2022年4月9日
岐阜関ケ原古戦場記念館のシアターとお土産物屋さんがメイン目的で、関ヶ原合戦地を再訪。
桜満開のタイミングでもあり、素晴らしいひとときになったんだ。
徳川家康最後陣跡、春は爽やかな色合い。
岐阜関ケ原古戦場記念館と桜。
島津家紋と甲冑。
笹尾山・石田三成陣地跡から一帯を撮影。
馬防柵を見ると戦国時代の気分が高まる。
笹尾山に咲く桜、悲しいのに美しい。
岡山烽火場近くの竹林、ここの色の素晴らしさは特筆すべきね。
岡山烽火場、東軍が狼煙をあげた場所、確かに見晴らしが最高。
やっと行けた関ヶ原ウォーランド、桜バックで可愛らしい背景になった。
戦の指揮と、桜の四季?
これもお花見宴席のようで、冷徹な軍議の場。
馬上の将から槍を向けられたけど、その奥には桜。
合戦イメージの画像や動画素材集めには最高ですね、関ヶ原ウォーランドさん。
塑像、その素朴さが良い味を出している。
見るからにユーモアがあって、未完成っぽくて、荒削りで。
リアル過ぎたら戦は怖いから、このぐらいで良い。
竹中氏陣屋跡櫓門、あの竹中半兵衛の居城。
桜ピークすぎて、それどころではない撮影チャンスでした。
石垣に桜、私にとって大好物の被写体。
この日は関ヶ原ランニングはしなかったけど、写真撮影として最高の1日になった。
2020年1月2日
関ヶ原古戦場トレイルランニング②
あの関ヶ原の戦いの跡地をトレイルランニングする。
歴史ロマン溢れるコースの2回目、前回は合戦の主要地を巡ったから、
5年ぶりとなる今回は毛利軍が陣取っていた南宮山一帯をメインに走ってみた。
何故走るのかって、距離感や地形を知るには自分の足で走るのが最適だからだよ。
紙面の通説では分からないことを得られるし、これで良い小説が書けそうだ(割合本気)。
栗原山の長宗我部盛親陣所跡、なかなかの山登りになった。
グーグルマップの地図上では道沿い(清水寺公園内)に見えたが、清水寺公園脇に停車すると
790m先が長宗我部盛親陣所跡・連理の榊・栗原九十九坊跡という案内があったので、沿って進む。
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)
四国・土佐の大名(有名な長宗我部元親の四男、長宗我部家の当主) |
西軍、兵は約6,000、22万石(領地総収入で110億円相当、経費差引前) |
大垣城の後詰として栗原山に陣取る(毛利家・長束正家と隣接し連携) 関ヶ原の戦い当日は何もせず、敗戦後に撤退 |
⇒大垣城の後詰役だったため仕方ないが、関ヶ原合戦地から11kmも 離れており、東西軍でも戦場から最も遠かった |
こんなトレイルコース、ほぼ無名の場所だから誰とも行き交うことがない山道をひたすら登っていく。
関ヶ原トレイルランニングでは、南宮山・松尾山に続く、
第3の難所(立派な登山)が栗原山の長宗我部盛親陣所跡ですから、ご注意を。
栗原九十九坊跡、奈良・鎌倉時代には幾つも寺院があったようなのだ。
きっとそれは地元の要所なのだろうし、長宗我部盛親は陣所にしたのか。
連理の榊へ向かうと長宗我部盛親陣所跡があったが、
実際はこんな山奥に陣を構えたのではなく、清水寺公園あたりなのだろうなと空想。
(実際に、清水寺公園内に長宗我部盛親陣所跡という表記があったし、ウェブ上にもそういう記載がある)
まぁ、連理の榊の大木の下に長宗我部盛親がいた、
というイメージの方が美しいから、人々にそう言い継がれてきたのだろう。
北に向かうと長束正家の陣跡があるが、小高い丘の上に案内が立っていて、
大垣城方向への視界が開けているため、
「どちらかと言えば文官に近いはずなのに、戦意あるな、長束正家」
という印象を受けたが、いやいや、長宗我部盛親も栗原山の麓に布陣したとすれば
長束正家と条件は一緒、兵数が多い長宗我部盛親の方がむしろ中心だ。
長束 正家(なつか まさいえ)
豊臣秀吉5奉行、財政の名人 |
西軍、兵は約1,500、12万石(領地総収入で60億円相当、経費差引前) |
大垣城の後詰として栗原山に陣取る(毛利家・長宗我部盛親と隣接し連携) 関ヶ原の戦い当日は何もせず、敗戦後に撤退 |
⇒大垣城の後詰役だったため仕方ないが、関ヶ原合戦地から11kmも 離れており、長宗我部盛親と同様、東西軍でも戦場から最も遠かった |
長束正家陣跡から大垣城を望む。
こんな平地に東軍の軍勢が押し寄せてくるかもしれないと思うと、1,500の寡兵では恐怖だったのだろうな。
いよいよこの日のメインである、毛利秀元陣跡を目指して美濃國一之宮 南宮大社へ向かう。
名の通り、美濃では随一の社格の高い神社。
ついでに、関ヶ原の戦いの際に戦火で焼失となった、関ヶ原の被害者でもある。
1月2日に訪問したから、初詣客で南宮大社の駐車場には停められず、少し離れた無料臨時駐車場から徒歩で向かう。
屋台とか出ていて、人は多過ぎず少な過ぎずで適度な賑わい。
南宮大社の奥、南宮稲荷神社へと歩くと瓦塚というフォトジェニックな、
そして日本文化ならではのものに遭遇し、しばらく見惚れてしまった。
リトル伏見稲荷のような赤い鳥居の連続、ローアングルで写真を撮った後、
この道を一気に駆け抜けた時の爽快感ときたら。
南宮稲荷神社の手前を左に向かう南宮山ハイキングコース。
歩き始めてすぐ、南宮山に登る前に、安国寺恵瓊陣所跡が見えてくる。
安国寺 恵瓊 (あんこくじ えけい)
毛利家の外交僧(僧=知識人)、豊臣家と毛利家を繋ぐ役として活躍 |
西軍、兵は約1,800、6万石(領地総収入で30億円相当、経費差引前) |
大垣城の後詰である毛利家の一角 石田三成に近く、西軍の主要人物であり、毛利家を戦闘参加させようとしたが、吉川広家に阻まれ何もできず |
⇒毛利家の前衛として良い場所にいたが、中山道に出るには確かに吉川広家が邪魔 |
標高419mの南宮山、ほぼ頂上の404mにある展望台に毛利秀元陣跡がある。
クセのない真っ直ぐな登り道をひたすら上がっていく。
「南宮山陣城」という言葉の通り、展望台直前に陣城らしい土塁・土橋・虎口が確認できる。
毛利 秀元 (もうり ひでもと)
関ヶ原に派遣された毛利軍の代表(当主毛利輝元の養子。毛利元就の孫) 毛利輝元は西軍の総大将で、大阪城にいた |
西軍、兵は約16,000、120万石(領地総収入で600億円相当、経費差引前) |
西軍の最重要家で、大垣城の後詰をしていた 安国寺恵瓊らは西軍寄りだったが、一族の吉川広家は徳川家康に内通、家中統一できず戦意が上がらないまま |
⇒南宮山からは大垣城を一望できるが、関ヶ原一帯への視界はゼロ 徳川家康が陣取った桃配山へは大軍が進撃できるような尾根続きではない 関ヶ原の戦いに参加できる位置になく、逆に東軍から攻められることもない 究極の日和見(様子見)を決め込んだ様に感じられた |
トレイルを登り切って展望台に出ると、存外の光景に思わず声が出た。
毛利秀元陣跡からの大垣城一帯ビューは素晴らしい。
松尾山からの関ヶ原一帯ビューに匹敵するほど、地の利に恵まれている。
大垣城付近で東軍・西軍が激突するとされた当初の想定を考えれば、
南宮山頂に毛利軍が陣取ったことの「重み」が伝わってきた。
同様に、関ヶ原決戦を想定するならば、松尾山頂には小早川秀秋ではなく、
毛利軍が入るべき要所だったという説に納得した。
南宮山ハイキングコースの下りコースは、道に落ち葉が溜まって足元が見辛い。
落ち葉で滑り、大きめの石が数あり、手入れされたトレイルコースではないので
登りも下りも「登りコース」を使うことをおすすめしよう。
南宮山・南宮大社から中山道に出る位置に、吉川広家陣跡があった。
押し出ようとする毛利・安国寺の軍兵に吉川広家の陣が蓋をした、という話は地理的には正しい。
仲間である吉川広家がこの先陣で動かなかったら、毛利の大軍は関ヶ原へ進むことができない。
吉川 広家 (きっかわ ひろいえ)
毛利両川である吉川家の当主(吉川元春の三男。毛利元就の孫) 毛利家の重臣 |
西軍、兵は約3,000、14万石(領地総収入で70億円相当、経費差引前) |
主・毛利輝元に黙って徳川家康に内通しており、 毛利軍が関ヶ原の戦いに加わらなかった原因とされる |
⇒東軍の池田輝政陣とは1.3kmしか離れておらず、至近距離 戦った形跡がないことから、吉川広家が東軍に内通していたのも 事実ではないかと思えてくる |
池田輝政陣跡はお墓の一角にあった。
躊躇しながらわずかな間の駐車、想いを馳せていると風切音が聞こえて、
ふと横に視線を投げると、東海道新幹線が疾風のように流れて行った。
長束正家陣跡の案内に「長束正家と池田輝政は銃撃戦をした」とあったが、
池田輝政が布陣した位置に、長束正家の一隊が来ていたとしたらかなりの前進だ。
南宮山一帯にいた西軍はどれも不参戦の様子見かと思っていたが、
5奉行の長束正家は違ったのだ。
しかし池田輝政と毛利の先陣・吉川広家は近過ぎる。
関ヶ原の戦いでは死地が幾つもあるが、池田輝政の死地は重い。
このリスクを取ってが危機を払い退けたことで、西国将軍の地位を得たのか。
最高峰のリスクテイカーだな、池田輝政は。
池田 輝政 (いけだ てるまさ)
後に西国将軍と呼ばれ、西への抑えとして100万石級を得た名将 |
西軍、兵は約4,500、15万石(領地総収入で75億円相当、経費差引前) |
関ヶ原では毛利軍を最前線で防ぐ役、結果として直接の戦闘はなかった |
⇒吉川広家と陣が近い割りに兵数も多くなく、広家の内通を聞いていたとしても疑心暗鬼だったのだろうな |
浅野幸長陣跡は垂井一里塚にあった。
一里塚とは当時の旅人(歩行者)の距離の目安(1里=4km)、格好の休憩場でもある。
中山道のそんな目立ちやすい場所、大軍が移動しやすい場所に陣取った?
家康の最初の布陣・桃配山からちょうど1kmの距離だし、とても分かりやすい盾役を堂々と担ったのだろう。
並大抵の度胸ではできないこと、浅野幸長もまた最高のリスクテイカー。
浅野 幸長 (あさの ゆきなが)
豊臣秀吉5奉行・浅野長政の子 |
東軍、兵は約6,500、16万石(領地総収入で80億円相当、経費差引前) |
毛利軍の抑えで、軍兵数から対毛利軍の主力(結果として毛利軍と戦闘なし) 同じ秀吉派だったが、石田三成とは極めて不仲で東軍についた |
⇒南宮山一帯の西軍2万強への盾、平地だし戦闘になっていたら被害甚大 死地に身を置いた役だったわけだ |
中山道の関ヶ原宿の東に、山内一豊の陣跡を見つけた。
美しい松の並木に目を取られていたら、山内一豊の家紋入りの旗印があった。
遊軍として、家康の指示のどこにも向かうことができるよう整えられていたはず。
一番の安全地帯のようにも思えるし、それはそれで死地なのかもしれない。
山内 一豊 (やまうち かずとよ)
豊臣恩顧の小大名 |
東軍、兵は約2,000、6万石(領地総収入で30億円相当、経費差引前) |
遊軍として、毛利軍の抑え・関ヶ原の戦場への合流、どちらにも備えた |
⇒南宮山・関ヶ原の中間地点、安全地帯か死地かは分からない |
国道21号線沿い、徳川家康最初陣地は桃配山という地名にある。
山というが、松尾山や南宮山の山とは全く異なり、標高は104m。
写真の階段をダッシュで数十秒駆け上がっていけばもう頂上。
「南宮山と桃配山は尾根続きだから、毛利軍は徳川家康軍を尾根沿いに攻撃できた」
というのはどうかな、桃配山は平地の延長線沿いだから山同士とは言えない。
徳川家康がいた桃配山からは、石田三成がいた笹尾山を見渡すことができた。
きっとそれが本陣だった理由だろう。
全体を見渡しやすく、伝令が往復しやすい。
防御がしやすいから選んだ桃配山とは思えない、やはり徳川家康が野戦名人という話は本当なのか。
更に西へ向かうと、そこからは東西軍が激突した関ヶ原の戦い跡地になる。
駐車場から登り坂を上がっていくと現れるのは、滅多にお見かけしないほどのそれは美しい竹林。
僕は思わず足を止めて、上を向いて、口を開けていたよ。
黒田長政・竹中重門陣跡は、岡山(丸山)と呼ばれる小山の上。
岡山烽火場とも呼ばれて、つまり関ヶ原一帯を見渡すことができる格好の場所。
黒田 長政 (くろだ ながまさ)
名軍師・黒田官兵衛の嫡男、数々の武功を挙げた大名 |
東軍、兵は約5,400、18万石(領地総収入で90億円相当、経費差引前) |
関ヶ原一帯を所領としていた竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)と共同で着陣 島左近を負傷させ、小早川秀秋・吉川広家を調略し、関ヶ原で最も活躍した大名 |
⇒岡山(丸山)からの見晴らしは抜群 関ヶ原の領主だった竹中重門ならではの土地勘 両兵衛(官兵衛・半兵衛)の子がここで共同で陣を張り、 誰にも勝る功績を挙げたということが感動的 |
両兵衛の子ども同士が、謀ったかのように地の利を得て、大活躍をした。
あまり話題には上がってこないが、関ヶ原の戦いならではの逸話。
ここ岡山(丸山)は、石田三成のいた笹尾山並みに立地が好条件。
そんなことは自分の足で訪れるまで知らなかった。
その黒田長政・竹中重門陣跡から山を降りたところ、完全な平地に細川忠興陣跡があった。
今は公園となっている一角、瞬間的に路駐して写真だけ撮る。
黒田長政と同等の兵力があった細川忠興だが、防衛という観点はゼロに近く、
この陣跡からは攻撃することしか頭になかったと推測される。
細川 忠興 (ほそかわ ただおき)
将軍足利家の支流・細川家、武将であり文化人でもある |
東軍、兵は約5,000、18万石(領地総収入で90億円相当、経費差引前) |
大の石田三成嫌いだからか、黒田長政と共に石田軍を積極的に攻撃 |
⇒平地の真っ只中に陣を構えており、戦う気満々だな |
こうして各軍の陣跡を把握すると、史跡関ヶ原古戦場と打たれた石碑ある場所の意味が見えてくる。
石田三成と、黒田長政・細川忠興が激突しただろう位置。
当時はきっと田畑が広がっていて、何も互いを遮るものがなかった中で戦う。
そして、大量の死傷者を出す、と。
最初の長宗我部盛親陣跡からここまでは車で移動してきたが、
ようやく駐車させて僕は関ヶ原トレイルランニングコースのスタート地点に降り立つ。
西軍の伝令になった気分で、走って訪れるのに適した距離なのだ。
島左近の陣地=石田三成の陣跡。
笹尾山という高地に立つことで防衛力は上がっているが、
西軍の司令塔であり東軍から悪役扱いされたと言われる石田三成を目の前にして、
武闘派の代表格である黒田長政・細川忠興は憎しみを持って攻撃したのだろうな。
壮絶な戦いになっただろうこと、容易に想像できてしまうから。
島 左近 (しま さこん)
石田三成の侍大将、高名な武士で石田軍の軍略面を担った |
西軍、石田三成軍5,800名の最前線指揮官 |
⇒この死地で戦うとは、島左近と石田三成の絆の深さに驚き |
馬防柵の立てられ方が美しい、不謹慎だが写真映えする。
実際は丘の上に馬防柵が立てられることはなかったのだろうが、
戦国時代イメージが激しく掻き立てられるね。
笹尾山を上がっていくと、遂に関ヶ原の主役にお目にかかります。
どうしてもこの方の名前の方に引き寄せられる。
今伝えられている歴史が、事実だったのかは話半分ぐらいにしか信じていない僕だが、とにかく石田三成の行動力が凄過ぎて。
石田 三成 (いしだ みつなり)
豊臣秀吉5奉行、政策や戦の後方支援で活躍 |
西軍、兵は約5,800、19万石(領地総収入で95億円相当、経費差引前) |
西軍の主役(企画者)だったため、東軍から一斉攻撃を受けて敗走 |
⇒笹尾山を東軍主力を引き付け、西軍の他軍が活躍できる状況を作ったが、 西軍の主力(毛利・小早川)は機能せず、作戦は敵わないまま敗戦 |
笹尾山展望台(=ほぼ石田三成の視点)から見た関ヶ原古戦場跡。
平地を通じて攻め込まれるだけの笹尾山、まるで楽しい景色ではない。
もっと右手に松尾山が、写真中央西の方に桃配山が見える。
「囮」なのだ、笹尾山の石田三成は。
自分一人では到底勝てない。
万人を越える毛利軍・宇喜多軍・小早川軍の活躍に頼るのみ。
しかし六大老(小早川隆景も入れて)のうち、動いたのは宇喜多秀家のみ。
毛利を担ぎ上げることには成功したが、結局毛利に振り回されて。
20万石の石田三成だから、250万石の徳川家康とは対等ではないところから始まっている関ヶ原の戦い。
右の真ん中が天満山(宇喜多秀家・小西行長)、その先に松尾山(小早川秀秋)。
あなたは何もかも見ていたのね、石田三成。
「勝てるかもしれない」が「やはり勝てない」に変わった時、何を想ったのだろう。
いよいよ関ヶ原トレイルランニング コースを走り出した僕。
まずは薩摩の島津義弘陣跡に。
700mの距離と極めて近い、そして森の中とはいえ、関ヶ原の合戦場に一歩近い。
「こんな場所にいて、最後の中央突破撤退までほぼ中立を保ったって本当?」
そんな疑問が湧いてくる、何しろ石田三成の隣に、高名な薩摩の軍兵がいるのだ。
東軍からすれば格好の相手、幾ら島津が強兵で知られていても巻き込まれずにはいられないのではないか。
島津 義弘 (しまず よしひろ)
鹿児島(薩摩)の大大名、武名の高さは戦国大名でも屈指 |
西軍、兵は約1,700、73万石(領地総収入で365億円相当、経費差引前) |
積極的な参戦はせず、西軍の敗戦が見えると、東軍を中央突破した |
⇒石田三成と小西行長の間に島津の陣があり、地理を考えると島津軍が 戦闘をしない・巻き込まれないのは考えにくいと感じた |
陣跡から数百メートル後ろの位置にある薩摩池。
ここに大将の島津義弘本隊は控えていたらしい。
薩摩本国とは距離が離れ過ぎていて、1万も薩摩兵が集まるのは不可なのだろう。
1,700人しかいなかったことが悔やまれる、関ヶ原の「歴史のIf」は島津に。
300mも離れていない位置にある小西行長陣跡と古戦場開戦地の石碑。
小西行長は全力で戦った西軍の将なのだから、やはり島津義弘が戦闘に参加していないというのはどうなの?
そして、陣取った場所・兵数を考えるともっと評価されて良い武将ですね、小西行長は。
小西 行長 (こにし ゆきなが)
豊臣秀吉を支えた文官であり、武官としても実績を挙げた大名 |
西軍、兵は約6,000、20万石(領地総収入で100億円相当、経費差引前) |
宇喜多秀家に継ぐ兵数の多さで、奮戦したと伝えられる |
⇒北天満山の激戦地で、石田三成軍よりも多い6,000の兵で交戦 戦った相手が田中吉政・筒井定次では、西軍の中心人物ではなかった? |
関ヶ原古戦場の開戦地、ということは激戦地のひとつ。
今は穏やかな農地しか目に入ってこないが、その時は死地中の死地。
この平和そうな農地↑でどれだけの血が流れたことか、想像すると怖くなる。
地面をずっと掘り下げたら何かが発掘されるのだろうか。。。
南西へ750mほど、森の中の天満神社。
「あれ?ここは何か格式高いな」と走りながら感じていたら、宇喜多秀家陣跡だった。
まるで宇喜多秀家が祀られているような空気。
それも納得、何しろ西軍の最大兵力・宇喜多秀家なのだから。
宇喜多 秀家 (うきた ひでいえ)
豊臣秀吉5大老、西軍の副大将 |
西軍、兵は約17,000、57万石(領地総収入で285億円相当、経費差引前) |
実際に戦った西軍では兵数がずば抜けて多く、実質的な西軍の主力 |
⇒何故か目立たない存在だが西軍の核、真っ直ぐに戦った姿勢は見事 末席とはいえ5大老ならではの堂々ぶり |
宇喜多秀家陣跡〜小西行長陣跡の平坦な田園風景こそが、数で言えば関ヶ原の戦いの最激戦区なのだろう。
そこを爽やかにランニングした僕、歴史ロマンという楽しみを感じたが、
先人たちへの畏敬は忘れていたつもりはない。
天満山の南側、中山道を抑える要所にあったのは平塚為広の碑。
大谷吉継の前軍として、この辺りで戦っていたか。
東軍・藤堂高虎の陣跡から1km。
平塚 為広 (ひらつか ためひろ)
豊臣秀吉の馬廻(側近)だった将 |
西軍、兵は約300、1万石(領地総収入で5億円相当、経費差引前) |
大谷吉継の与力として、大谷軍の前軍として奮戦 |
⇒東軍の藤堂高虎・京極高知らと激突しただろう位置 |
西軍の布陣のうち、南側の抑えだったのは大谷吉継。
小高い山中を陣跡に、幹線である中山道を封じて、裏の使命として松尾山の小早川秀秋を見張る。
大谷 吉継 (おおたに よしつぐ)
豊臣秀吉から才能を認められた将、石田三成とは親友だったと伝えられる |
西軍、兵は約1,500(与力を含めると5,700)、5万石(領地総収入で25億円相当、経費差引前) |
西軍の南端で東軍を防ぐが、小早川秀秋の裏切りで敗退 |
⇒南天満山の地形を活かし、よく防いでいたことが分かる 最後は兵数の差で勝敗がついたのだろう |
わずか5万石だった大谷吉継に多くの与力がいて、実質5,000以上を指揮していたと聞く。
ここも中々の死地だ、小早川秀秋の大軍にはどうにも対抗できるものか。
山中の深い位置にある大谷吉継の墓。
大谷家臣・湯浅五助の行動に涙のようなものを感じつつ、
その一帯の深い山道をトレイルランニング で駆け抜ける。
ご注意、この大谷吉継の墓へは「遊歩道」ではなくて「トレイルコース」です。
藤古川を越えて、東軍の陣跡へと走り続けた僕。
不破の関跡から東へ200mほど、月見宮大杉の足元・春日神社にある福島正則陣跡。
3倍ちかい兵数の宇喜多秀家軍に突撃したと言われる福島正則軍。
それが本当かどうか、400年以上前から立ち続けているこの月見宮大杉は事実を知っている。
福島 正則 (ふくしま まさのり)
豊臣秀吉子飼いの武断派筆頭、石田三成とは極めて不仲 |
東軍、兵は約6,000、24万石(領地総収入で120億円相当、経費差引前) |
兵数3倍近い宇喜多秀家軍と戦い、関ヶ原の戦いで第一の武功と賞された |
⇒まさに東軍先陣、ここで兵3倍の宇喜多軍と戦い続けたのは驚き |
関ケ原中学校の中に、京極高知・藤堂高虎陣跡は残っていた。
休みの日に正門から校内に入ったらまずいよね、と躊躇していたが
「陣跡に行く人は入ってOK」の案内があり、堂々と入ることができる。
藤堂 高虎 (とうどう たかとら)
戦功・調略・築城、万能系武将(秀吉並みに足軽から大名へ出世) |
東軍、兵は約2,500、11万石(領地総収入で55億円相当、経費差引前) |
大谷吉継軍と戦闘、東軍に寝返った脇坂安治らを調略した |
⇒良い位置につけ、東軍の南側の戦闘を牛耳ったと感じた |
国道21号線沿いにある西首塚。
目を開けられていられない痛々しさで僕は深くお辞儀をして走り去る。
あぁ、先人たちよ。
関ヶ原駅前には観光客用に様々な案内があって、何だか雰囲気をかきたてられる。
歴史ファンをお迎えする姿勢があるのね。
八幡神社から線路を越えて、松平忠吉・井伊直政陣跡まで一気に走り抜ける。
同じ敷地内にある東首塚にも敬礼を忘れない。
井伊 直政 (いい なおまさ)
徳川四天王、戦功も外交も抜群の将 |
東軍、兵は約3,600、12万石(領地総収入60億円相当、経費差引前) |
家康の四男・松平忠吉の後見者として出陣、敗走する島津家を追撃した |
⇒遊軍に近い位置、軍監として全体管理の大任だったのだろう |
陣場野公園の南端に、田中吉政陣跡がある。
徳川家康最後の陣跡がすぐ隣ということは、強烈な精神的プレッシャーがかかっていた田中吉政は攻める手を緩めることができなかったのだろうな。
田中 吉政 (たなか よしまさ)
才覚で国持ち大名まで成り上がった実力者 |
東軍、兵は約3,000、10万石(領地総収入で50億円相当、経費差引前) |
戦後、逃げ落ちた石田三成を捕縛したことで有名 |
⇒石田三成軍へ攻め寄せた主要軍のひとつ |
そして最後に辿り着いたのは徳川家康最後陣跡。
整備され具合が素晴らしく、2020年の現代に訪れても当時の威風が伝わってくるかのよう。
もちろん関ヶ原の当日にこんな場所であったはずはないが、それでも東軍の総大将、勝者というイメージが分かる。
徳川 家康 (とくがわ いえやす)
徳川幕府の創始者、東軍総大将 |
東軍、兵は約30,000、250万石(領地総収入で1,250億円相当、経費差引前) |
関ヶ原の戦いの勝利により、豊臣秀吉五大老内の力争いで勝ち抜いた |
⇒桃配山からかなり前進した位置、勝負をかけてきたのが分かる |
こうして僕の関ヶ原トレイルランニングコースは終わりを告げた。
朝10時から17時までかかって、車&徒歩&ランで回った。
流石にこの内容に松尾山頂往復まで加えるのは1日では難しいかな。
私がお勧めする関ヶ原の走り方
トレイルランニング | 南宮山(島津〜小西〜宇喜多〜大谷 各陣跡) |
ランニング | 笹尾山〜徳川家康最後陣跡〜関ヶ原駅 |
山登り | 松尾山、南宮山、栗原山 |
こんにち伝えられている関ヶ原の戦いは、勝者側(徳川家康)からの歴史。
それが史実だったとは思わない、きっとあちらこちらに違う情報、盛られた逸話、勝者に都合の良い設定がされている。
「本当はそうではなかったはず」という指摘も面白いが、
まぁせいぜい、今伝えらている歴史ロマンを楽しもうじゃないか。
そんなカジュアルな気持ちで走った関ヶ原トレイルランニングでした。
<小説 ドローンと小早川秀秋、関ヶ原の戦いの勝因は空からの情報戦>
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いを松尾山頂から見ている。
「俺は叔父・豊臣秀吉と違って能力を欠いた男だが、ドローンという特技がある。乱世を生き残るぞ、ドローンで」
どちらが優勢に戦をしているのか、霧が見分けを妨げていた。
西軍(毛利輝元)は地形を抑えているが、総兵力の半分も戦っていない。
東軍(徳川家康)は実兵力では優勢だが、士気が上がっていない。
関ヶ原の戦いは、一進一退のまま、決め手を欠いていた。
小早川秀秋。
秀吉の数少ない親族というだけで、37万石もの大身を天から甘受し、1万5千の軍兵を率いている。
何故だろう、戦場の中心地にではなく、関ヶ原を一望する松尾山頂に陣を構えていた。
西軍は豊臣家のために戦っており、小早川家の本家にあたる毛利家当主・毛利輝元は西軍総大将。
豊臣・毛利どちらの親族である小早川秀秋は、西軍の主戦力であるはずだ。
で、あるはずだ。
はずだった。
小早川秀秋は様子見を決め込み、松尾山から兵を出していない。
関ヶ原の戦いに勝つのは徳川家康と直感し、家康に内通していた。
いや、正確には両天秤をかけていた。
表の顔は西軍に、裏の顔は東軍に。
どちらでもいい、勝って天下人になる方につく。
それが小早川秀秋の生きる道。
「ドローンを飛ばしても、これだけ霧が濃いと下の様子が映像に映らない」
リモート・コントローラーを握る小早川秀秋の手は、焦りで汗ばんでいた。
「関ヶ原で最も視界が開けている松尾山頂を確保したのに、霧とは不運」
無理にテイクオフしたところで、1,200万画素・1/2.3CMOSセンサーのカメラをもっても霧しか映らない。
「ドローンで勝つ方をギリギリまで見極め、俺の加勢で勝利を決定的にする。それが俺の価値を最大限に売りつける術」
総大将に任じられた慶長の役で成果を出せず、秀吉から大幅減封をされた経験のある小早川秀秋は、武将としての自分の無能さを受け入れていた。
「1万5千の兵。無能な俺だろうが、この物理的な兵数は誰も無視できるものか」
19歳だからといって甘く見るな。14-15で元服・初陣する者が多い当時、19歳は今の20台後半に相当する。慶長の役という濃い戦歴だってある。
「ドローンを飛ばして、リアルタイムの戦況で俺は判断する」
臆病による両天秤、天から授かった大軍。
愛機はDJI社のマビックエア(Mavic Air)。
金にモノを言わせて、アマゾンで買ったドローンだ。
昨日、松尾山に着陣した直後に、テスト飛行をしてどこでテイクオフ・ランディングをさせればいいか、どの方向に飛ばせばいいかは事前チェックしてある。
ドローン離発着用のランディングパットを広げ、キャリブレーションを済ませ、インテリジェント・フライトバッテリーの予備を持ち、マビックエアを飛ばす準備はとうに出来ていた。
10時、霧の間から青い空が見えるようになってきた。
小早川秀秋は素早くドローンをテイクオフさせる。
1.2mの高さまで自動離陸させると、時間との勝負だからスポーツモードにして上昇・飛行スピードを一気に稼ぐ。
24mmの広角レンズは、下向きにすると戦場の広くを映し出す。
陽が出れば、霧散が始まる。
関ヶ原の上空を一往復し、各隊の戦っている様子をドローンで探るぞ。
まっすぐ笹尾山へ、ちょうど戦場の真上を通る。
どんな伝令や物見よりも速く、正確なのがドローン。
「霧は消え始めたばかり。ドローンにも何も映らないか」
そう呟く小早川秀秋。
霧に紛れて軍兵や陣形が見えるものの、部分部分しか分からない。
「合戦の本番はこれから。戦況はまだ見極められず」
石田三成の本陣がある笹尾山までは、直線距離にして3km。
マビックエアの性能では2kmも飛ぶと伝送距離に限界が来て、映像がモニターに入ってこなくなった。
「まずいな。だが、リターントゥーホーム機能が自動で発動されて、ドローンが帰還し始めたぞ」
映像が入る距離にまでドローンが戻ってくると、モニターの地図と方向を見て小早川秀秋はマニュアルのスポーツモードで松尾山頂へ帰還させる。
5分も経たず、ドローンは手元に戻ってきた。
気が焦っているのか、小早川秀秋はランディングパットも使わず、ハンドキャッチで数秒さえも節約した。
バッテリー残量はまだ半分はあるが、用心でバッテリー交換をする。
次のフライトが、情報収集の決定打になると分かっているからだ。
まだ早い、もう少し待たなくては。
家老の稲葉正成がやってきては、家康への裏切り表明の決断を迫るが、小早川秀秋が頷くことはない。
まだだ、今ではない。
ドローンが俺を判断させてくれる。
11時、視界はすっかり開けた。
大軍が動いていること、両軍が拮抗していることは、地の利を得た松尾山頂からは目視でも分かった。
ただ、もう一歩踏み込まないと見えないものがある。
それはドローンなんだ、ドローンにしか得られない情報がある。
「ここが切所だ。俺の唯一の武器はドローン。頼んだぞ、マビックエア!」
再び笹尾山までスポーツモードで飛ばすと、カメラは数秒毎に豊富な情報量を視覚へ提供する。
松尾山麓で、大谷吉継と藤堂高虎が戦っているが一進一退。
宇喜多秀家は兵数が多く、福島正則・井伊直政を圧している。
小西行長は田中吉政・筒井定次と互角。
島津義弘は動いていない。
有利な地形を抑え、土塁や柵を事前に備えていた効果だろう、全体的には数が少なく見えても西軍のほうが有利。
マビックエアの3軸ジンバルは優れていて、スポーツモードの高速飛行でもカメラが途切れたり揺れたりすることはない。
目視では互角にしか見えなかったが、ドローンで近付いてみると実情は違う。
レンズの角度を前向きにして、西軍の中心人物・石田三成を窺えば、ここに黒田長政・細川忠興・加藤嘉明ら東軍の敵兵が集中しているものの、石田三成が押し返している様子。
さすが、無双の島左近・蒲生郷舎を侍大将に迎えているだけのことはある。
コントローラーの左レバーを動かし、マビックエアのカメラの角度を変える。
徳川家康のいる桃配山を見ると動きはない。
遠く南宮山にも動きはない、毛利家の兵を率いてきた毛利秀元は戦わないのか?
数分間の濃い情報。
判断力の強さ弱さではなく、ドローンの動画を見れば誰にでも分かること。
ドローンを帰還させながら、小早川秀秋は考えていた。
西軍は総兵力の半分も戦っていない。
戦っていない大半は、総大将の毛利家と俺。
毛利家はそもそも戦う気がないという噂だったが、どうやら本当のようだ。
総兵力が半減した西軍を実質率いているのが石田三成。
東軍は士気が上がっておらず、苦戦中だ。
徳川譜代の将や兵が少なく、豊臣政権から徳川派に付いたばかりの将が多いから当然だ。
時間が経てばどうなる?
このまま西軍が押し切るかもしれないが、野戦では兵数が上回る方が勝つのが常道。
勝敗が決まってから味方しても遅いのだ、家康に恩が売りつけられない。
西軍のふりをしていても、俺の今からの合戦参加が西軍勝利の決定打にはならない。
俺が突撃したら毛利家が動くかもしれず、そうなれば功は毛利家へ転がり込む。
つまり、俺を一番高く買ってもらうことは、今、西軍を裏切って東軍につくこと。
小早川秀秋はそう判断した。
生来の愚将ではない。
秀吉に嫌われたら最後、豊臣秀次のように死に追いやられる、という恐怖心からいつしか能力を萎縮させる癖がついた不遇の男。
だが、この時は違う。
幼少の頃、その賢さを秀吉の妻・ねねに認められて養子にもらい受けられた身。
本来は非凡なものを持っている小早川秀秋。
今だけは才能を開花させよ、ドローンで。
石田三成の陣から狼煙があがった。
あれは毛利家と俺に対して、今こそ攻撃をせよという合図だったな。
俺は動く気がない。
合図が上がるということは、西軍にとって俺が今こそ欲されているということ。
わずかだろうが、石田三成が勝機か敗機を感じたということ。
俺が西軍に加勢すれば、流れは一気に西軍に傾く。
俺が東軍に加勢すれば、流れは一気に東軍に傾く。
この2-3時間は小早川秀秋は天下人だった。
ドローンは、関ヶ原の戦いの帰結を、小早川秀秋の動きに引き寄せた。
改めて松尾山頂から関ヶ原を見渡して、心の中で呟いた小早川秀秋。
「今この瞬間だけは俺が天下人だ、叔父に追いついた、一瞬だけでも!」
そう考えている間、藤堂高虎の上空にホバリングしていたドローンを見つけて、徳川の鉄砲隊が発砲した。
正体不明の音を立てる飛行物体に苛立ちを感じたのだろう。
それはまるで松尾山の俺へ向けて鉄砲を放ったような角度になったが、その距離から鉄砲を向けても松尾山頂に届くはずがない。
小早川家の家老たちは狼狽えていた。
徳川の鉄砲隊から松尾山に向けて威嚇の鉄砲が放たれたようだ。
家康は怒っている。
三成だって怒っている。
危険だ、どちらに着くか結論を出せねば。
賢い判断ができる将ではないことは重々承知の上。
ドローンとかいう、あの空飛ぶ玩具?を見て、小早川秀秋は命を出そうとしている。
それもまた愚かな判断の上塗りではないか。
結果、小早川秀秋のこの後の行動が、東軍勝利の直接誘因となる。
西軍の東翼である大谷吉継を破ると、宇喜多秀家・小西行長へ真横からの攻撃となり、西軍はもろくも崩れ去っていった。
小早川秀秋は当初西軍にいたこと・伏見城を攻めたこと・そもそも豊臣一族であることの処罰を免れ、55万石の備前・播磨へ加増移封される厚遇を家康から受けている。
能無しのはずなのに、あのドローンという不思議な物体が小早川秀秋を救った?
遂に小早川秀秋は命を下した。
「行け、我らは東軍に付いて、西軍を蹴散らすぞ!」
手に持っていたのはドローン。
あれを握ることで、小早川秀秋は自信を確信に変えた。
小早川秀秋がドローンを使っていたと考えると、彼の行動が理解できてくる。
関ヶ原の戦いの勝敗は、ドローンが左右したという空想。
2014年12月29日
関ヶ原古戦場トレイルランニング①
関ヶ原の戦いの史跡を巡るのには走るのが最良だろう。
地形と布陣を現地現物の肌感覚で見てみたい、歴史ファンの僕としてはいつか来てみたかった関ヶ原。
東西の有力大名・武将たちが壮絶な戦いを繰り広げた場所に歴史ロマンを強く感じる。
関ヶ原町歴史民俗資料館から走り出してすぐ、関ヶ原決戦地。
東軍と西軍の境、黒田長政と島左近の軍勢が激しく戦った場所、平地が続くこの一帯はまさに死地。
歴史ロマンをビンビン感じながら走るが、どうも喜ぶ気にはなれない、だって戦場跡だから。
石田三成が本陣を置いた笹尾山はすぐ近くだった、その山頂からの景色は当時を偲ばせるもの。
徳川家康本陣や両軍の動きが手に取るように分かる好位置、生死の境もすぐそこにある。
気温8℃はトレイルランニングには適している、暑さや発汗での消耗は皆無に近い。
関ヶ原の戦いが行われた10月21日に走りたかったが、12月にしたことで随分走りやすかった。
観光案内図の通り、一帯には多くの跡碑が残されているから、それをチェックポイントとして走る。
ビッグネームの戦国武将たちが名前を残している関ヶ原、歴史ファンの一人としては垂涎の的ね。
西軍は高所を活かした鶴翼の陣を敷いて優位だった聞くが、こうして石田三成本陣から見るとその通り。
横一列に並んだ有力武将たち、高所の山を3つも抑えている。
笹尾山を下りて島津義弘の陣跡へ、大変ご立派な石碑が建てられていた。
勝敗の様子見をしていたのは武人の常だと思うが、引き際で死地である北国街道を選ばず、
敵中突破をして伊勢街道を選んだ薩摩の英雄・島津義弘、その判断力に敬意を表する。
北天満山に敷陣した小西行長、西軍の有力武将に深い礼をして、また次へ走っていく僕。
関ヶ原の戦いの開戦地、井伊直政が抜け駆けして宇喜多秀家へ発砲、その後に本来の先陣・福島正則がこの場所で開戦。
西軍の副大将・宇喜多秀家は1万7千もの軍勢で南天満山に布陣、事実上の西軍の主力部隊。
東軍からすれば最大の敵だったはずが、戦いの後でも死罪を受ける事は無かった宇喜多秀家、幸運か不運か。
西軍の名将の一人・平塚為広、あの大谷吉継と盟友だったことから西軍についたとか。
大谷吉継の名前を聞くと何だか心が震える。
豊臣秀吉の部下として石田三成とは長年同僚、刎頚の友でもあったという関係から彼もまた西軍についた。
病にあった大谷吉継なのに、松尾山に構えた小早川秀秋の大軍を睨む場所に布陣し、東軍の藤堂高虎と対峙。
小早川秀秋・脇坂安治らの寝返り軍の兵力差に敗れた大谷吉継、その陣跡と首塚があった。合掌。
中山道を走り、(関ヶ原の戦いとは無関係だが)不破関跡へ、東西の旅人たちと取り締まった有名な関所。
西軍オールスターズを鶴翼の陣に沿って訪問して感じたこと。
山や丘を押さえ、川を掘としただろうから、特に開戦当初は西軍優位だったのは納得。
トレイルランニングコースとしては楽な範疇だが、生死を争う戦場としては西軍の布陣は良いね。
問題の松尾山に登る前に、脇坂安治の陣跡へ。
どう見ても東軍に対峙しておらず、小早川秀秋が裏切りすることを前提とした牽制の場所。
勝敗の鍵はどうやら小早川秀秋にある、そのキーマンが布陣した松尾山へと向かう。
標高292mの松尾山、登って来る途中ではほとんど眺望がなかったが、山頂で一気に視界が開けた。
これが数時間天下人・小早川秀秋が見ていた景色なのか、最高の日和見場所を確保し、東西どちらに味方すればよいか見物。
能力の乏しかった将とされている小早川秀秋だが、大軍を率いてこの要地を押さえたということは何か意味・力があったのだろう。
30万石の身で、何故1万5千もの軍兵を集められたの? どうして前日から松尾山を確保できたの?
自分の動きひとつで、東軍・西軍いずれもの命運を握ることができるタイミングを得る、これは偶然か?必然か?
残雪・寒風の松尾山、小早川秀秋の陣跡で僕はずっとこの景色を見ていた。
この場所に来れてよかった、天下を掌握する景色を自分の足と目で確かめることができて、感動を覚えた。
そうだ、ここが関ヶ原の戦いのクライマックスだ。
意を決して松尾山を駆け下る、まるで誰かさんの軍勢のようにね。
心地よいトレイルランニング、戦の勝敗を左右する走りなのだ。
登りは30分ぐらいかかったのに、下りは10分ぐらいだろうか、低山なのであっという間。
こんなスピードで下ってきた大軍の敵勢を、あの大谷吉継・平塚為広は当初は撃退させたという。
それもまた凄い話だ。裏切りを予測し、備えが十分だった証。
福島正則の陣跡へ、ここからは東軍オールスターズの領域。
西軍一番の大軍・宇喜多秀家の軍勢に乗り込んでいった福島正則、軍兵は3倍近く差があったはずなのに。
藤堂高虎・京極高知の陣跡、関ヶ原中学校の敷地内にあった。
この時間帯から冷たい雨が降ってきた。
徳川家康が自軍を前進させると士気が高揚、それでも小早川秀秋の裏切りまでは一進一退。
東軍はどこも平地に陣を構えざるをえないから、低地→高地への進撃は不利、東軍の大変さを走っていて痛感した。
戦いの後、命を落とした将兵を埋葬したという首塚、帽子を脱いで黙礼。
敬愛する本田忠勝の陣跡は外せない、ちょっと外れにあったが敬意をこめて会いに行く。
先陣で戦っていた井伊直政・松平忠吉の陣跡、お二人の軍勢も確実に戦功と戦傷にまみれていたはず。
東首塚、ここでも脱帽をせずにはいられない、関ヶ原の町中を走り続ける旅の途中。
東軍・田中吉政の陣跡もあった、彼の軍勢が関ヶ原の戦いの後、逃走中の石田三成を捕縛した。
徳川家康の最後の陣跡、ここで首実検をした。
一方的な勝利ではないから自軍の犠牲は少なからず、しかし天下を掌握した実感はあったのだろう、どんな気分だった?
残酷な絵が残っていたが、ここに歴史ロマンなんてプラスなイメージを持っている人たちを改める効果はあるね。
関ヶ原古戦場をトレイルランニングで回ったが、戦死者を供養する気持ちが僕は強かった。
観光地ではなく、戦争の恐ろしさを教えてくれた場所、関ヶ原。
ゴールの歴史民俗資料館、16km・4時間ほどの関ヶ原トレイルランニングでした。
松尾山からの景色が胸に焼き付いたのが最大インパクト、道は走りやすく、案内も数多く親切。
地形と距離感を確かめるには、車ではなく、自分の足で走るのが一番。
一生忘れられないと思うよ、今日の関ヶ原トレイルランニングは。
楽しいとは言わないが、刺激と冒険に溢れた体験ができた。