狂い咲き〜密教仏像・不動明王で結ばれた恋愛

素直な気持ちを、ちゃんと伝えることができれば、世の中はもっと幸せに溢れる。

想いを伝えられないことが、誰もの幸せを抑え込んでいる。

そのことを、私はある仏像を通して教えてもらう機会に恵まれた。

私は今、日本の美を専門に取材する「ケンボックス」という雑誌社で、仏像特集を組んでいる。

仏像っていうと、なんか年季の入った趣味って思われるけど、いいえ、こんなにお洒落な趣味ってないよ。

仏像の中でも、私が注目しているのは不動明王ね、不動明王。

破壊と救済という対極を合わせ持った、なんとも華やかで眩しい存在。

今日はカメラマンを連れて、京都の東寺に来ている。

東寺には有名な不動明王がいるから、その魅力を伝えるためなら、私は日本中どんなお寺でも回りましょう。

ねぇ、ちょっと不動明王のことを語らせてもらってもいい?

あなたもきっと見たことがある。

不動明王って、すごく外見が怖いやつ。

周りに睨みを利かせて、口からは牙が飛び出し、手には刀剣を持ち、

背中で怒りの炎が燃え上がっている。

見るからに怖い人、始終怒っている頑固オヤジみたい。

しかも怒り方がプリプリ、って感じじゃなくて、ガーっていう風に、心の底から本気で怒っているの。

子供が見たら泣いちゃうんじゃないかってぐらい、本当に怖いのが不動明王。

何が羨ましいって、不動明王は自分の感情に子供のように素直なの。

でもね、ちょっと調べれば当たり前かも。

だって、不動明王って、童子の体型をした仏像なんだもん。

寸胴の体型はまるっきりおこちゃまでね、

悟りをひらいた仏様ってイメージじゃないから、なんか愛着を感じる。

一見、怒りまくっているおじさんかと思ったのに、子供なんだから、

自分の感情に素直っていうか、純粋なのも自然だよね。

インパクトが強い仏像だなぁ、って思って更に調べていくと、面白いことが続々。

怒りと破壊のイメージを前面に出しているくせに、不動明王は人々を救済する役割を持った仏様だった。

大日如来という、誰もがははぁ~って手を合わせたくなる

ソフトタッチ系のありがたい仏様がおられる。

世の中には、そんな仏様さえ無視してしまう、

聞き分けのない人たちもいるけど、そういうマイナーな人たちを、

強引に説得して仏の道に感化させてしまおうと、

大日如来が送り込んだハードなメッセンジャーが、不動明王。

怖い?押し売りみたい?

でもね、仏教の考え方では、不動明王がいるからこそ、

あらゆる人々が救済されることができる、と言われているの。

いつまでも自分の常識だけに固執して、大海に目を開かない人っているでしょう。

不動明王の目的は、そういう視野の狭い人たちさえも救済すること。

ただね、やり方がちょっと強引で、強面と炎と剣で脅して、

最初は無理矢理、そして次第に仏の道に引きずり込んでしまう。

結果、その人がきっと幸福になれるんだから、

まぁ、不動明王は必要悪っていうか、世の中には欠かせない存在なのかもしれない。

仏様たちの、ソフトとハードの使い分けってことね。

自ら心を開かない人たちに、世の中の大半の人たちが良いと思う、

おおよそ善良なものを強引に教え込む。

うん、それは分かるよ、私の周囲にも無理矢理でも引っ張り込みたい臆病者っているから。

分からないのは、不動明王がどうしてそんな辛い憎まれ役を買って出ているか、ってこと。

何かそこに私を魅せるものがあって、不動明王の存在が、私の胸をドキドキさせていた。

不動明王は、昔から随分と人気者だったのよ。

9世紀、空海が中国から持ち帰った密教によって、

日本に伝わったのを切っ掛けに、不動明王は現代までずっと創られている。

私たち現代人の身の周りを見ても、

成田山新勝寺・目黒不動尊・目白不動尊・高幡不動尊など、

不動明王を本尊としているお寺って、結構多い。

人気のあまり、色々な解釈の不動明王が出回っていたから、

10世紀には安然という天台宗の高僧が「不動明王とは、これです!」

という、十九相観ルールなるものを作ってしまったぐらい。

代表的なものを挙げれば、かるら炎という、

激しい怒りを模した火焔を背中にまとっているのが、不動明王。

右手に邪心を切る剣、左手に人々を救済するための羂索という投げ縄を持っている。

左目をすがめて地を、右目を見開いて天を見渡し、合わせて天地に睨みを利かす天地眼。

上歯牙下唇という、口から牙が飛び出す恐ろしい形相。

もう少し言えば、額にシワ、髪はチリチリ。

他にもいくつかあるけど、とにかく不動明王には、そんな外見上のルールがあるの。

それから!

不動明王自身が童子のくせに、いつもカワイイ童子を連れているんだよ。

一番正統なのは八人の八大童子だけど、よく見るのは二人。

せいたか童子っていう、生意気に怒っている子。

こんがら童子っていう、おっとりとした子。

大人風に怒った不動明王が、子供風にプンプンしたせいたか童子と、

子供風にのへら~んとしたこんがら童子を従えている姿は、とってもカワイイ。

表面上の力強い姿は、国家安泰の象徴として

昔から民衆や修験者の間で信仰された。

とりわけ、武勇に生きる中世の武士たちには、武の象徴として崇拝された。

そんなキャラクターの不動明王は、いつも何かに怒り心頭な感じ。

凄いのは、そこに躊躇や遠慮が微塵もない、ってこと。

怒りと破壊のエネルギーは、相当なものだと感じる。

その怒りの目的が人々の救済だっていうのだから、

不動明王の本質は、怒りじゃなく、優しさって捉えることもできる。

自立できない迷い人たちに、心を鬼にして右手の剣で斬り込んでいく。

その斬り口に、救えるスペースを見つけたら、左手の羂索を投げて、さっと救済してあげる。

破壊と救済という矛盾を、矛盾なく兼ね備えた存在、それが不動明王。

怒りは元々、聞き分けのない人々に向けられた不動明王の不満なのに、

いつの間にか日本人は、それを自分たちに降りかかる諸悪への怒りという解釈に変えていった。

日本人の心は、不動明王の本質さえ、変化させてきたのだ。

密教文化を素材としつつも、日本人古来の思想を踏まえて独自の文化を創る、これこそが和様化スタイルね。

そもそも、不動明王がこんなに民衆に慕われているのは、日本だけ。

仏教発祥地のインドやネパールでは、そもそも不動明王をモデルとした

仏像が残っている数は多くない。

それも不動という名前の通りのどっしり型じゃなくて、

むしろ軽快に走り出しそうなスタイルのものがわずかに残っているだけ。

最早、私が追っているものは、和様化された不動明王であって、

仏教に生まれた不動明王とは別物なのかもしれない。

ある時、私はこう考えてみた。

炎をまとった不動明王、怒りの表情。

その心の底にあるのは、幸せを逃したくない気持ちなのでしょう。

過去に躊躇から何かを失ったことがあって、もう二度と失いたくないから、

不動明王は感情表現を徹底しているんじゃないかな。

そう考えたとき、私自身のある記憶と結びついて、なんだか答えが得られた気持ちがしていたの。

ごめんなさい、すっかり話が長くなってしまって。

そんな不動明王に魅了されて、私は取材を繰り返していた。

伊豆の願成就院、仏師運慶が創った不動明王は最高の作品だった。

京都でも大覚寺、醍醐寺、それから今回の東寺。

滋賀の三井寺には、円珍ゆかりの黄不動もある。

調べれば、日本全国至るところに不動明王は息づいていた。

最初は、会社のみんなにも理解されるのに時間がかかったけど、

私の思いつきで組んだ不動明王特集は、次第に軌道に乗っていた。

仏像巡りの旅ならば、季節は秋でしょう。

私は、秋が好き。

季節は幾つかあるけど、秋が近付いた時、私のウキウキは一番活発になる。

実りの季節、紅葉の秋色と、お寺の仏像アートが重なる、その組み合わせを私は愛でている。

今年の秋も、紅葉と仏像の融合をテーマに、取材を楽しみたいな。

不動明王探しの旅、今回は最後の大物のひとつ、京都の東寺を訪ねていた。

そもそも不動明王といえば東寺のものが有名だけど、

私は最初に運慶が創った願成就院の不動明王に惚れたクチ。

他を見終わってから、最後に時代を遡るような形で

クラシックな東寺の不動明王を見よう、と東寺を残していた。

東寺に入ると、五重塔が見えてくる。

東海道新幹線の車窓から見える五重塔に、いつも京都を感じていたけど、

近くまで来るとこんなに大きくて立派な五重塔。

同行しているカメラマンの咲希さんが、心地いい音を立てて、シャッターを切っている。

散り遅れの桜がまだ残る春の一日。

桜の季節は桜の名所の取材に行け、って上からうるさく言われるから、

しばらく仏像特集はお預けだったの。

木造建築物に、季節の移ろいが重なる、その組み合わせは本当に美しい。

自然美には、誰も叶わないのは当たり前。

自然美と一緒に写真に収まって美しいのは、女性のポートレートぐらいでしょう。

人工物で自然美と共演できるのって、木造建築物が唯一、それに応えられると思う。

だから、お寺の木造建築物に紅葉や桜がかかる写真って、私は大好き。

美しいものだから好き、でもその光景を見るたびに思い出すことがあって、ちょっと辛いんだ、私。

私には、京都の秋で思い出す人がいる。

忘れられない苦しい思い出のこと、ケンというカメラマンのこと。

ケンとは会社の同僚として出逢った。

京都の宇治近くにある「ケンボックス」で、

私は企画・編集・文章を担当する社員、ケンは専属契約の風景カメラマンだった。

ケンが入ってきて以来、私たちはチームを組んで取材を担当していた。

春が好きというケンに合わせて、高台院や大覚寺の桜を撮りに行った。

奈良の長谷寺の花の回廊を歩いたり、吉野山の桜も撮ったし、

京都や奈良の桜の名所は一通り回ったんじゃないかな。

私の記憶に一番残っているのは、秋の常寂光寺。

常寂光寺の紅葉は、山自体が燃え上がるように、紅葉色に染まっていた。

ちょっと不吉だけど、火事真っ最中のお寺の中を

透明人間になって歩いているようで、本当に素晴らしかった。

私もケンもあまりに感動したから、

「常寂光寺が、京都一番の紅葉名所!」なんてタイトルを付けて記事にしたら、

結構色んな方面から賛成と、反対をいただいたな。

思えば、私の秋好きは、あの常寂光寺の紅葉から始まったと思う。

今となっては、いい思い出。

今は、社員の女性カメラマンの咲希さんと組んで二人で取材に回っている。

彼女はストレートな性格で、興味の向くまま、派手な調子でシャッターを切っている。

カメラマンでも性格でこんなにやり方が違うのね。

思えば、ケンは自分の気に入ったものだけに絞って、穏やかに写真に収めていたと思う。

ケンは言ったよ。

カメラは、正直な気持ちや、ありのままの美を映し出すことができる。

そこに言葉はいらなくて、カメラを通して対峙した時、人や物の表情に、その個性が現れる。

特に春には、命の息吹きが一斉に咲き乱れる、その美しさに圧倒されるから、僕は春が好き。

春の桜が、僕の心を一番引き付ける。

人間だったら、言いたいこととか、やりたいことも隠して生きなくちゃいけないけど、カメラに映るものは違う。

そんなことをいつも思いながらシャッターを押しているよ、ケンはそう言っていた。

その後、親会社の雑誌社の経営が危なくなり、

子会社の「ケンボックス」も例外なく専属契約の人は切って、社員だけで運営しないといけなくなった。

どの社員カメラマンよりも優秀なのに、ケンは契約を打ち切られることになってしまったの。

まるですれ違いの最後を望むかのように、ケンは何も言わずに去っていってしまった。

ずっと一緒に仕事をしてきたんだから、もっと私のことを頼ってきてくれても良かったのに。

ケン、あなたは強い人だから、私なんかは必要とはしていなかったのね。

会社の決定だからやむを得ないにしても、

ケン、私はあなたがいなくなることが本当に悲しかった。

あなたが今までしてくれたことに感謝していたし、大切なパートナーだと思っていた。

でも私には、なかなかそれを伝える機会がなかった。

伝えたい気持ちを伝えられないことのもどかしさ、

伝えられなかったことの後悔が、冬の森のような深さで私を包み込んでいた。

ケンと一緒に取材していた頃は、仏像にスポットを浴びせていたわけじゃない。

京都や奈良の寺院にある、日本の美を追っていただけ。

庭園や建築物、書画・陶器・祭り・文化、みんなを混合させて、美しいものだけをピックアップしていた感じ。

その中でも、私は仏像に他以上の興味を抱いていて、

如来や観音、明王から四天王まで、特別どれが好きということもなく、仏像全体をアートとして好んでいた。

それが、伊豆長岡の願成就院にある、

仏師運慶が創った不動明王と出逢って、強烈なインパクトを受けた。

運慶の不動明王は、それまで色々なお寺で見てきたどの仏像とも違っていて、

全身の怒りを極端なぐらいまで、強調していた。

それまでは不動明王って、派手すぎて、単純すぎて、

奥ゆかしさがないと思って私はあまり好きではなかったの。

有名な運慶の作品だからって訪れてみた願成就院で、

運慶の不動明王に出逢ったら、その斬新な作意に一気に引き込まれて、

なんだか仏像を見る目が変わってしまった。

願成就院の不動明王で驚いたこと。

自分が怒っているのだ、というありのままの感情を表に出すのが、ひどく自然だったこと。

だって、自分の気持ちを誰かにちゃんと伝えるのって、なかなかできることじゃない。

伝えたいのに伝えることができなくて、私のように後で悩む人が普通のはず。

伝えられないまま、逢いたい人と二度と逢えなくなる、

そうした臆病が悲しみを増幅させることが人生では多いものだ、と思っていたの。

それまでは阿修羅と十二神将とか、もっと派手な仏像が好きだったけど、

私の心に変化が起きていた。

他の仏像にも長い物語があって尊重すべきだけど、

調べていくと不動明王の話だけは、私の心にすっと入って、なかなか出て行こうとしない。

何故なのか、次第に私は、不動明王の物語に強く引かれるようになっていった。

不動明王を追いかける旅が続いている。

今は薬師如来に手を合わせる気分じゃないの、

十一面観音菩薩や伎芸天の腰つきに官能を感じている場合でもない。

とにかく、不動明王の後背で燃え上がる炎が、

私という小さな人間を体現している気がして、その行方を追いかける、それだけだった。

東寺の講堂に入ると、不動明王が私を迎えてくれた。

最もルールに忠実な、クラシックな不動明王。

何が違うって、東寺のものは坐像になっていて、

「動かざるもの=不動」という元々の姿をよく感じさせてくれる。

運慶のものは、立像になっていて、より奔放に怒りと救済を表現していた。

ダメね、私のスタンダードが運慶のものになっているから、違いぶりが目につく。

こうして見ると、筋肉の張りや顔の表情、あとは玉眼に顕著だけど、

運慶の不動明王の生き生きとした創り方って、斬新。

東寺のものは、伝説の中で怒りに震えている仏様って感じ。

運慶のものは、現実の中で怒りに震えている武士って感じ。

両作品の違いは歴然としていて、どちらが善か悪か、

そんな答えはないけれど、私はこの違いのことを、今回の特集に私の言葉で書こうと思った。

「あなたはどっちの不動明王?仏様の怒りの東寺?武士の怒りの運慶?」

季節は初夏を迎えていた。

お陰様で、前回書いた春の特集・東寺の不動明王の記事は、

幾らか反響があり、明るい話題を振りまくことができていたみたい。

あれは曼珠院に黄不動の掛け軸を見に行く時だったかな、

暑い暑いとぼやきながら運転する私に、カメラマンの咲希さんは

私の書いた東寺特集をパラパラとめくりながら、こんなことを聞いてきた。

ねぇ、四季、あなた、こんなこと書いてる。

「本当は誰でも、一番言いたいことを隠している。

不動明王のように強い信念を持って、あなたがその人に真情を伝えられれば、

毎日はもっと美しくなるのでしょう」

あのね、四季、なんか他人事みたいに誤魔化しているけど、

あなた自身のその本当に言いたいことって何なの?

私には話してくれるのでしょう?

どきっ、とした。

ためらいはあったけど、曼珠院の廊下を歩きながら、

ケンっていう人のことを咲希さんにしゃべっていた。

私はね、ケンにちゃんと向き合って感謝の気持ちを伝えられなかったことが、どうしても心残りなの。

連絡先を知らないわけじゃないけど、それだけのために逢うのも変だし、

大体もう時期を逃しているから、今更逢いたいって言うのもおかしいし。

彼女が「ケンボックス」に入社してきたのはケンが辞めた後だから、

彼のことは知らないはず。

誰のことか説明もしていないのに、私がペラペラと自分の気持ちばかり

話すものだから、彼女には何のことか分からなかったでしょうね。

でもそこは優しい咲希さん、曼珠院の素敵な回廊に

ファインダーを合わせながらも、聞き流すように?話を聞いてくれていた。

あのね、咲希さん。

ケンは春の写真が好きだったけど、私は秋を愛でているの。

それだけで分かるでしょう?

二人は、決して交わることのない、別々の季節のような存在。

こんな情けないことを言っちゃうけど、一度接点を失うと、違う属性が交わることってないのよ。

いつか再会できる、と甘く考えていたけど、あれから全然接点ないもーん。

後悔ね、後悔。

ひたすら後悔です、恥ずかしいよ、私。

曼珠院門跡は、紅葉の名所って聞く。

夏の始まりだから、その面影もないけれど、それでも門跡の緑色は素晴らしい輝き。

秋の華やかな景色を瞼の裏に思い描きながら、私は木々のざわめきを聞き入っていた。

咲希さんは、門跡と苔の写真を撮ることに夢中みたい。

小さな女の子がママの後ろにくっつくみたいに、私も彼女に後ろについて話し続けるの。

邪魔って言われないから、いいと思って。

大げさに言わせてもらうと、私は秋の紅葉、ケンは春の桜。

季節の代表格二つに例えちゃって、だいぶ恐れ入りますけど。

だから、そんな二人が同時に交わる方がおかしくない?

ほら、紅葉と桜が同時に見れるなんて、あり得ないでしょう?

残念ね、元々交わることのない二人だったから仕方なかった、それだけなのよ。

咲希さんは、私のぼやきを聞き流すように、付き合ってくれた。

ありがとう、聞いてくれなくても、こんなこと口にできただけでも、いくらか気分が軽くなったよ。

聞いていないと思った咲希さんなのに、帰りの車の中で、また突然こう言った。

「四季、あなた、そのケンっていうカメラマンが好きだったんでしょ?」

えっ、そんなことはないよ、ケンにはそんな気持ちはないもん。

ただ何か懐かしいっていうか、伝えたい気持ちを伝えられなかったから、

どうも気持ちがすっきりしない、それだけのこと。

好きとか嫌いとか、そういう感情じゃなくて、ただ、なんだか空しいだけ。

ヘンなことに、慌てて否定していた私。

咲希さんはハイハイ、って聞き流しながらも、最後にこう脅した。

「あ~、何のために不動明王巡りをしてきたのかなぁ~。羂索、拾おうよ~」

夏は終わっていった。

少しずつ涼しくなる夜風を感じると、次の季節のことを心待ちに、私は毎日を過ごすようになる。

あぁ、秋になると、なんだかケンに再会しているような気持ちになるのが、私、嬉しいのかな。

でも、もう彼のことは思い出さなくてもよいでしょ、と自分に言い聞かせてみる。

不動明王の取材は続いていた。

今度は少し遠出をして、横須賀の浄楽寺まで、不動明王に逢いに行った。

年に2回しか開帳されない秘仏、これもまた、あの運慶が創った不動明王。

私が出逢った不動明王は、最初が伊豆の願成就院、運慶の斬新な作品。

それから京都や奈良のお寺で、数多くのクラシックな不動明王を拝見させてもらった。

この前の東寺で、不動明王の時代を遡る旅は終わり。

次はもう一度斬新な不動明王を、と運慶の作品を求めて横須賀の浄楽寺まで行こうと思った。

今まで逢ってきたどの不動明王も素敵だったけど、

運慶が創った浄楽寺の不動明王は、やはり私の心にすっと入ってきた。

武士から求められて創られ、その武士たちに愛された運慶の不動明王、

肉体や表情から溢れるのは、機智と覇気よ。

玉眼という運慶流の手法は、現代人の私が見ても違和感がない。

こんなにリアルな不動明王、武士たちが信仰の対象としたものは分かる。

和田義盛という鎌倉武士に依頼されて、運慶が創ったこの浄楽寺の不動明王。

仕事で創ったものが、依頼主に感謝され、多くの時間の中で

多くの人たちに感謝され、今でも私のような人が訪れては、巡り合いに感謝している。

口下手な私も、記事にならば素直なことが書ける。

今回の記事のテーマは、周囲の人たちへの感謝の言葉にしようと思った。

私の思いつき企画に賛同してくれる会社への感謝、

毎回付き合ってくれるカメラマンの咲希さんへの感謝、

それから雑誌を買ってくれる読者の方への感謝、

たまにコメントを寄せてくれる方へはもっと感謝。

仕事とはいえ、好きなことをさせてもらっているのだから、みんなに感謝しなくちゃ。

きっとそういう感謝の気持ちが積み重なって、日本全国にある仏像は、

数百年、物によって千年以上も姿を保っている。

感謝って大事、人と仏像を千年つないだキーワードが、感謝ってことね。

それもこれも、不動明王から学んだこと。

私ひとりで生み出したものなんかじゃないんだ。

なにより、私は不動明王へ感謝しなくちゃいけないな。

秋、待ちわびた紅葉の季節。

この季節だけはお休み返上で、私も京都や奈良の紅葉名所の取材に出かけっぱなし。

ある日、珍しく咲希さんからお誘いがあって、取材に出た。

どうしても撮りたい場所がある、地元の愛知県の紅葉名所だから、って、

今回は不動明王はお預けってことも聞かされて、彼女は高速へと車を走らせた。

足助の香嵐渓かしら?

そこは東海地区の紅葉名所として有名だから、私も名前だけは知っていたけど。

そう思っていたのに、香嵐渓とは違う方向に車は向かうじゃない。

豊田市の小原地区っていうローカルなところに入ると、

季節柄、道脇の紅葉は深まっていて素敵だけど、

ふと目に入ってくるのは、咲いている薄紅色の花。

あれは何?何の花なの?こんな季節に咲く花なんて珍しいよ。

えっ、何?何?何なの?って聞く私に、咲希さんは応えてくれず、ただニコニコしているだけ。

車が小原の町中にさしかかると、道端にあるのぼりに

「小原四季桜祭り」とあって、その花が四季桜というものだって分かった。

四季桜、とは?

まさか、本当に秋に咲く種類の桜があるのかな。

なかなか想像できなくて、どうも騙された気分で一杯。

多くの人が集まり、小原四季桜祭りの会場は賑わっていた。

車の窓ガラス越しに見たのは、紅葉の赤黄に、桜の薄紅が重なっているシーン。

目を疑うような光景だったから、早くもっとこの目で見たかった。

名古屋出身の咲希さんだから、きっと詳しいことを知ってるはず。

駐車場に着いたら、すぐに案内してもらおうと思っていたのに、

彼女はいきなり「写真撮ってくるから、また後でね」って言うなり、さっさとどこかに行ってしまった。

あらぁ?

ちょっと困るじゃない。

記事の文章も考えなくちゃいけないのに、あの桜が何なのかのヒントも貰えないままは厳しいよ。

仕方ないからウロウロとお祭り会場を歩いても、あの桜が何なのかは分からないし、

行列に釣られて五平餅を買って食べたら美味しかったけど、もうちょっと真面目にやらなくちゃ。

さて、これはお仕事よ、どういう風に記事にしよう。

まずはじっくりあの景色を自分の目に焼き付けることかな。

そう思って、紅葉と桜が交わっている所を歩いてみる。

意外ね、本当に不思議っていうか、意外。

桜は小ぶりだけど、紛れもない桜。

春にしか咲かないと思っていたら、桜なのに紅葉が最盛期を迎えている

この11月に、咲くなんて。

これはカメラに収めたくなるでしょう。

咲希さんの姿は見当たらないけど、

他にも沢山のカメラマンがいて、シャッターを切っている。

黄色に眩しく輝く一本の銀杏の木が、際立っている。

思わず見入っていたら、銀杏をはさんで対岸にいるカメラマンのことが気になった。

見覚えのあるシルエット。

静かに集中して、でも夢中でカメラを構えている姿、そう、あれは間違いなくケン。

どうして??

私の頭はすっかり混乱してしまった。

まさかこんな場所でケンを見かけるなんて、ありえないことなのだから。

乱れて、数秒間の空白が空いたと思ったら、私の頭は意外な冷静ぶりで、事態を悟り始める。

あっ、咲希さんがカメラマンつながりで、同じ日にここに来るように仕組んだのね。

そうよね、京都や奈良ならまだしも、愛知県のはずれのこんな場所で

偶然に出逢うはずがないもん。

駐車場に着くと逃げるように別行動した彼女の理由が分かった。

咲希さんが偉そうにこう言おうとしているのがイメージできた。

ほらね、春と秋が奇跡的に交わる一瞬ってあるのよ。

ここ小原では、四季桜が春と秋に咲くし、秋には紅葉の最盛期と一緒に、秋の大輪を咲かせる。

一体誰よ、桜が春にしか咲かないって決めつけた、狭くて小さな人は。

愛知県にそんな奇跡の場所がある、彼女はそれを知っていて、

こんな衝撃的な場面を私に見せてくれたし、そこにケンを呼んでいたのね。

動転の後、どうしたことか、すっかり自分に返っていた。

私はどうすればいいのだろう。

まだ私の姿に気付いていない彼のことを、遠巻きに見ていればいいの?

ケンから気付いて、私に声をかけてくれるのを待っていればいい?

出発の前に、ずっと渡し忘れていた、と言って咲希さんは東寺のお守りをくれた。

きっと、ここで私に不動明王の力を借りさせるために、彼女はこれを渡してくれたのでしょう。

何もかも彼女に仕組まれている気がする。

いいえ、ここは遠慮なく、不動明王から力を貰おう。

そうだよ、これ以上幸せを逃さないために、時には不動明王となって、

怒りに身を震わして、強引に進めるのも大事なことなのだから。

決して交わらないと信じ込んでいた桜と紅葉が重なる瞬間を目にしたら、

今度は私が狂気を見せる番じゃない。

好きだから好きだと伝える素直な力を、私は今この四季桜の中で持てる。

ぐっとお守りを握りしめ、走るようにして近寄ると、私はケンに声をかけた。

驚くケンの横顔なんて、もう構っていられない。

ちゃんと伝えたいことを伝えなくちゃ。

突然とか場違いとか、そんな悠長なこと言っていられない。

私には、私には不動明王がついている。

「ケン、ケン。わたしよ、四季よ・・・。ケン、分かる?分かる?」

ケンが撮っていたのは、自然の狂気だった。

誤った方向に振れた時の人の狂気は醜いものだけど、

自然の狂気は「狂喜」で、普段にはない光景が生み出される。

それが美しく思えるのは何故か。

感情をストレートに出せる存在への嫉妬、羨望の眼差し。

近頃、写真に収めたいと思うのは、そんな自然の狂気ばかりになっていた。

冷静な氷結、欲望のように燃え上がる炎。

急成長する緑の草木とか、ギラギラとした満月。

僕自身は何も語れない、でも自然は雄弁に語ってくれる。

自然だって言葉を発するわけじゃないけど、カメラを通せばその意思を画像に収めることができる。

そうだ、カメラは、被写体の心を読み取る。

僕もいつかは本音を語れるかな。

自然の狂気を撮り続けていると、心根を伝えようとする姿が美しくて、

美しくて、僕はその美しさに圧倒され、嫉妬し、憧れを抱いている。

何も変なことなんてない、乱れていても心を伝えようとする姿勢って、

なんて美しいのだろう。

氷塊のように、炎上のように、狂おしい表現の裏にある美を、僕はカメラを通して世界に追っている。

昔は春の淡い気持ちが好きだったけど、今では物足りなさを感じている。

所詮、人と人はいつか突然に縁の切れる、儚い関係。

だったら、つながっている一瞬に、悔いを残さず狂い咲こう。

鋭利な日本刀のように、二度とない機会を決死でぶつけ合う、そんなものが毎日に欲しい。

カメラマンつながりで、桜と紅葉が同時に命を燃やす

こんな貴重な景色を紹介してもらい、今日ここを訪れて、ますますそう思った。

一期一会とはこのことか。

つながっているのは今の一瞬しかないのだから、明日のことは考えず、

今日を精一杯に生きる、そのことの大事さにたどりついた気持ちがしている。

四季が突然、ケンの前に立ちはだかる。

驚くケンにお構いなしに、必死の表情で、四季が自分の存在を訴えかける。

ケン、あなたにやっと再会できた。

私、あなたがずっと好きだったの、あなたと一緒にいたいのよ。

頭のおかしいオンナと思われるかもしれないけど、

昼間はあなたの傍で手をつないで、夜はあなたに抱かれて毎日を過ごしたいの。

伝えなくてずっと後悔していたから、こんな再会の奇跡、もう、全部あなたに伝えたくて。

これこそ本当の突然。

突然すぎて、ケンは言葉を失うかと思った。

今まで好んで写真に撮ってきたもののように、

目の前には、いびつだけど、本気の色に染まった、自然の感情があった。

美しい、それはたまらなく美しい。

しかも、自分もずっと忘れられなかった思い出の人が、目の前にいてくれる。

見て見ぬ振りをしてきた僕の後悔を見透かすように、

逆に大切な人からそんな狂喜を打ち明けられるとは。

僕はどうなる?

まさか自分が狂い咲きの主役になるとは思っていなかったけど、

「その時」はいつでも突然に訪れるもの。

一瞬間が空いて、ケンは四季のことを心から受け入れた。

四季、ありがとう。

いきなりでびっくりしたけど、そんなに勇気を出して言ってくれたら、もう僕も黙っていられない。

僕は四季のことが好き。

ずっと、四季が好きでした、ずっと、四季に逢いたかった。

これから一緒にいよう。

四季のこと、なかなか離さないよ。

小原地区の四季桜は、春に咲き、秋にも紅葉に合わせたかのように満開の桜となる。

紅葉と桜が同じ秋の一点に交わる瞬間が、世の中には存在する。

そこに破壊と救済の力を借りて、奇跡を掴み取った人たちもいる。

人も、自然の狂い咲きのようになる瞬間があってよいのだから。

四季桜が春と秋に二度咲きすることの詳しい原因は、現在も謎のまま。

時として人が狂喜に包まれるように、紅葉に美を重ねようと、

理屈なしに花を咲かせるのが、四季桜なのかもしれない。

例えそれが、季節感をなくした狂い桜と呼ばれるにしても。

素直な気持ちを、ちゃんと伝えれば、幸せは訪れる。

幸せの機会を失いたくなければ、時には腕を怒りに震わすことも必要なのでしょう。

不動明王、四季桜に狂い咲く。

-小説