これが今の私にできる、とびっきりのアート。
美しいものに美しいものをイメージで重ね合わせていたとき、私は閃いた。
アイディアに生命が吹き込まれた瞬間。
月灯りの東大寺に、ミュージシャンと仏像、山焼きの炎と千人の観客を集めたら、みんなで手を取って、
奈良の大仏様の周りを歌いながら歩こう。
それが私の美しい空想で、勇気を振り絞って会社に提案してみたら、本当に私が企画することになったの。
信じられない。ホント、夢みたい。
そんなアートの香りがする仕事を私の手で実現させる、と思ったらあまりの光栄さに肌が震えてきた。
私は広告会社「ケンボックス」で企画の担当をしている。
いつもは企業広告ばかり。
もっと現実的で、もっと企業利益に直結したもの。
言葉を活かす、という意味でそれも悪くないけど、実務に追われる会社生活の中で、
私はいつしか空想的なアートを求めるようになっていたみたい。
でもこんなクリエイトな企画の経験なんてないよ。
周りの誰も突飛過ぎて理解できなかったけど、広告担当の役員と話をしていたときに、
このことを話したら興味を持ってくれて、提案書にまとめたら役員一人の権限で採用してくれた。
だから普通じゃないよ、このお話は。
職場から段階を経て上がった着実な提案じゃない。
私一人のプライベートなアイディアに、気まぐれな役員がOKを出しちゃったような、
そんな事故性の高い生い立ちなの。
私の心は震えた。
やってみたい、実現させてみたい。
これってきっと人生の中でも滅多にない、流れ星のようなチャンスなのでしょう。
心にある詩的な部分を惜しみなく出し切れば、この企画も必ず実現できる。
どこにも根拠はなかったけど、私はそう信じて疑うことがなかった。
ぼんやりとしたイメージをなんとか形にしようと最初に奈良を訪れた時から、
予知していないことばかりが重なる旅になった。
私が「奈良アートボックス」と名付けたこのアイディアには、
本当に個人的なこだわりばかりが詰まっていて、是非とも参加を呼びかけたい方々がいた。
それは奈良のお寺の仏像たちで、普段はそれぞれのお寺で人を説いている彼らに、
なんとか一同に会してもらって、舞台を創ってみようと思っていた。
仏像ファンっていう私的な趣味もあるけど、
それ以上に美しいものを美しい場所で見てみたいという美意識の表れのつもり。
もちろんそれって簡単なことじゃないよ。
一人一人が絵舞台の主役になれるような仏像たちばかりを
集めようとしているのだから、余程魅力ある企画にしなくちゃ釣り合わないでしょう。
場所は東大寺だと決めていた。
奈良を代表する舞台で、何もかもを抱擁してくれる偉大な存在の奈良の大仏がいる。
仏像スターたちを数多く招いても、枠の器量が狭すぎては困るから、
それをクリアできる場所はどこかと考えると、東大寺しか思い浮かべられないのだった。
だから仏像たちが東大寺に集う、というイメージは最初から思い描いていたこと。
夢はそれだけじゃないよ。
そんな場所には歌が、音楽が欲しかった。
ミュージシャンたちを呼んで、それでみんなが集まったら一緒に歌って、一緒に歩くの。
時間は夜がいいな。お月様は必要だよね。
松明の灯りなんて素敵。観客たちも数百人限定で集めてみたい。
――なんか理想ばっかり。
奈良へ向かう新幹線の中でそんなことばっかり夢想していたら、
営利企業のビジネスだ、ってことをどんどん離れていって、
アートならどこまでも行けるけど、採算取れないんじゃないかなぁ、ってマジメに思えてきた。
たった一人だけ伝手があった。
以前に奈良で仕事をした時に、新薬師寺のバサラという仏像と出会った。
その彼が印象的だったから、私はこの奈良アートボックスをイメージしていたのだと思う。
まずはそのバサラに想いをぶつけてみて、そこから企画を創ってみよう。
バサラ自身がひとつの物語のように詩的な方だったから、
彼一人を中心にして、奈良の美しい部分を集めてしまえば
それだけで美しいものになるとは分かっていたけど。
私が創る、奈良アートボックス?
いいえ、私が何かを創り上げるなんておこがましいよ。
元々奈良に散りばめられている美しいものを、私が一箇所に寄せ集めてゆくだけ。
それが私の力だなんて馬鹿馬鹿しくて笑えてきちゃう。
素材の魅力を引き出せるかどうかが、私の仕事なの。
奈良駅からタクシーを拾って奈良公園の横道を走る。
狭い小道に入ると見えてくる、新薬師寺。
あぁ、ここだったわ。以前に来た時と何も変わっていないのが不思議。
門をくぐって本堂に入ると、いるわ、あの人。
沢山の観光客たちに囲まれていても、ただ静かな姿。新薬師寺のバサラ。
近寄って会釈をすると、バサラも返してくれた。
私は本堂を出て、訪問客たちが帰る時間を待つことにする。
秋の萩で有名な新薬師寺の庭園を散策していると、丁度二年前にここを訪れた時のことが思い出されて。
あれは昔から担当していた企業の広告依頼だった。
その会社にしかできない技術力で、千二百年前の仏像の色を復元しようという仕事があって、
演出や広告を担当させていただいた。
その復元対象が、ここ新薬師寺のバサラという仏像だった。
閉館間際になるとバサラが出てきてくれた。
「お久し振りです、ケンボックスの長谷川明日香です」とお辞儀すると、
「よく覚えていますよ、たったの二年ぶりじゃありませんか」と彼は笑った。
それはね、千二百年を永らえているバサラにとっては、
二年なんて大した時間じゃないのかもしれないけど。
改めて新薬師寺本堂内に案内されると、厳かな雰囲気の中で多くの仏像たちが並ぶ空間は
小さな私が呼吸するのを遠慮してしまうぐらい特別なの。
周りの十二神将たちも私を覚えてくれていて、
「先日の仕事がDVDになりましたから、ああして訪問客のみなさんにもお見せしているんですよ」
と言ってDVDコーナーを指差した。
堂内の一角には大きなテレビディスプレイと椅子が並べてあって、
千二百年前の色があった頃の十二神将の姿を見ることができるようになっていた。
そうだ、今では土の色だけが残っている彼らも、
千二百年前は朱、群青、緑、金に光るド派手な仏像だったんだ。
そのDVDの編集は私の仕事だったから、もちろん何度も見ているよ。
あの時はびっくりした。
塑像って元からシンプルな土の色だけだと思い込んでいたのに、
長い時間に風化した部分を技術者たちが調べてゆくと、
元は豊かな色に彩られていた仏像だってことが分かったの。
その色も何て言うのか、現代でも特異に思えちゃうぐらいに派手な色使いで、
今に残された彼ら塑像の色落ち具合とはまるで逆の方向を向いていたから、
驚きっていうか、ショックっていうか、とにかく意外なことだった。
何が嬉しいって、そのDVD のことを誇らしそうな表情で紹介してくれている十二神将たちだよ。
気に入ってくれているのね、ご一緒させていただいたあのお仕事を。
忘れられない記憶のひとつよ、あのキラキラに輝く十二神将の若い肌を復元したときのことは。
「今日はちょっとお話があるのよ、奈良公園まで歩かない?」
そう言って私はバサラを外に誘った。
「こんな素敵な場所じゃ、雰囲気に呑まれて何もしゃべれなくなっちゃうから」
と言い訳がましく言いながらバサラを連れ出すと、
十二神将の真ん中に座っているボスの薬師如来が、
通り際にひときわ大きなウインクをして、愛嬌たっぷりのスマイルで送り出してくれた。
面白いの。
十二神はみんなひどく真面目な顔をして立っているのに、
ボスの薬師如来だけが一人違ってお調子者なんだから。
あんなにキャラが違っていても上下関係が成り立っているんだから、
他人には分からなくてもなんかそのバランスがぴったりなのでしょうね。
ちょっと強引だったけど、そうしてバサラと一緒に奈良公園を歩くことにした。
「あの時の技術監督だった寺尾さんが
今年出世してマネージング・ダイレクターになったんだってね~」
とかありきたりの会話をしながら春日大社を通る。
それで東大寺近くになってきたら「実はバサラ、あなたにお願いがあるのよ」と切り出して、
ようやく本題を話し始めた。
夕方になった奈良公園には修学旅行帰りの学生さんたちと、家族連れの観光客たちの幸せそうな姿がいっぱい。
街の喧騒を離れて、穏やかな空気に溢れているのが奈良公園の好きなところ。
「バサラ、私はアートがしたいの。あなたに、是非参加して欲しい」
思いのままに私はしゃべった。
奈良の仏像たちを一同に集めたいこと、できれば東大寺の大仏殿に集まってもらって、
音楽と一緒にみんなで歩く企画をしたいこと。
そんな夢みたいなお話を、バサラは相槌を打って聞いてくれた。
しゃべる途中を遮ることもなく、ただ静かな表情でバサラは耳を傾けてくれていた。
ミュージシャンのことを話している途中に、
東大寺の寺務所沿いを歩いてきた僧がバサラを呼び止めた。
「バサラさん。お久し振りですね、お変わりありませんか?」
「これは東大寺の。こちらは変わらずですよ、
ちょうど今この客人と東大寺の話をしていたところでしてね」
そう言うと僧は嬉しそうな表情をして
「それはそれは。金堂に行くところですが、よろしければ、ご一緒にお茶でも飲んでゆかれますか?」
と親切に声をかけてきてくれた。
願ったり叶ったりだったから、
もう閉館して薄暗くなり始めた大仏殿の中を歩かせてもらうことにした。
参拝客では入れない大仏殿の境内に座って、お茶を頂く。
大仏殿は初めてではなかったけど、東回廊を歩く時から僧が色々と説明してくれて、
ちょっと修学旅行生みたいな気分になった。
「住職によろしくお伝えください。
この方とまだ話があるから、もうしばらくここに邪魔させてもらって、自分たちで出てゆきますから」
とバサラが言うと、僧はお辞儀をして奥へと歩き去った。
こんな場所で話ができるのは二度とないこと。
私はもう一度彼に問いかけた。
「バサラ、こんな時間なのよ。
この暗闇の大仏殿で、松明の灯りを受けて
あなたがた仏像がミュージシャンと競演するの。
音楽に合わせて、千二百年の重みがあるあなたがお経を唱えて歩くの。
安心して、音楽とお経が上手く溶け合うように、私が組むから。
奈良の大仏様が見守ってくれるこの素晴らしい場所で、
そんな企画ができるのなら私、光栄のあまり倒れちゃうかもしれないよ。
私はそんなアートがしたいの。してみたいの。
バサラ、どうしてもあなたには参加して欲しいから、
こうして一番最初にお願いしに来ました。
他にも、興福寺の阿修羅や阿吽の金剛力士でしょ、
天燈鬼・竜燈鬼や、秋篠寺の伎芸天像に、東大寺戒壇院の広目天像もそう、
有名な仏像たちにも声をかけてみるけど、あなたには是非とも参加して欲しいのよ。
この大仏殿で一生忘れられないような美しい企画をやってみたい。
バサラ、どうかな?あなたは参加してくれるかしら?」
するとバサラがにっこり微笑んで、こう言ってくれた。
「あぁ、参加させてもらうよ。
そんな時間を、仏像仲間や明日香と共にできるなんて素晴らしいじゃないか。
実現させて欲しいな、それは。僕も協力するから」
そう言ってくれたから、私もすっかり喜んで満面の笑みを見せちゃった。
「でも困ったよ。今の話でひとつだけ問題がある。
だからと言って参加しないわけじゃないけどね」
びっくりして「どうしたの?」と聞いてみると、バサラは随分照れくさそうにこう話し始めた。
「いや、個人的なことだよ。
いいかい、今日は明日香が本気の話をしにきているって分かったから、
僕も本気で話すよ。それは分かっておいてね」
意味深な前置きなんてして、いつも冷静なはずのバサラがわずかに動揺しながら、言葉を続ける。
「さっき明日香が名前をあげた仏像の中に、僕の昔の恋人がいるんだ。誰とは言わないけど」
でも女性の仏像なんて一人しか口にしてないじゃない。
へぇ~、伎芸天と。
「別れてから何百年も逢っていない人だよ。
もう一生逢うことはないだろうと思っていた人なのに、
さっき明日香が口にしたことはその運命を変えてしまうことになるね。
どれだけのことか、分かってもらえるかな」
数百年の別離。
しかも仏像同士の恋だなんて、まるで現実離れした夢の国の物語かと思った。
「――はい。随分重いお話なのね。ひょっとして、私、悪いことしている?」
そこは変わらない表情でバサラが続ける。
「いいや、いいんだよ。もう遠い昔のことだからね。
あれから長い時間が流れて、何て言うのかな、欲望とか喧嘩とか、
当時の若い僕の心にあった醜い角がすっかり今は取れているから、もう大丈夫さ。
少なくとも僕は大丈夫。
彼女もきっと、大丈夫だろうよ、大丈夫だと信じたいよ」
新薬師寺のバサラと、秋篠寺の伎芸天。
当人同士にしか分からない感情でしょうね。
「僕は思うんだ、愛し、愛された経験があるから、今は他人を愛せる。
彼女は七百年前に火事で半身を焼失するという事故に見舞われてね、
その時に僕はちゃんと彼女を受け止めてあげることができなくて、二人は壊れてしまったんだ。
半身を失った彼女の傷は相当深かったはずだよ。
あれから別の半身を補って今は幸せに暮らしていると聞いているから、
何も僕が口を出すようなことはないんだ」
初めて見る、バサラの中の影。
そんな部分、今まで全然見せようとしてなかったのに。
「僕もそれから急速に色を失っていったけど、ボスの薬師如来と巡り合えたし、
十二神将という仲間や七千人の部下に恵まれて、満たされた時間を今は過ごしている。
後悔は深いよ、あの時どうしてちゃんと彼女を抱きしめてあげなかったんだろう、
って考えると昔の自分が許せなくなる。本当に、後悔は深い。
もう過ぎたこと。時間も経ち過ぎた。
年を取れば取るほど選択肢がなくなっていって、
あとはもう今まで自分が築いてきた道を真っ直ぐ進むしかないんだ。
ほら、人は社会的な動物だから、周囲の人々と共存しないと生きてゆけないね。
今が嫌だからって、別の明日に移り住んだとしても、
結局はどこも住み難いものだと分かったときに、ようやく今を愛しく思うことができると思う。
だから今はもう、自分に与えられた唯一の道を歩くだけだよ、僕は」
長い独り言を終えて、バサラは顔をあげた。
大仏殿はすっかり暗闇に包まれていたから、バサラがどんな表情をしているのか分からない。
きっと、そこにはいつもの憤怒の感情はなかったと思う。
吐き出して、すっきりした表情が見れたのかもしれなかった。
「ねぇ、今逢ったら、僕、笑ってしまうかもしれないよ!」
急に明るい声色でバサラが言った。
「だって七百年ぶりだよ、七百年ぶり。
心では想い続けながら、でも直接逢ったことは一度もなかったし。
それを今更ねぇ、今更逢っても、どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのかな?
想像できないし、考えられないし、誰かに教えてもらいたいぐらい。
いい年してるくせに、彼女が僕をどう思うのか、なんてことで不安になっちゃうぐらいだよ。
これってヘンだよね、僕は新薬師寺のバサラなのに、
七千人の部下を統括する名将・バサラ様なのに!あははっ!」
もしかして笑っている?もしかして泣いている?
そんな自虐的な言葉、バサラから聞くとは思わなかったよ。
残酷なことなのかもしれない。
それとも、偶然でも喜んでくれているのかな?
言葉の上ではバサラは賛同してくれたし、運良く夜の東大寺に入ることができたので企画のイメージも
膨らんできたけど、なんか次の展開ってまだ想像の世界だな。
――きっと美しいものができるよ。
私はそんな自信を持つことにした。
仏像と音楽だけじゃない。
偶然にも、密かな恋の物語も含むことになった。
このまま企画が進んでゆければ、他にも予想しない物語が入ってくるのかもしれない。
だからきっと、美しい物語を創り上げることができる。
私はそう信じようと思った。
東大寺の門を出て、奈良駅へ向かう明るい場所までバサラが送ってくれた。
「今日はありがとうございました。
もう一度言っておくわよ、来年必ず実現させるから、
あなたには絶対に参加して欲しい。
待っているわ、バサラ。それじゃぁ、またね。」
微笑み半分、複雑半分な色の表情で、バサラは返事をしてくれた。
「分かったよ。僕も楽しみにしている。他にはない時間になる気がするよ」
翌日、秋篠寺にも行ってみることにした。
長身の美女で知られるその伎芸天の姿を見に行こうと思って。
もちろん、バサラには内緒だし、バサラとのことも心にしまっておいてだよ。
そこは奈良公園から外れた、静かな住宅街の一角。
修学旅行生の姿も見ることのない、小ぢんまりとしたお寺。
南門をくぐり、見事に敷き詰められた苔庭を見ながら本堂に向かう。
伎芸天を見るのは初めてだった。
有名なお寺だし、有名な仏像だけど、普通の観光ではまぁ奈良公園だけだし、
行っても薬師寺や唐招提寺の方しか行かないんじゃないかな。
今日はまだ出演のオファーなんて口にできないし、何もお話するつもりはない。
素敵な仏像に逢いに来た、ただそれだけ。
それで本堂の敷居をまたぐと、いらっしゃったよ、私は一目で圧倒されてしまった。
彼女は、美しかった。
大柄で、私を高く見守るように上背がある。
そのやや傾いた体躯には気高い美しさが漂っていて、
加えて大人の女性の色香がなんともいえず溢れ出している。
表情はやや諦めたかのような悟りの境地。
世の物事を受け入れつつも、愛や美醜の理解が漂う。
遠い場所で世の中を見守ってくれるかのような大きな存在。
私みたいな小さな人間とは全然違う世界にいる。
この直感に大きな間違いはないと思った。
だからただ両手を合わせて伎芸天を拝み、
堂内の他の仏像たちとの千年級の時間の流れを味わった。
この貴重な仏像たちを、私たち人間は千年以上も守り継いできたのだから、
人間も捨てたものじゃない。
こんな宝物が、目の前すぐに並んでいることの奇跡。
秋篠寺の仏像たちを代表して伎芸天には是非とも東大寺に集まって欲しい。
バサラとのことがなくても私はそう思ったことでしょう。
入口で貰った案内を見ると、伎芸天について説明があった。
七百八十年頃に生まれた彼女は、千二百八十九年頃に半身を焼失していて、
頭や顔は元のままでも、身体は五百年後の時代に作り改めたものだと言う。
その焼失の時期がバサラの言う二人の恋とどう関係しているかは、
こうして彼女を眺めていても分からないけど、
焼失によって負っただろう彼女の傷の深さは伺い知ることができる。
バサラとのこと。彼女を見ていたらますます何も言えないと思った。
失った身体や恋に執着している気配がない。
だからといって、新しい身体に満足していないような気配もないの。
五百歳差のある身体に上手く迎合していて、身体も顔も雰囲気も含めて、
今こうして見てもまるで一本の木から出来ているように、美しさが統一されている。
出逢った次の恋で、彼女は失ったものを補い、今の美を完成させたのかしら。
それで満たされた心が今も続いていて、
傾きの美と滅びの美を呑み込みつつも、再生の美を誇っているのでしょう。
その美しさに私は圧倒されるだけ。
美っていう言葉をこうして文字にするのは簡単でも、
その美を身体から発するっていうことは、容易にできることではないから。
バサラ。あなたも彼女を失ったことで、今の永遠の守りを手に入れたのでしょう。
彼から感じる強いメッセージ、堅固な守りと強い意思は、後悔や失敗の賜物。
そうだとしたら、二人の恋と別れが全てではないにしろ、
当時の出来事は二人を今こんなに豊かに、美しくさせた大きなきっかけになった。
なんだか、物事を超越している二人の仏像たちね。
もうこのままで十分美しい二人。再会する必要なんてないみたい。
それなのに、関係ない私が二人を引っ掻き回して、再会させてしまう。
それは罪には問われないかしら。
想像してみれば、美しい世界ね。
まだ若くて全身に色を持っていたバサラと、
今とは異なる美のある本来の身体を持っていた伎芸天が、愛し合っている風景。
遥かな時間の流れの一渦には、そんなこともあったの。
恋も人生ならば、失恋もまた人生。永遠の失恋なんて美しいものじゃない?
私は心を鬼にしようと思った。
無理に逢わせる必要がないのは承知の上で、それでも二人には再会してもらいます。
今更二人をくっつけようという心じゃなくて、二人のその心に新しい風を取り入れてもらいたいから。
一目でも逢えば、二人の心には未知の感情が生まれるはず。
それが大罪でも、私は受け入れる覚悟をするわ。
思い出だけを温めていた二人の七百年の壁を私が壊してみせる。
きっとそこには美があって、奈良アートボックスの美しさに華を添えてくれるに違いないから。
昨年、バサラと仕事をしている中で彼が印象的な言葉を言っていた。
「僕はもう相手から何かを与えてもらうことを望むのではなく、
自分から相手に与えることへ完全にシフトしているんだ」
そう確かに彼は言っていた。
バサラは何も求めていない。
この私から何かを与えてもらうなんて期待すらしていない。
それでも私は動かしてしまおう。
新しい風が作用して、バサラに刺激を加えさせるため。
私たちを最終的に動かすものは心ね、心。
若い頃は欲望だとか、外見だとかが動かしていたけど、
なんて言うのかな、そんな青くさいものが滅びてきたら、次は内存している感情が爆発してきた。
物質じゃなくて心で、私は心で突き動かされるようになってきたの。
千二百年前、同じ天平時代に生まれて、同じ時間を生きてきたバサラと伎芸天も、
そんな膨らむ感情を抑えて生きているのかな。
今、二人を見ていて共通して感じるのは、すっかり落ち着いてしまった外見の様子。
派手じゃないからつまらない?いいえ、年を重ねれば分かると思うの。
過去の後悔の反動が、二人を美しくさせているのよ。
この美が分からないっていう人は、貧しい心と乏しい経験しか持ってない人に決まっている、
ってちょっと私は馬鹿にしたぐらい。
東京に帰ると、私は具体的な企画書の作成に取り掛かった。
会社のメールアドレスには早速バサラからのメールが入っていて、
彼は凄い約束を取り付けてくれていた。
「明日香、いいお知らせだよ。知り合いの仏像たちを紹介しよう。
東大寺戒壇院の四天王と、三月院の日光・月光とは親交があるのですぐに承諾をもらったよ。
それから、まだ若いんだけど円成寺にいる
25歳の運慶という大日如来も才能があるからいいかな?
東大寺の住職は知り合いだから話を通すこともできる。
あとの仏像たちは君が集めてくれ。
他にも出来ることがあれば力になります。
その日を楽しみにしているよ」
涙が出るほど嬉しかった。
ぼんやりとした細い夢に、何種類かの色がついてゆく感じ。
これで参加予定者の欄に具体的な仏像名を入れることができて、
最初の企画書を形にすることができた。
他の仏像たちがいるお寺にも、これさえあればオファーすることもできる。
私の夢が一歩ずつ近づいてくる足音が、聴こえてくるようだった。
次は音楽だった。
実際、こっちはまるで当てがなくて、どうすればいいか全然分かっていなかった。
そのくせ、どうしてもお願いしたいミュージシャンがいた。
私もわがままだから、どうでもいい人にオファーする気はさらさらなくて、
一番希望する人だけしか見えていなかった。
会社の人に相談してみると、人脈を伝って話を通すことができないなら
事務所を通す正式なルートでオファーしてみるしかないと言われた。
そうね、でもそれだけじゃないよ、私は。
この企画に対する情熱を書き殴った手紙を企画書に同封してみようと思った。
「これはビジネスを超えたアートのオファーなんです。
生意気かとは思いますが、毎日の中で美しいもの、詩的なもの、
そんなものを求めていらっしゃるのでしたら
是非ともこの企画に参加していただけないでしょうか。
月夜の東大寺で、仏像たちと一緒に歩きながら、あなたの歌声が聞きたいです。
他の誰でなく、あなたの歌声が聞きたいです。
どうしても金銭的には大きなビジネスにはなりませんが、
我々”ケンボックス”は最高のアートをご提案いたします」
それから待っている時間は長かった。
後はもう回答を待つしかないから、別の日常業務をこなして毎日を過ごす。
気が気ではなかった。宙に浮いたまま日々を過ごせば、それは酔いもくるわよね。
奈良アートボックスの発想と較べてしまえば、普段の仕事も生活も何もかもが、
薄まった色彩の、乏しい抑揚の、循環を失った一方的なエネルギーのように、つまらないものだから。
平凡な毎日はただ長く、ベッドに就く時のため息は止まらない。
はぁ。なんてありふれた一日だったのかしら。
会社で仕事をしていると、煌くような刺激はなく、
そこそこの一日で終わらせてしまうことがほとんど。
それはね、そういう普通の日の連続があってこそ、
とびっきりの一日が来るとは知っているけど、その日を待ちわびる心はとっても退屈。
ちょっとぐらい、いいえ、だいぶ辛くてもいいから、
引き換えに何か強烈な刺激のある一日ばかりがいいと思うのは、
日常に嫌気を催している私の病気かしら。
物語は突然に繋がってゆく。
ある日、パソコンの向こうを見ながら何気なくキャッチコピーを考えていたら、
「企画書拝見しました」という件名のメールが届いた。
事務的に開封してみると、
それはあの一番お願いしたかったミュージシャン本人からの返事。
「ケンボックス・長谷川明日香さん、企画書拝見しました。興味があります。
東大寺の舞台と、仏像さんたちが手配できたら、ここにメールしてください。
喜んで参加させていただきます。徳永英明」
あぁ。脱力っていうのかな、私は全身の力がなくなってしまって、
それから涙が出てきて、机に座ったままで目を涙に溢れさせてしまった。
まさか本人から連絡がくるなんて普通じゃないよ、
余程のことだよ、私の想いが本当に届いたのかもしれない。
こんな喜びってないよ。こんな幸せってないよ。
仕事をしていて、こんな嬉しいことってなかったよ。
私の夢をますます進められる。もっと深く夢を見られる。
点と点が線でつながり、形ができてきた奈良アートボックスという夢の続きを、
私は夢見ることができるんだ。
季節は秋へとさしかかっていた。
もう一度奈良に行く必要があると思った。
企画書の参加予定ミュージシャンの欄に「徳永英明」っていう決定的な文字を加えて、
再び奈良へと私は向かったのだった。
奈良に着くと、まずは東大寺の住職とのアポイントがあった。
バサラの紹介のお陰で逢うには逢ってもらうことができるけど、
そこからは実力勝負だと思ったから、バサラの同席を断って自分一人で東大寺へと向かう。
住職の言葉は明確なものだった。
場所を提供するのは問題ないし、希望している大仏殿でも
過去に何度もミュージックコンサートを開いているので支障はない、と。
ただし、使用料が無料というわけにはいかないし、
何よりも大事なのは”本物”の品質のイベントでないと断る、とはっきり言われた。
過去には世界的に有名なミュージシャンたちによる
1994年の「The Great Music Experience - AONIYOSHI」というイベント、
2008年には布袋寅泰によるロックオペラなど、
”本物”のコンサートが開かれているから、それと並ぶぐらいの企画でないとダメだと。
それだけ聞けば何が必要とされているのか、手に取るように分かった。
本物ね、本物。でも任せて頂戴、私のこの奈良アートボックスは本物しか見えてないんだから。
「それで時期はいつにしなさるお考えで?
今から色々準備するとすれば、せいぜい春以降でしょう。
今年の山焼きは恒例の1月ではなく、4月中旬までずれ込むとか。
その日は人が混み合いますから、避けたほうがよろしいでしょう。
5月からは修学旅行シーズンですからご配慮を」
山焼きって、近くの若草山に火を放って枯れ木を一掃する行事よね。
テレビで見た記憶があるけど、夜景に映える素晴らしい火のショーだったと思う。
1月じゃなく、4月。でも、それなら。
「住職、それはよいことを伺いました!
是非、その山焼きの日の夜に開きたいと思います。4月ですね?
美しいものを重ねるのがこの企画の趣旨ですから、そんな幸運、無視できません。
満月も重なるといいですね、月夜に山焼きの炎を重ねて、仏像と音楽の共演ですよ」
私が突然にそう言い出すもんだから、
さすがの住職もちょっと意表を突かれたのか、困惑の表情を見せた。
「はぁ、そういうお考えですか。
観客の行き帰りの道中や、宿の確保のことも考えたうえで進めるのなら問題にはならないでしょう。
さすがに万人は無理ですが、数百人から千人程度で、
割合早めの時間に終わらすのならOKを出しますから検討されてください」
そして住職は最後にこう付け加えた。
「もう一度言います。
クオリティー次第でははっきりと拒否しますし、あるいは喜んでご協力します。
でも、長谷川さん。あなたのアイディアはなんと素晴らしいのでしょう。
この東大寺でそんな仏像たちと音楽家たちの共演が実現するのなら、
アイディアは本物ですよ。
その夢は是非叶えてください。私からもお願いします」
ありがとう、住職。そうよ、この企画は貧しいアイディアじゃないの。
みんなの期待を背負って、実現させるのは私の役割。絶対に譲れないんだから。
その意識も新たに、次に私は興福寺へ向かった。
興福寺の宝物館にもまた、参加を呼びかけたい仏像たちがいたから。
少年のような爽やかな表情の、阿修羅。
憤怒の躍動感を体現している、阿吽の金剛力士。
軽みという笑いを湛えた悪戯小僧、天燈鬼・竜燈鬼。
一人一人にお逢いして、企画書を手渡して私の想いを伝えると、
誰も不思議と嫌な顔どころか、興味深そうに話を聞き、賛同してくれるの。
阿修羅は言ったよ。
「なんだか改心したみたいに、晴れやかな心持ちになれそうですね」
阿吽の金剛力士は言ったよ。
「誇張しすぎかもしれないけど、みんなの心が阿吽の息でつながれば」
天燈鬼・竜燈鬼は言ったよ。
「童心のままに、感情のままに楽しみましょう」
東大寺戒壇院に行くと、バサラから聞いているらしく、
四天王は「四方は我々が守ります」と協力を約束してくれた。
言葉には出さなかったが、彼らの物静かな動きの中にも、
わたしは内に秘めた強い想いを感じたのだった。
東大寺三月院の日光・月光は「それまでの月日が待ち遠しく」と言い、
目を細めながら嬉しそうに合掌してくれた。
少し車を走らせて円成寺まで行くと、25歳の運慶という大日如来は
池のほとりに座って、「仏像アートの新たな第一歩を刻みましょう」と
若々しい意気込みを語ってくれた。
それから秋篠寺に再度赴き、
ようやく伎芸天と向き合ってお話をすることができた。
彼女もまた耳を傾けて私の話を聞いてくれた一人だったが、
参加予定者にバサラという名前をちゃんと見つけたかどうかは分からない。
ただ、「心が傾きました」と言って趣旨には賛同してくれた。
直接お話をしてみると、やはり優しい表情をしていて、
色気は全身から匂い立つようで、全体が一本の線のように凛として美しい人。
女性の私から見ても魅力的な美人だった。
バサラ、あなたはバカね。こんな素敵な人を手放しちゃったんだから。
仲間が一人、また一人と増えてゆくことの嬉しさって格別。
何もかも、話が上手くまとまりつつあるの。
バサラに途中報告しようと新薬師寺に向かうと、思わず本音が出ちゃった。
「バサラ~。ウソみたいに上手くゆくのよ!どうしてかしらね~?
やっぱりバサラ様のお名前が効いたのかしらね~?運がいいだけかな~?」
くだけてご機嫌にしゃべる私に、珍しくバサラは笑いもせず、こう言い返してくるの。
「それは明日香の想いが本物だから。表情で分かる。空気でわかる。
本物は誰だって引き付けるものだから」
そうなのかしら?自分のことながら、私は信じられない気でいるよ。
私はただ、自分のやりたいことをしているだけ。
会社にかこつけて、自分のアートを現実させちゃおうと狙っているだけ。
それも自分の力じゃなくて、他人の力を借りてね。
だからバサラ、あなたは知らないかもしれないけど、あなたが私に魅かれるというのなら、
あなたに魅かれる私に、あなたが魅かれている。
つまり、あなたの素晴らしさを、私という鏡越しに見ているのがあなたなの。
この奈良アートボックスに参加しようとする人たちはみんなそうでしょう。
私はただの鏡。私に見る輝きは、みんな自身の輝きなのだから。
次は社内のオーソを取る段取り。
出演OKをとりつけた人たちをリストアップしてみると凄いメンバーばかりになった。
会場:東大寺大仏殿
仏像:バサラ(新薬師寺)、阿修羅(興福寺)、金剛力士(興福寺)、
天燈鬼・竜燈鬼(興福寺)、四天王(東大寺戒壇院)、日光・月光(三月院)、
大日如来(円成寺)、伎芸天(秋篠寺)
音楽:徳永英明
避けて通ることができない問題にお金のことがあった。
ケンボックスも企業だから赤字は許されない。
会場使用料や、仏像とアーティストたちのギャラ。
観客を千人集めて入場料を取ったとしても、それだけではとてもペイできない経費がかかるに違いない。
そもそもこの企画でお金が成り立つかどうかが分からなかった。
かといってプロに対して無償でイベントに出てくれ、とは失礼過ぎて言えるものではない。
とても頭の痛い問題だった。
映像をDVDにして販売したいとは思っていたし、スポンサーもつけて広告収入も考えてはいたけど、
果たしてそれがどれだけの金額になるのか。
ケンボックスの役員は「赤字でなければいいよ」とは言ってくれたけど、
私は若干でも利益はあげたいと思っていた。
収入と費用がイーブンでも会社名の宣伝にはなるけど、
それじゃ物足りないし、ちゃんと会社員としての責任も果たしたいなんて、私も調子が良過ぎるよな。
その問題はさておき、増えた仲間たちの名前を誇らしく書いて、
より夢に近付いた企画書を徳永英明にメールしてみた。
徳永さん、見てください、私はやりましたよ、
きっとあなたにも納得してもらえるレベルに持ってゆきましたから!
後はあなたがボーカルをとってくれれば、この奈良アートボックスに命が吹き込まれるのです!
そんな想いを込めてメールを送る。
それから、他のミュージシャンたちにも声をかけることも書いておいた。
わがままついでに、徳永英明と一緒に歌って欲しいミュージシャンたちがいた。
Salyu、伊藤由奈。それからEvery Little Thingと槙原敬之には
どうしても歌って欲しい曲があって、私はもう納得してもらえるレベルだと思ったから、
それぞれにお願いしたい曲を指名して、どんな場面でどんなに美しく歌ってもらうか、
私の頭にあるイメージを書き綴ってオファーをしてみた。
この奈良アートボックスは、音楽中心のコンサートとも違うよ。
仏像とお寺と音楽を融合させるというのがラフなイメージでも、
要は奈良にあるもの、引いては世の中にある美しいイメージを
かけ合わせたいと願ってのことだから、音楽ばかりの企画でもないの。
一人の主役がいなくて、みんなが主役。そんな感じ。
それをミュージシャンたちが受け入れてくれるかは若干の心配があった。
でもそういう心配を流れ雲みたいに消し去ってくれる返事が徳永英明からあって、
まだ幸運の輪が続いているんだ、って感じた。
「いいですね、素敵な仕事をされました。みんなでこの企画を盛り上げましょう。
私も共演者というか、一参加者に近い感覚でイベントを感じさせてもらおうと思います。
自分のスケジュールはもう抑えましたから、どんどん準備を進めて下さい。
お名前を挙げられたミュージシャンのうち、Salyuさんと伊藤由奈さんとは
共演したことがありますから、私からもお願いしておきます」
そうして点や線がますますつながってゆくの。
ホント、嘘みたいに話が出来上がっていって、私の最初の夢想のほとんどが実現しようとしているんだから。
この幸運って奈良の大仏様がもたらせてくれるものだって、思うようになってきたの。
東大寺の住職もこの企画のクオリティーを認めてくれたようだった。
詳しく台本を書いて、企画書を送ってみるとこんな返事があった。
「長谷川明日香さん、十二分に合格です。
逆にひとつ提案があります。
この企画のことをお話したら是非参加したいと言っているミュージシャンがいます。
その方から近いうちに長谷川さん宛てにメールが入るでしょう。
彼の本物ぶりは東大寺での過去二回のライブで証明済みです。
よろしければ仲間の一人として迎い入れてあげてください。
布袋寅泰というギタリストです。合掌」
このメールには本当に驚かされた。
こんなことってあるの?
あの世界的なギタリストが飛び入り参加を希望してくるなんて、
すごいリンクが東大寺とつながっているんだって知った。
「どうして俺を仲間外れにしちゃったのよ?!(笑)
こんな素敵なイベント、是非とも参加させてください。
ギターで奏でる宇宙も一興です。布袋寅泰」
しばらくしてそんなメールが本当に届いて、私は思わず西を向いて合掌した。
Salyuからは「世界に唯一、わたしのこの歌声を響かせたい」と来ていたし、
「終わらない物語をご一緒に」と書いてきたのは伊藤由奈だった。
Every Little Thingと槇原敬之からは連名で返事が来ていて、
「本当の優しさの意味が分かるイベントにしましょう」というコメントが添えてあった。
企画書は完成した。
会場も押さえたし、仏像たちともミュージシャンたちとも話はまとまっていた。
全てが上手くいっているように見えた。
でも、やっぱりお金の問題だけが解決できていなくて、
このままじゃいけないと思っていたから、私も必至だった。
スポンサーがつかないかとあちこちを走り回ったけど、
大手でもないケンボックスの企画を受け入れてくれるところはなかった。
後は限りあるお金の資源をどう分配するか、ということだった。
チケット代は五千円で、観客が千人だから、五百万円しか入場料収入がない。
DVDやグッズ販売もたかが知れているから、
ここから会場費やギャラとか経費を支払っていては全然足りない。
さすがに上司からは酷く怒られた。
「ギャラを払う人数が多過ぎる!
収入は限られているんだから、支出を抑えないと成り立たんぞ!
仏像とミュージシャンを半分断れ!!」
それは分かるけど、一緒にやろうと話した人たちを
今更断るなんてできるわけないじゃない。
これはなんとかしないといけない、しかもかなり本気で。
ほとんどの人たちにまだギャラの具体的な金額の話はしていなくて、
これから事務所や代理人を通して話をしてゆかなくちゃいけなかった。
最後の厳しい砦で、今まで私が目を背けていた部分だった。
バサラは最初からこう言ってくれていた。
「金よりもロマンに生きる。それが僕たちの生き方だ。
ギャラは下げていいし、ゼロでもいいぐらい。
仏像連中には僕から話をつけておくから安心してくれ。
その代わり厳しい条件を突きつけよう。
ロマン溢れたイベントにしてくれ。ギャラをロマンで支払ってくれればいい。
それだけだよ、明日香にお願いしたいのは。
大丈夫、僕たち仏像は生きるのにそれほど金がかかるわけじゃないし、
ミュージシャンの方々と違って設備がいるわけでもないから」
人生は、獲得したお金や物の多寡で優劣が決まる?
どうやら彼らがそうした立場に立っていないのは、はっきりしていた。
たまには甘えることも大事。
でもまだ早い。できる限りのことはしようと思った。
色々と紹介をしてもらい、スポンサーを探しては工夫をして、
なんとか数社と契約がまとまった。
これで原資をちゃんとギャラに回すことができる。
それでもやっぱりお金は足りなかった。
たいしてない私の貯金を切り崩してまで払おうかとも思ったけど、
それでどうにかなる問題でもなかったので、
率直にバサラに謝ると彼は笑って許してくれた。
「大丈夫、話を聞いた最初からお金のことは期待していないさ。
これは夢のイベント。
こっちこそチケットも買わずに参加させてもらって申し訳ないぐらいさ」
しかし、ミュージシャンの事務所の方はそれでは済まなかった。
「その金額では、こちらとしても必要なコストを賄うだけで終わってしまいます」
「チャリティーイベントじゃないんですから、もっと業界の常識をわきまえてください」
私は頭を抱えていた。もうダメだ、あっちを立てればこっちが立たない。
会社への利益を削ればギャラをもっと払える。
ギャラを払えば利益が飛ぶ。
収入を増やすのはもう限界だ。
かといってコストを落として質は下げては、何の意味もなくなってしまう。
どうすればいい?誰かに泣きつかなくちゃ。
誰かにお願いするしかないんだ。
結局、ケンボックスの利益をあきらめて、その代わりに
会場の目立つ箇所にケンボックスの社名広告を貼るということで役員を説得した。
ボランティアで働く会社員なんて惨めね。
好意で参加してくれる仏像たちに日当程度しか支払えないなんて、もっと惨めね。
みんなの好意に甘えつつ、不格好にも私はなんとか生きているの。
その代わり、アート溢れる企画にしなくちゃいけない。
それだけは私が死守する最後のラインなのね、と心に誓うのだった。
舞台は整った。役者は揃った。
日にちも決まったし、お金のことも最低限はなんとかクリアできた。
あとは堰を切った泥流のように、当日に向けて走り出すだけ。
待ち遠しいな。私の夢が叶う、その一日はどんな物語が待っているのでしょうね。
あぁ、本当にこんな仕事、私一人の力じゃできなかったよ。
みんなが互いにビジネスを超えたアートや詩的の世界で
気持ちを共鳴させることができたからのことね。
お金がギリギリでも成り立てば、あとはロマンに生きるだけ。
その日を笑顔で過ごすことができれば、みんな納得してくれるのかな。
自分が考えていた以上に、人生にはドラマがあるって、
この企画を通して私は知った気がする。
平凡な人生に一夜の煌きを。
こういうアートを私は続けてゆきたいって思った。
想像実験っていうのかな、想像すること自体がアートの始まりで、
夢の世界だと決め付けながら思い描いたことが、
まさかこうして本当に現実になるとは、どれだけ私は幸せ者なのでしょう。
きっと誰もが待ちわびている。
とびっきりのロマンを爆発させる日を夢見ている。
私の仕事の集大成、アートの最高傑作。
楽しみで、楽しみで、楽しみで、私はいてもたってもいられなかった。
東京と奈良で何度かリハーサルをやって、その場で色々なアイディアが出た。
決まりなんか最初からないから、良いものはすぐに取り入れてゆき、
よりアートの香りを高めたものが出来上がっていった。
リハーサルひとつを取り上げてもドラマに溢れていて、
一冊の本になるぐらいだけど、その完成作の本番当日こそはもう夢の世界のアートだった。
満月の夜、東大寺大仏殿前に千人の観客たちが集まってきた。
会場は闇の中にあって、いくつかの間接照明に照らし出されているものの、
観客たちの姿は東大寺の夜にまぎれている。
観客たちとステージが近い。
大仏殿前に設置されたステージは小さくて、バンドの機材を置いたらあとは限られたスペースだけ。
ステージ裏はもう奈良の大仏様。
大仏様の懐で、ミュージシャンたちが演奏するみたい。
少し距離をあけて、まだ火の付いていない木の櫓がステージ前を陣取っている。
会場の大きなモニターには若草山の様子が映し出されていた。
東大寺から若草山は直接見えない角度にあるから、このモニターが二点をつなぐ存在になっている。
今夜は穏やかな月夜になった。
風もなく、月だけが煌々と空を舞う。
ここ大仏殿前に電気の灯りは少ないのに、満月の灯りで足元が見えるぐらい。
またイベントも山焼きも始まる前なのに、ステージ上へ徳永英明がゆっくりと歩いてきた。
のんびりと手を振りながら、アウトドアチェアーを持って。
それでステージに彼が腰をおろすと、続いてSalyuと伊藤由奈がこれもゆっくりとチェアー片手に出てきた。
ステージ中心に腰かけた三人は、
なんだかリビングでテレビを見ているみたいにリラックスした雰囲気。
モニターには山焼きの準備に入った消防士さんたちが映っていた。
「おっ、もう少しで山焼きが始まりますよ、みなさん~」
徳永英明はテレビの司会者のように語り出した。
「僕はこうして直接見るのは初めてだけど、お二人は?」
と、まるで緊張感ない雰囲気で三人が雑談を始める。
会場は花火大会の開始を待つような空気だった。
観客たちも思い思いにリラックスしながら、その時を待っている。
まだ仏像たちの姿も、他のミュージシャンの姿もない。
それでモニターの中の消防士がいよいよ火を放つとき、
実況中継のSalyuと伊藤由奈は歓声を上げていたし、
千人のみんなはモニターひとつを見つめていた。
火は放たれた。
若草山に小さく火が灯り、次第に山全体へと火が回ってゆくにつれ、
千人から少しずつ拍手が加わっていった。
モニターが切り替わると、奈良市内から少し離れた矢田丘陵からの映像になった。
月に照らされた小高い若草山が、火に包まれようとしている景色。
解き放たれた炎は自由に若草山を呑み込んでゆく。
揺れながら、輝きながら、一息に燃え盛っていった。
「みなさん。僕は思うんですけど、」
黙っていた徳永英明が静かに口を開く。
「太陽には巨大なパワーがあるから、
僕たち人間が昼間に何かしようとしても、太陽エネルギーには負けちゃいますよね」
さっきまでと声色が違うから、みんな聞き入っている。
「日が落ちた夜にこそ、人間本来のパワーが証明されると思うんです。
この奈良アートボックスというイベントは、人間が創りだすアートが主役だよ。
だからこうして太陽エネルギーが弱まったとき、この夜にこそ開きます。
太陽に負けず、お月様と渡り合えるぐらいの美しさを、
僕たち人間も創りだせるんだって、それをみんなで証明しましょう」
千人の拍手の後、しばらく沈黙があって、徳永英明がモニター近くにゆっくりと歩いてゆく。
モニターには燃え盛る若草山の映像。それを近くで眺める徳永英明。
その景色がなんだか一枚の絵のようで、みんながそのモニターと徳永英明の絵を眺めている時、
突然全ての電源が落ちた。
モニターが消え、間接照明が消える。
「感じますか、この薄い明かりはあの若草山の炎です」
闇の中の徳永英明の声。
すっかり灯りのなくなった会場に薄く感じる空の灯りは、
直接は見えないものの、若草山の野焼きの炎だという。
その美しさに酔い始めた観客が拍手をする。
そうしたら間髪入れずにステージ横から出てくる、
火のついた松明を持った二つの影。
あれはバサラと運慶じゃないか。
ゆっくりと二人はステージ前の木の櫓に近付いてゆく。
「始まります、みんなの奈良アートボックス」
徳永英明のその声と同時に、バサラと運慶が火を入れた。
木の櫓は油を含んでいたから、見る見るうちに火が櫓全体に燃え広がり、
会場を明るく照らし出した。
それは素晴らしい雰囲気だった。
櫓だけがはっきりと明るくて、闇に包まれた会場から見ると
その明りを受けて一番輝いているのは奈良の大仏様。
モニターが突然付くと、そこにはついに全力で走り始めた山焼きの炎が。
その炎が最高潮の盛り上がりを見せている時に、奈良アートボックスはスタートしていった。
一曲目は「Rainy Blue」。
自然と流れ始めたバックバンドの演奏に逆らうことなく、徳永英明とSalyuが流されるように歌い出す。
「人影も見えない午前0時 電話ボックスの外は 雨・・・」
構えることなく二人はただ歌をつないでゆく。
平静で、しめやかに、乱すことなく。
「あなたの帰り道 交差点 ふと足を止める・・・」
その姿を見て、早くも私は泣き出しそうだった。
そうよ、溢れる想いのままに歌い出して。
迷わず、考えず、そのままを歌って欲しい。
「あなたの幻 消すように 私は今日はそっと 雨・・・」
――ようやく私に今できる最高のアートが始まった。
観客たちも二人が歌う様を静かに見守っていた。
火の櫓のわずかな灯りを頼りに、スクリーンに映し出される風景と一緒に。
カメラは二人のアップだけでなく、東大寺大仏殿の全景をとらえていた。
大仏様とステージが炎の灯りに照らし出されている、幻想的な空間。
千人で囲む暗闇の中で営まれ始めた、人間たちの活動。
たまに若草山の炎、たまに徳永英明とSalyuが歌う表情をとらえて。
「あの頃の 優しさに 包まれてた思い出が・・・」
徳永英明とSalyuが最高のパフォーマンスを見せている。
さっきまで乾いていた木の櫓が今燃え盛っているように、
平坦なリズムを繕っていたさっきまでから一息に、二人の歌も頂点へと上がってゆく。
あぁ、うらやましい。思わず私はつぶやいていた。
ミュージシャンと違って、私のように人前で芸ができない人間ってなんて無力なの。
心はあっても、やろうと思っても直接のパフォーマンスができないよ。
でもこの枠組みを創ったのは私。主役じゃなくても脇役の一人として意味があった、
と誇りを持っていいのかな。
湧き上がるそんな醜いコンプレックスを抑えることができず、
しばらく心を無くした私がいた。
「揺れる心 濡らす涙 It’s Rainy Blue, ・・・ Loneliness・・・」
一曲目は静かに終わっていった。
それでいいの、何事もなかったかのように終わってゆく音楽でいい。
二曲目は「Time goes by」。
「信じあう喜びも・・・傷つけ合う哀しみも・・・」
ステージにEvery Little Thingと槇原敬之が立った。
「会えばケンカしてたね・・・長く居すぎたのかな・・・」
噛み砕くように歌い上げる槇原敬之のソロパートが最高に美しくて、誰もが聴き入ってしまう。
「いつかありのままに 愛せるように・・・Time goes by」
持田香織の声と、槇原敬之の声が重なる瞬間もまた美しいものだから、
続けてうっとりと聴き入ってしまうよ。
観客たちを、ステージ裏のみんなを、息を飲ませてしまうほど、
優しい声色の中に強いものを秘めたボーカリストたち。
「残された傷痕が消えた瞬間に 本当の優しさの意味が分かるよ きっと・・・」
若草山の炎が燃えている。
二人の炎と呼応して、若草山を焼き尽くしている。
そこで間奏になったらステージの左右から仏像たちが出て、
お経を唱えながら舞台を歩き始めた。
列をなした仏像たちは、バンドのリズムに合わせて
ゆっくりとステージ前の炎の櫓へと歩いてゆく。
私は見たよ、右から来た列の先頭のバサラと、
左からの先頭にいる伎芸天がようやくそこで再会したのを。
闇の中、二人はステージ中心で接近し、隣り合うと横に並んで櫓まで歩いた。
誰もが思わず見入っていた。
音楽に仏像が重なって、彼らが発するお経の音を拾いつつも、
バンドのリズムがあるから暗いイメージにはならない。
そこにはなんだか明るく、なんだか楽しそうに歩く仏像たちの姿があった。
十四人の仏像たちは、櫓の周りで円を描いて歩き出した。
バサラが動的に、阿修羅は微笑んで、
天燈鬼・竜燈鬼がデコボコと、阿吽の金剛力士は強烈に。
四天王が気難しそうに、日光・月光は平坦で、大日如来は新しく、伎芸天が淋しそうに。
しばらくは仏像たちの「お経ソロ」が続き、炎に照らし出される彼らの表情の多様さに釘付けになった。
もう一度、持田香織と槇原敬之が間奏前に歌ったパートを繰り返す。
「残された傷痕が消えた瞬間に 本当の優しさの意味が分かるよ きっと・・・」
山焼きの炎は燃え盛っていた。
仏像たちは止まることなくお経を口にしながら、櫓の周りとゆっくりと歩き続けていた。
「過ぎた日に背を向けずに ゆっくり時を感じて・・・」
この歌詞の意味は、過去へのごめんなさいと、今と未来を精一杯生きることね。
また皮肉になってしまったみたい。
この曲を聴くバサラと伎芸天はどう感じているのかな。
こんな歌詞を耳にして、思い当たる相手を七百年ぶりに前にしている。
とうの昔に全てを乗り越えた二人だから、微笑みの中で聞き流しているのかな。
私には見えないものがあの空間に流れていると思うと、
美しさの凄味が増してくるように思えていた。
「またいつか笑って逢えるといいね・・・Time goes by・・・」
二人のボーカルに合わせて、いつまでも仏像たちは歩いた。
ぶれることなくお経を続けるその姿が、月夜の東大寺、
山焼きの奈良に集った千人の観客へと放たれた強烈なメッセージ。
この二曲だけで、もう美しさは充分過ぎるほどだった。
時間にすれば十分程度のわずかなもの。
でも、そこには凝縮された重みがあって、
楽曲と仏像たちの競演が千人の心を優しく変えていた。
「Wow・・・Wow・・・Wow・・・」
曲が終わったと思ってみんなが拍手をしたところに、
空間を切り裂くようなギターの音が響いて、ステージ上に一人の男が登場した。
ギターを持ったサムライ、あれは布袋寅泰だ。
「ハロー、東大寺、奈良アートボックス。こんな舞台に立てて光栄です」
ハウリングの間にそう言ったと思ったら、ギターをかざした布袋寅泰がいきなり
「Fly Into Your Dream」のギターソロパートを弾き始めたよ。
突然入り込んできた布袋のギターワールド!
雷が落ちた時のように鮮烈で、でもリズムはロックじゃなくてロマン溢れるものだから、
大仏殿と調和のとれた美しいシーンがそこで繰り広げられていった。
布袋寅泰がギターをかき鳴らすと、そのバックコーラス代わりに仏像たちがお経を唱え始める。
櫓の炎に照らし出されて、思慮深い表情をした仏像たちは変わらずに円を歩き続けていた。
でも私は見たよ、ギターの音に影響されてか、仏像たちがちょっと踊るように歩いているのを!
まさかギターソロのコーラスをお経が務めるなんて、仏像とロックの融合なんて新しいアイディアだよ!
ギターは5分も続いただろうか。
全身から絞り出すようなギターの音色、うねりから一点に集中させての音の移り変わり、
表現豊かなパフォーマンスに誰もが呆気にとられるばかり。
いつもよりは短めだが、まぎれもなく布袋寅泰ならではのメッセージを残し、
体内にある精一杯のものを出し切った男がいる。
「Thank you, 布袋でした!」
ビッグスマイルを見せてギターを引っ下げ、布袋寅泰がステージ裏へと消えていった。
三曲目は「Endless Story」。
イントロが始まってステージに出てきた徳永英明と伊藤由奈はすごく楽しそうに笑っていた。
仏像たちはまだ炎の櫓で歩いていて、徳永英明はそこに小走りで駆けて行った。
徳永英明と仏像たちが左右と手を取り合い、歩き始めたじゃない!
手をつなぐことで、徳永英明と仏像たちのひとつの円が出来上がったの。
「If you have a change of mind, 側にいて欲しいよ・・・Tonight」
ステージの上の歌姫が歌い始めた。
徳永英明と仏像たちはお経を合唱しながら、櫓を見て横向きになって歩いている。
なんかキャンプファイヤーみたいって私、思った。
「終わらないStory・・・続くこの輝きに・・・Always伝えたい ずっと永遠に・・・」
1コーラス目が終わると徳永英明が慌ててステージに戻って、
交代で伊藤由奈が仏像たちの輪の中に駆けていった。
「Memories world time together, 消さないでこのまま・・・Don’t go away」
今度は徳永英明が歌って、伊藤由奈が円を歩いている。
美しい現代の歌姫が、歴史の英雄たちと一緒に笑いながら輪を作るシーンって、
すごい綺麗な絵になっている。
私もそうだし、きっと千の観客たちもみんな感じていたと思うの。
あぁ、あのリングって美しいよ、私もあの手と手に参加したいって、
きっと誰もが思っていたはずよ。
その絵が主役と分かっていたのかな、ステージ上の徳永英明は静かに歌い上げていた。
「終わらないStory 絶え間ない愛しさで Tell me why教えてよ ずっと永遠に・・・」
間奏中に徳永英明がひときわ明るく声をかけた。
「観客の皆さん、みんなで歩きましょう!
次はみんなで奈良アートボックスを創る番ですよ!」
待ちに待った瞬間。
これがあると知らされていた千人の観客は、スタッフに誘導されながら大仏殿前に広がり出した。
「さぁみなさん、恥ずかしがらずに隣の人と手を取ってください。
みんながひとつの大きな円になりましょう。さぁ!」
私はステージ裏から一番乗りでダッシュしていたよ。
知らない人でも、千人の仲間となら誰でも嬉しいから、
恥ずかしさなんて忘れて隣の男性の手を取った。
みんなも互いに手を取り合い、あちこちで大きな線ができて、
その線と線とがつながり合っては次第に大きな円が出来上がっていった。
「さぁ、お経です。簡単なリズムだからすぐに覚えられますよ。
むむみょうやく むむみょうじんないし むろうしやく むろうしじん。
この言葉には、良いことも悪いことも永遠には続かない、という意味があります。
今宵の宴も、今宵だけ。すべてが変わってゆく毎日の中で、
それでも今宵だけは精一杯楽しもうじゃありませんか。
さぁ、このお経を唱えながら、輪になって歩きましょう。
じゃぁ、一緒に繰り返してみましょう、
むむみょうやく むむみょうじんないし むろうしやく むろうしじん。
もう一度、
むむみょうやく むむみょうじんないし むろうしやく むろうしじん」
徳永英明の音頭でみんなのお経の合唱が始まった。
ひたすら同じリズムを繰り返すお経だから、みんなすぐに覚えてしまって、
輪になった千人の観客たちがお経を口ずさみながら歩き出す。
櫓前の仏像たちは輪を解き、思い思いの方向に散ってゆくと
千人の輪の中に入って手を取った。
ステージ裏からも沢山の人が出て行ったよ。
槇原敬之が、Every Little Thingが、Salyuが、布袋寅泰が。
東大寺の住職や僧まで出て行ったし、イベントスタッフも数人を残して他は出ていかせたし、
警備員まで半数は参加させたんだ。
この私なんて遠慮なしに一番乗りだし。
千人の合唱が始まっていた。
圧巻のパワーで、それは隣の人との手を通して伝わってくるようなの。
円の先頭は大仏殿の中まで入ってゆき、奈良の大仏様を後ろから一周したと思ったら、
もう一方の円とつながり、これでぐるりと千人の丸円が完成した。
客席からステージを通って、大仏様の後ろからまた前へ、そして客席へ。
手を取ったみんなが揃って歩いてゆく様が、なんだか盆踊りのような楽しくて、
私はついつい大声でお経を合唱しながら歩いちゃう。
バンドの演奏は切れることなくて、それがあるから
お経も暗くならずにみんなの合言葉でいられるの。
「むむみょうやく むむみょうじんないし むろうしやく むろうしじん」
ホント新しいよ、音楽とお経の合作は。
それでいて奈良らしい古風なイメージを駆り立ててくれるし、なんて素敵な音なんでしょう。
面白いよ!この円を見渡してみれば色々な人たちがいるよ。
いつも学者風に眉を寄せてばかりいた戒壇院の広目天が、
笑いながらDANCE気味にHOPしているよ!
Salyuはいつでも笑顔の可愛らしいコ。
それがいつも以上に満面の笑顔で、あーぁ、あれじゃぁ頬の肉が疲れちゃうよ!
大体、笑いながらお経を唱えているお坊さんなんて見たことなかったよ!
円に加わっている若い僧が楽しそうにお経を歌っているのもいいよね!
面白いのは興福寺の阿修羅だよ~。あれって反則よねぇ~。
手が六本あるからって、周りの六人と手をつないで歩いているんだよ~。
阿修羅にしかできない円の作り方!
このイベントでは子供は入場禁止だから、いい大人たちが盆踊りのように奈良の大仏を囲んで歩いている。
それは無邪気に、思い思いに楽しんで。
間奏の途中にはミュージシャンたちが交互にステージに立ち、
「例えば、誰かのためじゃなくあなたのために、歌いたい、この歌を。
終わらないストーリー、続くこの輝きに、Always伝えたい、ずっと永遠に」の部分だけを歌った。
まずはSalyuがステージに立って、その唯一無二の声で歌ってくれた。
それから持田香織の声も可愛らしくて素敵。歌いながらの頬笑みが魅力的ね。
槇原敬之の歌の上手さは群を抜いて光っていたよ。
布袋寅泰はロックかと思いきや、ロマン溢れる声色で歌いあげてくれた。
東大寺三月院の日光・月光は特別だった。
ステージに立った日光・月光が、この日のために練習してきたという歌声を披露したの。
息をぴたりと合わせ、合掌しながらこの二人が歌い上げたのを聴くと、
千人から歓声が上がった。
そこはもう完全に盆踊り会場の雰囲気。
言葉はいらない、お経があれば、バンドの音があれば。
何度も何度も大仏様の周りを歩いたよ、いいえ、まだ何度でも歩きましょう、歩きたいよ。
途中で私は思っていた。これって平和へのメッセージなのかな?
確かにこうしてみんなで一つの言葉を合唱して歩いていると、
平和の大切さを身に染みて感じることができる。
でもちょっと違うよね。それ以上にこの奈良アートボックスは、
ただ詩的なものだけを求めるみんなのアートの心が、
会場に溢れ出しているだけなの。
この時間が永遠に続けばいい。
徹夜踊りのように、もし朝までみんなで踊り明かせたなら。
許されるのなら、これがもっと多くの人数でできるのなら。
お経の途中で、バサラは思った。
ありがとう。
こんなに眩しい舞台は七百年ぶりの再会に相応しかったけど、
彼女にかける言葉がなかった。
一目逢えただけで充分。
千年の恋という思い出を愛して、僕はこれからも豊かに生きてゆける。
そう確かめられる夜になったよ。
お経の途中で、とある参加者は思った。
何?このイベントは一体何者?!
どんなアイディアで、どんなきっかけで、こんなモンスターみたいに素晴らしいイベントが生まれたんだろう。
仏像と、山焼きと、音楽と。
今まで結びつかなかったものを、こうして集めてみるとこんな素晴らしく互いが輝き合うなんて。
こうして実現される途中にも、参加者には分からない色々なドラマがあったのだろうな。
お経の途中で、伎芸天は思った。
バサラ、七百年かけてもあなたは変わらなかったのね。
言葉が足りないのよ。
この素敵な一夜みたいに、気持ちがあるなら饒舌なぐらいに語らなくちゃ。
今は別にそれを待っているわけじゃないし、私は今これで幸せだよ。
だから、ただひたすら過去系のありがとうを言わせてもらうわ。
お互いに、いい思い出の人でいられたらそれで最高だね。
お経の途中で、奈良の大仏は思った。
ほれ、わしの周りでみんなが踊っているぞい。
それ、随分と粋な演出なんてして、随分と楽しそうじゃな。
これ、頼むよ。次はわしも参加させてくれ。
こうして見てるだけなんて、我慢できないからなぁ~!
尽きない合唱、私の頬を伝う涙。
感動ってあまり長くないほうがいいから、そこそこで切り上げて終わりを迎えさせるよ。
このイベントには三曲だけしか選ばなかったし、こうして全員で歩くのもせいぜい三十分だけ。
終わりは近い。
最後はあの人が歌って終わらせる。
ステージに立ち、マイクを持って、リズムを待って、あの人がいよいよ最後のメロディを歌おうとしている。
「みなさん、この奈良アートボックスはもうすぐ終わります。
一生残る思い出になりましたか?
この企画を創ってくれたケンボックスの長谷川明日香さん、
スタッフのみなさん、そして仏像の方々、ミュージンシャンのみなさん、
おっと、この東大寺の大仏様にも感謝をしなくちゃいけませんね。
そして最後に、参加していただいた千人の皆さん。
終わります。一瞬の美しい夢をありがとうございました」
徳永英明が精一杯の言葉で、この奈良アートボックスを締めくくろうとしている。
でも、あなたのその歌声だけで、それだけで物語は生まれて、終わってゆくから。
あなたは歌えばいい。さぁ、歌ってください。
マイクを持ち直す徳永英明の口元に誰もが注目して、
この奈良アートボックスは本当に終わりを迎えようとしていた。
ありがとう、すべての美しい出来事、詩的な出逢いに感謝したいよ。
音楽が来るよ、まもなく彼が歌って、このアートが終わるのね。
「例えば、誰かのためじゃなくあなたのために、歌いたい、この歌を。
終わらないストーリー、続くこの輝きに、Always, 伝えたい ずっと永遠に」
これが今の私たちにできる、とびっきりのアート。
尽きない拍手、私の頬を伝う、涙、涙、涙。 (完)