責任感溢れる小説家、ただしそれはとりわけ自己のこだわりに関する責任感である。
これが『文学の責任』と『堕落』を通読して感じたことである。
「文学者は(中略)全面的に己の発言に責任を負う必要がある」
「小説が事実伝達と決定的に異なるのは、それを書く本人へ、書く自体への反省を強制することにある」(文学の責任)
とあるように『文学の責任』では文学が知識人の「知識の学びではない」ことを明記している。
中世の時代に肉体労働から免除された一部の身分層が閑暇の中から生み出した知性の産物たる小説は、
印刷出版という転機を迎えて新聞に代表されるような社会への報告事項としての文字ではなく、
本来読者に対する明確なメッセージと責任があってこそ生み出されるものであろう、と高橋和巳が訴えている姿がイメージできる。
もうひとつの深いメッセージはこうだ。
「真の小説家である限り、自己がいかに貧しいものであるかをいやおうなく知らされる」(文学の責任)とある。
小説を書くことは作者自身でも未知である自分の新しい部分を引き出すことであり、
同時に自己の甘えに対する戒めになり、結果として自己を高めることに繋がると高橋和巳は伝えようとしている。
しかしその真面目な、責任感に溢れる文学者が書く小説ときたらどうだ。
『堕落』でもそうだが、人間の暗い業を背負った主人公が栄光から破滅してゆく様を描いた小説ばかりがそこにある。
なんとも無残な姿ではないか。
小説は世間に対しての責任があり、新聞などの事実伝達役の文字とは違うと『文学の責任』で言い放った人物が、青木隆造のような苦労人であり、
永く社会問題や家庭に対しての責任をまっとうしてきた人物が、なんとも低俗な人間の業である「性」によって破滅の道を駆け落ちるなど、
こんなに暗い話を世間にぶつけるとは、『文学の責任』を書いた人と同一人物なのかと疑ってしまうほど、異質に感じた。
これがどう責任に結びつくのか。
人間の暗い部分も人の本性であるから、それを描くのは文学として当然のことだが、
善良であったはずの人を破滅に追いやるばかりの手法がどうして世間に対する責任を貫くことになるのかが理解できなかった。
高橋和巳自身の生まれ育ちを見るとそれが次第に解けてくるようである。
『高橋和巳序説』に解説された通り、生まれ育ったのは大阪の貧民街であった。
それから十歳にして大阪を襲った度重なる空襲を経験し、人が死んでゆくという地獄絵を味わう。
終戦後の焼け野原となった大阪や京都で勉学に励む青年が、
その過去の実体験から戦争についてや人の醜い部分を描くというのは自然な流れであったのかもしれない。
少年期にそういったものを経験してしまった人間にとって、いかに戦時中の苦労が深いものだったのかと想像がつくようだ。
それにしても『堕落』の青木隆造の役どころはどうしたことか。
戦後の貧しい生活の苦労を知っているはずの高橋である。
同じく戦後に私財を投げ打ってまで身寄りのない混血児たちの面倒を見るという、
いわば最高の道徳像であるはずの青木隆造をどうして高橋は破滅させなくてはならなかったのか。
それも堕落する原因は時代の流れではなく、他人のせいではなく、長年封印していたはずの性欲である。
秘書の水谷にも、時実正子にも彼女らには責任はない。
青木隆造のただ不可解な行動によって青木自身のみならず、
時実正子にしろ、秘書の水谷にしろ、そして青木隆造が長年看病していた妻さえも、そろって女たちは破滅してしまうのである。
それが産み落とした母の愛に飢えた男の渇きであるとすれば、もう許される存在というのはいなくなってしまう。
社会福祉の表彰を受けた青木隆造が堕落したのは人間の基本的な欲望であるから、
それは原罪意識というか、人間そのものに対しての高橋和巳の絶望なのであろう。
道徳者として世間を渡ってきた青木隆造が実は戦後の逃亡の際に自分のふたりの子供たちすら自分が生き延びる道具として使い、
死に追いやってしまったと告白させるのであるから、もうそこに救われる人はいないのである。
「国家の名において裁いてみよ」と結ぶ最後のシーンはいささか唐突なイメージを受ける。
時代背景はあるにしても、それまでの青木隆造は時代の逆境をも自分自身の意思で跳ね返してきて
兼愛園を守り立ててきた人物なのであり、堕落の原因も人間の低俗な性欲にこそあって、決して国家に関係するものではなかった。
最後の最後になって出てくるこの「国家」という言葉だが、その時代の空虚さの原因は戦後平和と民主主義は、
戦前の大東亜共栄圏の無責任な指導者の責任をことごとく回避したのであり、
戦後の虚偽と欺瞞に対する高橋和巳の懐疑の深さによるものである。
責任感溢れる高橋和巳にとっては到底受け入れられない偽りの国家的決着を文学の責任と重ねて、責任論をうたっているのではないか。
高橋和巳にとっての文学の責任とは何か。彼は人間の弱さを憎み、
それを描くのはその弱さを実際に見てきた自分でしかできないと思っていたのではないか。
青木隆造を裁いたのは自分を裁くことである。
国家が自国の歴史を裁けなかったのに対して、高橋は自己を含む人間そのものの醜さを小説の中で裁いているのである。
ただ、残念であるのは、
「作者の認識やその責任意識の範疇に止まっている様に思われる」
ということであり、彼自身の意識というか、文学に対しても社会に対しても責任感は深かったものの、
現実とのギャップ、社会とのギャップは埋まらずに小説がひとり歩きしているのを感じている。