「今、お時間ありますか?」
会社の仕事中に、この言葉を使うことがよくある。
普段は何も考えることなく使っているが、よく考えてみれば不思議な言葉である。
今とは何だろう?
我々は時間をどのように把握し、どのように有り無しを判断しているのだろうか?
このことを哲学の観点からまとめてみようと思う。
まずは時間を有ると考えるには、デカルトが言ったように時間の本性が思考の仕方であって、
精神のうちにあると理解するところから始まる。
空間は客観的なものであるが、時間は主観的なものであるから、精神に属するものが時間である。
今を今、過去を過去、と決めつけるのは人の心ひとつにかかっているのである。
物体の運動の持続が時間であるから、流れてゆく時間の持続そのものが時間を意味しているのではなく、
その物体が持続することを見て我々がどうとらえるかが、時間を特定する唯一のものなのだ。
「今、お時間ありますか?」のうち、「時間」とは何か。
本人が主観的に考えるところの時間が、その時間を意味するものになる。
ここでは人の口から「時間がありますか?」という質問が出ている。
一般に『xとは何か』という問いが生ずるなら、すでに『x』は存在しているということがあるから、
こうした質問が出ること自体が、時間というものを人が認識していることを意味するのである。
りんごひとつをとっても、「りんごがある」「りんごは果物である」という二通りの「ある」があるが、
時間も同様に「今、たくさんの時間がある」
「時間は誰にも平等に与えられたものである」というように量として、質としての規定を持つことになる。
りんごのように手に持って「これはりんごである」と誰かに示すことはできないものの、
今自分には時間があるのだ、と自分で認識して実際に時間を費やして
時間があることを証明することはできるし、あなたにも平等に時間があるのだ、と相手の時間の存在を指摘することもできる。
常に事物はそこに有り、このように有る、という二つの意味を持つ。
同じく時間も「時間がある」とDaseinで実体や概念の範囲を示すこともできるし、
Soseinでは「時間は決して戻らないもの」と属性や概念の意味を当てはめることができる。
「時間がある」という言葉は、「時間はあるものである」という解釈をすることができる。
ではその逆の「時間はあるものではない」という考えは成立するのか。
「有る」の反対の「無い」について考えてゆくと、ヘーゲルの弁証法では
事物の自律的な存在は、他者との関係において依存的であるという矛盾を説明している。
時間がある、という言葉はそれだけで独立した存在になりうるが、
時間がない、というのはあることの否定によってはじめて無が生まれ、相対的に有ることの存在価値を説明したのである。
インド哲学の無では、「私には時間がない」は「私には時間の無が有る」として、
観念として意識の中に肯定的に存在するものとみなされた。
有と無とは対応物として扱われているのだ。
「今、時間がない」を英語にすれば「I have no time now」となるように、こうした考え方はインドだけのものでもない。
よって、あることの裏には必ず無があり、あることを意識するためにはないことを意識しないといけない。
これは西洋の弁証法、東洋の人生哲学においても共通したことである。
「時間がある」ことは当たり前である。
先にも述べたように、時間があるか?ないか?と自問する時点で、時間がある存在であるということを証明しているのである。
仕事の忙しさにかまけて「今は時間がありません」と答える時もあるだろう。
でもその時によく自分のことを考えてみれば、
あるはずの時間をないと答えるときの自分の貧しさ、愚かさに気が付くことができる。
時間がないのではない。ない時間があるのであるから、やはり時間はあるのだ。
考え方ひとつで有無は変化してゆく。時間が存在するという事実は自我の外にあるが、
それを本当にあるかないかと判断する価値基準は、自我の内にあるのである。
忙しさは否定できないだろうが、それを理由に時間がないと言うことは矛盾した言葉になるのだ。
こうして有は無の存在によってその有の意味を確認することができるし、
無もまた有との比較の中でこそようやく無の意味を明らかにできるのだ。
時間がないと言った後で人は後悔することだろう。
空間である時間は常にある。
でも、自分の心が満たされていないことがあって、
あるはずの時間をないと言ってしまったのは自分の心の動きだけに左右されてしまったからだ。
この「今、お時間ありますか?」はすごく哲学的な問いにもなる。
誰にでも余った時間はあるし、誰にでも余った時間はない。
どのようにも答えられる不思議な問いであるが、
そこで問われているのはその個人がどういう心で今を生きているか、ということを示すものであるからだ。