姉川の戦いで破れ、織田信長の大軍に目の前の虎御前山へ迫られても、小谷城はどうして3年間も持ち堪えることができたのだろう。
日本五大山城に名が上がる小谷城だから? いや、そんな単純な話ではないはず。
何事も自分の目で見ることね、と興味そそられるがまま、近江国・浅井家の居城であった小谷城(おだにじょう)へと向かってみる。
(本丸前の石垣)
小谷城から南10kmにある横山城を、織田家は姉川の戦いの直後に攻略した。
そして2年後には、織田信長が数万人を率いて小谷城の目の前1.5kmの虎御前山へ布陣している。
一般的に相手の3倍の兵力があれば、力攻めで落城させられるというが、
5,000人以下だっただろう浅井家に対して、織田信長は序盤には力攻めをしていない。
それは越前の朝倉義景の軍勢をおびき寄せるエサだったのかもしれないが、
どこかで小谷城の堅守ぶりに損害を嫌ってのことかもしれないね。
(本丸前の大広間跡、山上なのに85mもの平地を確保している)
小谷城がすぐに落ちなかったのは、支城である山本山城や焼尾砦との地形を活かした一帯防衛の賜物。
(本丸跡、流石に今は何もない)
実際に、山本山城を調略で落とした1ヶ月後には小谷城は落城した。
小谷城本体本丸の堅固というより、峰続きの山々を利用した山城・小谷城を上手に使った浅井家の知恵の力か。
とすれば小谷城の立地条件は気になるな、山上からはどんな景色になるのか。
ネタばらしですが、上の写真が桜馬場付近からの眺め。
中央右上が山本山城のあった場所、中央右下が織田信長が着陣した虎御前山。
琵琶湖の中に見えるのが竹生島、昔から信仰の対象。
ここからは順を追って書いてみよう。
「小谷城跡ガイド館 浅井三代の里」の横にある細い車道から、番所跡までは車で上がることができる。
番所跡から本丸方向へは登山道を使って上がっていく。
絵図で見ると出丸の連続だな、大掛かりな山城を築き上げたものだ。
クマの発見情報があるという本物の山道だ、観光気分だけではなく、ご注意あれ。
御馬屋前の馬洗池、石垣があるだけでお城っぽさを感じてしまう。
桜馬場付近からの眺めの一角、横山城が見えて、その手前に姉川が流れている。
どちらも完全に視界の範疇なのだ。
それなのに小谷城が生き残っていたのは大したもの。
上がほぼ肉眼の画角で撮った写真、琵琶湖のある近江の景色は美しい。
絵ほど手間がかけられたものは何も残っていないが、地形は残っている。
黒金門(鉄の門)があった跡、こんな地形なら大軍で攻める意味はない。
前面で戦うことができるのはせいぜい数十名。
本丸の裏にある大堀切は形を留めている。
(小谷城跡ガイド館 浅井三代の里にある兜モチーフ)
全般的には、山城ならではの知恵を駆使した堅城だと思った。
そして、こんな守りの鬼みたいな地形でも本格的に攻められたら数日で落城している。
まさに生死のやりとりね、歴史ロマンも感じたが、戦国時代の恐ろしさを感じた小谷城跡への訪問となった。
姉川古戦場の写真
旧・野村橋(老朽化により通行止め)から見た姉川一帯の写真。
織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景(の代理の朝倉景健)の連合軍が激突し、数千人におよぶ死傷者が出たと聞く古戦場跡。
上の写真の説明があるのみで、あとは姉川一帯を見渡して終わり。
戦国時代好きでなければ、あまり行く価値のない場所ではある。
姉川を挟んで双方が平地ということは大軍同士の正面衝突になる。
まさに決戦、やってはいけない戦い方だ、歴史ロマン<壮絶な殺し合いへの恐怖。
布陣図通りだとしたら、思いっきり正面衝突だから双方に甚大な被害。
互い、三河や越前から援軍を引っ張ってきた手前、この時この場で勝敗を決さないといけないのは分かるが、それにしても恐ろしい戦いだ。
姉川を吹く風に、僕は思わず手を合わせて先人たちへの供養を捧げた。