美しいものの創造。
日常にある人間の感情の美的な表現。
それが山上憶良と大伴旅人に共通する意識であるとわたしは思う。
旅人の「酒讃歌」にある「験なき物を思はずば一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし」のような一見豪快な歌も、
詠まれているものは酒自体の魅力を語るものではない。
そこにあるのは酒を清貧の証、友をいざなうべき風雅の世界と見立てた大陸文化の素養をとりこんだ作なのであり、
政界の汚濁を離れた、隠逸の世界という美の意識である。
「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」のように
正妻・大伴郎女を喪った旅人が嘆く歌が多過ぎて不自然に感じる。
それは妻を亡くしたという喪失感以上に、夫が亡き妻を想うこと、愛しい人を追憶するということ、
その場面に秘められた美こそを表面化させて歌に反映させたものであろう。
この歌にある「空し」という言葉は仏典にある空の訳語であろうといわれているが、
旅人の歌は仏教の悟りに落ち着くことなく、現実として妻を失った者は空の極致を知ろうとも哀しいものは哀しいのだ、
と生々しく自分の悲しみを歌っているところが、旅人らしい魅力なのである。
一方、憶良の「宴を罷る歌」も同様に心から子供を気にして作ったものでもないだろう。
子に執した歌人と言われる憶良だが、やはりそれは親が子や妻を心配する、
というシーンにある美しさを歌に表現しているのだろう。
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ」と憶良は詠むが、
70歳近くになっていた憶良に「五月蝿なす騒ぐ児ども」がいたとは考えにくい。
やはりそれは本当に子供を心配していたということ以上に、
親が子や家族を心配する、という場面にかかる美を歌に込めているのであろう。
一方で、子供である古日を失ったときに読んだとされる
「わかければ 道行き知らじ 幣はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ」という歌には、
その子供のことを思う憶良の素直な気持ちが現れている。
いままで誰もが目をそむけてきた、無知・悲惨の姿に奇態な美を発見した憶良であるから、
美を追求するあまり、幸せな場面だけではなく、「貧窮問答歌」に描いたような哀しい場面にこそ深い美が宿ることを
知ってしまったのかもしれない。
これらは旅人が妻を嘆く歌を創り続けたことに影響されてのことかもしれない。
二人はその対象こそ妻と子と違うが、身近な人を想う場面にこそ美の意識を見出し、それを和歌に託して表現していたのだ。
互いが知識人であった二人は、筑前国守というポジションにいた憶良の前に、
大宰師という直属の上役で中央から移って来た旅人という関係で始まり、互いに刺激し合って発展していった。
旅人は名門大伴家の家長と言うエリートである。
一方の憶良は遣唐使経験などもある知識人ではあったが、
家柄としては自分の才覚だけで出世してきた、いわゆる成り上がりであった。
また、直接の上司である旅人のほうが憶良よりも5歳も年下であったことも考えると、
この二人はた外を自分とは別物として一線をおいて意識しつつも、しかし美の創作意識にあっては伝統的な和歌の粋から
はみ出したものを持つ風雅の友として感じるものがあったのだろう。
交友という人間関係を文学上の主題としたのが旅人であり、憶良は旅人の仏教無常の歌に触発されて作られた
憶良の人間の愛や苦をテーマとする作品を作り出しているのだから、
二人は違う世界にいると意識する中で別々の美の意識を確立したのだが、
現存の我々から見れば互いの意識が交じり合い、共鳴し合って新しい万葉集の一時代を築いたのであるから興味深い。
二人は家族や亡き人に対する愛、より身近なものを歌として、
それまでのような男女の性愛ばかりを対象にするような和歌ではなく、
新しい愛情の拠り所としての万葉集の切り口を確立させた。
それぞれの特質は違っていて、旅人は交友を重んじるが為の歌、妻を失った悲しみを純粋に歌う歌があり、
憶良はより現実味のある日常生活のものに対しての美の追求、
思想的な歌・人を諭す歌・貧を嘆く逆説の美を歌う部分に特徴がある。