あなたにありがとう〜美化されていく若い頃の恋愛記憶

2005年2月26日

彼女が僕を残してカナダに旅立った時のことは覚えている。

最後に見たのは空港でコートを抱えている姿だった。

まだ東京では見かけないコートも、向こうではもう必要とされている季節だったのだろう。

どうしてさくらが突然カナダに行こうとしたのかが分からない。

それも、僕と付き合ったままで日本を離れたいと、やけに明るい口調で彼女は言った。

仕事も辞めてしまい、ワーキングホリデーのビザを自分で取りに行った彼女。

僕にさえそれを告げてくれたのは出発の二週間前だった。

こんな気まぐれは珍しいことじゃない。

さくらは好奇心の固まりのような女性だった。

ある時は旅行の学校に通ったと思ったら太極拳に目覚め、

ハングルを習っては陶芸を始め、子供のボランティアから水泳まで楽しそうにこなす。

その忙しい合間を縫って一人で海外旅行に出たし、

いつ勉強したのか旅行の国家資格だってちゃんと合格している。

それらは一見整合性がないように見えていても、さくらだから不思議と調和があった。

男だってそうだ。僕が二人目の彼氏だという。

お互い経験が浅いほうだ。

僕のようなつまらない男では満足できないのか、社会に出てある程度世間が分かってくるようになると

彼女は他の男たちを知りたがるようになった。

だから僕は随分と悩まされた。

取引先の人、あなたの知らない男性と浮気したのよ、

とさくらから打ち明けられた時の僕の混乱は酷かった。

男の人も色々知りたいと思ったから実は他の男の人たちとの飲み会も行ってた。

でももう興味ないよ。ごめんね、ケン。ケンだけに戻るから。

さくらは平然とそう言ってのけた。

電話を切ってからいてもたってもいられず、僕は夜の公園を夢遊病のように歩き回った。

それもまた、ある種病的に強い彼女の興味心からくる一時の脱線だと分かっていても、

軌道を全く乱された僕の小さな心はなかなか平静に返ることができず、

何時間も、何時間も、嫉妬に狂って暗闇を歩き続けた。

本当にあれはひどい傷だった。

さくらとは楽しい時間もたくさん過ごしてきたが、喧嘩は絶えなかったし、すれ違いも多い。

決して順調には付き合ってきていない。

なんでもそうだ。

興味さえ向けばなんでも自分から首を突っ込んで、

痛い目にあうことの方が多いのにどんどん未知の世界に向かってゆく。

僕はそんな彼女を本当に病気なんじゃないかと思ったことがある。

でも、それがさくらという人間だった。

自分にないものを持っているからか、そんな彼女に強くひきつけられている僕がいた。

だが、人生で一番やりたい「何か」がまだ見つからず、

彼女はその「何か」をいつも探していた。

僕はそんなさくらに出来るだけ色々なものを見せてあげようと、

たくさんのことを二人で体験しに出かけた。

行き先を告げないままさくらを連れ出すのが僕のお気に入りだった。

毎回びっくり企画を立てて、彼女がどんな反応をするのかを僕はささやかな楽しみにしていた。

高原のパラグライダーを覚えている。湖での釣りを忘れない。

車の運転だって、イタリア料理教室だって二人だった。

緊張しながらも叩いたJAZZ BARのドア。

唯一意外だって言われた浅草の落語。

スキューバーダイビングにクレー射撃。

キャンプとバーベキュー。漫画喫茶。

プロレス観戦。プラネタリウム。あぁ、数えれば切りがない。

刺激だらけの未知の世界。

そこで戸惑うだけの僕とは対照的に、さくらはいつも笑っていた。

それもいつも満面の笑みで、いつも楽しそうに。決して僕にはない眩しい光。

太陽のような彼女の好奇心の前では僕は薄いかげろう。

二人を愛情の線が結んでいたとしても陰と陽の存在ははっきりしていた。

僕にはさくらしかいない。

ごく平凡な人間の僕にとってその「何か」はさくらだった。

カナダ行きを阻止するもなにも、僕と別れるのでなければ

彼女のやりたいことを邪魔する意思は僕にはなかった。

ただ一緒にいてくれればいい。そう思っていた。

何のとりえもない僕だが、彼女のような感動に豊かな女性を

側に引き止めていることの満足感だけが僕のプライドだった。

あれから二度と浮気されることもなかった。

世界に様々な男がいるなかで、それでも結局僕にしか彼女を抑えられない、

という自負がその頃の僕のちっぽけな心を支えていたのだった。

バンクーバーからは気まぐれにエアメールが届いた。

(ハロー、ケン。バンクーバーはもう本格的な冬だよ。

この前ウィスラーっていう有名なスキー場に行ってきたから写真見てね。

寒いよ~ケン。だってマイナス二十度だよ、想像できる?

でも、山の上から滑ってくると雪の山並みを下に見ながらの素敵な景色。

ケン、写真上手く撮れてるでしょ?

バンクーバー市内からも雪が積もった山がはっきり見えるんだ。

毎日見てると雪が生きてるみたいに増えてゆくのが分かるんだよ。

ケン、こんなきれいな街ってないよ。

ねぇ、私、雪にこんなにもドラマがあるって全然知らなかった!

ケン、雪ってスゴイんだよ!ドラマのかたまり!)

仕事帰りにポストをチェックするのを僕がどれだけ

楽しみにしていたことか彼女は知らないだろう。

でも僕が書く返事ときたらなんてつまらないものだったことか。

(さくら様。お元気ですか?こっちはあまり変わっていません。

あっ、ウチの近くのコンビニ、やっと改装工事終わったよ。

でも中あんまり変わってなかった。

随分長く改装してたのになんだっただろうねー。見取り図書きます)

あぁ、情けない。手紙ですら僕はこんなことしか書けないのか。

何かもっと伝えたいことがあるはずなのに。

心配しているよ、早く逢いたいって書きたいはずなのに。

書かなくちゃいけないはずなのに。

結局、彼女はカナダ行きの本当の理由を明かそうとはしなかった。

ある時は英語を学びたかったのと言い、

ある時はカナダの大自然にしばらく触れたかったのと言った。

ワーキングホリデーのビザは一年までしかない。

きっと彼女が戻ってきてくれると信じながら、僕は気長に待つことにした。

(――写真見てよ、ケン。ほら、バイトしているお店。

観光客向けのDuty Freeの店だよ。

ワーホリにありがちでしょ?

ケン、左端が店長のリチャードさん。

店長とかいっても、ただの酒飲みのオヤジなんだけどね。

その隣のマリオは彼女と同棲中なんだって!

朝いっっっつも遅刻するから多分すぐクビになる。

で、私の隣の女の子たちがニコールとリンダにパティ。

ケン、私いつも彼女たちと過ごしているんだよ。

彼女たちこう見えてもアウトドア派。

冬はスキーばっかりだったけど、これから夏になったらカヤックとかキャンプしようって!

楽しみ!こっち、結構面白いよ、ケン)

次の季節にはこんな手紙が来た。

(ケン~。近所の子供たちに好かれちゃって大変~。

毎日遊んで~って来るんだよ。

まだ水冷たいのに水かけ遊びが大好きなコたちでね~。

すっかり近所中の子供たちと友達になっちゃった。

もう~子供の英語ばっかり頭に入ってる~。

あとはマウンテンバイクに乗って色々探検してるよ~。

ケン、この写真はすっごい大きなつり橋。

あとゴンドラに乗ってバンクーバーの街並みを一望した時の写真。

毎日が発見で楽しいよ、ケン!)

春を迎えたバンクーバーで彼女は上手くやっているようだった。

エアメールにはいつも楽しそうな写真が同封してあって、

彼女の笑顔は僕の大好きな彼女のままだったから、僕もすっかり安心していた。

何度かは電話もきた。

さくらがいなくなってからすっかり鳴ることをやめた電話も、月に幾度かだけは輝いて見えた。

僕はというと、仕事ぐらいしかすることもなく、新鮮味のない東京の暮らしに終始していた。

海の向こうでさくらが今日一日というステージをどんな素敵な色で過ごしたのかと考えるだけで、

つまらない僕の一日にもわずかにそのカケラが落ちてくる、そんな気がしていた。

さくらが帰ってきたらどんな所に連れて行ってあげよう。

今のうちにお金を貯めて、しっかり仕事を覚えておこう。

本気で僕はそう思った。

しばらく彼女からのエアメールが届かない時があっても全然心配はしていなかった。

少なくとも、あの一本の電話が入るまでは――。

彼女のビザが切れる残りの数ヶ月を指折り数えている頃だった。

ある週末の夜、家の電話が鳴り、僕はさくらだと思ってワンコールで受話器を取った。

もう咄嗟に向こうがサマータイムで朝の何時なのかと頭で計算できるようになっていた。

相変わらず僕はつまらないエアメールを送っていたが、ここ数週間も彼女から返事が届いていない。

その代わりに電話をしてきてくれたのだと思った。

電話の声は似ていたが、彼女にしては暗く、僕はまた何かの間違い電話かと思った。

だが、彼女の妹と名乗ったその女性から告げられた言葉こそが

間違いだと僕は思い込みたかった。

(――姉の机にあなたとのエアメールが残っていたから電話しています。

姉は先々週、交通事故で死にました。

今、家族でカナダに来て荷物の後始末をしています――)

そんなことはないと思った。そんなはずはないと願った。

たちの悪い悪戯か、僕たちを邪魔しようとする誰かの悪意ある仕業と信じた。

あのさくらにそんなことが起こるはずがない。

電話を切り、冷静さを見失った僕は公園に出ていた。

そしてまた何時間も何時間も、狂気の中で歩き続けた。

そんなことはない。

あのさくらが、あのさくらの好奇心が途中で途切れるはずがない。

歩き、歩いてこの馬鹿な妄想を取り払おうとする。

歩き疲れ、やや冷静に戻って思うことは、

やはり嘘でしかないという当たり前な決め付けでしかなかった。

それが事実であるとようやく受け入れようとしたのは、

彼女の墓だという場所に足を踏み入れた時のことだった。

季節は夏に移っていた。

彼女の妹から送られてきた地図の墓地に僕は向かっていた。

彼女の墓だなんてどうやって信じろと言うのだろう。

あと少しでビザは切れるから、それが彼女が僕の元に戻って来てくれる引き金となるはずだから。

それは単純な事故だったという。

飲酒運転の車が反対車線に突っ込んで

彼女が同乗していた車を砕き、さくらと僕の将来を強奪していった。

墓地の一角に彼女の名前が刻まれた墓石を見つけたときの僕の心の空白を、

誰がどう理解し、同情してくれるのだろう。

どうやら、彼女は逝ってしまった。

遥か遠いカナダの地で僕を置き去りにしたまま、僕の知らない場所で永遠にいなくなってしまった。

彼女がカナダで何を得たのか、何を求めてカナダに行ったのかさえ知ることなく、

一年前のいつもの姿だけが僕の脳裏に残り、僕は本当に置き去りにされたのだと知った。

僕の生活でなによりも大きな存在だった恋人。

彼女の世界でもそうだったと思い込むのが楽観的過ぎることは知っている。

なにしろあの興味心の固まりだ。さくらという人間はひとつに縛られるような器じゃない。

男は僕一人でも、他への興味は湯水のごとく彼女から溢れ出している。

だが、彼女が死んだことすら僕が知らなかったとは。

そんな決定的な事実を後になってしか知ることができなかったとは、なんという仕打ちなのだろうか。

彼女は僕が知ることを望んだのだろうか。

僕よりも家族や友達のことを思うだなんてことが、

そして僕以外の男性のことを真っ先に思うだなんてことがあったのだろうか。

初めて僕に彼女のことを疑う気持ちが生まれていた。

結局僕は彼女の葬式にも呼ばれず終いだった。

それは彼女の意思だったのだろうか。

それとも、僕たちのことを知らない彼女の両親が

勝手にしただけだと思い込んでいいものなのだろうか。

彼女だという墓石に花を捧げる。

既に周りは色とりどりの花束で一杯になっていた。

僕はさくらに花なんて贈ったことはない。

どうして、初めての花を直接彼女の手に渡すことができないのだろう。

自分からしっかりと想いをさくらに伝えた記憶がない。

もう自分自身が情けなくなってくる。

彼女と初めて出逢った時もそうだった。

人もまばらな放課後のワープロ教室で、使い方を聞いてきたのがさくらだった。

好奇心丸出しの大きな瞳をして、ワープロのことから始まって次第に僕のことを聞いてきた。

あの遠い記憶。

どうして彼女はこんなつまらない男に興味を持ったのだろう。

僕はさくらに初めて出逢ったその日から、一日も欠かさず彼女のことを想っている。

僕にとっては当たり前のことだ。

でも、さくらはどうして僕なんかと――。

奇跡の様な出逢い。

別れ際、名前を聞いてきたのもさくらからだった。

名前すら、名前すら僕から聞いていないのだ。

彼女との日々は全てにおいて彼女が優先されていた気がする。

僕はどこまでもつまらない人間なのだと、はっきり決め付けられたあの日々。

僕にはもうその資格がないのだろうか。

カナダに行く彼女を強引にでも引き留めていれば、

逢いには来ないでという彼女の言葉を無視してでも

バンクーバーの地に降り立っていれば、

今日こうして彼女の名前の墓石の前に立つことんどなかったはずなのに。

愛しいあの手のひらに触れたい。

僕を優しく包み込んでくれたあの彼女の手のひらに。

墓石に手を触れてみる。ほのかに宿る太陽熱。

だが、僕と彼女の間には日本とカナダを隔てる広く冷たい海が横たわっている気がした。

彼女の妹が同封してきた手紙があった。

一緒にあった写真からして、きっと事故の直前に書かれたのだろう。

いつもより長文で、いつもより字が汚い。

出されることのなかったそのエアメールは、彼女の告白の手紙だった。

僕はその手紙で初めて彼女がカナダに行こうとした理由を知った。

彼女は両親に見合いを催促され続けていたのだという。

平凡な会社員の僕よりも、父親の地元の優良企業の御曹司と結婚させようと、

両親が執拗に彼女に迫ったという。

(わたしはそんなの嫌。わたしはわたしの人生を歩いて行きたい。

ケン、わたしね、色々見てきてようやく分かったの。

今の時代にはたくさんの選択肢がある。

ねぇケン、人生はドラマだけじゃないよ。

平凡でも優しいあなたが全て。刺激も興味もいいけど、平静が一番大事。

わたし、あなたの大きさがようやく分かってきたの。

でもケン、まだわたしたちは結婚に踏み切るほどの覚悟はないでしょう。

わたしはあえてあなたと離れることで、あなたへの気持ちを確かめようとしたの。

それと、あなたのわたしへの気持ちを確かめようとしたの。

ごめんね、ケン。あと数ヶ月。ケン、わたしはあなたの元に行くわ。いい?)

――彼女は手紙にそう書いていた!

――ついに僕を選ぶと書いてきてくれていた!

だが、その手紙が投函されることがなかったとは。

あとは切手を貼るだけなのに、それが決断できなかったとでもいうのか。

何かのためらいがあったとでもいうのだろうか。

最後のわずか三文字に籠められた彼女の一番大切な問いかけに、

僕が返事することすらできなかったとは――。

きっと、この手紙を見つけた妹が姉の気持ちを想い、

親に隠れて電話もしてくれたし、この手紙も僕に届けてくれたのだろう。

手紙には何故か彼女のパスポートの最終ページのコピーが同封されていた。

日本住所に「Ken, +81-3-XXXX-XXXX」と僕の電話番号がある。

不可解なことだった。一度両親の連絡先を書いてあったのに、

わざわざそれを二重線で消してその上に僕の連絡先を書いている。

僕の名前があるのは嬉しい。

でもどうしてこんなところにさくらが書いたのかよく分からない。

僕には彼女が全てだった。

何もかもが初めてで、何もかもがさくらと切り開いてきた月日だった。

今までもそうだったように、これからだってきっと回り道はあるものの、

もうあとはずっと彼女といられるものだと思っていた、僕はそう信じていた。

僕はこれからどうすればよいのだろう。

さくらを失くして何がある?

一人で生きてどこに意味を求めるのか?

あぁ、彼女の記憶をどう活かせばいい?

初めてキスしたあの海辺を。初めて夜を共にしたあの夏の鼓動を。

情熱を重ね合った激しい季節を。

それからの僕は、不用意に空気を触れて酸化してゆくワインのように、

内面からじわじわと崩壊していった。

彼女と過ごした時間の意味に気がつくようになるまで、長い長い時間が必要であった。

――それから十数年もの時が流れ、僕に新しい感覚が宿るようになった。

四季の花を美しいと感じる心である。鳥の鳴き声を愛でる意識である。

浅い春、薄桃色に映えた恋の季節。

優しい色使いで、鮮やかに燃えた。

仕事帰り、家路をたどる公園の道すがら、僕は彼女のことを思い出している。

月明かりを歩き、夜の噴水を目にすると、彼女とのことが今も鮮明に浮かんでくるのだ。

あの混乱した頭。

ひどく自分を狂わされた浮気と彼女の死のこと。

あんな出来事はその後の人生でも二度となかった。

あれほど哀しいこともなかったが、さくらとの時間ほど忘れられないものも、またない。

彼女と抱き合って眠った数少ない夜のことを想うと、僕は訳もなく涙を流したくなる。

追憶が滲む。愛しさが溢れてきそうなのだ。

今になってはもう届かない、あれが僕の人生の頂点だったのだ。

結局、さくらとの恋愛は実ることなく終わった不遇なものであったのかもしれない。

この世界に様々な恋人たちがいるが、相手の突然の死で終わる恋愛はなんと哀しく、

そしてある意味でなんと美しいものなのだろうか。

さくら。僕はあなたに言いたいことがある。

今では僕も結婚し、子供に恵まれ、自分の家族ができた。

これから家に帰れば、温かな家庭が僕を待っている。

これ以上求めるべくもない幸せな暮らしだよ。

あなたと一生を過ごそうとした頃には予想もできなかった人生を送ることになった。

それはそれでいい。人生はそういうものだと思う。

あのパスポートの裏のこと。

あれから僕は勝手に解釈するようになった。

カナダと東京で離れ離れになっていた時、

あなたにとっても僕の存在が大きなものになっていたからと信じてもいいかな。

それは両親をも上回る程に。

(ビザ取ったよ~。それも自分で行ってきたんだからスゴイでしょ?

ケン、カナダ大使館すっごくキレイだった。あ~でもビザうれしいな~。

ほら、パスポートにスタンプが増えるごとに人生が豊かになるって言うでしょ~。

えっ、そんなの聞いたことないって?

いいの~とにかくそうなんだから~!あはは!あはははは!)

そう言って、はしゃいでいたあなたの姿を思い出す。

そんな思い入れのあるパスポートだから、

そこに僕の名前を書いてくれたのは余程のことだったのかな。

勝手にそう信じ込んでもいいのかな。

どこにも答えはない。もう分からないこと。もう誰にも、分からないこと。

噴水広場の開けた空。眩しい月を見上げる僕。

立ち止まり、そっとまぶたを閉ざして、心の中でこう呼び掛ける。

――ありがとう。僕はあなたにそう伝えたい。

結ばれなかった二人でも、あなたは僕に人を愛する気持ちを教えてくれた。

さくら。ありがとう。

誰かを心から愛するということがこんなにも大切だっただなんて、

まだ若い、花や鳥の美しさにも気がつかなかった頃には分からなかった。

人を愛することが、どれだけ自分の心を豊かにさせてくれるか。

僕は、あなたと離れ離れになってから、初めて分かったような気がする。

これは普通のこと。きっと、どこにでもあるごく当たり前のこと。

日常は普通を意味するものだから、今ではこの思い出ですら日常に埋没している。

ただ、平凡な人生に非凡なあなたがいて、一時の非凡の恋をして、そして僕はまた平凡に戻った。

毎日は平凡の繰り返し。あなたとの日々だけが一瞬の特別だった。

僕は毎日を静かに積もる雪原のようだと感じている。

音も無く、なだらかに重なってゆく小さな雪たち。

それは平凡そのものだ。

いつか彼女は雪をドラマのかたまりだと言った。

僕がそう感じることは結局なかった。

ただ、その平凡な僕の雪原にも表情のあるわずかな瞬間があった。

さくらとの時間だ。

あのさくらがいつまでもひとつの場所でじっとしていられるわけがない。

好奇心一杯の彼女だ。今もきっと風の中で走り回っている。

だから公園の夜風に混じって聞こえてくるようだ。

ねぇケン、ほらケン、ケンケンって気安く何回も僕のことを呼ぶさくらの声が。

過ぎた人生で取り戻したいのはあなたとのことだけ、後悔しているものはそれだけだよ。

その自分の意識はいつになってもぬぐい切れない。

だけどもうこれで終わりにしたい。思い出は美化されてゆくばかり。

実際はすれ違いだとか失望だとか、もっと生々しいものだったのに。

もっと痛々しく、ずっと苦しいものだったのに。

あの頃の宝物は砕け散ってしまった。

結局あなたを救えたかどうかは分からない。

確かにあなたの太陽で僕は救われたけれど。

さぁ、もう帰ろう。公園を過ぎれば家の灯りは近い。

僕はようやく歩き出す。

ただ最後に、落ち着く居場所を求めて彷徨っている美しい幻想を今、この言葉で――。

さくら。この声は届いているのかな。

何度でもあなたに言いたい。

ありがとう。愛させてくれて、本当にありがとう。

愛している。今でも、これからも永遠に愛している。

その愛は日中には見えない月のようで、僕の今の生活に影を落とすことはない。

噴水の水面にゆれる月明かりは違う次元にあって、静かに変わらぬ愛をたたえている。

一度あなたのことを深く愛した、この優しい気持ちは僕から消えることはないだろう。

お互いどんな運命であろうとも、愛し合った心だけは人生の本物。

あなたに何度でも伝えたい。

ありがとう。あなたに、ありがとう。