その名前はずっと知っていた、高天神城という遠州の要所。
武田信玄が落せず、息子の武田勝頼が落城させたという逸話が印象的なお城。
それを持って勝頼の有能さを証明するような。
南口の追手門側から登っていくと、この追手門跡に痺れた。
左中央の看板があるところに門があったとして、右上の高所からも狙撃できる作り。
南口は当時水路に面していて、ここから大軍が攻め込むことはできなかった。
つまり立派な追手門がある以上、この南から攻城することは不可能ということ。
地図を見ると分かりやすいね、南北と東は地形上絶壁になっている鶴翁山なのだ、攻め口は西からに限られる。
西を守る西の丸の復元図を見ての通り、左右に広く防衛施設(堂の尾曲輪)があって守備が堅そう。
追手門から上がれば、現代では簡単に本丸にたどり着ける。
その本丸だって、特に何もない平地、石碑や土塁が残っているのみ、そこにオーラはない。
土塁跡と言われても、ただの盛り土だよ、戦場の気配はない。
8年間幽閉された石窟と言う、この穴に8年も監禁されたとしたら信じ難い。
黒田官兵衛でも1年幽閉されて足の自由を失ったのに、軍艦とはいえ8年も養ってくれるのだろうか。
狭い本丸跡の平地を超えて、いよいよ西の丸方面へと歩いていく、ここから更に高天神城らしく。
井戸曲輪の先に高天神社、生々しい戦地にも神社がある。
高天神城主といえば小笠原信興、対・武田家の最前線を務めた有能な将(徳川家臣)。
問題はこの堀切だ、これ一つで尾根沿いの進軍を食い止めることができる。
西の丸一帯にはこうした山城・土城らしい防衛の仕掛けを見ることができた。
これは武田軍が作った空堀跡、ずっと先まで続く恐怖の守りの仕掛け。
武田勝頼がこの高天神城を奪った後、徳川家との戦に備えて西の丸あたりを大幅改修した。
その時に空堀が掘られていると伝わる。
高天神城は西からしかマトモに攻められない造りだからね、その西の守りを厚くしたのが空堀。
御前曲輪の小笠原長忠(信興)のお遊び看板。
武田勝頼に攻められた高天神城に、徳川家康は援軍を出すことができなくて、高天神城は落城。
城主の小笠原信興は、徳川家康を見限って武田勝頼に降伏。
周囲の平地から見た高天神城、ただの低山だからどこが鉄壁の守りなのかは遠目には分からない。
近くの掛川茶畑の写真、遠州掛川は東海道掛川宿という主要宿場町であり、掛川城もある。
土の山となった今の高天神城は、難攻不落の城だったかどうかは想像できない。
しかし西一方向からしか攻められなかったという地形を活かし、遠州の東南を仕切る要地だったのは伝わってきた。
2014年6月21日
掛川花鳥園・温室と花の写真撮影スポット、牧之原の茶畑
掛川花鳥園の温室に入ると、インパチェンス(天井から釣り下がっている花)の美しさにびっくりした!
色使い、華やかさ。
これが掛川花鳥園の洗礼か、ビッグインパクトだな!と感心。
フクロウさんたちが手の届きそうな距離にいる。
足元を見ると何かで繋がれているので安心だが、距離は近い。
睡蓮プール、温室の中の花。
繊細な作りね、肉眼で見るよりも写真に撮った方がそれがくっきり分かる。
上手なバランス、姿かたちも見ていてバランスが取れていて可愛らしい。
掛川花鳥園は花鳥のコレクターが実益も兼ねてテーマパークにしたと聞く。
趣味の延長線上だからこそ、採算あまり拘らず品質を追求できるのか。
普通の動物園よりもずっと距離が近く、実際に触れ合うことができる楽しい場所。
多くの鳥さんたちを放し飼いにしているところが良いね。
オオオニバスに子供たちが乗る企画があったり。
花鳥園と言いながら、鳥以外にも楽しさを見つけている。
写真映えするところが一杯あるから、カメラマンの姿もちらほら。
それこそモデルさん連れてきてポートレート撮影向きの場所だと思った。
子供たちにとって、驚きの場所でしょう、良い教育の場ね。
鳥と花と、距離感はなく、園内の手作り感が好き、そんな掛川花鳥園の写真でした。
ウチの子に鳥さんたちを見せようと、掛川花鳥園へ。
近い距離で鳥と花を見ることができる素敵な場所と聞いて。
温室に入るとすぐ、多くの鳥さんたちの姿と声、それを見たウチのコは怖がって抱っこをせがみ、怖い怖いと泣く。
結局どの鳥さんも見ることができず、イヤイヤと言われては逃げ帰るしかありませんでした。
最初は楽しそうにしていたのに、鳥さんたちの楽園に連れてくるにはまだ早かったみたい。
ウチのコも温室育ちなのに。
いつか再訪する機会もあるかな、掛川花鳥園の短い思い出。