び、軍師諸葛亮に呉陣に来てもらって曹操軍の対抗策を

考えているようだが、それは目の前の火事を消す措置でしかない。

諸葛亮は鋭い男だと聞くから、この天下二分の計が盗まれないように

注意すると共に、もっと先を見ながら開戦を決意しよう。

熱のこもった、しかも内容の伴った甘寧の弁舌に、呉の諸将らは心を動かされた。

その策よし、と真っ先に賛同してくれたのは孫権だった。

将来の計は甘寧の策の通りであって、あとは目の前の戦いに

いかに勝つか、その目星を孫権が幕僚たちへ問いかける。

呉の水軍の練兵さが、この戦のキーになるでしょう、と周喩が口を開く。

曹操の騎兵や歩兵は強いものの、水上での戦いに慣れていないことを挙げ、

強引にでも水戦に持ち込めばなんとかなるという見通しを立てる。

確かに、水上に相手を引きずりこめば兵士の数の違いは克服できる。

荊州からそのまま軍を進めるならば、曹操軍は赤壁で長江を渡らざるを得ない。

地の利は我が呉にこそ、長江に守られた我が呉にこそ与えられているのだと周喩が説く。

あとは決断だけ。

地の利を活かせばこの危機を脱せられるし、天下二分の計があれば

曹操と中華を二分鼎立できると踏んだ孫権は、剣で机を切って曹操との開戦を明言した。

赤壁の戦いを前に、甘寧の破壊の意識は頂点を迎えていた。

80万の敵軍を、この俺様が破壊させてやる。

甘寧が危ない予感に狂っていると、悪魔のような謀略が次々と湧いてくる。

敵を欺く仲間割れ。

兵士数の違いが10倍に近いと考えると、白兵戦を避けて、

周喩が火計を用いることは予測できた。

ただ、それをどう実行に移すかが問題だったし、正面から闘船を乗り付けて火を放ったところで、

相手は曹操、そんなものが通用するとは思えない。

劉表水軍を仕切っていた蔡瑁や張允が曹操軍へと降伏して、

今や彼らが事実上曹操水軍の指揮を取っているから、決して素人の集まりでもない。

人の輪を破壊してやろう。

甘寧は破壊の糸口をそこに定めていた。

仲間割れを扇動することで心を動揺させ、時間を稼ぎ、破壊をすべりこませる隙間を作ってやる。

先々代の孫堅から呉に仕える宿将・黄蓋と周喩を仲違いさせ、

総司令官である周喩に反逆したという罪で黄蓋に鞭を打つ。

それも曹操からの使者が来るのに合わせて実行し、

その仲違いの動揺ぶりを隠しつつも、何気なく周喩と黄蓋の件を使者の耳に入るようにした。

加えて、あたかも曹操水軍の将・蔡瑁と張允が呉に通じているかのような

疑いを持たせるように仕向ける。

曹操に仕えてまだ間もない蔡瑁や張允であったし、曹操には旧主の劉表の荊州を奪ったという意識があり、

さすがの曹操も蔡瑁や張允のことに疑心暗鬼となった。

それは周喩の計略かもしれないと分かっていても、わずかでも疑いがあれば、

この先の戦いで心に迷いが生じてしまう。

ならばいっそ心配事は絶つべし、と曹操は蔡瑁と張允を処刑した。

火攻めをしようにも、風上の赤壁にいるのが曹操軍で、孫権軍は風下になる。

周喩が考えている火計は、曹操軍が一斉に動き出した時を狙っての策で、

南の孫権本陣へと曹操船団が襲いかかったら、

その北へと小型船を廻して南へ一斉に火を放つというものだ。

現実的に曹操軍の風上で火を放とうとすれば、

彼らが動き始めてからしかできない地形になっていた。

しかしこの周喩の策はまさに自殺行為であって、確かに上手くゆけば曹操船団を焼き打ちできるが、

その火に煽られて間違いなく孫権の船団をも焼くことになる。

曹操軍撃退というより、両軍の船団を全滅させる、刺し違えの策であった。

それを破壊とは呼ばない。

甘寧からすれば、自軍が滅んでしまっては勝利とも破壊とも思わないし、

やはり自軍を損ねずに敵軍だけを破壊させるのが戦いの旨味であった。

甘寧は元水賊仲間たちの知恵を結集させ、地元の民に風向きを聞き歩く。

自分の経験からも、河の風向きはほぼ一定ではあるものの、

季節風で向きが変わる時があることを知っていた。

思った通り、いつもの北西風がこの季節には日によって

東南風へと変わることがあると聞いた甘寧は、周喩に進言する。

ある夜、待ち構えていた東南の風への変わり目を感じると、

黄蓋に降伏する振りをさせて船を近付けると、黄蓋は自らの船に火を放ち、

曹操軍の船団へと火船を突撃させた。

火が船から船へと燃え渡ると、どこからともなく姿を見せた早足の孫権船団が

更に火矢を放っては火攻めを加速させ、折りの東南の風に煽られては、

曹操軍の船という船はことごとく焼き払われる結果となったのである。

燃え上がる赤壁の軍船を眺めて、甘寧は声を殺して笑い続けた。

退却する曹操軍を追い討ちし、80万人と称された北の大軍を

完膚なきまで叩き潰しながら、甘寧は宙を舞うばかりの快楽に酔っていた。

甘寧は何のために戦う?

最高の破壊をするためなら、持てる限りの知略を出すことを惜しまない。

80万人もの人間の命を奪い、その数倍はいるだろう彼らの家族たちを悲しませてまでも、

甘寧は呉最大の破壊、いや、三国志上最大の破壊を仕組んだ。

そうだ、破壊のため、破壊のためならば。

まさに甘寧は破壊に魅せられた悪魔の化身であった。

思いがけない展開は、その後のこと。

許都まで退却した曹操を追撃する形で、待望の荊州奪取に向かって

呉軍が荊州へ攻め上がっていくと、先回りした劉備軍が荊州各地の城を乗っ取っているではないか。

劉備軍と小競り合いを続けていると、赤壁の戦いの復讐に燃えた曹操軍が

東から南下して呉へ攻めかかってくる。

兵を反転させて呉が曹操と戦っているその隙に、劉備は荊州だけではなく、

西蜀の地まで手に入れてしまったではないか。

甘寧が提唱した天下二分の計を、偶然か必然か、劉備軍がまんまと叶えてしまった。

赤壁の戦いの決起の軍席で甘寧が天下二分の計を唱えて

呉の将来を語った時、あの場にはいなかったはずの諸葛亮が

どこかで甘寧の策を盗み、天下三分の計などと称して、荊州と蜀を劉備軍の基盤としていったのだろうか。

一方の甘寧は、曹操軍の防戦で手一杯になっていた。

荊州を盗んだ諸葛亮、西蜀まで取ろうとしていた劉備軍には

怒り心頭だったが、今は目の前の強敵を破壊することで快楽を得るのみ。

赤壁の火計では苦難なく曹操軍を破壊できたが、陸上で戦いを交えると曹操軍の、

いや、敵将・張遼の強さは、戦いに明け暮れてきた甘寧の心をも改めて燃え立たせるほどだった。

水上での戦いを避ける形で、曹操軍は東の合肥の地から攻めかかって来た。

敵軍10万を率いるのは名将・張遼で、荊州進行中に

周喩を病で喪った孫権軍は、孫権自らが10万の軍勢を率いて迎撃に出た。

両軍の兵力は拮抗していて、一進一退の戦いを繰り広げられる。

中でも張遼の突進力は抜群で、わずか800人の張遼直轄の精鋭部隊に

孫権本陣は攻め込まれると壊滅的な被害を受け、本陣を守っていた周泰・凌統軍は崩壊し、

宋謙を討ち取られるという痛手を被り、孫権軍が陣を引く場面があった。

中軍を任されていた甘寧も静観できない状況にあって、

さらに攻め込んでくる張遼軍を防ごうと凌統軍へ加勢し、

敵兵に囲まれた凌統を救い出しては張遼軍を撃退させる。

凌統は今では味方同士だが、黄祖軍にいた頃の甘寧が射殺した凌操の息子が凌統であって、

甘寧に父を殺されている凌統は、当然ながら甘寧のことを憎んでいた。

この戦いで凌統の背後から襲おうとした敵兵へ矢を放ち、

凌統の命を救ったのは甘寧本人に間違いない。

しかしそれは甘寧が望む破壊のために、偶然視界に入った敵兵を射ただけで、

凌統のためという意識などは微塵もない。

それが勘違いされ、命を救ってくれた恩人と、凌統から涙を流して感謝されるなんて、

甘寧にとってはただの迷惑な話。

違う違う、俺はお前を救うために矢を放ったのではない、

張遼軍を破壊させるための一矢以外に意味はない。

夢物語で伝えられるような良心なんて持っていないのがこの破壊の甘寧様だ、甘く見ないで欲しい。

拮抗した戦いの糸口を見つけようとしても、そこは相手も得意とする陸上戦、

あの赤壁のような奇策は通用しない。

それでも破壊したい、破壊しなければと身体が疼く。

甘寧は思い切って真正面から突撃を試みることにした。

闇の一夜、100人の元水賊仲間たちと決死隊を募り、張遼本陣へと斬り込む。

もっとも、それは策というより男気だけで成り立っていて、

敵軍の目を盗みながらの奇襲であって、敵に見つかって包囲されれば全滅は必至。

成功したところで、張遼軍の肝を冷やすだけで、

100人の成果で実質的な勝利を掴めるはずもない。

最近は将軍として軍略での破壊ばかりに目を奪われていた甘寧だが、

凌統を救った弓矢のように、久しぶりに個人の武に頼る肉弾戦でも、

心地よい快楽を味わうことができた。

まだまだ個人の武力においても現役最強で、天下無双の甘寧様をみくびるな。

破壊の証を得るために、この甘寧は最高の挑戦をしよう、

わずか100人での張遼本陣への突撃だ。

これが死への旅立ち、と気心の知れた仲間たちと盃を交わす。

闇に忍んだ甘寧が張遼本陣を急襲すると、あっという間に敵陣は乱れ、

悲鳴怒号の中で敵の同士討ちが起こり、甘寧も思う存分に敵兵を斬り殺して

暴れ回った後に、ただの一人の味方を失うこともなく、甘寧は自軍へと引き返してきたのだった。

曹操軍に張遼という名将がいるならば、呉には甘寧という勇武の権威がいる。

そのことが知れ渡ると、拮抗した戦に精神的な躊躇いが重なって、

ますます互いに手を出し難い状況に置かれ、ついには両軍の撤退へとつながっていった。

一軍を率いる大将として破壊の甘美さに魅せられていた甘寧だったが、

久しぶりに味わう個人での破壊もまた格別で、どちらもたまらない禁断の味であった。

80万人を軍力で燃やし尽くす大量殺戮も甘美なら、敵兵80人を自分の矛で斬るのもまた甘美。

まさに甘寧は破壊の闘神で、将でも個人でも、破壊とあれば何でも涎を垂らしながら狙ってくる。

孫策が呉を治める以前のこと、揚州の乍融という将が中国で初めて大規模な仏教寺院を作った。

中華思想や儒教を思想の中心としてきた中華の民には

仏教という新興宗教は受け入れられないものだったが、

呉の国ではその中で阿修羅という戦闘の神だけが受け入れられていた。

阿修羅とは太陽を司る神だったが、帝釈天と戦い続けたことで戦闘の神として有名になった。

鬼阿修羅として戦いを尽くした後、釈迦との出逢いによって悟りを得ると

心阿修羅として変化した阿修羅だが、いずれにしても戦いの神というイメージが強い。

甘寧の獅子奮迅ぶりはまさに戦闘の神、阿修羅そのものだと、

呉の人々は未知の仏教神への恐れと、甘寧の強さを重ね合わせて畏怖し、

甘寧を阿修羅と呼び称えた。

阿修羅と呼ばれた甘寧は、呉の武将としては最高峰を極め、

太史慈と並ぶ武の頂点としてのポジションを手に入れた。

それは甘寧の持つ破壊の美意識が、呉という国全体に認められた瞬間。

甘寧は甘美な夢を叶え、彼の破壊はここに極まったのである。

将軍としては八十万の魏軍を炎上させ、

武人としてはただの一人を損なうことなくあの張遼本陣を脅かす。

知勇に武勇に、甘寧の求めた破壊はここに極まって、

甘寧はあらゆる破壊を自分の手中にしたのである。

時は常に甘寧に味方したわけでもなく、荊州や西蜀の土地を確保した劉備は

蜀を建国して勢力を拡大し続けていた。

蜀の軍師・諸葛亮に出し抜かれたまま、甘寧が唱えた天下二分の計は幻と消えたのである。

孫権も呉の皇帝を宣言すると、中華には曹操の息子・曹丕が治める魏と、

孫権の呉と、劉備の蜀という三人の皇帝が鼎立する異常事態となっていた。

中華には一人の皇帝しかいないというルールが、風となって消し飛んでいった。

ただし、魏の国力は圧倒的で、領土や民衆は呉とは倍も差があった。

荊州と蜀を取ったとはいえ、蜀は魏の4分の1、呉の半分ほどでしかない。

魏・呉・蜀の国力は、4対2対1という数字を当てはめてもよいほど、

三国鼎立とはいえども歴然とした差があったのである。

甘寧の天下二分の計が叶っていれば、魏と呉は4対3の関係であり、

政策次第では中華を二分して互いに牽制し合った結果、

戦を招かず互いに平和を享受することができたかもしれなかった。

それが天下三分となった今は、魏と拮抗する国力を呉も蜀も持ち得るわけもなく、

呉と蜀が同盟することで、なんとか魏を牽制する力を働かすことができていた。

赤壁で同盟を組んだ劉備と孫権だが、その後の荊州と蜀攻略では敵同士となり、

その後は魏との関係上、また同盟関係にならざるを得ない。

そのくせ呉は隙あれば蜀の領土を奪う素振りを見せていたし、蜀もその辺りは敏感になっていた。

呉としてもうかつに蜀攻略を進めれば、魏から背後を襲われて総崩れしてしまうかもしれない。

この微妙なバランスの上に、魏呉蜀の三国は成り立っているのだった。

間もなくして、荊州を奪う隙間を見つけると、呉の軍総司令官となっていた呂蒙は

荊州の守将・関羽を攻め落として荊州を奪い返した。

呂蒙は決してあきらめていなかったのである、あの甘寧の天下二分の計を。

呉と蜀が争っても、どちらが勝つにしろ喜ぶのは魏だけなのに、

義兄弟の関羽を殺された劉備は、諸葛亮の諫めも聞かずに自ら大軍を率いて呉へと押し寄せてきた。

急遽、孫桓と朱然の呉軍が立ち向かったが、蜀軍の勢いに圧倒されて多くの兵卒を失った。

夷陵の戦い、蜀の劉備との決戦。

甘寧の心は高ぶっていた。

久しぶりの大きな戦、それも自分が提言した天下二分の計を、

劉備は天下三分の計として実現して、驚くべき多勢で攻め込んできた。

赤壁の頃の劉備は1万の兵も集めることができなかったのに、

今はその十倍の兵力を従えてやってきている。

今こそ劉備を討ち取り、蜀の領土を奪い返して天下二分の計を叶える機ではないか。

この甘寧、最後の大仕事が劉備の破壊だ。

かつての呉を率いた将はいずれも世を去っており、

世代交代の波が訪れていたが、蜀軍の勢いに危機を感じた孫権は、

甘寧・韓当・周泰・潘璋・凌統らの経験豊富な宿将を派遣した。

この戦いでは、甘寧は遊軍を任命された。

甘寧にしてももう60歳になっていたが、自分の破壊がまだまだ現役だと信じている。

これは合肥の戦い以来の大役。

蜀の先陣は関羽や張飛の息子だと聞くが、俺様の破壊の技は若さに負けるような甘い代物じゃない。

一体何十年破壊を続けてきたこの甘寧様だと思う?

両軍が対峙すると、蜀軍の破竹の勢いは留まるところがなく、

関興・張苞軍が先陣を突破すると、呉軍は総崩れになった。

潘璋は関興に討ち取られ、韓当・周泰・凌統は遠く陣を引いた。

遊軍にいた甘寧は、先陣の潘璋軍の陣形が崩れるのを見て支援に入ったが、

蜀軍に加勢していた南蛮軍・沙摩柯の猛烈な勢いを受けて、敗走した。

更には甘寧自身も沙摩柯の射た毒矢に肩を射られて、

甘寧軍は屈辱の敗北を喫してしまったのである。

誰にも言わなかったが、この時の甘寧は悪性の下痢を患っていて、

体調は最悪、体重が落ちて身体が一回りも二回りも小さくなってしまっていた。

矢傷をかばって敗走する時、甘寧は自分自身を笑った。

敗戦経験は幾らでもあるが、こんなに大きくて、大切な戦で負けた経験はない。

いつもの俺様ならば、例え先陣が破られたとしても逆に敵軍を押し返して、

敵を返り討ちにするぐらいの威力を揮うことができるのに。

身体が動かないのは体調のせい?それとも年齢のせい?

いや、まさか、この俺様の破壊が限界にきているとでもいうのだろうか。

大体、この戦いで呉と蜀が互角に戦っていては、魏の思うつぼだ。

呉が圧勝して一息に蜀を呑み込まなくては、

それもスピード感を持ってやらなくては天下二分の計は成らない。

負けている場合じゃない、呉と蜀が拮抗しては両軍が疲弊するだけ、

魏にとっては最高のシナリオじゃないか。

この初戦の敗北で、なんだか俺の破壊構想が音を立てて崩れていった気がする。

蜀軍の追軍から遠く逃走して、甘寧は大きな木の下にたどりついた。

毒矢を受けた傷口が痛む。

力が抜けて身体中が空洞になってしまったかのようだ。

俺もここまでか、初めて甘寧は自分を諦める気になっていた。

従う兵はわずかに十数人、誰も全身傷だらけになりながら退路を斬り開いてきた。

その誰もが長年共に戦ってきた仲間たちだ。

俺は何か良いことをしたのかな、こんな無様な俺なのに、見捨てずに付いてきてくれる仲間たちがいる。

それは敵軍何十万人を破壊してきたが、

引き換えに味方を何万、何十万人と死なせてきたか数えきれない。

相手を破壊することだけを味わってきたわけじゃない。

自分の快楽を追いかけて、結果として敵も味方も破壊してきた俺だ。

なぁ、それでも俺はもっと破壊したかったよ。

もっともっと自分の威力を見せ付けて、もっと大きな破壊に結び付けたかった。

蜀の劉備を破壊できなくて、こうして死んでいく自分のみじめさ、情けなさが心に染みる。

自分の力だけでは身体さえ支えられなくて、大樹にもたれて呼吸を確保する。

見上げれば、太い幹がはるか上空までそびえたち、実りの枝葉が無限に広がっている。

その美しい姿、なんと豊かな大樹。

かつての自分のように、恵まれた肉体を駆使して、この大樹は世界に覇を唱えている。

こんな考えもあるかな。

俺の人生は、みんな破壊を追いかけてのこと。

それは恵まれた自分の身体や心に支配されていたからで、

この甘寧の意思というよりも、優れた身体と心に隷属していた

醜い男の正体なのかもしれない。

この甘寧という存在を外包していた身体は、今こそ病気にかかっているものの、

他の誰よりも速くて、強くて、タフだった。

周喩や諸葛亮ほどの軍略はなかったが、目の前の戦いのニオイを嗅ぎつけたら、

勝利を探し当てる勘が他の誰よりも恵まれていた。

そうだよ、この無敵の肉体が老いてよかったんだ。

いつまでも劣化しなかったら、肉体に動かされて俺は永遠に破壊を続けていたかもしれない。

いっそもっと早く死ねばよかったんだ、そうしたら俺のために死んでいった将兵たちにも迷惑かけなかった。

この強い身体に生まれてきたことで、どれだけの殺戮をしてきたことか。

破壊という魔力と、恵まれた身体に支配されていたのだよ、俺の人生は。

考えるとなんだか悔しくなってきた。

この強い肉体さえなければ、俺はもっと人に優しく生きることもできたのだろう。

涙が出て、それで本当に甘寧は後悔した。

するとどうだろう。

甘寧の内部から邪悪なものが抜け出して、純粋な表情が生まれたではないか。

青年のような、素直な顔。

その最期の大樹の下で、甘寧は破壊の虜から脱却する心を持つことができ、

それは破壊の鬼阿修羅から、心阿修羅への変身となり、間もなく甘寧は息を引き取った。

破壊の甘寧が、死ぬ時だけは破壊の隷属から脱したのである。

甘寧の最期を見た部下たちは、その死に様を伝説として残した。

阿修羅と呼ばれた甘寧、常にギラギラして戦いを求めていたあの甘寧が、

穏やかな表情をして、最期を迎えたのである。

まさに阿修羅の伝説そのまま、悪行の鬼阿修羅が悟りを開いて、

善行の心阿修羅へと転身していく様、それを甘寧が体現したのだと知り、

誰もが甘寧の数奇な生き様を崇めた。

それが口伝として世に残り、時代を超えて、場所を超えて、

人々の心には心阿修羅が引き継がれていった。

 


 

阿修羅の仏像は数あれど、奈良の興福寺宝物殿、

陳列された国宝仏像の中で、ひときわ精彩を放つ存在である阿修羅像が、甘寧の生まれ変わりだ。

常に呉の先陣を任された名将・甘寧のように、他の阿修羅像と比べても

抜群の存在感があるのが、興福寺の阿修羅像。

誰もが感じるその優しい表情は、破壊という悪魔の囁きから脱却した仏の極致。

君は死ぬ間際まで鬼阿修羅だったけど、死んでからの永遠は心阿修羅として、

見る者に安らぎを与えてくれている。

60年の鬼阿修羅、1800年の心阿修羅。

だから、甘寧、本当の君は優しい心阿修羅なのだと、僕は言いたいよ。

三国志の英雄、国宝仏像の心阿修羅。

その両者が「甘寧」という一人の人物に重なっているように思えて、僕はこうして物語を描くよ。

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