詩的日記

優しい肌のように〜赤ちゃんが教えてくれた今の大切さ

――こんな肌。

触れるたびに驚きがある。

我が子ながら、なんという肌をしているのだろう。

初めての誕生日を迎えたばかりの結衣の、肌の柔らかさ。

どうしてこんなに優しい肌。ムチムチなふくらはぎ。

丸々とした二の腕。赤いほっぺ。

触れた僕の指が、結衣の肌の柔らかさで弾ける。

髪はパウダーの匂い。精密な足の爪。可愛く光るわずかな白い歯。

身体中のパーツが、小さいくせにちゃんとそれらしくなってきている。

君は段々大きくなってきたね。

「慶。ほら、お仕事、お仕事♪」

キッチンで有美が言う。でもだまされないぞ。休日は僕の当番じゃない。

「ほ~ら、結衣ちゃん。お休みの日はママがゴミ出しするんだよね~」

結衣の大好きな「たか~い、たか~い」をしながら、結衣にそう話しかける。

結衣は声を出さないままで笑っている。あぁ、それ!最高の笑顔!

妻はキッチンの奥で悔しそうに

「ちっ、ダマされなかったか」とか何とかブツブツ言うと、ゴミ箱をガサガサとやり出した。

土曜の朝。結衣が生まれてからこの時間が僕の一番の楽しみになった。

平日は遅く帰ってくるから、結衣の起きている顔にいつも逢えるわけじゃない。

土曜ぐらいは、せめて土曜日ぐらいは思い切り結衣の側でうだうだしていたい。

一緒に寝転がって、一緒に遊んでいたい。

誰にも邪魔されないこの時間。僕の大切な時間。

結衣ちゃん。君の目を見て、ずっとこのままでいたい。

過ぎる時間なんてどうでも良くなってくる。

大事で、大事で結婚したはずの奥さんさえもが霞んでしまうほど、

君の透き通った目は僕を捉えて離さない。

ふたつの玉石をいつまでも見続けられることの喜び。

「もう。子供みたいな目でいつまでも見てないで」

そうキッチンから声がすると、ゴミ袋のガサガサした音は玄関へ遠ざかって行く。

一階のゴミ置き場まで行くのだろう。

さぁ、結衣ちゃん。もう他に誰もいないよ。ここには君と僕だけの時間がある。

君の口から漏れる言葉にならない音を聴きながら、僕は君のことを見ていよう。

そのきれいな目を見ながら、君のこの一秒一分の成長を見守っていよう。

結衣ちゃん。

パパはすっかり大人になって生活でも仕事でも色々難しいことを抱えるようになったけど、

君のことはいつでも、本当にいつまでも好き。

夜泣きも、おむつ交換も、お風呂に入れるのも、それは君のありのままの姿だからパパは好き。

全てをパパに見せてくれる君がとても好きだよ。

いつまでもパパには全てをオープンにしてくれる娘になって欲しい。

でも、それもあと十年と続かないだろうな。

せめて今はずっと君のことを見ていたい。

汚れなく、負い目なく君のことを見ていたい。

パパは心からこの時間が好き。君を見ていると飽きることがない。

ほおっておけばいつまでも、本当にいつまでも君のことを見ているに違いない。

何もしないで見ているだけがどうしてこんなに楽しいのだろう。

自分でも不思議なくらいだよ。

――ドアの閉まる重い音。

ママは変なことを言ったね。

いまさら僕の目が子供のように純粋になれるわけないよ。

子供のようにということは君みたいにということだろう?

それは無理だよ。到底及ばない。

あぁ、でもそう言われてみれば僕のこの目はなんだろう。

いつまでも君を真っ直ぐ見つめることのできる、優しい目。

あぁ、そう言われればどこかで記憶があるような、何か懐かしいような気もしてくる。

あれ、おかしい。思い当たることがあるようだ。

―――――!

眩暈がした。あぁ、あれだ。確かにこの目だ。

そうだ、僕には結衣を見守る今の優しい目と同じ目をしていた時期があった。

まだ二十歳にもなっていなかった頃、初めてできた彼女。

相思相愛だった相手。僕はこの目で彼女のことを見ていた。

優しさだけの目。自分の心がありのままさらけ出された目。

あぁ、あの純粋さは今と同じだ。

僕は狼狽のあまり、どうしていいのか分からず、目を閉じてしまった。

だがそれが悪かった。瞼の裏であの頃の絵が蘇ってくる。

誰もいない山の上の公園で僕たちは抱き合った。

電灯もなかったから、月明かりだけを頼りに

相手の目を見つめ合い、いつまでもキスしていた。

帰り際の車内でも帰るのが惜しくてまた抱き合っていた。

初めて共にするベッドで、僕達は素直になって純粋な目で見詰め合った。

彼女のきれいな目にキスしていた僕。

僕の目は、彼女への真摯な思いに輝いて、偽りの色が全くなかった。

それは、結衣を見つめる今の僕と同じように。

――あの日の目と共通しているのだ。

それに思い当たると、僕は一抹の寂しさを感じてしまう。

あれと同じ目を妻に向けることはなかった。

一度失恋してしまった僕の目には初めての時のような汚れなさはすでに存在せず、

なんだか冷めていたように思う。

こんなこと妻には言えない。だが、どうしてもそう思えてしまう。

妻とは喧嘩もするし、お互いに大人だから生活の上でかけひきをし、

逆にかけひきだってされることもある。

いいや、それはそれで社会人としての立派な成長なのだ。

それを寂しいだなんて思ったことはない。

妻とも、愛し愛されて結婚した仲だ。生活に基づいた深い愛情はある。

だが結婚してからは、最初の頃のようなときめきはなくなってしまった。

あぁ、懐かしい記憶。

あの頃の僕は本当に昔の彼女を愛していたのだと今になってようやく分かる。

あの目だ。

結衣に対する今の愛情と同じぐらいのものを、あの日の僕は彼女にぶつけていた。

心の通った無償の愛。

大きな時間が流れた今だからこそ、それが鮮明に映し出されてくる。

幻の初恋と、妻との毎日の愛情。

ちょうどふたつは相反する磁石のように対局で存在し、

決して交わることはないのに、その極点の眩しさがずっと僕を迷わせていた。

解決できない追憶であり、痛みである。

どうすることもできない無意味な悩みである。

なんで、なんでこんなの思い出すのだ?

僕の今は結衣であり、妻であるのに。

通り過ぎた思い出はもうどうすることもできないのに。

心から愛する結衣を見ている自分自身に、過去の思い出を重ねられても困る。

歓迎できない悪戯だ。

ふと、結衣の音が聞こえた。

「マンママ」のような音を発している、それも汚れのない目で僕を見つめて。

――結衣ちゃん!

その目が可愛くて、可愛くて結衣を抱き締めていた。

――あぁ、結衣。結衣。

まとわりついた僕の髪の毛をひっぱりながら暴れている娘がいとおしくて、

僕は僕の両目に愛情をたっぷりと注ぎ込ませて、結衣のことを見た。

確かにそうだよ。この自分の目には過去に出逢ったことがある。

昔の彼女を愛していた時の目だよ。間違いない、確かにこの目だ。

「結衣ちゃん、パパだよ」

結衣を優しい両目で包み込む。愛情の目で抱き締める。

「パパパ」

結衣の声。僕のことをまっすぐ見る、丸くて大きくて透き通った目。

宝物。宝石。僕の太陽。我が家の太陽。

――僕は生きてゆける。この子とならやってゆける。

僕はそう思う。

結衣ちゃん。

パパはね、ママと二人で協力して君のことをこの世に創り出したつもりだった。

パパとママの成長の成果が君だって、そういうつもりだった。

だが、それは違うようだね。

君の出生と共に、僕はゼロから再生する。

過去の決定的な思い出や大小様々な傷跡も、今は君の笑顔に無力化されてしまったのだ。

君の成長と共に、僕もまた成長してゆく。

この目を君が取り戻させてくれた。

もう忘れていた純粋さを思い出させてくれた。

僕は君と一緒に成長してゆこう。

君はこれから大きくなり、少女を経て大人の女性へと花を開かすことだろう。

そして、君が一人前の女性に育った頃には僕もまた成長し、

二回目の大人を迎えているだろう。

自分の子供であるという以上に、結衣ちゃんの存在は至らぬ僕を支え、再生してくれる。

子供は親に育てられるだなんてとんでもない。

僕のような親は子供の存在に育てられるのだ。

――玄関のドアが開く音。

妻が帰ってきた。

僕は歓迎の意味を込めて、結衣と玄関まで一緒に行こうと思った。

そうだ、成長段階の家族が離れ離れになってはいけないんだ。

結婚以来、僕にはずっと解決できないことがあった。

昔の思い出たちが、眩しいところだけをやけに主張して、

今更ながら僕に昔話を語りかけてくるのだ。

それは、ただ懐かしいから輝いているのではなく、

清濁を飲み合わせて全てを許してくれる時の流れに優しく彩られているからこそなのだが、

問題の根本的な解決や不信の原因を追及した結果ではなく、

ただ時間のカーテンにごまかされて美しく化けているだけなのだ。

きっとあれと同じ状況に今の自分が対面したところで結論は変わらなく、

同じ過ちを繰り返すだけなのだろうが、どうしてか、

愚かな僕には昔の思い出たちがやけに眩しく感じられてきた。

好きになった相手にこそ、嫌いという感情が生まれてしまう。

一緒になると、途端にその人の魅力は目に届かないようになり、

隣の芝生ばかりが青く見えてしまう。

傍から見て自分や自分の周りで輝く光にはどうしても気が付かない。

過ぎたことばかりが悔やまれて、追憶にすがって生きている。

近寄っては離れたくなり、離れては再度近寄りたくなる。

白砂の浜辺に寄っては引く波のように、現れては消え、また消えては現れるのだ。

その繰り返しの中で、波に翻弄される珊瑚の小さなかけらが

転がっては乾いた音を立てる。

この音が、思い出と呼ばれる一瞬の閃光だ。

終わりなく繰り返される、意味があり、またそうではないもの。

この繰り返しに考える意味は不要だ。

どちらでも正解であるのだから。

初恋のまま成功した人たちが羨ましい。

だが、きっとそれはそれで違う音が聞こえるのだろう。

そうだ、やはり違うよね。結局、思い出自体が優しいのではなく、

それをオブラート状に包む時間の流れが優しくみせているだけなのだ。

過去は過去の優しい時間があったが、今は今の大切な時間がある。

今の僕を照らしてくれる結衣ちゃんの目はもっと優しい。

たった一瞬の迷い。有意義だが、やはり無用な迷いだった。

――僕は優しくなろう。結衣の肌のように、結衣の目のように優しくなろう。




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