金環日食、スーパーブルームーンを超望遠レンズで写真撮影

2023年8月31日

スーパームーンに、8月2回目のフルムーン(=ブルームーン)が重なった夜

仕事をちょっと早く切り上げて、挙母城と三好公園に行ったけど、絵になる構図は見つからなかった。。

スーパーブルームーン

タムロンの150-500mm F/5-6.7 Di III VC VXD (Model A057)が、今の僕の超望遠レンズ。

スーパーブルームーン

青白い光はスーパーブルームーン。

スーパーブルームーン

クモの裏の光はスーパーブルームーン。

平日だから岐阜城か犬山城行けなかったよ、残念でしたよ。

2012年5月21日

天体撮影自身に興味は薄いが、一眼レフで撮る金環日食の写真には興味シンシン。

カメラマンとしては被写体が何であれ、珍しければOKということ。

会社へ行く前、ちょっと早起きして、近所の公園で450mm望遠レンズを構えて金環日食という自然現象を撮影してみた。

地球・月・太陽が一直線になるのが金環日食だってね、今まで興味を持てなかったけど。

カメラが僕に開いてくれる新しい世界の知識。

金環日食 写真1.jpg

Capture NX2で画像処理すると、↑のような変わった金環日食写真が完成。

太陽が月を飲み込んで、また吐き出す。

あるいは、月が太陽を貫通していく様でしょうか。

雲の様子がなんともミステリアスで、面白い写真になったと一人喜んだ。

しかしこれが陽の上がったはずの朝に撮った写真だとは信じられない。

金環日食 写真2.jpg

朝起きたら雲があってダメか、と残念がっていたが、とりあえず予定通り公園でカメラを構えていると、朝7:30直前には雲も消え去った。

やった、これなら金環日食が見れる条件が整った!

それはね、300年に一度の大イベントだから、ミラクルも起きる。

 

朝なのに周囲は真っ暗に近くなっていった。

不思議な感覚、雰囲気は朝なのに世界が暗い。

ゴールドリングに変わっていく様は肉眼では見れないけど、カメラのレンズを通してはっきりと確認できた。

金環日食を捉えたカメラとレンズは僕の目さ、この時ばかりは。

金環日食 写真3.jpg

焦ったなー、カメラの設定をどうやったら写せるのかって。

露出をマイナス5段まで下げて、絞りはF40まで絞って。

焦点距離も35mm換算で450mmでは全く足りない、もっともっと長い超望遠レンズが必要だった。

トリミングで誤魔化したものの、専門として撮っている方からすれば甘い撮影準備。

朝一番の、楽しいお遊び時間でした。

不思議なもの、普段興味を持てないものでも、カメラという趣味によって僕の身近なものになることがある。

2014年9月9日

スーパームーン写真撮影 超望遠レンズ810mmを三脚に固定

初めてのスーパームーン撮影、何の飾りもなく、お月様をそのまま写してみました。

300mmをNIKON1 V3につけたから、35mm換算で810mmの超望遠。

クレーターまではっきり見えるのね、ようやくこの絵が自分で撮れた。

ありふれた構図でただのまん丸の月だが、これを自分自身のカメラ技術で撮ったということ、その感動が大事。

super-moon-first.jpg

三脚にカメラを固定して構図を計算するが、しばらくすると構図が違う。

月は移動しているのだと、改めて思い知った夜。

どんな景色に重ねればスーパームーンはより輝くのでしょうか、それはまた次の課題ということで。


<李白と杜甫がうたった月、中国古典詩と中国人の根本意識>

月はいつも人間の頭上にあり、今現在だけでなく、先祖の代、

そのもっと前の先人たちもまた、同じ月を見ていたことに違いない。

その思いに加え、中国では古来より今頭上にある同じこの月を、遠く離れた故郷の旧友が見ているのかもしれない、

または遠くに置いてきた家族が同じく今夜の月を眺めているかもしれない。

月が悲愁の思いを起こさせるものであるから、親しい人を思いながらうたったのだろう。

当時の科学知識では自然界の現象である天象は充分に解明しきれず、

月の満ち欠けの不思議と自分の心を重ねて物思いにふけるのが月の典型的な鑑賞方法だったのだ。

例えば杜甫はその流れを受けて、「今夜フ州の月 閨中只だ独り看るならん」とうたい

遠くフ州に疎開させている妻子のことを思っている。

今自分が見ている月は鏡であって、どれだけ距離があったとしても

その天空の鏡を通して大切な誰かと思いがつながっている、という発想が中国古典詩の常道だったことを窺うことができる。

そんな中で李白という詩人は、月という存在をまた別の角度から詩の世界に取り込むことを行っている。

「月下の独酌」の句に「月をわたしと我が影と気楽な三人の酒盛りとなる」とある。

この歌は、唐の玄宗皇帝から表向きは「酒癖が悪いので宮廷務めの器ではない」

と一方的に宮廷お抱えの詩よみ役を解任されたことへの抵抗という意味もあったのかもしれないが、

寂しい感情に浸ることを優先してきたそれまでの漢詩世界の月のイメージを、

明るく前向きで洒脱なものに捉えたという意味で注目に値すると思う。

詩はその後に

「酔うて後は各おの分散す 永く無常の遊を結び 相に期す 雲漠遙かなると」

と続いてゆくが、ここでは酔ったときは一緒の仲間だが酒が冷めたらそれぞれ別々になったとしても、

またいつか天の川の元で再会しよう、と言っており、

李白の自由な発想はついに月をも自分の親しい友人の一人に見立ててしまい、

また会って酒を飲もうと呼びかけているのである。

「靜夜思」では句頭から「牀前月光を看る」とうたい、

これもそれまでの月にイメージしていなかった行動を李白はとっている。

つまり、自分から月に向かって心を寄せようとする従来のアプローチに反して、

月光そのものを自分の目の前に引き寄せたのである。

旅路の途中の宿、夜更けまで眠れないベッドの上で物思いにふかっていると、

ふと部屋に差し込んできた月光がまるで目の前まで注いでいるかのように見えたのだろう。

そこから山上の月に視点を展開して遠くの故郷を思う李白の視点は

月に始まって月に終わっており、月を目の前に引き寄せてしまったのは異例だが、心の動きは月を通して自然そのものである。

その後に続くのは「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う」と、

月に故郷への思いを重ねるのは従来の月のイメージ通りであるが、

この二つの詩で李白がよんだ酒の友としてのポジティブな月、

そして月光を自分の目の前に引き寄せるという発想は漢詩における異質である。

詩仙と呼ばれ着想の自由さ・豊かな想像力・豪快な詩風を魅力とした李白ならではの発想の自由さ、

既存の概念に捉われることなく自分のありのままの感情を詩にうたうことができる

という斬新さをこのふたつが体現しているようだ。

そんな月のことを数多く詩に残した李白だからこそ、死に至ってまで

酒を飲みながらの月見の船で揚子江の水面に映った月を

手に取ろうとして落水して水死した、という伝説まで人々に残されてしまったのだろう。

いつの時代も、いつまで経っても月は不変だが、人は常に変わってゆくもの。

ましてや王朝がめまぐるしく変わってゆき、明日どうなるか分からない時代に生きてきた

中国の人々には月は格別に不思議な存在だったに違いない。

それが月を物思い・人思いの象徴にさせ、漢詩の世界でもその中国人の根本意識が月のイメージを作り上げたのだろう。

長い漂泊の果てに獲得した士官の道も他人の中傷で急に閉ざされ、

望んだ政治参画に関してはまったくの不遇の人生を送った李白だからこそ、

不変の月を理想と見立てて詩にしたのだとわたしには思えてならない。

実は李白は月を美的によむその裏側で張り裂けるばかりの悲痛な心を抱えていたのではないか。

その李白の心中を察するに、詩的なものよりも痛々しいものを感じるばかりだ。


<太陽エネルギーと宇宙への放射は、地球のエネルギー循環サイクル>

疎水は限りある水を人工的に循環させることで、どの農地へも平均的に水が行き渡るような灌漑に役立てている。

エネルギーも疎水と同じように、運動を通して循環される中で様々な形をとりつつも、エネルギーの総量が変わることはない。

発電を考えてみると、それは無から有を作り出しているのではなく、

他の形態のエネルギーを電気エネルギーへと変換させているだけである。

原子力発電と地熱発電以外は、元を遡ってみれば全て太陽エネルギーからくるものだ。

太陽エネルギーによって植物が光合成を行い、有機質をつくる。

その有機質に太陽エネルギーが取り入れられ、我々がその植物を食べることで

植物内のエネルギーを得て、我々は運動エネルギーや音エネルギー、熱エネルギーを使って活動している。

このようにエネルギーは様々な形をとっても、エネルギーの総量自体が変わることがない。

地球に届いた太陽のエネルギーは、植物や動物の体内を回ってエネルギーを循環させている。

火力発電は、太陽エネルギーを含んだ化石燃料を燃やすことで熱エネルギーを得て、

そのエネルギーを利用して発電機をまわし、電気エネルギーを得ている。

有機質を持ったまま死んだ昔の生命体が、現代の効率の良い燃料に代わっていった。

昔の太陽エネルギーは時代を越えても循環されているのである。

光合成によって炭水化物が生成されることが、太陽エネルギーから始まる地球上のエネルギー循環サイクルだ。

二酸化炭素と水素と光エネルギーが合体すると、葉緑素が媒体となって炭水化物ができる。

炭水化物には太陽エネルギーが貯蔵され、その葉緑体を含む植物をより身体の大きい動物が食べて、活動のエネルギーにしている。

動植物たちが日々の活動の中で燃焼している炭水化物は、太陽エネルギーの解放と言うことができる。

その過程では取り入れた太陽エネルギーと同じ質量のエネルギーが解放されており、

循環するエネルギーの総量には変化がないことが分かる。

エネルギーを人工的に作り出すことはできない。

発電のような一見新たに生み出しているように見える行為も、

実情は元々あるエネルギーを別の新たなエネルギーへと形態変化させているだけなのである。

大元をたどれば、ほぼ全てのエネルギーは太陽から来ていると言うことができる。

あるエネルギーを別のエネルギーに転換させた後に、他のエネルギーに再度変えることは

原理的には可能だが、熱エネルギーに関しては限度があり、

30%ぐらいは他のエネルギーに変えられるものの、残りの70%は熱エネルギーのままである。

このように他のエネルギーに変えにくい熱エネルギーは、

太陽から生まれて派生していった各エネルギーの最終到達点なのである。

それでは太陽エネルギーはどこから生まれているのか。

宇宙はできたときに99%が水素でできていたことから、太陽の内部はほとんど水素である。

この水素の原子核4つが核反応を起こして、ヘリウム原子核になる。

水素とヘリウムとでは水素のほうが質量は大きく、ヘリウムになったことで質量減少が起こっている。

質量=エネルギーなのであるから、この減少分は質量がエネルギーに変わったことを意味する。

解放されたエネルギーは太陽を反射させ、光を伝って宇宙へエネルギーを飛ばして、

我々地球に届いたそのエネルギーを我々が得て生きているのである。

アインシュタインの公式「E=mc²」ではEがエネルギー、mは質量、cは光速である。

太陽で水素が核反応を起こしたときの質量はごくわずかな減少であるが、

太陽自体が巨大なものであるから、全体としては莫大なエネルギーを太陽は生み出している。

エネルギーは循環することを考えれば、例えばクーラーで室内を冷やしたとしても、

その同じ分の熱エネルギーが屋外を暑くしていることになる。

さらにはクーラーを動かすことで電気エネルギーを消費しており、

クーラーをつけても熱エネルギーを減らしていることにはならず、逆に熱エネルギーを使った分、全体をより暑くしているのだ。

このように地球上に溜まった熱エネルギーが地球を暖めているが、

地球はエネルギーを赤外線として宇宙へ放射して循環させている。

太陽エネルギーが形態を変えて地球のエネルギーとなり、

最後は地球から宇宙へと放射してエネルギー放出するという循環を地球は繰り返してきた歴史がある。

太陽が放つエネルギーの総量と地球が使うエネルギーとでは、

太陽からのエネルギーの量の方が格段に多く、この循環が成り立たせてきた。

ニュートンの運動の法則を見てみよう。

第一法則は、物体に力が働かなければ物体はその運動状態を保つと説明されている。

摩擦なし状態の水平面上であれば、止まった物は止まったままで、

動いたものは同じスピードを保ったまま同じ方向に動き続けるというものだ。

これは等速直線運動といって、同じ速度で同じ方向へ運動が続くという習性をうたったものだ。

新幹線を例に挙げると等速直線運動にあれば、直線状であるレールを走るときに、

スピードを減速させる摩擦の力とスピードを加速し続ける推進力が釣り合って、

左右は推進力と抵抗で釣り合って全体で力が働らいていない。

上下は抗力と重力で釣り合っていることからどの方向にも抵抗が働いていない状態になる。

左右上下の全体の力がゼロである等速直線運動を利用して新幹線は効率良くスピードを加速させていることになる。

新幹線に乗っている人はまるで新幹線が止まっているかのような感じにとらわれるが、それは間違いではない。

運動とは相対的なものだから、乗っている当本人には速度は変化なく加速度にも変化はない。

運動している物体は運動している状態のまま、というのが

ニュートン運動の法則の第一法則、慣性の法則と呼ばれる相対性原理である。

第二法則は、物体に力を働かせれば加速度が生じるということから、

加速度の大きさは力の大きさに比例するというものである。

逆に言うと加速度の大きさは物体の質量に反比例するということになる。

F=ma(力=質量x加速度)という運動方程式になるが、

これはW=mg(重力=質量x重力加速度)という重力の式の一般化であって両方とも同じことを言っている。

第三法則は作用・反作用の法則と言われるもので、

物体Aが物体Bに力Fを働かせると、物体Bは物体Aに力-Fを働かせるのである。

このときの力は同じだけの力をちょうど反対方向に働かせていることになる。

Wという重力で上から下へおさえると、同じ大きさ-Wを逆方向に押し返しており、トータルで上下の力はゼロになるのである。

相対性原理では止まっているのか等速直線運動をしているのか違いを見極めることが困難であるが、

止まっているのか加速度が働いているのかは見かけの力という考え方によって説明ができる。

電車の席に座っている人間には、椅子が人を進行方向へ電車の加速度と同じだけの加速度を働かせている。

その際には同時に人が椅子を反作用で同じ力で押し返している。

これが作用・反作用と呼ばれる力である。

人が椅子を押す方向に重力が働いているが、その重力とは反対方向に見かけの力が働いていることから、

乗り物の中で釣り合いの状態に人は自分が椅子を押す方向に力を感じることができているのだ。

加速度運動をしている中では、重力以外に人は見かけの力というものを持っている。

空気抵抗を無視できる場合において放物体が持つエネルギーは、

位置エネルギーと運動エネルギーの合計が厳密に一致することを証明できる。

エネルギーは循環し、総量を変えないのであるから、

位置エネルギーが減少した際には運動エネルギーがその減少分だけ増加し、

また運動エネルギーが減少した際には位置エネルギーがその減少分だけ増加することで、

両エネルギーの合算総量に増減はないのだ。

太陽からもらうエネルギーを燃焼させることで地球や人間が生きており、

人間が作り出しているかのように見える水力発電や風力発電も、

結局は太陽エネルギーを使って起こした気象現象からなるものであるので、大元は太陽エネルギーということになる。

その太陽エネルギーを太陽から宇宙を伝って地球へ運ぶのは、唯一のエネルギーの運び手である光だ。

逆に地球から宇宙への放射を運ぶのも光という運び手である。

太陽の中心には圧力によって陽子と電子が閉じ込められており、核反応エネルギーを生み出している。

陽子4個がヘリウム4原子核になったときに質量が0.7%減少するのだが、

質量の減少はエネルギー保存則に従って別のエネルギーになることがアイシュタインの理論で証明されているように、

この減少分が原子核エネルギーの解放となって光を伝って地球へ太陽エネルギーを届けているのだ。

太陽が一年間で生み出すエネルギーは、人間が一年間に使う電力の10万倍にもなり、

この十分な太陽エネルギーのお陰で我々地球は生きてゆくことができているのだ。

太陽は我々地球に十分過ぎる量のエネルギーを継続的に与えてくれる不可欠な存在である。

どうしてこの地球に豊かな生命が宿っているのか。

エネルギーの大元である太陽には生命が育つことがないのに、

偶然にも絶妙な距離にあるこの地球という星には適度な太陽エネルギーが光を通して降り注いできて、

我々人類だけではなく地球全体の活動の命を恵んでくれている。

不思議なのはエネルギーの循環によって地球が消費したはずのエネルギーが、

宇宙へと同じエネルギー分だけ放射しているという点で、

我々地球の生命体の活動を支えているエネルギーが結局は宇宙に戻ってゆくとなると、

人間の活動とはなんなのだろうと思わされた。

それにしても地球はなんと恵まれた宇宙環境にあることか。

無償で太陽から絶妙の太陽エネルギーをもらいうけて、

地球内を巡らせた上でまた同じ分のエネルギーを宇宙に放射させることができるとは、偶然にしてはできすぎな感じさえする。

大袈裟に言えば、太陽エネルギーと地球の関係は宇宙の奇跡だと、知った。


<エネルギーは循環する 太陽エネルギーと放射エネルギーの総量はイコール>

エネルギー循環を発見した物理学者はさぞ驚いただろうな。

いいかい、地球にあるエネルギーは循環する。

宇宙から降り注がれた太陽エネルギーが、光合成によって植物を育てると、その植物を食べる小動物が生まれ、

さらには小動物を捕食するより大きい動物が発生することで、生態系を組み重ねていった。

太陽エネルギーは植物や動物を育て上げて、しかも留まることがない。

動物の身体に蓄えられた太陽エネルギーは、死んでは微生物たちに分解され、その微生物の死骸が緑豊かな森へとさらに循環する。

森の植物を食べ、身体中に太陽エネルギーをたっぷり蓄えた動物たちが走り回る。

走ることで太陽エネルギーは失われてゆくが、エネルギーが消滅したというよりは、

運動エネルギーが音エネルギー・熱エネルギーというものに分散されていき、

それらはいずれ地球から宇宙への放射ということで、夜には宇宙へ帰ってゆくじゃないか。

面白いのはその総量のこと。

やってきた太陽エネルギーと、帰ってゆく放射エネルギーの総量はイコールになる。

地球を駆け巡ったと思ったら、エネルギーは留まることなく、その全てが宇宙に帰ってゆくのだ。

それがエネルギーの循環の姿。

とある高僧は言ったよ。自分が失えば他が得る、と。

恵まれた自分が、小さな落し物をするだろう。お金をどこかに寄付するだろう。

それは消えてなくなるものじゃないね。

自分が何かを失えば、失ったその分だけ、どこかの誰かが得ている。

ねぇ、君が知らずと財布を落としたとしよう。

それは本当に不幸なこと?

自分が失っただけの富と幸を、財布を拾った他の誰かが得るのだから、お金も幸も不幸も循環しているんだ。

経済もしかり。

ひとつの企業がつぶれれば、他のどこかの企業がその分だけ利益を得ている。

何かで荒稼ぎしている一流企業の陰には、利益が出なくて消えてゆく弱小企業がある。

それもこれも、循環しているだけなんだよ。

誰かと出逢って、愛を育む。

その幸せな季節が終わったら、また他の誰かと出逢って愛が生まれる。

恋ですら、留まるところを知らずに流れに流れて、循環してゆくもの。

川の水は、いずれ海に注いで蒸発し、雲になっては雨降りを通してまた川を形成してゆく。

ヒンズー教の世界では生命の輪廻転生が唱えられている。

前世の宿命を背負って、現世の僕たちが生きているという。

来世のことまで考えて、僕たちは今を生きようという考え方。

エネルギーの循環を見つけた現代の物理学者はこう思うんじゃないかな。

私が見つけたエネルギー循環の考え方は、昔から引き継がれてきた回り回る人生の考え方と同じなのだ、と。

そう、実際同じなんだよ!

ゼロから生まれたものはなくて、どこかから何かを与えられて今の私がある。

その私もいずれは滅び、他の何かに変わってゆく。

昔の人はよく言ったものだ。

生命は輪廻転生する。

自然の生態系では、生と死が循環しながら共存している。

だから物理学者が見つけた現代のエネルギー循環論は最新のものじゃないよ。

生物や人類以前、はるか四十億年前から営まれてきたものじゃないか。

自然の循環だってほら、地球に生命体が生まれた三十億年以上前から繰り返されてきた。

それと比べれば経済のお話なんて、ついこの間、ここ千年に盛り上がってきたものだね。

昔の人はよくぞ言った。人の命は輪廻転生を繰り返す、って。

でも、それは四十億年の歴史を考えればごく新しい知識だね。

新しい知識を、昔の人が指摘している。

自然のサイクルはそのひとつ古い知識。ひとつ現代に遡った人がそれを見つけた。

エネルギー循環っていう一番古い知識に、人がたどり着いたのはこの現代になってから。

最近の知識を、中世人が見つけ、

太古の知識を、近代人が見つけ、

最古の知識を、現代人が見つけ、

宇宙の知識を、未来人が見つける?

エネルギーも自然も人も、みんな循環する。

何もかもが、昔から今から未来へと、流れ流れてゆく。

それを我々人類が悟るのは新しいものから。

古くて根源的なものはなかなか見つけられない。

循環するものの発見も、今は昔の面白い物語。


<エネルギー保存則・失われない位置エネルギーと得られる運動エネルギー>

わたしはパラグライダーというスポーツをやっているので、

このパラグライダーの動きを通してエネルギー保存則について説明してみたい。

まずパラグライダーに乗った時に一番高い位置にいるのは、

山の上から助走をつけてパラグライダーを開いて飛び乗ったその時である。

パラグライダーというスポーツはモーターという動力を使わない代わりに、

技量次第では下からの上昇風を拾って上手く位置エネルギーを上げることができるのだが

ここではその例は考えないことにして、浮かび上がったパラグライダーがそのまま着地することで説明しよう。

最上点まで位置エネルギーを与えられたパラグライダーは、

そこからパラグライダー自身とそこに乗っている人間の質量があるので、その分だけ真下に落ちてゆこうとする。

この時の位置エネルギーは、V= mgh(位置エネルギーV=質量m x重力加速度g x高さh)という式で表すことができる。

質量分だけ自由落下してゆくパラグライダーは次第に高度が下がってゆくのだから、

位置エネルギーを失う代わりに別のエネルギー、それは運動に伴う運動エネルギーを持つことになる。

落体における力学的エネルギー保存則の式は、mgh + ½ mv²= mgH と表す。

先に触れたように位置エネルギーはV= mghであって、

浮いているパラグライダーは時間の経過と共に落体の法則にしたがって

高さhを下げてゆくから、位置エネルギーも高さhの減少と一緒に減少してゆく。

mghが位置エネルギーなのだから、mghのhが時間の経過と共に減少してゆくものだとして、

このhの減少分を数式の上で補うとすれば ½ mv²を足してやればmgh + ½ mv²= mgHはイコールで成り立つ。

このことから運動エネルギーKは½ mv²として式にすることができ、

また運動エネルギーが½ mv²であればmgh + ½ mv²= mgHの式で考えれば

失われる時間の経過に伴う減少分の位置エネルギーとイコールになり、

こうして失った位置エネルギーと得た運動エネルギーの数値が一定で、

位置エネルギーと運動エネルギーの和が一定であるという落体における力学的エネルギー保存則を説明することができる。

パラグライダーは時間の経過に伴い質量分だけ落体の法則に従い

位置エネルギーを減少させるが、同時にそれは同じ分の運動エネルギーを獲得することになり、

この運動エネルギーを使って空中で速度を得ることができるし、舵を切って左右へ方向転換をすることもできる。

最も、スカイダイビングと違うのは垂直方向へ自由落下しないのは

パラグライダー自体が空気抵抗となって自由落下を防いでいることと、

パラグライダーの翼が風を取り込んで浮力を発生させているという別の要因はある。

その別の要因を除いたとしても、パラグライダーは減少した位置エネルギーの分だけ

新たな運動エネルギーというエネルギーを発生させ、その運動エネルギーによってスピードや移動を楽しむことができ、

時間の経過と共に位置エネルギーが終わりを告げるときにはパラブライダーも地面間際まで下がってきている。

そして最後の運動エネルギーを使って空中から地面へと着地したとき、

これ以上失われる位置エネルギーはゼロなのだから

同時に得られる運動エネルギーもゼロとなって、パラグライダーは終わるのである。

このようにパラグライダーの例をとってみてもエネルギーは保存する。

パラグライダーが空中で速度を保ち、舵を切って遊ぶことができるのは

上空にある空気抵抗と翼の浮力のお陰でもあるのだが、

そのこと以上に位置エネルギーの減少分だけ新たに得た運動エネルギーを利用しているのだ。

この運動エネルギーは位置エネルギーの減少に伴い同じく減少してゆくが

位置エネルギーだけではなく、空気抵抗という熱エネルギーや音エネルギーとしても減ってゆく。

エネルギーが保存することをはっきり示すのはパラグライダーの着地のときである。

失われない位置エネルギーに対して得られる運動エネルギーもないから、それ以上パラグライダーは動かないのである。

こうしてパラグライダーを例に挙げて見てみると、

パラグライダー独自の上空での風の抵抗や、自然落下に対するパラグライダー自体の抵抗、

パラグライダーの翼の浮力ということがあるものの、

高いところから飛び立ったパラグライダーがその位置エネルギーの減少分だけ

運動エネルギーを得て、その運動エネルギーを持って遊ぶスポーツであるということが説明できるのである。

エネルギーは保存する。太陽に元を発する太陽エネルギーが

巡り巡って我々人間に運動エネルギーをもたらせてくれる。

太陽エネルギーを光合成で取り入れた植物を食べることで動物は糧を得て、

食べることでその分だけ運動エネルギーをもらって我々人間が生きているのである。

だから我々人間自体も太陽から始まり、宇宙への熱反射する太陽エネルギーの保存の一環であると、美しく説明することができる。


<地球の重力の数式、重さ=質量×重力加速度(w=mg)>

地上にいる限り重力はどこでも同じである。

それは当たり前のこと過ぎて、普段我々がそれを不思議に思うことはない。

エレベータに乗っていてふわっと浮く感じを受けることがある。

その瞬間に自分の体重を量ってみたら、普段よりも軽くなっていることに驚くことだろう。

宇宙飛行士たちが宇宙船内で自由に空中を飛んでいる映像はよく知られている。

宇宙では無重力状態であって、月では重力が地球の1/6しかないことも知っている人は多いだろう。

ただ、こうして水や血肉を湛えている我々の肉体に重さがないはずがない。

それを説明するにはw=mgという数式が有効である。

wは重さで、mは質量、gは重力加速度である。

地上ではgがどこでも同じであるからw=mという関係が成り立つが、

無重力状態ではgがゼロのために、簡単な掛け算を使ってwがゼロになるという結論を導くことができる。

重さ自体がゼロでないことはこの数式で美しく説明できた。

エレベータでふわっと感じたときは、重力加速度が変化している影響を受けて重さ自体が変化していたのである。

重さは力として一般化される。

地球上の重力に逆らって静止している物体にはなんらかの力が働いているのである。

上向きに働く力fと、重さwが釣り合っているからこそ、物体は静止ができる。

この上向きに働く力fは位置エネルギーと呼ばれるものだ。

位置エネルギーを数式で表すとmghとなる。

mは質量、gは重力加速度、hは高さである。

大事なことは、静止している際の上向きの力・位置エネルギーmghと、

下向きの力である重さwが等しく釣り合っているということである。

物理学の基本理論としてエネルギーは循環する、というものがある。

ある物体が下から上にあがった際には、上向きに働く力mghに対応して、その分と同等の力が下向きに作用しているのである。

上向きの力は下向きの力と上手に相殺され、物体に働く上下の力の総和がゼロ、ということになる。

上下に位置エネルギーが移動したものの、全体の位置エネルギーの総和に変化はない。

これをもってエネルギーの循環は説明されるのである。

ガリレオは落体の法則で地上の物体が落下する様子を数式に置き換えることに成功した。

ガリレオが斜面の実験で見つけたのは、物体を斜面から落としたときには同じリズムが刻まれるということだ。

時間が1:2:3:4というペースで進むのに対して、

落下距離は1:4:9:16と進むのであるから、両者の関係は時間の二乗である。

よって、落下距離=落下時間の二乗に比例する、という法則を見つけ出すことができたのである。

簡単な数式を使って、数値化しづらいものも数値化することができる。

例えば重力加速度とは感覚的なもので、

明確な数字に置き換えることはできないようにわたしには思われたが、

下記の数式を進めてゆけば明確化されるものなのだ。

l(落下距離)=c(比例定数)×t²(時間の二乗)ということが先の落体の法則で分かっている。

速さは時間に比例するのだから、

v(速さ)=2c(比例定数)t(時間)という式も導くことができる。

また、地上での加速度は重力が同じだから一定であるということになり、

a(加速度)=2c(比例定数)という式を法則化することができる。

この3つの式をシンプルにしてみると、a=2cが、a=g(加速度)となり、

2c=gなのであるから、v=2ctはv=gtと置き換えることができる。

v=2ctであったのだから、l=ct²は、l=½gt²と置き換えられた。

落下t秒後の位置エネルギーは、mgH-mglという式で示すことができるのだが、

先のl=½gt²という式を使うと、

mgH-mglはmgH-=½mg²+t²ということになる。

このmgH-=½mg²+t²に、先のv=gtを置き換えると、

mgH-=½mvと整理することができる。

落下t秒後の位置エネルギーはmgHから、½mvだけ減少したことになる。

エネルギーは循環するのであるから、減少分=運動エネルギーであって、

この式から運動エネルギーが½mvという説明につなげることができる。

l=½gt²の式を使い、実際に上から落とした物体が落ちる時間と高さをはかってみると、具体的な数字が出てくる。

地球上における重力加速度はg=9.8m/s²である、ということを数式の結論として導くことができたのである。

落体によって位置エネルギーが減少するが、

それと同じエネルギー分だけ別の運動エネルギーが増加するのがエネルギー保存則であり、

エネルギーの総量は最初から最後まで変わることがないのだ。

自然現象を数字化して説明する物理学が「美しさ」を合言葉にしているなんて、なんだか文学的だ。

ピュタゴラス音階を数字で表すことができるなんて!

随分と詩的なことも物理から編み出せるのですね。

それも時代も場所も隔てた司馬遷が「律音」で書いていたことと同じことだなんて、

物理とは人の根本的な「知りたい欲求」を学問にしたものなのだろうと思うよ。

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