ロハスな私、っていうキーワードがある。
自分の生活や健康に大変な興味を持っている人たちは、いくらお金を払っても良い物を買おうとする。
自己投資を惜しまず、安かろう悪かろうの商品につられることなく、
高くても本当に良い物ならば抵抗なく購入する彼らが、ロハスと呼ばれる人たちだ。
インターネットや本からの情報収集にも長けた彼らは、
購買意欲が高く一般的に高学歴・高収入なのが特徴と言われている。
経済不安定と物価上昇に見舞われる21世紀の社会でも、
お金を出して高い物を買ってくれるロハスな人たちは、マーケットの中で主流を占める購買層と言ってよいだろう。
21世紀の流行はアメリカからやってくる。
このロハス(LOHAS=Lifestyles Of Health And Sustainability)と呼ばれる層は、
アメリカで生まれて流行したのがおよそ10年かけて日本に流れ込んできたものだ。
振り返れば、アメリカで流行ったボーリングが、日本でも大ブレイクしたのが1970年代。
キャンピングカーだってアメリカから日本へ移ってきたものだし、
2007年に流行ったビリーブートキャンプだって、やっぱりアメリカからやってきたものだよ。
マクドナルドも、インターネットも、スターバックスコーヒーもアメリカ文化からだね。
ロハスな私もそう。
白人コンプレックスがまだどこかにある私たち日本人は、アメリカの流行を知らずと追っているのだろうか。
いいや、人種のコンプレックスというよりも世界で一国だけ飛び抜けた超大国・アメリカだから、
その経済や文化が世界中に影響を及ぼすっていうことなのかもしれないね。
ロハスな私は健康グッズに金をつぎ込み、身体維持のために歩いて汗を流す。
中国製なんて怪しいから信じないよ、極端な安物はリスクが潜んでいるから買わないよ。
食べ物だって、食品偽装問題によって日本産ですら信憑性が弱くなっているものの、
頑として日本産しか信用しない。
中国産の食品なんてあり得ない、っていう顔をしたロハスな人たちは食の安全にピリピリしている。
水だってミネラルウォーターか、浄水器の付いた蛇口しか信じない。
水道水を飲むなんてもってのほか、ご飯を炊くにもミネラルウォーターを使うんだ。
ロハスな人たちは自分の身の安全をセルフコントロールする。
黙っていても誰かが、近所の人が、国家が、自分たちを守ってくれるなんてもう考えていない。
防犯グッズが、ホームセキュリティー契約が、市場として地位を確立した。
お金はあるから、空気も水も安全も、自分の知識とお金でもう一歩上のものを得ようとするのがロハスな人たちなのだ。
それって世間に懐疑的で、性善説から性悪説へ流れつつある現代人の心が浮き彫りになった証拠って捉えてもいいんじゃないかな。
それって21世紀では社会の主幹の地位が、貴族階級から一般庶民へと完全にシフトした証拠って捉えてもいいんじゃないかな。
ロハスな私は、もう止まらない。
贅沢を覚えた先進国の贅沢人の行く末は、ロハスな私なのだろうね。
と偉そうに書いている私こそが、お金に困ることなく健康維持と知的好奇心に並々ならぬ興味を持つ、典型的なロハスな人ではありますが。
健康~防衛体力と行動体力、人間の活動や生存の基盤となる身体的能力
体力や健康は目に見えず、心身が健やかな時には気にかけにくいが、
あなたがそれらを欠かした時、初めてその重要性を痛感するだろう。
怪我をしたことや、自分自身でなくても家族の誰かが入院をしたことはあるだろう?
その時の生活の不便さを思い返すといい。
何をするにしてもかかる無用な時間、健康時には考えられなかった余計な費用、
食事すら誰かにお願いしないと摂れないから周囲の人たちに対しての配慮、
体力と健康を損ねたことによって、肉体的だけではなく、精神的にも経済的にも障害は及んでしまう。
こうした有事のマイナス事象に抵抗する身体的能力を「防衛体力」と呼ぶ。
普段は見えないが、「防衛体力」は通常時のあなたを守ってくれる強い味方だ。
体力と健康を維持することはあらゆる物事に関わってくるではないか。
仕事を持ち、家事があり、家庭が待っている人間ならなおさらだ。
体力があればこそ新しい物事に手を伸ばして知的興味心を満たすこともできるし、余暇を豊かなものにしようと行動もできる。
与えられた仕事を自分自身でこなすのは体力があってこそだし、
生活面のあらゆるものの効率性をあげ、行動に円滑と安全を約束してくれる。
社会的な集団に加わったり、地域社会に貢献するにも身体が資本だし、
スポーツを通して新しい技術の獲得、一人の人間として精神力の向上にも関わってくるものが、体力だ。
こういうプラスの事柄に取り組む能力は「行動体力」と呼ばれるものだ。
つまり、日常生活の中で体力があるということは、
身体的なことだけではなく精神的にも社会的にも調和が取れて、人生そのものを豊かにしてくれる。
体力つくりにおける知識を学校で学ぶことは少ない。
学校教育では知識面の向上を主目的とする知育偏重の考えが昔から強く、活発な運動をするのは趣味の領域であることが多かった。
これは高等教育へと進むにつれ見られがちな考え方である。
健康を維持するためだけならば毎回全力で運動することよりも、
自分の最大能力の3分の2程度の運動を10分程度、一日おきに実施するのが望ましい、とされる。
体力の向上にあたり、徐々にレベルを上げてゆくことが必要になるが、大切なのは常に限界の3分の2を目指すこと。
それも、同じ運動ばかり自分一人で繰り返すのも効果が薄いので、
一層の向上を求めるのであれば専門家のアドバイスを聞いて適正な負荷を自分自身にかけてゆくこと。
こうした知識を学習する機会はなかなかあることではない。
我々を取り巻く社会環境に目を向ければ、
日本では肉体を駆使する農林水産業を職としている人口が全労働者の10%程度まで減少しており、
一方で、サービス業に従事する人口が30%近くまで激増している。
我々は身体を使い、汗水を流して行う単純労働よりもデスクワーク中心の社会に突入しているのだ。
運動不足は脳卒中や心臓病に関係し、体脂肪が身体に溜まり過ぎると
動脈硬化を引き起こして死に至らる可能性を秘めているのである。
日本の総人口のおよそ半数が東京・大阪・名古屋の三大都市圏に集中しており、
都会ではスポーツをする施設が充実していたり、コーチなどが多いという人的な機会には恵まれているが、
土地の制限や環境汚染などで自然の中での運動はできない状況にある。
サービス業などホワイトカラーは残業が多い傾向にあり、職業病に陥る人も多い。
オフィスビルの中では十分な休憩場所は確保できない。
運動不足を解消しようとしても、自分の体力に適正な運動量は分かりにくい。
労働にせよ家事にせよ、現代の生活では機械の発達や省力化が進み、
我々人間に求められる消費エネルギー自体が小さくなってきているのに引き換え、
経済力の上昇によって食事は欧米化し、食物エネルギーの過剰摂取や
動物性脂肪の摂取増加という新たな問題が起きている。
自動車の普及や交通機関の発展によって我々は歩くことも少なくなっているから、
もはや運動不足は国民全体にとって避けることができない社会問題である。
こうして列挙してみると、多数のマイナスの外的要因が我々の健康・体力維持に立ちはだかっているではないか。
これらを払拭して日常生活の中で健康と体力を維持するということは、
無意識・無関心のうちにできることではなく、余程の注意を払わないと
この現代社会に暮らす限りは体力低下が免れないと言って間違いではない!
何もしなくては不健康になってしまう裕福な社会に我々は住んでいる。
この問題は誰にでも、平等に起こりうる。
社会的地位の高低や年齢の壁を越えて、誰もが避けられない、基本的な、しかし根深い問題である。
自分や家族に、体力があって、健康に過ごし、当たり前の生活ができていることが、どれだけ幸せなことか。
普通の生活こそ、最上・最良のものである。
健康と体力とは、保険と同じように、いざ問題が起きてから、その大切さがようやく身にしみて分かってくるものなのだ。
我々人間の肉体・心・生活を根本のところで支える土台が健康・体力であり、
「人間の活動や生存の基盤となる身体的能力」と定義することができる。
運動と栄養と休養は、病気を事前に予防するものである。
病気を治す健康よりも、病気にかからないための健康を意識するのが優先だ。
怪我をしたり、不摂取によって体力をなくしてしまった時に、
後悔し、健康と体力をありがたがっても、それはもう遅いのである。
ましてやこれからの高齢者社会においては、他人に迷惑をかけない健康を獲得するのが、スマートライフの前提になるのでしょう。