1920年代のイギリスでは百万人規模の慢性的な失業者が発生していた。
世界恐慌による経済打撃がこれを後押しして、1930年代には実に300万人にも失業者が膨れ上がっていた。
この事態に直面したケインズは、必要に迫られて新しいものを生み出すことになる。
ケインズは伝統的な経済学の理論だけでは今の失業者問題は解決できないと思い、
問題となっていた働きたくても職を得ることのできない失業者たちの存在に焦点を合わせて理論を組み立ててみた。
労働市場で需要が不足しているときはどうしても失業者の発生を防ぐことはできないという
不完全雇用を前提としたところに、ケインズの特徴を見ることができる。
伝統的な理論の問題は、働きたいと希望する人はそもそも全員が雇われるという完全雇用が前提となっていたのである。
失業者とは離職直後から次の職につく間の一時的な失業か、
自発的に働く意思を見せないための失業かで、いずれにしても働きたいと思えば
いつでも職を見つけることができる状態が伝統的な理論の出発地点であった。
この従来の理論では失業者が発生する理由を、労働市場における重要と供給を
均衡させる賃金率よりも高い賃金であることによって説明する以外なかったのである。
高すぎる賃金の切り下げを労働組合が許さず、雇用主としては
一定の雇用賃金上限に達していることから更なる雇用を求めることがなく、
その結果として雇用が縮小して失業者につながっている、というものであった。
賃金が下がれば雇用主は下がった分で別の新たな雇用を生むことができ、労働市場に供給が発生して需要が満たされる。
この繰り返しを続ける限りは全ての人が雇用されることにつながる。
これが伝統理論での失業者の発生原因であるから、失業の原因は賃下げを認めない労働者たちにあると結論付けていた。
しかしこの理論では現実として慢性的に発生している失業者問題はいつまで経っても解決できない。
また、労働者たちに一方的に賃金切り下げを要求するのでは
労働者に対する搾取が一層ひどくなるばかりで景気回復に対する決定的な修復につながるとも思えない。
そこでケインズは投資者階級に注目して、景気が良くない時代には投資家たちが投資を躊躇して、
現金をそのまま資産として自分たちの手元に置きがちなことを指摘した。
人は誰でも危険性があるなら投資をすることはなく、貯蓄に回すだろう。
先祖代々から富裕層に蓄積されてきた富は社会に出回ることがなく、
ただ蓄積されているだけでそれが企業家に経営資金として投資されることはない。
投資家は、企業家に資金を投資して利益を得るということに若干でも危険を感じると、
現金で持っておいた方が安全であると判断しがちであるのだ。
従来の理論では経済活動の末端である労働者に失業の原因があるとされていたが、
ケインズはまるで逆の指摘を行い、大元の投資家にこそ責任があることを指摘した。
そして金融利子率を下げて、投資家が現金のまま手元に富を留めておくことをしにくい状況にすることで、
積極的な投資につなげることを提案した。
民間投資で足りないのならば、政府による大規模な公共投資が景気の活発化には欠かせないことを指摘した。
つまり、お金を持っている人はそれを貯蓄に回すのではなく、消費や投資に当てるように累進課税を導入するなどの工夫をすること。
それは貧しい人たちの貯蓄まで吐き出させることを意味しているのではなく、
豊かな人たちが貯めているお金を市場に循環させることが大事だと説いている。
投資が加われば供給につなげるために新たな労働需要が生まれる。
こうして非自発的失業は、有効需要の不足から生じているとケインズは結論付けたのだ。
その中でもケインズは公共投資によって経済の活性化と新たな雇用を生み出すことが、
失業者問題を解決する方法であると重要視した。
こうして失業者はidle manとして個人の責任にされていたものが、
社会の責任になり、政府が景気対策の前面におどりでたのである。
こうした上からの雇用供給は、景気変動を安定的に動かすための「ビルト・インスタビライザー」と呼ばれており、
それを操るのは国家であるという主張がケインズの論なのである。
マルクスの論で注目すべきは、失業者は仕事が足りてないから
はじき出された不幸な人たち、と労働者に同情的に考えているのではなく、
資本家が労働者から労働力を買うときに発生してしまったやむを得ないものが失業の正体である、と論じている点である。
労働力を使った生産過程で発生する「剰余価値」が資本家にとっての利益につながるものであるが、
自然状態にあるときにはそれを全て資本家が消費するのではなく、
少なくとも一部は更なる資本の蓄積に充当されて生産拡大につながってゆくとマルクスは説いた。
更なる生産拡大が可能であると見越した資本家は、
「剰余価値」によって得た富である「可変資本」を、更なる「剰余価値」を期待して
労働力の購入に充当させるが、そこでの必要な労働力の読み違えによって相対的な過剰人口として失業者が表面化してしまう。
「産業予備軍」とマルクスが呼ぶ失業者たちは、国家の政策上のミスではない。
また、賃上げを拒む労働組合や失業者自身のせいでもない。
必要とされる未知の労働力を正確に把握できなかった資本家の過ちでもない。
ただ、経済活動をしてゆく中で仕方なく発生してしまうもの、すなわち必要悪なのである。
そして、この「産業予備軍」たちは必要な人手が他の部門の生産を害することなく
入手可能な便利な存在になるし、資本主義的生産が自由に営まれるためには、
労働者人口の自然的限度に制限されない産業予備軍の存在が不可欠なのであると
マルクスは結論付けて、失業者たちをあくまで肯定的なものとして認識している。
ケインズは市場だけでは解決できない問題において、
公共事業という切り札を持つ国家が唯一解決可能な存在だと捉えていたが、
マルクスにおいては国家にその役割を要求せず、
政治解放された投資家・企業家・労働者たちが経済活動の中で解決すべき問題とした。
マルクスにとって国家とは疎外された人間の類的本質が空想的に外在化されたものであって、
あくまで民衆は国家に何かの解決を求めるのではなく民主的に問題に向き合うべきだとした。
ケインズも政治の面ではあまり民間に干渉しない小さな国家を求めているが、
経済活動においては国家に労働供給をコントロールする大きな役割を期待している。