詩的日記

罪刑法定主義とは、公的権力の横暴から国民人権を保障

そもそも人権とは公的権力と国民の間での問題に対してのみ、適用されるものとして考えられてきており、

私人間の人権侵害問題へは適切な立法措置が講じられておらず、不十分なものであった。

基本的人権とは「人間であれば当然享受しうる基本的な権利」であるのだから、

侵害をしてきた相手側が公私のいずれであるかは問題ではない。

現代社会では私企業に雇用される労働者が多く、近年は企業や労働組合という存在が

私人の枠を超えて「社会的権力」として認識されている。

雇用中の待遇や採用・退職時の企業側の対処をめぐって人権侵害に該当すると判断される事例は後を絶たないが、

今日問題とされているのは私人間同士の問題にも

人権保障規定を当てはめること以上に、一体どこまで当てはめてよいかという議論である。

この議論には3つの説がある。

人権保障規定をそのまま適用させる「直接適用説」、人権尊重の精神で一部だけを適用させる「間接適用説」、

私人間では認めないが片方の私人が公的権力と同等のものを持っている場合のみに適用されるとする「国家同視説」である。

ただし、最高裁判所がこのどの説を支持しているかは明確になっていない。

三菱樹脂事件は身上書に虚偽の記入をし、

面接時にも虚偽の回答をしたことで会社が試用期間満了時に本採用を拒否したという事例である。

学生運動の中心的メンバーであったことを黙って就職したことが問題につながった。

この事件に当たって最高裁判所は「間接適用説」の立場を取りつつも、

企業側には特定の思想・信条を有するものを雇い入れることを拒んでも

それを当然に違法とすることはできないとして、企業側の解約権を認める立場を取った。

雇用が適当ではないと企業が判断すれば本採用拒否もやむなし、

という最高裁判所の立場は思想の自由とその沈黙の自由を越えて

企業側に有利な判例であって、企業という私人に人権侵害は適用されない、という立場に限りなく近いものであった。

罪刑法定主義は、国家による突然の刑罰権の発動によって

国民の人権が侵害されないような保障機能を持たせるために派生した。

罪刑を行うに当たって国家はあらかじめ法を制定して何が罪に当たり、

その際はどのような刑が科せられるかを成文法として定めなければならないとした。

これによって法に定められていない行為、例えば常識や慣習のようなものを盾にとって人を犯罪に問うことはできなく、

法に定められていない刑罰を科したりすることはできないのだ。

当然ながらそこで定められる刑罰は国民の目から見て、

当該行為を実質的に処罰する必要性と根拠が認められなければならない。

そして、制定される罪刑には明確性が要求される。

「治安を乱した者は相当の刑に科す」など、あいまいな罪の内容で、

刑の上限と下限が明確に定められていないものを成文法にすることは認められない。

事後法の禁止も重要な条件であって、後から作られた法律によって過去までさかのぼり処罰されることはないとされている。

法律が制定後にしか処罰の対象とはならないのは憲法も実行のときに違法であった行為については

刑事責任を問われないとしていることにも根拠があるからだ。

路上禁煙ルールは慣習としては昔から誰も歓迎するどころか、

通行者に不安を抱かせる常識外の行為とは認識されていたが、

だからと言って現在から過去にさかのぼって処罰されるようなことがあっては安心して我々は社会生活を送ることはできない。

路上喫煙を禁止する条例が公布された後でしか我々は罰せられることはないし、

例えば過去にその場所で歩き煙草をしたことがあるからといって、現在や未来に罰せられることはないのである。

類推解釈の禁止も罪刑法定主義には含まれており、

人を裁く側が成文法を都合よく類推解釈して誰かを処罰することはできないとしている。

路上喫煙禁止は公共の道路での喫煙が処罰の対象となるが、

例えば私有の道路も同じ道路は道路であるから処罰の対象になる、と類推適用して処罰されることはないということである。

類推することはあっても、こと刑法においては明文化されていない限り刑罰は適用されないのである。

また、国家によるゆき過ぎた権力行使を抑制し、人権を守るための盾となっているのが罪刑法定主義なのである。

「身分から契約へ」という言葉は、19世紀にイギリス人のローマ法学者・メインが『古代法』の中で唱えた法の進化の一般原則である。

原始生活において人間は社会的身分を土台にして生活をすることで

秩序が保たれているため、法や人権についての意識が薄く、人々は閉鎖的な傾向にあった。

近代になり工業化と個人主義が台頭し、社会が成熟してきてことによって

個人個人が自己の判断と意思の元に自由な契約を交わすようになる。

このことが近代社会の法秩序形成につながり、社会が活動的なものになってゆくのだ。

このメインの考え方も19世紀の経済的自由主義の下では妥当に見えたが、

社会法の発達した現代ではにわかに適用しがたくなっているということもある。

昔は人の属性に従って社会の中で地位や役割が決まっていた。

日本でも江戸時代には武士の子は武士、商人の子は商人、と士農工商制度では

親の仕事がそのまま子供の仕事になると決まっていて、生まれたとき死ぬときまで人はそれに従って生活をしていた。

その身分を飛び越えて違う社会に出る余地はなかったのである。

しかし現代では誰も平等に職業選択の自由が認められており、男女平等も法律で定められている。

人々は自分の意思で行きたい学校に行き、自分の能力によって好きな仕事を選ぶことができるようになっているのである。

昔の社会では身分がその人の権利と義務を自動的に決めていたが、

現代にもまだ残るこの身分の考え方としては、夫婦関係であったり、

親族法・相続法における権利や財産の分配などではないだろうか。

現代人である我々が何か自己の要求を満たそうとするときは、

江戸時代のように身分相応のものを選択の余地がないまま自動的に選ぶのではない。

二当事者間が互いの合意の元の条件で成立される法律行為、

すなわち「契約」を交わすことで要求を実現し、「契約」によって人の間に権利と義務を生じさせている。

最早生来の身分制度ではなく、個人が自分の意思で

取り交わす「契約」によって我々の生活が成り立ち、社会が動いている時代になっているのだ。




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