詩的日記

汗と無力感〜十代の青年の我武者羅な冒険旅行

僕の十代は無力感と汗の匂いのうちに過ぎ去った。

恋でも上手くいっていればまた違ったのだろう。

好きな娘はいたが、僕には恋を叶えるための具体的な知識が全くなく、

何よりもその度胸が欠落していた。

恋はいつでも理想のままで、十代の僕の現実では有り得なかった。

そして僕には何もなかった。

大学入試に合格すると同時に目標を失った。

勉強できるうちに勉強しておくということの大切さにも気が付くこともなく、

少しずつ目の前に現れてくる社会の壁には目を閉じて、みんな下らないと決め付けた。

僕には何もなかった。何一つとして誇るものはなかったのである。

大学の名前がなんだろう。友達の数がなんだろう。

より大きな顔をしようとする仲間付き合いがなんだろう。

仮初の恋が、幻の夢がなんだろう。

バイトで稼ぐわずかな金はあっという間になくなり、自分の欲しい物まで回らない。

酒や煙草に十代ならではのささやかなレジスタンスを依存し、

豪快だという勲章を求めて飲む酒に意味があるのか。

あの詰め込みの勉強はもう忘れてしまってよいというのか。

環境が変わった。友達が変わった。金がない。恋人はいない。

何もない。空白ばかりだ。

空白が僕を支配してしまった。僕には何もなくなってしまった。

そして、僕はひたすら汗を流していた。

何もなくなった僕に戻ってきたものがある。

それは、受験勉強に取り掛かると同時に興味をなくしたはずの己の身体であった。

中学から高校にかけて狂気のように鍛え上げた肉体であった。

だがその身体はもう意味をなさないはずだった。

大学に入る資格に身体は無関係だったし、

この数ヶ月間の新しい生活で身体が求められることはない。

いや、そんな時間こそが無駄なはずだった。

もっと他にやるべきことがあり、最早自分の身体に時間を費やすことなどないと思っていたのに。

それがどうして僕の心を捉えることになったのか。

時間の合間に僕は僕の身体と向き合っていた。

授業もバイトもない日は川辺を走ることが日課になった。

もう必要ないと決め付けたはずのこの身体が、

どうしたことか、次第に僕の大切な心の拠り所となっていたではないか。

よく走り、よく苦痛に耐え、僕は汗を流した。

夏草のむせかえるような匂い。咽喉の大きな荒い息。

伝う汗の塩の味。風を切る身体の感覚。緑色と青色の世界。

それらに日常との接点を見つけることができなく、走るとまるで違う世界にいるように感じた。

身体を伝う珠の汗が、失われつつあった僕の心を不思議と磨いてくれるように思えた。

もう一度原点に返ったような気がした。

その純粋さを初めて貴重だと、ようやく無意識のなかにも感付くようになったのだ。

だが、そこから一歩離れていつもの生活に戻ると、やはり僕には何もなかった。

一時の汗も、もっと大きな渦のなかに飲み込まれてゆく。

十代の僕は無力感のなかに立ち尽くしていた。

無力感漂う生活のなか、ある時アメリカのグランドキャニオン国立公園のTV番組を見た。

人気俳優がラバに乗ってグランドキャニオンの谷底までおりてゆく冒険番組だ。

僕は夢中になっていた。

グランドキャニオンの上からの景色はよくTVや雑誌でみかけるものだったが、

谷底までおりてゆくと景色は一変し、まるで未知の世界になった。

緑豊かな大峡谷だが、その下には砂漠に近い荒野があった。

大袈裟に紹介しようとする俳優は気に入らなかったが、

僕はその谷底の景色に驚愕し、憧れ、いつしか夢見るようになっていた。

僕もあの場所に行きたい。

あのグランドキャニオンの谷底を歩いてみたい。

そんな想いに捉われていた。

自分でも理解できない何かが突然僕の身体に乗り移り、

そんな気持ちにかきたてたかのようだった。

あの砂漠のような荒野が凄かったからだ。

グランドキャニオンという独特の世界の中に、

もうひとつ全く別の大きな世界があるとは想像もしていなかった。

日に日に憧れは募る。しかし、元々が無謀な計画であった。

そんな大金はバイト代から捻出できないし、英語なんて全然しゃべれない。

受験勉強のひとつにそれらしいものがあったはずなのだが、

身についていないところをみるとあれは別物なのだろう。

十代の僕の行動範囲ではないものばかりだった。

そういう大冒険だったから、逆に僕は強く憧れたのだろう。

何もない僕だったからこそ、それを恐いと判断することすらできなかったのだ。

その夏休み。僕はアメリカ行きの飛行機に乗っていた。

親から借金をして、夏休みのバイトも断り、僕はひとりグランドキャニオンへと向かったのだった。

それはやはり自分の能力以上の冒険だと想った。

ろくに英語もしゃべれず、十分とはいえない旅費を工面しながらバスを乗り継ぐ。

言葉が分からないのは痛手だった。

人に聞けないし、案内を見ても絵や数字しか分からない。

闇の中を手探り状態で這うような初めての経験。

それでも僕は不思議とそれを己の無力さのひとつだと

否定的に捉えずに、楽しいと思っていたのだ。

この最高の壁を前にして、僕はあらゆる方法を尽くして

人とのコミュニケーションを取ろうとした。

身振り素振りに笑顔を交えればなんとかなった。

形振り構わず人に尋ね、人を頼り、その結果として人の好意に触れた。

それは、日本にいるときの冷めた僕では決して有り得ないことだった。

僕は堂々とグランドキャニオンに挑戦を挑んだ。

いつかの俳優のようにラバの背中に乗って下るお気楽ツアーではない。

大荷物を背負い、己の両足だけで崖下まで往復することを選んだ。

朝から歩き出し、五時間かけて谷底の宿を目指す。

その途中の道は、TVで見た以上に素晴らしかった。

赤土の崖道を降りきると、そこからは本当に砂漠が存在していた。

目を疑う光景。

所々にオアシスがあるが、他は見事に荒野だ。

砂漠の砂はないのだが、それは砂漠と呼ぶに相応しい不毛の地だった。

吹き付ける熱風に汗をとめどなく流しながらひたすら歩き続ける。

すれ違う人は少ない。

それもそうだろう、夏の暑さが荒野によって容赦なく増幅されている。

人が歩く環境ではない。

暑い。身体中を汗が伝う。

こんな死の大地、日中の砂漠を歩いているのに近い。

命の水。

重くても大量に持ってきて良かった。

水を飲む。すると、その分だけ体から汗が出ていくのを感じる。

全身が汗に洗われているかのようだ。

それがなんとも気持ち良い。

歩き続けること五時間、僕はようやくファントムランチという宿に到着した。

汗まみれの身体。

疲れというよりも、肉体を削り取られたかのような鈍さがあった。

だからこの時の達成感は格別だった。

正に地獄を通り抜けてたどり着いた小天国。

全身でガッツポーズを決めた。

いつも予約で一杯のその宿も、幸運なことにキャンセルが出て昨日僕は予約できていた。

この谷底唯一の宿での夕食の時間は楽しかった。

みんながあの大冒険をくぐり抜けてきた人たちだから、みんなが仲間のようになり、

僕もその仲間に入れてもらい、とても楽しく会話をし、笑い、食べて眠った。

翌朝は五時起きで谷底を上がる。帰りのほうがはるかに辛い。

あの砂漠を歩いたうえに、最後の崖は千三百メートルの山をひとつ登るのと同じことなのだ。

太陽が昇って暑くならないうちに距離を稼いでおこうと、みんな朝早くから出て行った。

挫けることなく、僕は我武者羅に歩いた。

周りの景色を楽しむことよりも、自分の身体をいかに早く動かすかに命を注いでいた。

十代の僕の関心はあくまで自分自身だけだった。

僕の身体の強さは本物だった。

途中で誰にも抜かされることなく、そして平坦な道を歩くかのようなスピードのままで

砂漠を抜けると、最後のグランドキャニオンの崖もそのまま登りきったのだ。

受験勉強中のブランクにもうさび付いてしまったかと思っていた。

川辺を走ったぐらいで再生したとは思ってもいなかった。

ところが、僕の肉体はしっかりと生きていた。

そして眩しいぐらいに輝いた。

この時初めて、素晴らしい可能性を自分の身体が秘めているのだと僕は知ったのだ。

遠い存在だったはずのグランドキャニオンを僕は自分自身の力で克服してみせた。

それは栄光の時であった。

それまでの自分には決してなかった、必死の行動の成果であった。

人生で初めて全情熱を注いだ冒険であった。

あの大冒険を通して僕は行動力を身につけた。

何よりも自信を得た。

それまで無力で無気力だったこの僕が、ようやく自分なりの行動力と意思を手にした。

あれが僕の人生の転機だった。

グランドキャニオンの谷底を登りきった時、僕という若い樹の芽がようやく息吹き始めたように思う。

もっとも、すぐに無力感を払拭することはできなかった。

十代の僕は常に無力感のなかにいた。

だが、あのグランドキャニオンの熱風のなかの汗から何かが始まったと思う。

それから僕の人生はゆっくりと、変わっていった。

十代から二十代を過ぎ、今は三十の声を聞いた。

あらゆる面で今のほうが居心地が良い。

我ながら、これまでよくやってきたと思う。

払った努力の代価として、今の豊かな生活を手に入れた。

幾つかの忘れがたい恋をした。

仕事だって任される様になった。

社会人として一通りの知識も得た。

金はある。欲しい物は手に入る。

もう、あの頃のように無力な男ではない。

強がりではなく、今は心からそう思う。

時々思い出すことがある。

今の僕にあの頃を越えられないものはないが、

たったひとつだけ、できないものがあるように思うのだ。

あの汗だけは、今はできない。

そこだけが、まるで奇跡のようだ。

あの土臭さ。グランドキャニオンの谷底を這い蹲りまわった時の、

あの我武者羅で、向こう見ずで、先走ったような若さだけは、今の僕にはできない。

もしも今、同じことをするようになったとしても、ああいうルートで目的にたどり着くことはないだろう。

もっと効率の良い、洗練された方法を選ぶことだろう。

いや、今のほうが一般的に優れているのだ。

ただ、今はあれをしないだけ。

恐いから、できないからしないのではない。今はその必要がないからだ。

あんなに必死で、自分自身を削るようなやりかたをしなくても、

同じ結論に辿り着くだけの社会的能力を今は獲得しているのだ。

無力だった十代の僕とはそこが決定的な違いであろう。

だが、僕はあの思い出に跪く。どうして、あんなに輝かしいのだろう。

あの汗臭いやり方がどうして、こんなに眩しく思えてしまうのだろう。

今振り返るたびに、僕は暑い陽射しを受けて

照り返しを続ける夏の海原のような揺れを感じぜずにはいられない。

まだ何も定まっていなかった混乱の時代の、なんとも輝かしい揺れである。

今の汗は違う汗だ。もっと利巧で、もっと汗臭くない汗だ。

無力感を克服した今の僕に届かないものはないが、あの奇跡のような汗だけは二度とできない。

まさに、十代は無限の可能性に満ちた時代であった。




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