戦前、日本国民の道徳とされ、倫理的な社会を形成していたものは父親を支柱とした家族制度であった。
この家庭を最小限の構成単位として構成される社会は、農耕民族であるわが国の伝統である。
さらに明治から続く政府の意図的な天皇信仰の影響は、民衆に天皇という絶対者意識を植え付けていた。
日本の民衆は常になにかしら超越的な拠り所に生活倫理を依存していたということができる。
しかし時代の流れは日本の独自社会をいつまでも許さず、西洋的近代化の波に日本も飲まれてゆく。
そこでは農耕中心の生活から、産業中心の社会に移行せざるを得なかった。
それも自然な段階を経ての発展ではなく、日清戦争・日露戦争の軍事活動に
不可欠である重工業等が国家資本に強力に推進されて急遽確立した産業革命なのである。
産業資本社会ではそれまでの家族総出で働く光景はなくなり、
父親の働く姿が直接家族の目の前から消えてしまうことで、農耕生活と前提とした強い父親像に矛盾が生じてしまう。
一方、国家の総帥である天皇の存在は戦争という特殊環境の中で
軍部に意図的に喧伝されたこともあり、超越的拠り所を強化されてゆく。
しかし、それも敗戦によって突然に、そして完全に崩壊してしまう。
民衆の道徳とされ、拠り所であったものが敗戦を機に瓦解してしまったのだ。
人はなにか拠り所がなければ生きてゆけないものであるから、
敗戦の後、無意識のうちにもなにかを拠り所としているものであろう。
小説は書かれたその時代背景を色濃く含むものであり、
小島信夫の『抱擁家族』では否定的な書きかたをしているが、戦後の家族の姿を浮かび上がらせている。
父親像の崩壊がある。
妻の言葉に振回され、妻の姦通にさえ断固とした態度が取れない弱い夫であり、
家族と一緒に歩いてもらえないほど家族からは恥ずかしい存在に成り下がっている。
すでに父親としての尊厳を失っている俊介ではあるが、「家の中をたてなおさなければならない」と自問することがある。
だがそれは決して行動に結びつくことがない。
父親の責任がないのである。
それと比べてアメリカの若者のジョージが自分は両親と国家に対して責任を感じると言う場面があり、
俊介に代表される当時の日本の父親とは対照的に、国や親という強い拠り所を持っている人間がいることが強調されている。
農耕生活における強い父親像と、国家の主柱である天皇を失った当時の日本社会の不安定な状況を浮き立たせると同時に、
当時の日本の支配者であるアメリカという存在の大きさを示したあからさまな例ではないだろうか。
父親の衰退は、同時に母親の進出を可能にさせた。
それまで絶対的権力があった父親の下で過ごしていた母親を解放したのである。
無論、すぐに社会に上手く溶け込むわけがなく、その極端な例が時子である。
急激に変化した社会や生活水準の中で自らを成熟させる時間がなかったのにもかかわらず、
閉鎖的な家庭を出ようとして自己崩壊してしまった妻の姿である。
封建時代の女性を拘束したものの象徴は家であった。
時子は家の中に連れ戻されるのを嫌い、家の外を塀に囲まれるのを拒んだ。
母の役割が家の中で家族の生活を支え、家を守るものだとされてきた時代とは逆転している。
また、夫婦間でお互いに望むものがすれ違っている。
強い夫とそれに従う妻という従来の夫婦関係を演じることのできない彼らの家庭には最早家長制度は存在しない。
お互いの身体を交わしてのセックスのみが彼ら夫婦に残された唯一の接点であるのに、
それにすら「なにか充実した換気」を感じることのできない夫婦である。
なにかしらの拠り所を求めているこの夫婦にとってはお互いの存在こそが
最後のこだわるべき関係であり、反発するようでもこだわりあっているのに、それすらも崩壊しているという無残な姿がある。
戦後の家長制度崩壊をもたらしたのはアメリカに代表される敗戦であるから、
そのアメリカというものの影響を扱うことは戦後主題のひとつであった。
『抱擁家族』でのジョージの存在が家長制度を崩壊させる直接の原因となったのが象徴的である。
また、欧米的近代化によってそれまでのしがらみから開放され、社会に台頭したのは女性である。
『抱擁家族』での時子の行き詰まりは否定的な観点ではあったが、
女性の新たな活動こそが戦後の国民大衆の特徴そのものであり、戦後主題のひとつであった。
家長制度と天皇崇拝という日本民衆の倫理的支柱が瓦解した戦後に、人は何を頼りに生きてゆけばいいのか。
それを模索するのが文学的戦後主題であり、
『抱擁家族』では価値観を見つけようとして見つけることができない無残な夫婦を描くことで否定的にではあるが、
新しい家族のありかたを描いている。