私にとっては金閣寺は京都の代表、ひいては日本の代表だった。
昨年にアメリカから帰任してきて、どうも腰が落ち着かない。
誰かに「よくぞ日本へ戻ってきたね、お帰りなさい」と言ってもらいたい。
それが並の相手ではダメで、特別な存在でないと意味を持たない。
東京タワー? 名古屋城? いいえ、私にとっては金閣寺だった。
京都一周トレイルランの翌朝、万難を排して私は金閣寺へと向かっていた。
まさかコロナウイルス影響下のこんな時期に拝観ができるとも思わなかったが、
入口の無人さ加減に諦めかけたところ、入口の方に声かけてみると拝観可能だと。
実に珍しい写真が撮れる日だこと。
金閣寺参道が無人だったことなど、きっと7ー8回は訪問している私にとっても初めての光景。
心に余裕を持って周辺光景の写真を撮る、今日は焦る必要性がないからだ。
他人の足音に急かされることなく、砂利道を歩いて金閣寺と正対する場所へと向かう。
京都に来たけど観光はしない、と言っておきながら金閣寺には来てしまったことに若干の後ろめたさを感じながら。
拝観入口からのルートが変わっていて、正対するメイン会場へはぐるっと回って奥から入るパターン。
そちらの方が良いよ、これまではいきなりメイン中のメインに着いていたから写真撮影する人が溜まってしまっていた。
新しいルートならメイン会場の奥の方に入るから、メイン中のメインに集中することが緩和させる。
いくらかでも蜜を避けるための金閣寺拝観方法というわけか。
金閣寺との対面は5年ぐらいぶりだろう。
木立の陰から現したその姿、無言のうちの存在感。
尊敬すべき旧知の方にお逢いしたような感覚。
まさかのまさか、周囲には金閣寺の係員以外誰もおらず、一対一での相対となった。
贅沢な時間を味わうべく、1分間ぐらい無言・無動作で私は金閣寺と向き合っていた。
帰ってきたよ、私の日本代表・金閣寺さん。
海外赴任なんてちゃんとこなせるか不安もあったけど、十代の頃では決してできないことばかりの日々を、
今の私はしっかりこなして、数々の成果とともに帰任してきた。
私の自慢を受け止めておくれ、あなたは私にとっての日本そのものなのだから。
今日の私はお殿様気分。
何故って、他に散策している人は片手で数えられるほどで、ほぼ貸し切りという金閣寺。
これまでは人の合間を縫ってカメラを出して撮影していたのに、この日は撮り放題。
心に余裕を持って写真を撮れることがどれだけ幸せなのかを再認識した。
不謹慎と言われても、私にとっては金閣寺は特別な場所であり、「万難を排してでも」訪れたいところだった。
このページの下の方に書いているが、17歳の私が神戸大震災の後にテント泊をしてでも訪ねているのが金閣寺。
いつどこ何故、どうやって摺り込まれたかが私にも不明なのだが、
金閣寺=最高に美しい場所、という決定事項が私の中にある。
だから金閣寺へ日本帰任報告をしたいというのは遊びではなく、自分の心を安定させるために必要な儀式。
感情豊かな青年時代を超えることはないが、この日の訪問は私の生涯で2番目に印象強い金閣寺との時間になった。
ひとえに無人であったこと、心落ち着けて向き合うことができたこと。
相変わらず金閣寺からは言葉もなかったが、変わらぬ金閣寺自体の美しい佇まい、
変わり続けている周辺の四季、それらが私を歓迎していることははっきりと分かった。
5月中旬に金閣寺を訪れたのは初めて、紫色のアヤメが咲き並んでいるのが美しい。
金閣寺を写真に撮るといつも単調になってしまうが、紫が入った金閣寺の写真を追加することができた。
カメラマン目線からすると、いつもは大勢の参拝者がいて興味を示さなかった通公道さえも、
こうして無人になると実は美しかったという金閣寺庭園。
ゆっくりと、時間をかけて、噛み締めながら、しつこく写真を撮り続けた私。
道を歩き終えて、出口が見えてくるとなんだかまた入口へ戻りたくなる。
しかし一期一会の時間とは、同日または同じ季節時間帯に繰り返してはいけないものだ。
自分自身に言い聞かせて、引かれる後ろ髪を気にしつつも、金閣寺を後にした。
コロナ禍によるほぼ無人という状況は偶然の産物であれ、生涯の記憶に残る金閣寺への日本帰任訪問となった。
これで私はもう完全に日本に、日本人に戻ったということ、金閣寺のお陰で。
2014年撮影、金閣寺の写真
金閣寺の思い出は遠く、深い。
少年の頃から特別だと感じていた、京都の金閣寺という存在。
あれは僕が17才の頃、阪神大震災の復興ボランティアで神戸に行った帰り道、
何故か京都に立ち寄っている。
とにかくお金がなくて、京都駅から歩いて見つけた公園にテントを広げ、銭湯で汗を流した。
テントで寝袋にくるまって寝ていたら、夜中に警察官の尋問を受けた。
何故、京都に来たのかと聞かれて、僕が答えたのは「金閣寺が見たかったから」。
真面目に答える僕の様子を見て、警察官は思わず笑った。
銀閣寺から金閣寺まで歩いたことを覚えている、7kmもあるのにバス代すら浮かせたくて早足で歩き続けた。
お腹が空いたら、量優先で、コンビニで安いパンを買って食べた。
足りないもの(お金)は自分の体力でカバーする、
がむしゃらだったあの頃、自分自身の力でできないものはないと思っていた。
金閣寺を眺めて、あの時の僕は何を思っていたのか、今ではそれがミステリー。
三島由紀夫の小説「金閣寺」に登場する若僧のように、
僕も金閣寺ほど美しい存在はないと信じていた。
美しいものを自分の目で確かめてみたい、それが原動力だったのだろうか。
帰り道にお腹が空き、手持ちの図書券を現金に換え、お釣りで食べたうどん。
今となってはどこだか分からないが、どこかの住宅街を歩いて、どこかの電車の駅まで。
同じ道を辿ろうとしても辿れるはずがない、それほどにあの頃と今ではスタイルが様変わりしている。
どうして金閣寺が見たかったのか、自分のことながら、その真意は今となっては闇の中。
ただ精一杯に生きていた、17才の自分の冒険を思い出し、拍手をしたくなる。
そんな金閣寺の思い出を、一眼レフで写真に収めることができて、僕は満足だった。
金閣寺舎利殿の金色写真 京都北山の人気観光名所・世界遺産
子供に塗り絵をさせたとしよう。
一体どこの子が、白紙のお寺を金色に塗る?
舎利殿を金にする発想はおそらく子供からも生まれないだろうに、金閣寺の写真が金色に光っているのはどうして?
印度やシナの仏教文化の影響だろう、大仏や建築物を金色に染める派手な演出は当時にもあったから。
しかしそれを和様建築物に登用した例は数少ないのではないか。
金ピカの金閣寺を見た当時の民たちは、さぞかし驚いたことだろう。
自然界にはない色、足利将軍家の権威を端的に誇示するために簡便だったのかな、金の金閣寺は。
クレヨンを手にしたあなたは、輪郭だけ示された金閣寺に最初の色をつけようとしている。
あなたが手にしているクレヨンは何色? 恐らく金色以外のものだと思う。それほどにこのアイディアは突飛。
子供にはできない想像力もあるよね。大人ならではの芸で、華開いた金閣寺だよ。
金閣寺の写真 フルサイズ一眼レフカメラで撮影した画像
金閣寺の写真、僕はずっと勘違いをしていたようだ。
1950年に見習い僧侶による放火で金閣寺が焼失した事件は有名。
写真ではなく、実物の金閣寺を初めて見た時、その事件のことをなんだか妙に納得したことを覚えている。
あぁ、こんな金色に光っている金閣寺だからこそ、不条理ではあるが、人の妬みとか誹りとか、
歪んだ愛情や怒りの極みなんかもぶつけられるのも、ある意味避けられないのだと。
ぶっ飛んだ何かは、打たれるのが人の理。
金色のお寺の美しさは、金閣寺自身と同様、凄いものを呼び寄せる。
ところが。
調べていくと、焼失直前の金閣寺に金色の光は残っていなかったのだ。
1398年頃に完成した金閣寺だから、1950年までの550年間に風化して、金色を失くしている。
現在の銀閣寺のように素朴な色で染まっていた金閣寺、そのモノクロの金閣寺に激しい愛情を抱くことの意味は何?
金閣寺は金でいることが美しいのか、美しくないのか。
心の金閣寺、金色はあっても、なくても。
500年の非公開。
ハイアマチュアカメラマンとして趣味の画像を撮る私、被写体は京都の神社仏閣を好んでいるの。
あの金キラの金閣寺を鏡湖池越しに撮る手をふと止めて、金閣寺の歴史に思いを馳せていた。
1394年に建立されたとして、そこからずっと一般人には非公開、
財政難から1894年に金閣寺が一般公開されるまで実に500年、
当時のカメラは一般人が持てるシロモノではなかったから、まぁ焼失後の復元1955年からとしてもわずか60年。
600年の金閣寺の歴史の中の60年、実際はもっと短い。
そんな恵まれた時間帯に私は生きて、金閣寺の写真を撮っている。
僥倖、Good Luck。
それもデジタルカメラ主流の時代、気に入らなかったら何度でも決して撮り直して、
気分のままにインターネット上にアップすることもできる。
ここから爆発的に金閣寺の画像はインターネットに保存されていくでしょう。
1950年の焼失事件前の金閣寺画像が数少ないのと大違い。
私なんかに前例のない唯一無二の金閣寺画像を残すのは無理だとしても、
幸せを嚙み締めて金閣寺の画像を撮る気持ちは負けないかも。