人生相渉論争、北村透谷と山路愛山、3つの相違点・共通点

人生相渉論争において明らかにされた北村透谷と山路愛山の文学解釈には、三つの相違点と三つの共通点がある。

透谷にとって文学とは各人が人生を過ごすなかで必ずや生まれるだろう生きることの謎や人生の目標、

そういったものを克服するためにとる手段であり、文学を書くという行為にあまり意味を持たせず、

最終的に各個人の人生にとって有意義なものであったかどうかに価値を見出している。

それに比べ愛山は、文学を通して発揮した成果は各個人が判断できるものではなく、

それは時代や世間が判断するものだと考えている。

その文学がその時代にとり具体的な成果をあげたかどうか、その点に価値判断の基準を持たせている。

この双方の考え方は双方に筋が通っており、一概にどちらを否定することはできない。

しかし、文学が芸術である以上は、透谷の考え方のほうがより芸術の真意に近いと思われる。

文学を芸術として捉えず、マスメディアとして理解するならば、愛山の理解も納得できる。

しかし、文学は芸術であり、芸術とは創造者の独自の美しい観念を表すものであろうと思う。

次に両者は、文学や現実世界の捉え方が違う。

愛山は一元的に捉えるので、表面に現れたものが全てであるという考え方を持つ。

透谷は物事を二重のものとして捉える。

外側が美しくともそれはただ単に外見が元々美しかったのではなく、

内側に秘めた美しい精神が外側に滲み出し、美しいものを形成したと考えるのだ。

これは誰にでも判断できるものであろう。

例え美言ばかりを並べ、綺麗に創り上げた文章であっても、そこに本物の思想がない限りは空虚な文章となる。

ヨーロッパの美しい街並も、ただ莫大な金をつぎ込んだからこそできたものではない。

そこに長い長い歴史があり、職人たちの技術があり、多くの感動があったからこそできたものである。

何でもそうだが、物事を表面の美醜だけで判断しては狭い人間止まりとなってしまう。

この点においても、透谷のほうがより深い理解に到達していると思う。

最後の相違点として、人生の存在理由についての意見がある。

山路愛山は、人生は人が何を考える前にそこにあった「事実」であり、

過去や未来との係わり合いを重視せず、今現在の時代だけを指している。

つまり、非常に現実的な考えであり、科学に近い。

それに反して透谷の考え方は哲学である。

人生が何故そこに形としてあるのかを考える。

考える前から人生がそこにあったとは考えない。

その個人の葛藤の中から生まれた内面の思想、「内部生命」が具体的な形をもったことで現れたのが人生であると考える。

この双方の考え方もどちらもよく理解できる。

文学を通し、人生を具体的に前進させたいと考えたのが愛山である。

当時の明治政府による国家主義にとって有益な文学を創り、重用されることを第一の目標としたかのようである。

比べて透谷は、人生を精神的に前進させたいと考えた観がある。

具体的な生活のことなど考えず、あくまで己自身への問いかけの答えを探す旅に文学という方法を選んだかのようである。

しかし文学が芸術の表現方法である以上、私は透谷の考え方を潔いと思う。

この論争で意見の対立をみた二人だが、文学を理解する根本的なところで共通点があった。

両名とも、文学には世に大きな影響をもたらす力があると思っていた。

愛山にとってはその考え方そのものが社会を動かす大きな力であり、

透谷にとっては個人の人生観を左右すると同時に、世にその思想を発表すれば大きな力となり、

世に影響をもたらすという理解があった。

お互いに文学には世の中をいっそう善いものとし、いっそう幸福なものにできるという力があることをわきまえていた。

またこの論争においては、当時の時代をいかに理解するのかというときに文学を通して判断しようとした点で共通していた。

確かに北村透谷は文学を個人の問題として結論付け、

愛山は時代をいきる術として文学をみたというところに相違はあるが、そもそも二人とも明治時代の国家主義に触れたとき、

何をもって己と時代の関係をはかったかといえば、それは文学の意義であった。

そして二人は、己の信じる文学の行方が、己の生き方であるという点において共通した人間であった。

捉え方の方法が違い、意見の対立を生んだ二人ではあったが、文学に生き、文学を人生の意義とした姿勢は、まったく同じである。

この三つの共通点を通して見えてくるのは、方法は違えども同じように文学に情熱を傾けた文学者の姿である。

先の三つの相違点を批評という形でみれば、文学が芸術である以上、

透谷の意見のほうがより本来の文学の意義に近く、意見として優れていると思われる。

しかし人が十人いれば十通りの考え方があるように、対戦を目の前にした明治という時代に

二人の文学者が本音の部分で意見をぶつけ合った、という事実それだけで評価できる。

主張の内容はともかく、文学をより深いものにしようとした二人の文学者の姿がそこにあるからだ。

北村透谷の恋愛は人生の秘鑰、明治時代の男性厭世詩家の恋愛論

透谷が恋愛というテーマを取り上げるようになったのは、民権運動で挫折を味わい、

厭世思想に取りつかれ、その深みから抜け出そうとしてからである。

何もかもを失った透谷が最後に取りすがったものが、恋愛であった。

当時は恋愛というものを堂々と口にすることは一般的ではなかった。

徳富蘇峰が「恋愛は、怠者の職業也、戦士の害物也」と断言した通り、

明治二十年代という時代には恋愛と男子の功名とは対立したものとして捉えられており、

そんな時代で「恋愛は人生の秘鑰である」と言い放った透谷は、当時としては斬新な、革新的な人間であった。

口火を切ったという意味では、彼のしたことは偉業である。

また、恋愛という当時としては一種のタブーであった主題を元に、

己の壁を乗り越えようとした点も、既存の考え方に捉われない透谷の強い自己意識の現われであり、この点でも評価ができる。

恋愛を「人生の正当な順序」と言い切った点も、古い抵抗にまっすぐに立ち向かおうとする透谷の意思が見え、

非常に主体的な思想を持った人間であるということがよく分かる。

間違いなく、透谷は当時としては突出して新しい考え方を持つ人間であった。

しかし、これを最近の男女のあり方と比べてみると、

透谷でもまだ旧態依然とした考えの持ち主としてしか評価できない。

「想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは即ち恋愛なり」という文章には、

男の仕事としての事業がうまくいかないから、恋愛でもしてみることでなんとか立ち直る、

というニュアンスが多分に含まれ、またこの文体は女性の意見を一切取り入れてなく、

あくまで男性側から一方的に書かれており、これは独りよがりである。

文章としては勇ましいが、男女平等を前提とした現代では到底通用しない考え方である。

また、恋愛が結婚になると当初の牙城が崩壊し、日常生活のなかで元々の恋愛感覚がなくなるという意見、

さらに詩人なる人生の達人が恋愛で罪業を作るのはどういうわけなのか、

と自らの問いかける部分があるが、これは詩人を自負する者であれば、まるで詩の心がない言葉である。

問いかけるのもいいが、そもそも恋愛で過ちを繰り返すのは人間の業であると私は思う。

詩人に限定されることでもなく、人間全体に言えることであるから、詩人という区分けはまったく意味がない。

ここは詩人であることを矛盾とするのではなく、人間全体のことを言うべきであったように思う。

また、結婚生活が進むと恋愛が日常に埋もれてしまうというような言葉はまったく不用意である。

透谷がこの恋愛論を発表するに当たって、透谷が具体的な恋愛の対象者としてみたのは誰であったか。

石坂美那でもなければ、富井まつ子でもない。

詩人が思い描く恋人のイメージは、具体的な誰かであるわけがない。

詩人にとっての理想の女性像であろう。

文学として、詩人として恋愛論を世に出すのならばその具体性のない女性像を突き詰めてゆけばよいのであり、

何も生活感があふれる結婚後の話などをする必要はない。

一人間としての透谷と、詩家としての透谷の意見が混じり、統一されていない。

また、冷めてゆく気持ちを厭世詩家という特別な自分のせいにしたがるような文体になっており、

このあたりは完全に透谷の独りよがりに見受けられる。

透谷は自身の理想の女性像を詩のなかの恋人としたが、これは時代を超えて変わらぬ恋愛論のあり方である。

透谷は、己の理想の恋に恋をしていたのだ。

現代でも男女を問わず、この点はまったく同じである。

そして、自己の現実とのたたかいのよりどころとして恋愛像を見たところも、

現代でいう「癒し系」という恋愛相手の捉え方となんら変わりがない。

透谷の恋愛観を通して、人間の恋愛観の普遍性を見ることができる。

透谷の恋愛観を、現代のものと比べてしまうと、そこには前述のような狭間が沢山ある。

しかし少なくとも、明治以前にはびこっていた古めかしい世間の恋愛間に正面から立ち向かい、

そしてその挑戦を経て自己の自信を取り戻しただけではなく、

世間に大きな問いかけをすることになった透谷の意欲は、大変評価に値するものである。

透谷の恋愛観の意義は、現代では通用しないが、当時としては抜群に新しいものであったのだ。

秋山国三郎 北村透谷が三日幻境に書いた文学の理想像

北村透谷にとり、民衆とは国や時代の流れという大きな力にひれ伏す弱い存在であった。

そして、いざその大きな力に飲み込まれた時に彼らが取る行動を見て、

民衆には二つのタイプがあると透谷は考えていた。

すなわち、物事を悲観的に受け取り、絶望し、諦めてしまうタイプがその一つであり、

他方は物事に憤慨し、激情に流されて無駄で無力な抵抗に走るタイプである。

この観念が、透谷の現実的な民衆の捉え方であった。

実際、透谷自身が前者のタイプに属しており、明治十八年に須長らが逮捕されたことを受け、

透谷が絶望し、脳病におちいってしまったという事実はまさに前者の典型である。

そのため透谷は自らを通して民衆の前者のタイプをよく知っていた。

また、同じ事件の後で一時の怒りに身を任せて有一館に飛び込んでいった大矢の姿に、

民衆の後者のタイプを知っていた。

この二つの具体的な経験などがあり、透谷は民衆というもののイメージをはっきりと持っていた。

しかし、その一方でこの透谷の民衆観に当てはまらない存在、

どうしてもその二つでは理解することのできない存在がいた。

秋山国三郎だ。

秋山は、透谷のようにすぐに絶望に落ちいるような精神の弱さを見せるようなこともなく、

大矢のように怒りで我を忘れることもなく、現実を受け入れ、しかし己のペースで人生を生きる。

秋山にとっては、外部のどんな出来事も己の内部の思想をいたずらに混乱させるものではなく、

あくまで己の頑強とした思想をもって物事をはかり、秋山なりの節を曲げずに人生を生きている。

透谷にとり、そういった秋山の姿は二つの民衆のタイプに当てはまるものではなかった。

しかし、透谷は秋山のような生き様を、第三の民衆のタイプとしても捉えなかった。

秋山の人間像は、透谷にとって幻であり、理想であった。

透谷が夢えがいた文学の理想像、そこにこそ秋山を当てはめたのだ。

私は、北村透谷が秋山のようなタイプを第三の民衆として掲げなかったのは、

それが現実的な力を持たない存在であり、

またごく限られた人しか対象にできないからではないか、という意見を持っている。

秋山が物事に動じず、己の節の範疇で行動できたのは、

彼の類まれな才能、彼の経験してきた人生があるからこそだと思う。

一般の民で、そのような資格を持つ人は少ない。

第三として掲げるには、あまりに非現実的な存在であり過ぎたのだ。

また、秋山のようなタイプは着目するべきだが、

世間を変える決定的な原動力とはなり得ないものだと思っていたのではないか。

あくまで特殊な、例外的な人間であろうと思っていたのだろう。

ただ、透谷は秋山の存在が気にかかって仕方がない。

それは何故か。

現実的な存在ではなくとも、透谷が持つ文学観に当てはまる人間だったからだ。

民衆を現実的な存在としてしっかりと見極めることは大切である。

しかし人生とは現実を見るだけで終わるものではない。

空想であろうとも、己が理想とするものがなくては成り立たない。

透谷にとっては文学が生きる道であるのだから、文学観というものを持たずにはいられない。

現実とは重ならないのかもしれない世界、しかし己が夢見る甘美な世界。

透谷は、秋山国三郎を取り巻く環境にそれを見ていた。

そして、透谷が創造したいと願う物語の主人公。

それを、秋山国三郎に見ていたのだ。

透谷にとり、「三日幻境」に描かれた老奇人は現実の民ではない。

文学にリアリズムの追求を行わない透谷であるから、

彼の作品に出てきた秋山はあくまで現実とはかけ離れた、文学のなかの一登場人物であった。

透谷の文学に出てくる秋山の姿は、透谷の理想像である。

透谷は、民衆全員が秋山のような存在であっては世間が成り立たないとは知っているが、

それでも理想の民衆は秋山のように生きるべきだと思ってみたりする。

この考え方は現実的にありえず、また望ましくないものではあるが、

透谷の文学は現実とはかけ離れたところにあるものであるから、現実で判断する必要もないのだ。

透谷に取り、秋山国三郎とは、己の夢見る文学の主人公であって欲しいと願う人物であったのだ。

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