火おんどり


総合評価
| 名所レベル | 華のある火祭り(地方の伝統行事) | |
| 行きやすさ | 奥地だが、新東名ICが近くにある | |
| 撮りやすさ | 周囲が暗く、松明は明るく、難しい | |
| 撮影成功率 | 低いから、とにかく連写して運に委ねる | |
| 満足度 | 最高の一枚があれば大満足 | |
| 合計 | 100点中76点 (19/25) |

行き方
| ルート | 新東名の新城ICから車5分 |
| 駐車場 | あり(でも現在は一般客は不可)、無料、50台 |
| 駐車場の住所 | 〒441-1305 愛知県新城市竹広 字信玄原552 |
撮影場所
| どこで撮る? | 信玄塚 |
| どの方向で撮る? | 最前列ならどこでも良い |
| 撮影地点のバリエーション | 松明を振るう人をひたすら撮る |
撮り方
| 季節 | 8月15日(コロナ以後は一般公開されていません) |
| 時間帯 | 夜21時〜 |
| 天候 | 晴れ |
| レンズ焦点距離(35mm判換算) | 50-75mmぐらい |
| レンズフィルターの要否 | 不要(シャッタースピード稼ぐため、外すのが大事) |
| 三脚の要否 | 三脚は周りの邪魔、一脚があると安定して撮れる |
| 三脚が使用可な場所? | 使用可(でも周りの邪魔) |
| 撮影時の障害 | 火祭りなので、すすが凄い、服が焦げ臭くなる! |
| 場所取りは必要? | 見学者ゾーンは広く、関係者数も限られているので不要 |
| 構図と主題 | 松明と祭り人 |
他
| トイレ | あり |
| あると便利 | 着替え(終わった後は服が焦げ臭い) |
2025年、特別許可で撮影〜地元関係者のみで戦没者供養

どうしても火おんどりを再撮影したかった、この10年間に切望していたこと、アメリカ〜コロナを経て、ようやく本日。
一般公開せずが現在の火おんどり、幸いにも特別許可、僕も大勝負の写真撮影で気合が入っていた。

F1.2の明るい単焦点レンズと一脚、SS100-200のSモードだったり、なんとかオートフォーカスも効くのでマニュアルモードは使わず。

800枚は撮りまくった上での傑作15枚を編集した上で、このページに上げておこう。
ものすごい一枚は撮れなかったから、10年前の自分の最良写真は越えられなかったけど、全体的には今回の方が上。

あちこちで松明を振り回す男たちに寄って、僕もあれやこれやカメラの設定を変えながら必死で撮影、お祭り騒ぎで。

若者たちもいる、こんな伝統行事を青年期に経験していたら、肝の座った成人男性になるのでしょう。

しかし暗闇で明るい松明を撮影するのは難しい、どれもこれも一瞬の勝負で、カメラマンとしては本気で必死で撮った。

撮っているときは気が付かなかったけど、現像していると「この人、あの時の方では?」と思う方がちらほらいらっしゃる。
男だって10年も経てば風貌が変わる、確証はないけど地元の方だからきっと同一人物。

火の粉を綺麗な丸ボケにできるのも明るい単焦点レンズの性能のおかげよ。

年齢に合わせた重さの松明を選んで振りかざせば良い、これも自分らしさということ。

炎の上手な撮り方は分かりません、結局は数打ちゃ当たるの方式で。

大勢くる=大勢の警備員が必要、でも奥田舎ではそれは無理、だから一般非公開&地元関係者のみで正解だと思う。

135mmの単焦点レンズだと火の粉がこんなボケ方をする!と知った貴重な一枚。

もしやあなたは僕の最高傑作のあなた?真偽のほどは分かりませんが。

あなたは分かりやすいお顔で、10年も前に撮影させてもらった方と分かりました。
ベストな一枚は撮れなかったけど、火おんどりの再撮影機会を頂けて、私の生涯の悔いが消えた想いでした。
2015年、大成功!
火おんどり、それは火祭りの極み。

お盆の夜、設楽原の決戦場跡・信玄原での伝統行事、松明を男たちが8の字に振り回す。

明るいレンズと高感度ISOでシャッタースピードを上げ、ストロボを焚かずに写真を撮る僕の流儀。
肉眼そのままの雰囲気が欲しい。

800枚は撮りまくった末の傑作をここに載せよう。
偶然の産物だが、火おんどりを選び、カメラ設定を考えた僕の戦略勝ち。必然の偶然。

織田・徳川軍と武田軍が激突した後年、地元で大量発生した蜂は武田軍の亡霊と恐れられた。
地元の方々がそれを供養するために始めたのが火おんどり、まもなく蜂は消え去ったとか。

今では地元の結束の証し、伝統行事で青年を鍛えようとする場なのだろう。
長篠・設楽原の歴史を考えると、現代も続く戦国イベントか、400年間続く火おんどり。

勇ましい火おんどりだが、戦という哀しみと表裏一体の伝統行事、美しいと喜ぶだけではない。
2013年、まぁまぁ撮れた
2013年8月15日
派手なお祭りだ、巨大な松明を8の字に振り回す男たちが多数、太鼓と鉦の音。

今は成人儀式のひとつ、地元の若者たちの結束目的だとしても、その起源は長篠・設楽原決戦での死者たちの供養だという。

お盆の夜、信玄塚(長篠の戦いでの戦死者たちを埋葬した塚)で行われる火おんどりは、愛知県の指定無形民俗文化財。

火おんどりの始まり、喪服姿を先頭に行列が会場に入ってくる。

その様は楽しいお祭りではなく供養目的と改めて感じた。

祭りが始まってしまえば、体力の限り、男たちがあちこちで松明を振り回す。

若者だけではなく、壮年~老年にかけての方もいらっしゃる、地元の伝統を守る意識の強さか。

二人が向き合って松明を振り合う、そこに太鼓が割ってきて、二人を煽っている。勇ましい姿。

偶然、他所からフラッシュライトに照らし出されて。

戦死者たちを葬った信玄塚から大量の蜂が出て地元民を困らせた、この業火で蜂たち(=武田軍の亡霊)を慰めたのが火おんどりの切っ掛け。

担ぎ手だけが注目されて、音楽隊はスポット浴びることがなさそうなので、気まぐれに太鼓+鉦のお二人を撮ってみた。

スピードライト(フラッシュ)がなくて光が届かないが、男衆と炎の表情、両方が良い画像を撮りたい。

3人が入り混じっての根性比べ、なんとも絵になる様。

火を使うお祭りで、ここまでスケールの大きいものは他に知らない、松明の大きさ、担ぎ手の多さ、参加者の多さ。

勇ましさと本来の供養目的、両立しているのが見事な信玄塚の火おんどりの画像でした。
設楽原古戦場
2022年6月27日
何度も来てしまう、大勢の死傷者が出ただろう悪夢の古戦場跡地なのに、何故だか、引き寄せられて。
設楽原(したらがはら)と連吾川、馬防柵の一帯の地形感覚がすっかり自分の頭に入っているほど。

今は平和としか言いようがない一帯に、そのような大激突があったのは、どうも受け付けられないけど。

陣城というのは恐ろしいもの、平地に築かれた防衛施設、野戦にして攻城戦。

紫陽花の残る6月29日のことでした、設楽原の戦いがあったのは。

新東名高速道路ができちゃって、ますます隔世の感が出た古戦場跡。

馬防柵の後ろには窪みがあって、そこに狙撃兵が潜んでいたのでしょう、しかしそこも死地といえば死地。

設楽原歴史資料館の横に桔梗が咲いていた、どうやら明智光秀は設楽原の戦いには参加していないようだね。

竹広激戦地、馬防柵の南端であるここで、徳川隊と山県昌景隊が死闘を繰り広げたそう。

徳川家康本陣のあった八剱神社、小高い丘の上にあるから様子が見渡せたのだろう。

前日の信長本陣、ここから設楽原は山ひとつ越えないといけない。

今や観光の目的地、人を楽しませる設楽原古戦場、いっときの悪夢は忘れてはいけないけど。
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「長篠城〜お城Vlog㊷内堀と土塁で籠城、設楽原の馬防柵」動画を、YouTubeにあげました!

2020年5月28日
ここ設楽原古戦場へは何度か目、5年ぶりの訪問になる。
車窓から馬防柵が見えてきた時は、また来たよ、と思わず声を出してしまったほど愛着のある場所。

長篠堰堤からの帰り道で、今日は設楽原古戦場を主題に来たのではない。
コロナウイルス禍で今年の設楽原決戦場まつりは中止となったし、お盆の火おんどりには来たいけどどうなるかは分からない。
夕方に歩く設楽原古戦場一帯は、なんとも穏やかな感じ。
カメラをぶら下げる僕は観光客とすぐに分かるな、地元の散歩者や農作者たちと挨拶を交わしながら連吾川沿いの田畑をゆっくり歩く。

馬防柵の中に入って、自分を織田家・徳川家の足軽鉄砲隊に見立てて、馬防柵越しに連吾川向こうの武田家の陣を見渡す。
現代人である僕には伝わるはずはないのだが、それでもわずかに、ほんのわずかに恐怖心が湧いてくる。
時代考証された3連の防御、空堀・馬防柵・土塁で守られているとしても、
この至近距離から武田家の兵馬で必死の形相で向かってきたと考えれば恐ろしい。

どれが本当か500年前の情報の真偽を確かめる術はないが、連吾川を越えると、
空堀・馬防柵・土塁、さらには大量の鉄砲なり弓矢で迎撃されただろう武田家。
平地山城を構えたと思われ織田家・徳川家はそもそも兵数の面で武田家を上回っていたとされるのだから、
そんな死地に飛び込んで一大決戦する理由がどこにあったのだろうと考えると、もう500年前のミステリーにしか思えないのだ。
武田家史上、最大の領土を獲得した武田勝頼が凡将というわけではないし。
現代では、鉄砲3段重ねという伝説でも生み出して、せいぜい戦国時代ロマンに酔い、楽しんでおけば良いさ。

設楽原・連吾川の長い歴史、きっと何千年という時間のほんの一瞬、
人間たちが壮絶で醜い争いをこの地で行ったという伝聞を、僕も信じてみよう。

設楽原古戦場を歩いてみれば、そんな激烈シーンはウソのように、
ただ静寂な夕暮れ時だけが広がっていた。
2016年撮影
長篠設楽原PAの写真 設楽原の戦い・茶臼山の歴史遺産と馬防柵
そうだ、歴史という宝物がある、長篠設楽原PAの活性化に使わぬ手はない。
設楽原の戦い、その壮絶な生死のやり取りを歴史ロマンの楽しみに昇華させられるのも現代の平和の成せる業ね。

設楽原の戦いで織田信長が本陣をおいた茶臼山に続いているよ、長篠設楽原PAは。

長篠設楽原PAの下りは、織田信長・徳川家康連合軍をイメージ。
チームカラーはブラックかな。
歴史の勝者の扱いはすこぶる良い、上りと比べて施設が格上?な気がした。

下りのPAを歩いていると、設楽原の戦いの跡地っぽく作っている観光施設があった。
馬防柵を観光資源に活かすか、それは分かりやすい話だね。
設楽原の戦い=織田信長の三段撃ち鉄砲で勝利=馬防柵の蔭から撃った鉄砲隊。
「当時、こんな高地に馬防柵はない!連悟川沿い」などと、うるさいこと言ってしまいそうになったが
なんでもいいんだ、あの設楽原の戦いの認知度を上げてくれるのなら。

長篠設楽原PAの上りは、武田勝頼軍をイメージ。
チームカラーはレッド、武田の赤備えってわけか。
火おんどりでの供養を僕は忘れない。

眼下に見えるのは設楽原の戦場と1山ずれている。
あの設楽原の戦いの前日に織田信長ら首脳がいた場所に、長篠設楽原PAがある。
幻のランナー・鈴木金七を紹介する看板に近い。

時間が経ち過ぎた歴史はロマンを生んで、その当時の凄惨さ・哀しみをみんな拭い去ってくれた。

楽しいドライブ時間へと昇華してくれた設楽原の戦い。
長篠設楽原PAから岡崎SAへと新東名を走ろう、あの鳥居強右衛門さんが道根往還を経て岡崎城まで走ったように。
2014年6月29日撮影

そしていよいよ設楽原古戦場跡へと移動してきた。

馬防柵と田んぼや山野は分かるが、遠くに見える新東名高速道路は邪魔だ。

上の看板に書かれた鉄砲構えが、下の写真のように再現されていた。

草木が繁っていて分かりにくいが、定説の馬防柵よりもこっちの方が現実的。
だがしかし、これを横幅何kmにも渡って作るのは物凄い作業量だ。

伝説なのか、リアルなお話なのか、馬防柵の正体は歴史の謎。

本当に馬防柵が横にずらっと並んでいたら、普通は突撃なんてできないよね。

武田軍の武将がこの馬防柵に攻め込んできて、そのまま銃撃を受けた亡くなった、と。
分かりやすいが、本当に本当なのか?

首洗い池、という恐ろしい名前の池が少し離れた場所にある。

本当だったら目を覆いたくなる場所。

原隼人佐昌胤の墓、武田軍の重臣の一人。

墓の場所は、馬防柵の一帯ではなく、武田軍が陣を構えていたあたりに。
鉄砲に撃たれたのではなく、織田・徳川の追撃戦によって討ち取られたのだろう。

山県昌景の墓の似たような場所にあった。

武田軍の重臣筆頭と呼んでも良いだろう山県昌景もまた、攻め時ではなく守り時に討たれたはず。

8月15日に行われる、火おんどりの案内があった。

日本の祭りを写真に撮る趣味のある僕としては、この火おんどりは最高峰の火祭りだと思っている。
設楽原古戦場を歩き回って、色々な史跡を写真に撮る。
地形や位置関係が見えてきて、なんだか設楽原の戦いの現実的な姿が分かったような気がした。
2022年6月12日
三河野田城の写真、東西は淵で、南北に本丸・二の丸・三の丸が連鎖する平城。

笛の音を聴いていた武田信玄が鉄砲で狙撃されたという伝説の残る野田城、その一点だけロマンティックを感じる。

空堀や三日月堀、土塁の跡は分かるが、全体的には整備されておらずただの雑木林。

武田氏・今川氏の間で揺れた野田菅沼氏の居城・野田城でした。
長篠城
2022年6月27日
夏草に覆われて写真に映らないけど、長篠城の見どころは本丸前のかなり大きな空堀と土塁でしょう。
北からの攻撃と馬出しと空堀で防いでいたこと、はっきり分かる。

南は2つの川と断崖絶壁に面しているから、攻撃ルートは北のみ。

中央の鉄路の先が長篠城、この川と崖を登っては攻撃できない。
逆に、この崖を下って岡崎城まで走ったのが、あの足軽英雄・鳥居強右衛門。

もう何度も訪れた長篠城、今回は周辺の史跡を回るのがメインでした。

鳶ケ巣山の山中、ただ何もない森林、眼下に長篠城を見下ろせる位置にあり。

鳶ケ巣山の砦跡、早朝に酒井忠次率いる奇襲隊に襲われたら、それはひとたまりもない。
戦とはいえ、死の朝を迎えた先人たちに合掌。

武田勝頼が本陣を構えた医王寺、その物見櫓からは長篠城が見え、距離感がよく分かる。
長篠城の戦いに触れて、恐怖を感じ、歴史ロマンも感じたひと時でした。
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「長篠城〜お城Vlog㊷内堀と土塁で籠城、設楽原の馬防柵」動画を、YouTubeにあげました!

2014年6月29日
長篠城跡を訪れてみた、公園風になっている広くて明るい場所。

中央右の白いのぼりがある場所が本丸だったという、高低差はないのね。

長篠城址と聞くと三河武士たちの壮絶な防衛戦があったことを思い出す。

とりわけこの足軽・鳥居強右衛門の生き様は驚きだ。

公園みたいだが、所々に長篠城跡を思わせる地形が残っている。
この堀と土塁、まぁ切岸というが、保存状態が素晴らしい。

武田軍に捕らえられた鳥居強右衛門が、あの有名な言葉を発した場所だという。
長篠城から川を挟んで向こうかと思ったら、川の反対側だったのは意外。

牛渕橋から見た長篠城方面、電車の向こうが本丸になる。

豊川と、長篠一帯の山野風景。

あの位置に鳶ケ巣山の砦があったのか、長篠城内は筒抜けではないか。

酒井忠次らの奇襲隊も、夜中から早朝にかけてよくぞあんな場所へ到達したものだ。

長篠城内から、豊川を挟んだ向こう岸に、鳥居強右衛門が磔にされた場所がある。

車で移動してみると、こんな石碑があった。

鳥居強右衛門は長篠城の戦いの英雄。

その鳥居強右衛門のお墓が、少し離れた場所にあった。

新昌寺(住所:新城市有海稲場2)を訪れて、鳥居強右衛門の墓参り。

鳥居大権現とは、英雄はもはや神格化されているのか。

すねえもん氏、死んでからまさかの有名化。
生ある内に伝えたかった、あなたの勇気は素晴らしいと。

そしてJR飯田線の駅名にもなった、鳥居強右衛門の人気ぶり。

無人駅なのに、この鳥居駅は名前のおかげで僕のような訪問者もいる。

武田軍の重臣たちが、翌日の設楽原の戦いを前に、死を決意して水杯を交わしたと言われる場所。

大通寺の本堂の裏側にあった、盃井戸。

長篠城から300mほどの距離にある馬場美濃守信房の墓、整備されていて嬉しいものだ。

鳥居強右衛門同様に、岡崎へ走った伝令兵と言われる鈴木金七の生誕地。
住所:新城市富永字屋川52 (訪れてもこの看板しかありません)
