2025年10月12日
何度か行っているけど、小田原城をじっくり見よう、隅々まで味わおうと再訪、あの難攻不落の後北条氏の居城を。
台風明けのサンセットが奇才の色を放っていた、予想していなかったGiftにびっくりして撮った夜景撮影スローシャッター写真。
八幡山古郭東曲輪跡まで歩いて上がると、小田原城の天守の姿が爽やかに撮れる、ちょっと海も入る。
小田原城の夜景撮影は楽しい、人が一気に少なくなって、しかしライトアップの具合が程良い。
天守前のイベント、ライトに浮かび上がる小田原城天守。
常盤木坂は角度をつけられた本丸への進入口、本当にこんなところ力攻めしたくない。
真っ暗になった二の丸隅櫓と水堀、遠くに天守が見える。お堀端通りからのここがベスト写真撮影スポットね。
後北条氏へのリスペクトと思って、スローシャッターの間にライトで北条鱗を描いたら、縦すぎて執権北条氏の三つ鱗に近くなった。。
水堀沿いでスローシャッターを敢行、夜景の綺麗な町ね。
色違いの二の丸隅櫓の写真撮影スポット、水堀リフレクションの代わりに空を大きく強調。
お城素材がいっぱいの小田原城址公園、和風写真が撮れて楽しい。
せっかくだから天守の上からの相模湾、本当に海が近い小田原城。
海の反対側、八幡山古郭東曲輪跡を撮ってみた、後北条氏も当初はこの高台に本丸を置いたらしいが本当かどうか分からない。
大手門の鐘楼、広くて格式のある大手門だっただろうことが窺い知れた。
小田原城には謎がある、戦国時代のお城だから八幡山頂あたりを本丸として、住居を今の天守付近に置くのが常道だろう。
超有名なお城なのに、後北条氏がどっちに本丸を置いたのかがよく分からない。
総構が防衛の要としても、この天守の地形では平城だから、鉄壁の城、難攻不落の城というイメージからはかけ離れる。
東海道から大手門を通じて出るこの水堀際から見ると天守の威厳は伝わるが、これだけだと攻めやすい城。
きっと現代では謎解きができない小田原城、ずっと夢を見ていれば良いのだろうか。
さて、風祭という地区にある一里塚に行ってみた、あの風魔忍びの発祥地だろうとされる風祭、
今はかまぼこのお店以外に何もないけれども、私は感じた気がした、あの風魔忍びを気配を、ずっと遠くに。
2025年10月12日
カメラを置いたらランニングシューズに履き替えて、小田原城一帯を走り始めた、総構えを見に行くんだ。
北条氏政・氏照の墓所は小田原駅前にある、リスペクトを込めて深く頭を下げる。
北「條」早雲となっていた、伊勢早雲、北条早雲、名前なんてただの記号で、戦国時代を代表する梟雄のひとり。
小田原城の総構がはっきりと残る山ノ神堀切の一帯、写真だと伝わりにくいけど、肉眼では総構の形が分かった。
下から総構えを見上げる、当時の空堀部分は下に掘り下げていただろうから、上・下・上の地形を人力で乗り越えるのは困難。
猫さんがいた、総構山ノ神堀切がかなりリアルだと思う、こんなのを20-30kgの武具つけて攻め上がれるものか。
小田原城総構稲荷森には面影がくっきり残っている、山奥すぎて誰にも崩されなかった奇跡。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀、今は土砂の蓄積があるから当時はあと数m深かったことを思うと、もう恐怖。
城山の本丸跡へ行ってみたが、普通の町の景色になっています、小田原城の夢。
小田原城址公園内に走り戻ってきた、石垣が特に素晴らしいというお城ではない。
ぐるりと走ってきたら、小田原城の広さとか、雰囲気を得られた気がした。
7kmほどのお城ランニング、後北条氏、特に北条氏康の政治手腕にリスペクトを込めながら走ってみました。
2024年4月1日
難攻不落の名城イメージ、それが小田原城、後北条氏が作り上げた総構えの恐るべき規模。
そんな小田原城をじっくり見る機会を得ることができたから、たくさんの写真と共に記事にしよう。
桜がまばらに咲いていた4月1日、夜桜ライトアップされた小田原城天守閣前は怪しい雰囲気に。
治世の平城って印象を受ける小田原城、それは江戸時代以降に改修された部分だからと聞くね。
この記事の下にある大堀切のある山城が、北条氏康時代の小田原城。
ライトアップされた桜が美しかった、まだ桜満開前の春。
スローシャッターにして、スマホライトを動かして、不思議な馬出門にしてみた。
決して落城させられない小田原城のおどろおどろしさが、紫色に溢れる。
夜の銅門は美しさが際立ちますね、そして門が閉じられていたら、誰も先に進めるものか。。
桜並木のあたり、満開には遠いが春の夜の風情でした。
常盤木門の足元がライトアップ、権威を示すような門構え。
隅櫓と水堀、30秒スローシャッターで撮影。
住吉橋の綺麗な佇まい、美城ですね小田原城は。
馬出門付近からオフィスビルの灯りを玉ボケにして。
日中の隅櫓と天守閣、日本の美のひとつ。
小田原城の夜景撮影ができた喜び、この日のことをずっと忘れない。
2024年4月1日
あの豊臣秀吉軍が直接攻城を躊躇した、往時の小田原城を感じてみたい。
その名残りが残されている小峯御鐘ノ台大堀切東堀、つまりは小田原城の大堀切だ。
今でも深さは最大12m、傾斜は50度はある大堀切、どんな多軍勢でも攻め切れない。
北条氏政の頃は最大14-15m、傾斜は60度ほどあったと言われるね。
僕もこの土壁を駆け上がってみようとしたさ、でも登りきれずに落下する姿しかイメージできなくてギブアップ。
この東堀が最大値としても、これに準ずる堀切を周囲9kmに渡って作り上げた北条氏だと?
西堀にも行ってみた、より時間の経過で廃れた感があり、しかしどんでもない罠だったことが伝わる。
西堀の先は畑に変わっていた、平地だと思っていた小田原城跡は平地ではない、この辺りは確かに山城だったのね。
中堀切から、西堀へと歩き戻ってみると、やはりこの大堀切の深さにびっくりする。
当時の小田原城は残っていないけど、この大堀切の遺構で感じることができる北条氏流の築城技術。
2024年4月1日
石垣山城、もうひとつの小田原城ストーリーはこの山中に。
事後に盛られた英雄譚かもしれないけど、豊臣秀吉軍が一夜で築いたこの石垣山城が、
小田原城に籠城する北条軍の士気を決定的に落としたと。
確かにものすごい石垣の数、大きな石が今も積み重なっていて、一体どうやってこの山中まで持ってきたのか。
まぁ相当な歳月をかけて事前に築城された石垣山城なのだが、吹き込まれた一夜城伝説がなんだか眩しすぎて。
石垣山城の井戸跡と石垣越しに見えるのは小田原の海辺、当時の小田原城はずっと左にあるから見えない。
野面積みの石垣がその力を誇示しているのね、荒々しくて、整然としていて、粗野で堅実で。
流石の小田原城も、こんな頭上に大軍の敵を迎えたら、内部崩壊も逃れられない、力攻めには耐えられたとしても。
綺麗な二の丸跡、公園化されているのね、400年前は戦略的に造られた戦いの要が。
心落ち着かさせてくれるのは咲いていた桜、今は平和で綺麗なもので。
小田原城の戦いをめぐる一連の遺構に触れた日、後北条氏なのか豊臣秀吉なのか、僕が感じたものは。