余情終止形の駆逐?貴族の情緒→武士の力強さ

言葉に余情を漂わせる。

平安時代の人々が好んだ言葉の余情表現である係り結びが、

貴族たちが作り上げた古代日本語を、動詞の活用体系を体系ぐるみ変化させ、現代まで続く近代日本語へと大きく変容させた。

この係り結びという表現方法は上代から存在していたが、

平安中期の女流文学から平安末期の宮廷女房の文化時代に最盛期を迎え、次第に一般社会全体にまで広まっていった。

文中に「ぞ」「なむ」「や」「か」の係助詞があったら終止形を使わず連体形で結ぶ。

「こそ」があったら已然形で結ぶ。

こういう明確なルールのある係り結びは何故女流文学の世界で愛用されたのか。

「なむ・連体形」「ぞ・連体形」、または「こそ・已然形」で結ぶことによって

強調表現が可能になり、「や・連体形」「か・連体形」を使えば疑問や反語を表現することができる。

優美さが求められた貴族社会において、係助詞なしの連体形で文を止めることで

体言止めと同じ効果を生み出し、言葉に余情を漂わすことができるというのは優れた手法であった。

女性が好む婉曲な表現にも繋り、

ひいては日本人が好む曖昧な日本語にも合う性質があるが故に、係り結びは広く重用されたのである。

中世の時代は古代日本語と近代日本語の長い過渡期である。

社会情勢が変わり、中世では支配者層が貴族ではなく武士階級に移ったことが日本語の変化を決定的なものとした。

武士たちが求めるものは力強さ・たくましさであり、平安貴族の優しい語り口調とは対照的なものであったのだ。

武士たちの活躍を動的に描く軍記物語では

「なむ・連体形」という係り結びの強調表現は使用頻度が急減してゆく。

元々「なむ・連体形」は柔らかい口調に限って出現する強調表現なのであるから、

勇ましさを求める武士階級が好んで使うわけもなく、自然と淘汰されていった。

変わりに「ぞ・連体形」「こそ・已然形」という強調表現が多用されるようになってゆく。

ただし、その用途は淡い余情を残すための貴族的手法とはかけ離れたものであって、

「~とぞ申しける」のように言葉に表面上の力強さを生み出すための慣用表現となってしまい、

本来係り結びが持っている「ぞ」の上の言葉を強調するという意味合いは薄くなってしまう。

軍記物語では次第に発言内容がこの「とぞ~申しける」「とぞ~宣ひける」でくくられるのが通常化してくる。

同様に「こそ・已然形」の持つ取り立てる強調表現も「こそ・候へ」のように慣用句的に使われることで、

係り結びの持つ強調表現の機能を本来の姿からかけ離してしまうことになっていった。

疑問と反語の「や・連体形」「か・連体形」はどうか。

軍記物語で最も多く使われるのは「いかでか~べき」「などか~べき」という、疑問反語表現として最も語気の強い用法である。

ここでも平安の係り結びは優美さから力強さへと目的がすりかえられているのが分かる。

こうして貴族から武士へと人の中心が移ったことで室町時代の終わりには

こそ・已然形を除いて係り結びはすべて消滅という事態をたどっていったのである。

多用され過ぎて本来の強調の意味をなくしてしまった連体形止めは、

次第に連体形止めそのものが終止形で終わるのと同じ効果を持つようになってしまい、

連体形と終止形の区別が曖昧になってしまう。

係り結びが特別な表現方法として人々に認識されなくなってしまったのである。

連体形には愛用されてここに至ったという優性があることから、

結果として連体形が勝ち残り、終止形は次第に誰も使わなくなってゆく。

本来は余情表現である連体形が、いつの間にかただの終止形と同化していった。

唯一残った「こそ・已然形」も江戸時代まで生き残ったものの、使用頻度は格段に落ちていった。

こうして中世の時代に終止形と連体形は同じ用途で使われる言葉になり、

人々に多用されていた連体形が終止形を駆逐してゆくことになる。

また、鎌倉・室町時代に文の主語を明示する「が」という助詞が発達してきたことによって、

「文の構造を格助詞で明示されるようになり、日本語は格助詞で論理関係を明示してゆく構造に変わった。

係り結びの文は係助詞を挿入することでその前後に空間を入れ、余情を漂わしつつも論理の糸が切れることになる。

文の構造を明示する理論の世界に、非理論の余情表現・係り結びはかみ合わず、これが係り結びの衰退を加速させたのである。

「連体形による終止形の駆逐」は日本語の言葉の余情・情緒を重んじた貴族たちの時代から、

勇壮さを求めた武士台頭の中世を経て論理性を重んじるようになっていった、

という日本文法史上の現代まで続く大きな変化を示す転機であるのだ。

動詞の一段活用・二段活用、一段化現象への言葉の変化

動詞の活用語尾に使われている母音が一種か二種なのかを見て、一段活用か二段活用かを見分けることができる。

例えば「起きる」であれば一段は「起き・起き・起きる・起きる・起きれ・起きよ/起きろ」と、

「起き」の一種の母音がベースになっているのに比べ、

二段活用だと「起き・起き・起く・起くる・起きよ」と「起き」「起く」と二種の母音が使われることになる。

中世に始まり近世には完了していたとされる連体形による終止形の駆逐によって、

日本語には大きな変化が起こり、終止形が不要になってしまっていた。

これにより例えば上二段活用は次のようなものに変わっていたことになる。

旧上二段・「おき・おき・おく ・おくる・おくれ・おきよ」

新上二段・「おき・おき・おくる・おくる・おくれ・おきよ」

このような活用体系への変化が自然と生じていたことが、ひとつ目の要因として動詞の一段化現象につながってくる。

連体形が終止形を呑み込んでしまうということは日本語の大きな変化であったが、

その中で偶然にも語音構造上に変化が生じなかった用言がある。

それが四段・上一段・下一段である。

まず四段活用では「書か・書き・書く・書く・書け・書け」のままで、

アクセントは違っていたとはいえ、語音構造上の活用形変化は見られなかった。

上一段活用の「あたえる」では終止形「あたふ」が連体形「あたえる」に同化し、

終止形も連体形も「あたえる」になっている。

同様に上一段では「着 き・着る・着る・着れ・着よ」となっていて終止形も連体形も同じ「着る」であった。

こうして見ると新二段と一段は母音が一種・二種ということ以外活用形は同一している。

そして新上二段は下からの上一段と似ていると意識され、

それに引かれる形で上一段に同化したという解釈が一段化現象への次の要因となった。

二段活用から一段活用へと変容していったこの波は、

終止形・連体形の活用形同一化以前から起こっていることではあった。

奈良時代には下二段活用であった「蹴ウ」が、

平安時代に下一段活用の「蹴ル」に変化していったことに例を見ることができる。

「居る」のように「イ・イ・ウ・ウル・ウレ・イ」という上二段だと語の同一性が不明瞭であるから、

上一段で「イ・イ・イル・イル・イレ・イ」とした方がすっきりする。

「見」「煮」のように一音節で元々不変化だった語から次第に一段活用化されてゆき、

それに合わせて他の言葉も変化していったと考えられる。

つまり言葉は使い手である人の都合で使いやすいように時代の中で変化してゆく。

その良い例がこの動詞の一段化現象なのである。

当時の中央では下二段の形が上品な言葉とみなされていたことや、一般の庶民は一段活用で、武士は二段活用を長く保ち、

またうちとけた場面では一段活用、改まったところでは二段活用を用いたことからも、

本音と建前、話し言葉を書き言葉、日常用語と殿上用語の狭間で

長い時間をかけて言葉が変化していったことが推測できる。

人間の国語は楽な方へと進んでゆくから、まずは関東民衆、そして武士、

いずれは中央の話し言葉も次第に変わってゆき、一段化が一般化してゆくのも必然のことであったのだ。

主語と述語 日本語と英語(西洋文法)との違い

参考書などを読むと、日本語の主語と述語の関係は動作・存在・有無などの関係を対になって支え合うものであり、

主語なしには文章はなりたたない、ということになる。

確かに英文法を見るとその考え方は的を射ている。

述語が帰属すべき先を、主語が受け止めているのである。

また、主語のかたちによって使う述語が変わる、という制約があり、主語の影響力は強い。

つまり、英語文においては主語が動詞・目的語・補語の状態を支配しており、

意味をつなげるための主語というより、文を定型の文にするために必須のものだと言うことができる。

しかし、「日本語のセンテンスは必ずしも主格のあることを必要としない」

とあるように、文章の専門家である谷崎潤一郎氏がこのように言うのはどういうことなのか。

一見矛盾であるように思える。

調べてゆくと、現実問題として日本語では主語がなくても文章として成立するものもあるのが分かってくる。

「いい天気です」「二階に運べ!」などがその例だ。

「象は鼻が長い」に至っては主語が分からない。

三上章が唱える「主語廃止論」は、文法論をかじったばかりの我々には

極論過ぎると思うのでこの説に寄りかかることはしたくない。

しかし、何故日本語には主語がいらないのか、という説が生まれてくるのか、その背景をさぐってみたい。

そもそも主語と述語という考え方は日本文化から生まれたものではなく、明治維新の際に西洋から入ってきた概念である。

文頭に主語を立て、その次に動詞をもってくるという

英語の文法(中国語も同じ)は、「神の視点」であり、自らを高い位置におき、

そこから状況を見下ろしているということが言われている。

「する言語」であり、「人間中心」の言語である英語などの西欧語や中国語が世界の大多数の人たちに受け入れられ、

世界言語の中心を占めているという事実がある。

論理的であり、客観的である言葉だからこそ、

違う背景を持った人間たちの間でもこの言葉は定着しやすかったのであろう。

それは否定できないが、日本語はまた別個の歴史文化を経て

確立した言語であるから、我々はその日本語の特殊性を理解せずには文法を語る資格がない。

日本語は「動く虫の視点」であると言われる。

英語が「不動の神の視点」であるのに反して、日本語は場によりかかった位置での発想から言葉を形成してゆく。

会話している相手も言葉筋からその状況を読み取らないと話についてゆけない。

場面に拘束されがちな言葉であるということだ。

実体験を踏まえたうえで言葉にするにはとても易しいが、

状況が分からない他人からすればこれほど理解できない言葉はない。

英語・中国語の状況や時系列が明確な言葉とはこの点が対照的である。

島国ということで外国人と接する機会が少なかった日本人が、

長い時間をかけて積み上げてきたものがこの「あうんの呼吸」「暗黙の理解」とでも呼ぶべき日本語である。

言語は言語で世界中どうせ似たものかと思いきや、日本語は外国語とはかなり違う。

一歩先を読んで相手を思いやる気持ちを出すことが美徳とされている日本文化でこその言葉が日本語である。

日本語では全ての文章に主語と述語を逐一補っていると文章が長すぎて、逆にややこしくなる時さえあるのである。

日本文化でこそだが、主語を省略してもちゃんと相手には意味が通じるのだ。

日本語の場合、話題はすでに話の奥に存在しているし、因果関係も話に含まれており、

それらを客観的・論理的にする言葉は必要とされない。

時制も様々だし、主語を立てる必要性は必ずしもない。

場面を自分の頭で読み取る相互理解が前提であり、ひとつひとつの言葉はそれを解説してくれない。

非常に分析的な言語であるのだ。

日本語では主語と述語の確立の仕方が逆なのではないか。

主語は述語の中に含まれており、必要に応じて抽出され、

表現化されるという考えの通り、主語が存在するというのは同じとしても、

西洋文法とは正反対の考え方によって主語が文章を支配するのではなく、

日本語の場合は文章の流れの中で主語が生まれる時もある、という程度にしか考えられない。

また、日本語の「主語」には英語のように強い拘束力がない。

日本語の場合、文法上での形式的な主語の存在はさして重要ではないのだ。

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