中国における詩と絵画の関連性については「詩画一体」の精神なしには語ることができない。
八大山人の「安晩帖」二十二幅のうちのその四に、
「郷(*変換不可)者に南登を約し 宗公子と往復す荊巫の水一斛 己に図画の裡に渉る」
という題詩のついた山水画がある。
荊山と巫山の水景が描かれた画だ。
しかし題詩に登場させた宗公子(宗炳)とは南朝時代の隠士であって、八大山人が生きた時代よりも実に千年以上前の人物である。
どうして八大山人はわざわざこの組み合わせを選んだのか、それは「詩画一体」の精神を理解する必要がある。
詩は中国で最高の芸術と位置づけられると言われるが、
中国の文字は象形文字であってまずはその文字自体が絵画的要素を持つアートである。
その文字に韻律を重ね、そこに情景や感情を載せることで一種の複合アートの世界を創り出しているとわたしは考える。
その古典詩の世界は決して表面的なものではなく、
例えば李白が月をみて「靜夜思」で「頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う」とよみ、
表面の言葉のその奥で故郷を思う己の心をうたったように、
山や月自体が美しいのではなくて、その言葉の奥にある誰かを思う人の感情こそが美しい、という二重の構造をとっていた。
言葉以上のものを言葉に託するのが詩における美とされていたのだ。
中国美術の歴史を紐解けば、元々から美術のその下の位置づけで
肉体労働の産物として絵画は生まれており、それが時代が進んでゆくなかで
次第に書と同様に高尚な精神の遊びという発想につながってゆき、
中国絵画は画境を形の外に求めるという境地にたどりついた。
中国の芸術では抽象的・理念的な度合いが高ければ高いほど良しとされる傾向と言われるが、その意味で詩も画も同じ理解なのだ。
書も画もそこにあるものを書いたときはそれ以上の存在ではありえないが、
その筆線には筆者の指先や手の感覚などで微妙な表現価値の違いがあり、
その「ドラマチックな身体性」なアートが認められていったのだ。
科挙でも詩文から連想する絵画制作が試験として出題されていたという事実からも、
詩と絵は知識人として必須の教養となっていったことが分かる。
気韻なき写書は画ならずとの言葉の通り、
こうして芸術的な価値観としては詩と画の一体化がはかられていたのである。
これは私見だが、詩という芸術は感覚を言葉という具体的なもので
表現するものだけに情趣の体現化、目に見える形としての表現部分が大きいと思う。
対して画はイメージに近いのではないか。
目に見えるものを現実のものとして描き出す作業よりも感覚的であって、詩ほどは具体的である必要はない。
もっとも、この両者は別々のジャンルのようであるが中国美術においては
互いに「画境を形の外に求める」もので一致しているがために、根本は同じである。
その二つが「詩画一体」というはっきりした意識の元でひとつの作品に同居する中国美術は大変興味深いものだ。
さて、八大山人の詩に戻るが、彼は千年以上前に隠棲の士として名をはせた宗炳という人物と
以前より共に山に登るという約束があったので、約束どおりともに山水を歩いてきた、と詩中で語っているのだ。
無論、現実として時代の違う二人が共に歩けるわけがない。
しかし詩画の世界の中で、ともに詩心のある二人が意気投合しながら
遊歴するというイメージは日常を超えた余裕というか、美しい想像の局地であり
、八大山人のたしかな詩境によって創り出された美しい夢幻の世界である。
その詩をふまえて画を見れば、そこに並んで歩く八大山人と宗炳の姿こそ描かれていないが、
興にふけりながら足を進める二人の姿が山水画のなかにまじまじと浮かび上がってくるようだ。
二人の文人同士の時空を越えた交流、連想に富んだ詩心によって、
山水画の表面に書かれたものをはるかに越えた深い感動が画にもたらせているのが分かる。
詩が絵画に含みをもたらせる効果。絵画は詩があることによって美の世界をさらに突き抜けているのを感じる。
この融合されたアートの世界こそが「書画一体」の境地なのであり、
古典詩と絵画をつなぐこの深い美の精神の関連性によって、
今もなお中国では絵画には必ずといっていい程、共に詩が刻まれているのである。