――「一枚の絵」を見つけたときにはつい足が止まる。
「絵」になっているその風景の強烈な美しさが私の感性に直結してしまったような感銘を受け、
そんな神々しい芸術にめぐり逢うことが叶うたびに私は
(決してその犯しがたい美を損なわないという絶対第一条件のもとで)
その風景をできる限り傍観することを心から欲する。
加えてその美しい「一枚の絵」に永遠の命が与えられんことを
つい無意識のうちに何か、何者かに祈ってしまう。
非常に敬虔な心持ちでうやうやしくその偉人と
(自分が何の役も果たせないときは必要なだけの距離を置いて)
接しつづけるようなよき芸術の一理解者であろうと私は願い続けてきた。
ありとあらゆる美に対しては私の感性が勝手に一人歩きするようだ。
——私の感性は私のものにして私のものではない
――そう痛感せずにはいられないときが多々ある。
そして——この感性こそが自然体な本当の自分自身、
全ての余計な俗事を排除した真の私そのものだ。
「一枚の絵」の命は短い。
ほんの一瞬で鮮明に浮かび上がってきては次の一瞬に自らを永遠に崩してしまっている。
そんな瞬間の芸術であり、少し話がそれるが、絵画・写真という芸術部門は
紛れもなくこの瞬間美をつかもうとしているのだと私には思えて仕方がない。
それだけにその瞬時の輝きを見逃さぬよう、
ひとつでも多くその瞬時の輝きを見出すことができるように
目に入るものごと全てに自分から心を開き、プラスにとらえ、ロマンティックに読み取る必要がある。
きっとそこから「一枚の絵」は見えてくるはずだ。
そしてそのあまりの短命さゆえに私は「永遠の命」を与えたくなるのだ。
まずその瞬間の美を一瞬で心に「一枚の絵」としてしっかり焼き付ける。
現実どうりの「絵」としてではなく私の想像力が加わることにより私らしく変化がつくのが通例だ。
こうして改めて創りあげられたぼんやりとしたイメージの「一枚の絵」は
私なりの芸術的価値を持ち、こと私自身に対しては極に至るほどの魅力的な芸術となる。
その素敵な素敵な元の「一枚の絵」を他の誰かと共有しようとし、
その感動を伝えようとしても、それは今までの自分の過去全てを
誰かに完全に理解させようとする悪魔的な試みのごとく、到底叶うことではない。
何故人は自分の見てきた「一枚の絵」を自分だけのうちでは満足せず、
他人へ口をすべらせてしまうのか?
結局それはすでに答えの出ている
「一人では誰もが生きていけないから」というところに行きついてしまうのか?
己の心をさぐってみよう。
このあまりに本能的な欲求に明白な言葉としての答えを出してみよう。
他人の承認がなくては生きてゆけぬ人の弱さか?
他人と感動を分かち合おうとする人の美しさか?
「その理由は個人により様々だ」という逃げじみた大衆の答えはいらない。
だが――やはり答えはひとつ、初めから出ているアレだろう。
それしかない。ひどく抽象的な言葉ではあるが。
いくら考えてもこれしか――思い浮かばないのだ。
すなわち――「誰もが心の寄り所を必要とするから」。
それはごく自然なエゴ、ごく自然なプライドであり、
その後に「芸術」なんかはついてまわる。
――答えの進展はなかった。
私に今言えることは――自分の生きる過程で得てきたものごとを他人に伝え、
認められようとすることは人間の本能、それが人生だ――そんな曖昧な言葉でしかない。
とにかく、伝えたいのだ。もっと言えば伝えなくては生きてゆけないのだ。
自分の見てきたものの感動を自分に最も近い距離のかけがえのない人間に
伝えなくてはならない必要が人にはあるのだ。
そう、伝えなくてはならないのだ。
究極の理想としてはその「一枚の絵」を100%同じく見せてあげたい。
しかし、それは100%不可能だ。
1%でも欠けるのならその本物の100%の「一枚の絵」の真意も崩れてしまう恐れがある。
そして1%でも欠けたものなら無理をして他の人間に見せる価値など全くない。
ならば何か他の手段で、何か別の方法でその「美」を伝えるべきなのだ!
ではこの私もその「一枚の絵」をそのまま絵画として、
写真として表現しその誰かに伝えるべきなのか?
――私の場合はそれでは何かが違う。
私の場合は何かが違うのだ。では、どうやって?
現実の「一枚の絵」だけを永遠に見つめようとする人間はあまり賢いとはいえない。
あくまでそれは盛者必衰の理をなす、形のないものだから。
そしてそれだけにその栄光の一瞬が貴い。
私はあまり見過ぎないように去る。だって裏切られたくはないから。
そして私はその生命の火花が散る瞬間を永遠に活かす。
一瞥をくれて次の瞬間には忘れ去ってしまう人間と脳裏に永遠に生かし続けることができる人間
――私の感性で大別すればそんな二つの人間分類になる。
では、どうやって永遠の命を吹き込むのか?
どのようにしてその感動を自分以外の誰かに伝えるのか?
そして――その際にそのまま伝えようとするのならば、
それはあまりに何の新味のない、愚にもつかない繰り返しではないのか?
つまり、伝え手の感性を通し「アレンジ」することが何よりも大切なことであり、
自分の胸の内だけにしまっておくことができない人間が「伝え手」となることに
求められる当然な「条件」だ。
音楽に生きる人は向き合うものごと全てが「音」として心に映るという。
同じく旅行業に従事する人は全てを旅行業に関連させ見てしまうという。
恋をしている人は全てを恋の延長線上にとらえ、
哀しみに暮れている人は哀しみだけに見えてしまう。
職業病というか、人間性の習慣というか――。
――いずれもそれが個の真実。大いに結構。
ならば私には、その奥を相手の想像力(創造力)に任せる「言葉の芸術」で——でしかない。
自分自身が「一枚の絵」となってみよう。
そしてそこでどんな感情が湧き上がってくるのかを試してみよう。
「一枚の絵」となるためには幾つかの「資格」が要求されるが、
ここでは私がその「資格」を満たしているひと風景を例に取り上げてみるとする。
――分かっているとは思うが老婆心からひとつ付け足しておく。
私のこのひと風景に「資格」を得ることができない人も、
全く違う、そして私には「資格」がないだろう別の美しいひと風景を持っているのだ。
この世の中は——不完全なものでも成り立っている。
全てにおいて完全であろうとして幸せを逃すような生き方をして欲しくはないものだ――。
人を楽しませる、あるいはそれぞれの今後に何か役立てるものを伝える
「一枚の絵」となるためのエンターテインメント、自分にしかできない役を演じよう。
もしそれが自分では決して英雄になることができない「一枚の絵」なのならば
一歩退いて、役を演じることができるほかの誰かを先に通し、
自分は鑑賞する側に回るのが最も美しい。下衆な嫉妬などはやめておこう。
自分のまぶしすぎる美点を棚に上げて自らを虚構の闇に追いやってしまわぬように。
この場所が私に「一枚の絵」になることを許されたところ。
他の場面にも「偶然」で創り出す傑作の可能性はもちろんあるが、
この場所ではまず「必然」として私に機会が与えられる。
そこは小高い丘。立てば眼前に私の育った街の風景が一望のもとに広がる。
地平線とまではいかないがかなり先まで(曇り空かスモッグに溶け込んで)見渡すことができる。
懐かしの校舎・川・橋・店・家・公園――
忘れかけた自分史を語らせればやはり長い物語となる。
私の育った街。私を見守り続けてくれていた街。
私はこの街の風景とならば会話もできる。
何故ならばこの場所とは私がそれこそ自分の意志で行動していなかった子供の頃、
天から与えられた翼に揺られて生きていたあの頃からの仲間付き合いだから。
ただ口を開け、瞳を裸にして景色を見つめていたあの頃とは違い、
今は立派な「大人の会話」で二人の仲はつながっている。
そんな由緒あるこの場所で「一枚の絵」を完成することができるとはこの上ない喜びだ。
丘の頂には立ち入り禁止地帯がもったいなくもある(こんな素敵な場所なのに!
――まぁ、そのお陰で私の独占庭園に近くなっているのだが。
私の「一枚の絵」――立ち入り禁止地帯を示すフェンスに腰かけ、
レモンティーの缶を共に一人で遠くを見つめて煙草をくゆらせる
――ただそれだけでいい。それだけで充分なのだ。
黒と白という純粋な色の服に身を包んだ若い男がたった一人フェンスに腰かけ、
広がる景色を物憂いそうに遠くにらめつけて煙草をふかしているのだ。
坂の下にはちょっと眺めが良いことで知られる車道と散歩道が通っている。
絶妙な距離と角度を保ったそこから創り手以外の人は鑑賞することになるのだ。
腰かけている私の全身は全て視界に入る。
どちらからも丘の上にいる私を見上げる角度になる。
そしてこの距離からでは私の顔をはっきりとは見ることができない。
――それでいい、逆にそれが受け手に恐怖と現実感を与えない絶妙なもの。
そして私の体型は外から見ても絶対に醜くないほどよい痩せ型。
太っている人や年配の方ではこの「絵」の意図と合わない。
できれば若い男性、煙草もあった方が良い。
あぁ、これは私だけの美感覚であろうか、
とにかくだいたいの姿で「絵」になっていればいいだけなのだ。
音楽でいえば「ロック」――完璧な「絵」などいらないのだ。
私のすることはただそれだけ。ただこの場所に座り煙草を吸う――ただそれだけ。
しかしこれこそが完成された「一枚の絵」。
実際にその「絵」を見なくては感動は、美は伝わらないであろうか?
元々、「一枚の絵」に大掛かりなものはそれほど必要とはされていないのだ。
ただ、全宇宙で行われているありとあらゆる美の競演のなかに
何かしら個性を持ったものを演じることができればいいのだ。
ただ自分だけの美を、見せればいい。
私に与えられた能力で最大限にできるのは、私にその「資格」があるのはこの「絵」なのだ。
私がそれ以上手を加えなくても他の誰か、何かがさらに色を添えてくれる。
例えば今の時季には私の周りで清涼な白ツツジが咲き誇る。
彼らに囲まれた私の「絵」の美しさはいかんばかりであろうか。
また、この丘からは日の落ちるショー・タイムも特等席で楽しむことができる。
黄昏を見つめながらフェンスに腰かける白面の一青年は
一体何を想っているのか――という味も加わる。
夜には月灯かりに映えたシルエットだけが映し出される。
下から見たらそのシルエットの背景に月が浮かんでいる、と想像してごらんなさい。
一体誰がそれを「一枚の絵」ではないと思うでしょうか?
春の眩しい陽射しに輝いているとき、夏の涼しい夜のシルエット、
秋のほどよく疲れた黄昏、冬の澄みきった空気ではっきり遠くに見える雪化粧の山並み。
四季の美も、気候・自然・時間などの美も私の「絵」に色を加え、
そして読み取り手の心境・性格・そのときの気分などで
各々に全く違う印象を植えつけることになる。
あの鑑賞者はこう感じたのだろう、この読み手はきっとこう思った
――など私も想像を巡らせては全く飽きることがない。
どんな「絵」も各自の色に染められて読み取られるのだ。
私がこの「役」を演じている間には幾人かの素晴らしい人たちに出逢った。
真っ黒な愛犬に合わせた黒づくめの服で見事な「絵」を見せていた飼い主兼芸術家。
このささやかではあるが立派な芸術家には私の美学に通じるものがあった。
散歩道を穏やかな微笑みを浮かべて歩いている老夫婦は
私の「絵」を認めて私に親し気な微笑みを向け、手を振ってきた。
そういった喜ばしい受け手に感謝の意をこめ私が手を振り返したのはいうまでもない。
一瞬「一枚の絵」は崩れたが、もちろん何のためらいもなかった。
同じように私の「絵」に対し素敵な素敵な笑顔をくれた人がいた。
それは車道を通っていた車の運転手で、
私が覚えているイメージの限りではちょっと素敵な美人だった。
この「絵」の役を演じているときに禁じられている
車の中の人間を覗き込むことを私が珍しくしていたとき、
なんとも気まずい具合に思い切りその人と目が合ってしまった。
これで現実を離れた美しさのある「一枚の絵」は崩れた、
と私が少し反省しかけたとき、
なんとその人は私の知っている笑顔全てにおいても絶品と言い切ることのできる
素敵な素敵な笑顔をほんの一瞬だけだが私に投げかけた。
それは醜いものをはね返すようななんとも華のある表情だった。
そしてすぐにその人は前を向いてしまい、車は通り過ぎてしまった。
今でもはっきり覚えている、なんて素敵な笑顔だったのだろう!
その人の美感覚は私の「絵」を受け入れてくれた。
一瞬ではあったが永遠の知己と私たちはなった。
そう、一瞬ではあったがひまわりが太陽に向けて見せるような素敵な明るい笑顔だった。
また、深夜にここでギターを弾いている人もいた。
そのギターの音はどこまでも優しく、そのまま乱れることがなかった。
私は思わずその「一枚の絵」の鑑賞の立場にまわり、
その人の人物像と一体何を想っているのだろう、ということに
想いを巡らせずにはいられなかった。
あとは自然の美しさ。それを借りて「一枚の絵」を創り上げ他の人に見せるはずが、
肝心な私がまず自然の美しさに魅せられ、
役を演じるのも忘れてしまっていたときが沢山ある。
空のあちこちで競演するようにさえずる小鳥たちの歌。
緑の木や草花を揺らす優しい風。穏やかな風に揺り動く緑の草木。
街並みを灰色に煙らせる雨。静かに白く染めてゆく雪。
疲れきった太陽の最後の仕事――黄昏。
夜の灯りの月の幾つもの表情。朝もやの清涼感。筋肉美に似た山並みの線。
草の匂い。雲の形。花の色。――もう全て。
では、自分が「一枚の絵」となるときの心境とはどのようなものか?
何故「一枚の絵」になる必要があるのか、という説明は後ほどすることとして、
自分の芸術を見てもらうことの喜びとはどんなところにあるのか?
まずは一人のちっぽけな、所詮誰かがいなくては生きてゆけない
弱いひとりの人間の基本的な願望である「認められたい」というものがうずく。
最終的に自己満足だけで終えようとする創作も人生も絶対に有り得ないと私は思う。
自分の「生」の確証を何かに永遠に刻みつけようとする行為は
人間としてあまりに当然なものだ。
そういった欲求や必要をおぼえない人は、それこそ仙人になれるに違いない。
そして何よりも気分がいい。
楽しいからこそこの何時間も費やすことを何回と続けることができているのだろう。
純粋に自分が創ったものを他の人間に見てもらうこと、
見る側の反応を想像を加えてこちらからも見ること。
いつも見る一方の立場ではなくこの私も「一枚の絵」の競演に参加しているのだ、という意識。
それはどこか恩返しに似ている。また、人に風流の心を教育しているようでもある。
自己顕示欲というよりも自分が本当にロマンティックなものを愛しているという実感を
その瞬間には照れずに得ることができる。
その他にも細かく言えばフェンスの上から見る
ささやかな人間や自然のドラマにも楽しさが、
ごくまれには素晴らしく美しい傑作も見出すことができるし、
自分の育った街にいつかの記憶への想いをはせることも悪くはない。
何かいつもとは逆にこの街をこの私が見守っているような気持ちになるのも
人に愛を分け与えているようで、自己実現が少し叶ったようで嬉しい。
風を頬に受けながらただぼんやりと夢想するのだって滅多にない快楽であるし。
この機会によくよくこの複雑な欲求の固まりにメスを入れ考えてみれば、
私をこの場所へと自然に足を運ばせる最大のものは
次の言葉で表すことができると思う。
――大切な人にもなかなか伝えることができなく、
ましてや「話し言葉」なんかでは歪められてしまいそうでできないこと
――つまりは、照れずに、何のためらいも不自然もなく
自分の外に伝えることができる理想的な愛の交歓。
そう、私は自分を「一枚の絵」とすることで俗事に必ずつきまとう
(絶対にそうはいくはずはないくせに心底から投げ捨ててしまいたいと叫ぶ)
躊躇・遠慮という、素直な感情にとっては
全くくだらない奥ゆかしさなどというものから
隔離された位置で実に理想的な、裸の、そして情熱的な愛を
自分の(「一枚の絵」の)美しさと交わしているのだ。
現実などでは決して成就することができない愛――
眠りの中に想い描く自分の願望・理想そのものであるゆめのような恋
――あぁ、なんとも恍惚的な、美しい世界だ――。
どんな恋人にだろうと昼間では、この世では伝えることができない愛の言葉だろうと
そこでは何の不自然もなしにささやくことができる。
――しかも、必ず私の愛に応えてくれるのだ!
一人で愛を夢想しているだけではないのだ、
私と同じようにためらいがない愛を全身から放つ
私のような相手が必ずそこにいるのだ!
どんな恋人にも求めることができない非現実的な私の愛の受容を
この「一枚の絵」のなかでは絶対に裏切られもせず求めることができるのだ!!
――これが理想的な愛の交歓でなくてどうしようか。
「一枚の絵」とはあまりに美しいもの――。
さて。偉そうなことばかり述べたがここで「一枚の絵」についての
私の最大の悩みを聞いていただこうと思う。
私は妙なところで義理堅い人間だ。
一言でいえば「誠実さ」に対しては人一倍義理堅い人間だ。
何か素敵なことをしてもらったら、その倍くらいの素敵なことで恩返しをしなくては
気が済まなく、そして自分で納得がゆくお返しをするまでは
そのことが決して頭から離れない。
一般的な「相手に悪いから」という理論なんかではなく
「自分が許せないから」という個人的に歪みのある理由でだ。
そしてその分、その気持ちは強い。
「一枚の絵」を見ることの「権利」と「義務」――これだ。
つまり、「一枚の絵」を自分が鑑賞する立場になることには
何ひとつとして必要とされる「資格」などない。
例えば「一枚の絵」を見つけてそこでその「絵」を壊そう、
と思い立った下衆で無粋な輩がいたとしよう。
その美しさを一人占めしたくてその「一枚の絵」を
実際そこで壊したとしても、それはそれで真実だ。
壊される前にその人間に発見された瞬間、
その「一枚の絵」は永遠の命として成立したのだから。
そこで壊されるのも真実。壊されずに今しばらくその形をとどめるのも真実。
一瞬に永遠の命を得る「一枚の絵」にはそんなこと関係ないのだから。
その点私は理想的な鑑賞者だ(と思う)。
私からその「絵」を崩そうなどとは露にも思わず、
その「絵」のためならば私ごときを犠牲とするのも辞さなかった。
少し離れた位置で静かに鑑賞する。
その「絵」の繊細な美のひとつの線をも汚したりはしない。
逆に私がその美しさを増すことが出来る場合には
つい体が動いてしまい手を加えてしまっていたほどだ。
他の方には別の意見があろうが私はこの態度が一番だと思っている。
しかし、「義務」のほうになると――。全く私は駄目だ。何もできていない。
全然足りない。私は身勝手なただの消費者にしか過ぎない――。
確かに先ほどまで説明していた私の「一枚の絵」は
それなりの意味と美しさをもってこの世に存在している。
それは事実、私も拳を握り締めて認める。
だが、思ってもみたまえ――。
この後に長々と説明しようと思うが、この世の中に存在する限りない数の、
果てしないスケールの、言葉を超える美しさを有する「一枚の絵」のことを――。
一枚一枚が独創的で魅力的な美をたたえては私の目に登場してくれる。
私が生まれたときから、もう一体どのくらいの数の、
どのくらいの美しさの「一枚の絵」が私の生きる糧となってきてくれたことか!
――それだけ絶大な数と美しさの「一枚の絵」に育てられてきた私が
今現在できているのはたったひとつきり、たったひとつのあの「一枚の絵」だけ。
全く釣り合いがとれていないではないか!
「一枚の絵」を見る「権利」ばかりを行使して、
「一枚の絵」を他の人に見せる「義務」を全く果たしていないのがこの私。
こうなればもう「義理堅い人間」などと自分のことを誉めてもいられやしない。
私はただの搾取人間。ただのひとりよがりの男――。
――そういう罪悪感が常に私の心につきまとう。
この頃では「一枚の絵」にめぐり逢うのが結構つらい。
見つけた最初の瞬間はいい。
だってただその美しさに感動していればいいのだから。
しかしその「絵」がしばらく成立し続けてしまうと、つらくなる。
心の奥からこの罪悪感が頭を持ち上げてくる。
そしていつの間にか「感動」の心に占める割合が
「罪悪感」の闇一色に塗りつぶされてしまうことになるのだ。
だから私は「一枚の絵」に出逢うたびこの頃では
心に痛みを抱えてくることになってしまっている。
——なのに、私が「権利」に見合うだけの「義務」を果たせるということは、皆無だ。
「義務」すら果たせないくせに私は何をここに説明しようとしているのだろう?
私は完全に自分で「権利」に見合うだけの「義務」を果たしていないことを認めた。
だが、そんな私でも今までの人生で見つけた数々の「一枚の絵」の美しさを
この世に伝えておきたいのだ。
「義務」を果たしきれていない人間だろうが「読み手」としての
「一枚の絵」に対する想いを吐き出しておこうと思うのだ。
「創り手」としては実力不足の私の罪の償いととらえてくれても構わない。
もうこうなればせめてこのくらいのことをしておかなくては
世の「一枚の絵」から追放されかねない、と私は恐れているのだから。
では、自分自身が「一枚の絵」の鑑賞者となってみよう。
そしてそこでどんな感情が湧き上がってくるのかを試してみよう。
まずは分かりやすいものからいこう。純粋に誰もが思う美しいものだ。
自然の景色はその最たるもの。景観が美しいといわれる高原などはどうか。
基本的にその美を創り出しているものは幾種もの緑色の使い分けと
起伏のメリハリ、そして空との境界線だ。
配色の妙・配置の妙・配線の妙――大切なのはその「間」というか「調和」だろう。
そんないわば単純なことが(あるいはその単純さのゆえに)
限りなく100%に近い人間に「一枚の絵」を無意識に連想させる。
自然の芸術は凄い。
そんなことだけでそれほどまでの美しい「一枚の絵」を完成させるというのは
一体どんな想像力(創造力)なのだろう?
一番数が多いのは自然の「絵」であろう。
非常に分かりやすく、種類も豊富で、数としても多い。
自然それ自身だけではなく他の要素が絡む、という点では
まさに「一枚の絵」の王道、不可欠なものだ。
太陽・月・星・空・雲・風・雨・雪・海・湖・河・砂・土・山・
草・花・木・森・動物・色・光・影・線・形・角度・
味・匂い・音・温度・手触り・時間・空間・スピード・勢い・数
――などなど、そしてその全ての「調和」。
自然の造形美についてはもうこれ以上述べる必要もないだろう。
「一枚の絵」の王道。誰もが「美」を感じるもの。
誰もが愛すもの、私としても個人的に一番好きなもの。
スケールの大きな、全ての「美」の原点ともいえる。
――私は思う。自然の美しさとは、やはりそれだけではなく
他の何らかの要素と結びついてこそ
そこにそれ以上の美しさを創り上げるものでは?と。
自然美は「一枚の絵」に絶対欠かせないものであろう。
それ自体も「主役」になることができるし、
そうして素晴らしい美を生み出すこともできる。
が、その本来の意味は「引き立て役」にこそあるのでは?
純粋な自然美以外の美に慣れたものにとっては
純粋な自然美は非常に新鮮な「一枚の絵」だ。
しかし、人間社会で日常を暮らす我々としてはそうはいかない。
やはり自然美は「引き立て役」としてここはとらえておこう。
分かりやすい「一枚の絵」は数がありすぎてどれをここで出せばいいのか迷う。
まぁ、幾つかの「絵」を紹介しておこう。
天の川の灯りさえはっきり分かるほど夜空に裸のままの星たちが
鮮明に輝きを、美を競演していた人里離れた山頂の深夜、
私は車のボンネットに寝っころがり夜空を見上げていた。
流れ星さえも幾つも見ることができて
私の感動は(贅沢にも)薄まってしまっていたほど。
満月――しかしひとつの満月の絶大な美しさに劣らないほどの
無数の星たちが競うことにより生み出す強烈な美。
満月と無数の星たちの競演を目を細めて見上げていた私の視界に、
一羽の鳥のシルエットが星空を翔んで横切り
――そして満月の灯りに重なったとき、「一枚の絵」が完成した。
私が夜道、家路を急いでいると
ある家の車の上に猫が姿勢も見事に立ちあがっていて、
そして月を――美しい月を見上げていた。そこでも私の足は止まった。
標高2000mの山に登った後に足元に気をつけながら下っていたとき、
遠く下方の静かに美しい森林の一部が雲間から漏れるように流れだした
一条の太陽の光に照らしだされた。
もちろん私は雲と太陽がそれ以上場をずらさないことを願っていた。
何か、また美しいものが空から舞い降りてくるような気がしていたことを今も覚えている。
やや疲れた太陽の時間である黄昏に、世界の音を止めるオレンジ色の鈍い陽光を
全身に浴びて周りに人もいない川辺に腰かけてはるかはるか遠くを見つめている
黒服の学生らしき少年がいた。
空缶を灰皿に右手以外を決して動かさず
静かに煙草をくゆらすその悩み多き「一枚の絵」――。
陽に溶け幾らか輝きを増す豊かな黒髪が風になびく。
この少年の今考えることは――。
このような分かりやすい「一枚の絵」は数え切れないほど挙げることができるが、
そんな分かりやすい「一枚の絵」ばかりを説明するのはこの作品の趣旨からそれる。
それよりも少し個人的な「一枚の絵」のほうがここでは大切なので先を急がせてもらう。
次は「成功したミス・マッチ」とでも呼ぶべき「絵」たちだ。
幾らか可愛い気がある、愛すべき美しさがある。
日頃周囲から冗談の通じないというか、威厳ある人というか、
一枚の壁をへだてているとっつきにくい堅物と思われている男性が、
ある日丸いバンソコウを(可愛くも)頬に貼ってきた。
話すことが特になくて仕方なくそのことを口にした人にその男性が
いつも通りのゴツい口調で答えた次の言葉――「猫に引っかかれた」――
そのとき、その丸いバンソコウと言葉の後に見せた小さな照れの微笑みに
――「一枚の絵」がやはり創り上げられた。
完全な都会のド真ん中。
高層ビル群を背にして(無駄なあがきのような、間に合わせの言い訳のような)
ささやかな自然公園がある。
公園の真ん中を占める人工池を一望するため
小高い丘を上がりきって池を見下ろすと
——また一瞬、時が止まった。
高層ビル群を背景に都市の谷間のわずかな自然を
完全に支配する黒鳥たちの「成功したミス・マッチング」。
池の中心の島の木に黒い鳥たちが幾羽も幾羽も止まっていて
完全にその自然の風景を占拠していたのだ。
言い訳の自然と言い訳の鳥——実りはしない「抵抗」を連想させたが、
それなりの強烈に独創的な美しさがあった。
自分よりも大きい体をした犬を散歩させている痩せた初老の男性がいた。
――というよりもその大きな犬に逆に散歩されている、
という見事な「成功ミス・マッチング」の「一枚の絵」——どうであろう?
そして、その犬が小さく可愛い猫のように寝っころがり
男性のブラシの愛撫にその巨大な体をまかせている。
これもまた何とも微笑ましい「ミス・マッチングの成功作」。
二重の「成功したミス・マッチング」というべき美しい「一枚の絵」――どうであろうか?
また、分かりやすい「絵」と「成功したミス・マッチング」が共演した作品も非常に美しいもの。
それを次に挙げる。
木漏れ日も涼し気な山中のトレッキング・ロードを
一人の小さな男の子とその父親らしき男性が少し距離をあけながら歩いていた。
まだ足の長さも父親の半分にも満たない男の子は早足に勇ましく先行している。
父親はどこにでもいるような服装と顔の中年のお父さんで、
散歩よりも遅いペースで気ままな足どりで歩き、そして何かニヤけている。
――急に父親がペースを上げ男の子に迫った!
すると男の子は後も振り返らず耳で察知したのか短い足を駆使してさらに足を早め、
さもそれが自分の当然なペースであるかのように歩き続ける。
――父親は頬と口元を思いきり緩ませた。
声では笑っていないが顔全体で歳に合わない無邪気な微笑みの表情を見せた。
男の子は早足で(耳を立てながら)父親の前方を歩き続ける。
言葉も二人の間にはない。たまに退屈になると父親はペースを上げる。
男の子が疲れてペースを乱れ気味にすれば父親は息を切らしたような呼吸をつくり、
もっとペースを落とす。そして父親から休憩の誘いをかける。
――その繰り返し。
小サイズの登山装備を勇ましくも可愛く着こなした男の子が
一人黙々と歩く姿は純粋に美しい「一枚の絵」。
自分の子供を優しく見守りながら密かに心から微笑むパパは「成功したミス・マッチ」。
その二人を端から見れば――何とも素敵な「一枚の絵」でしょう。
赤ちゃんの瞳も両方だと思う。
思考を無視して「同じ生き物としての本能」だけで何とも分かり合おうと裸の瞳で全てを見る。
その大きな瞳は見るだけで美しい。いつでも「絵」になる。
しかし、赤ちゃんの周囲の社会的なものを考えれば「成功したミス・マッチング」のような
――何とも決め難い。
その理屈でいけば、動物園でちょっとためらいながらもキレイにはしゃぐ年上の女の子
――も両方を兼ね備えた美しい「一枚の絵」だ。
次。さて、いきなりだが私は「一枚の絵」の完成のためならば
少しぐらいの悪や罪は許されるべきだとあえてここに声を大にして主張する。
最低限のモラルさえ維持していれば(時にはモラルさえ全て無視してもOK)「一枚の絵」
――ひいては「美」に関しては誰もが法律となることができる。
そもそも美醜と善悪とはその範疇を全く異にするものだからだ。
その線で私が私のルールに忠実に行動したことも教えてしまおう。
――「失敗した一枚の絵」だけは絶対に許すことができないのだ、私の感性は。
当然それが間違っていたら美しく直す――
これは「一枚の絵」の鑑賞者の「義務」のひとつだと私は思う。
可愛い少女が犬の散歩をしていた。
振り回すのでもなく振り回されるのでもなく、
仲良く楽しそうに春の淡い陽射しを受けて緑の湖畔を歩いていた。
私は――(アブない人間ではないが)その美しさ、
「一枚の絵」を今しばらく見守りたいがため、純粋な「美の追求」のために
その後を充分な距離をあけて尾けていた。
心地よい散歩。春風に吹かれる草花のような涼しさ。
美しい「一枚の絵」。私はその美しさに酔っていた。
――しかし!なんとこともあろうにそこに重大で明らかなミスが生じた!
なんと可愛い女の子がその犬の(あまりキレイではない)フンを拾いだしたのだ!!
――私は思わず走ってその女の子との距離を縮め、こう乱暴に言ってのけた。
「そんなことしちゃ「一枚の絵」にならねーだろ!俺がやる!!」
そう言い放ちながら少女の手にあるビニール袋を奪い取ろうとした、当然な「義務」として。
なのに!なのにそのごく普通なことをした私に向かい犬は(不条理にも)吠えたて、
女の子は(恩も忘れて)奇声をあげ変な人間にでも出くわしたかのように
全て投げ棄てて逃げ去ってしまった。
取り残されたのは犬に吠えたてられる私一人だけ。
全て何故か崩れてしまったのだ。
その時考えても今考えてもこれは絶対におかしい。
絶対に歪んでいた、その女の子と犬は。
もうひとつ、これは完全に私の不徳のいたすところであるがまたおかしいことがあった。
月がその形といいその色といいまさに「オレンジ」と思わせる美しい夜、
私はその「オレンジ」が空に翔び上がってゆく姿を
一人で川辺の公園の芝生の上に寝そべりぼんやりと眺めていた。
――やはり、月とはこの世で最高のロマンティックの象徴――
と私は何時間も何時間もその美しさを愛で、目での愛撫を繰り返していた。
いつまでも、いつまでも――。そして私の心もその「オレンジ」に負けないくらい
ロマンティックとなり、実にその頂点に達したとき、私はふと目が覚めた。
——なんで私はこんなに美しい「一枚の絵」を一人で見ているのだ!!
私の体も凄い勢いで跳ね起きた。
そして人通りのある市街地の方向へ猛然と駆け出した!
頭の中で狂暴な血が駆け回っていた。
私は、最初に出くわした素敵な若い女性に狂おしい勢いで近付いてその腕を引っ張り、
こう乱暴に言ってのけた。
「来い!一人じゃ「絵」にならねぇ!!」
私は周囲の人間に乱暴に突き飛ばされ、
警察への通報をされた時点でハッ、と我に返った。
そして私を取り囲んでいた幾人かを振り切ると
自分の心の中に生まれた自分への恥ずかしさから逃げのびるように
車道の中央を走り出していた。
あぁ、なんと血迷ったことを——。あんな知らない女では意味がないではないか。
さらってくるなら心のつながっている女でなくては駄目ではないか!!
あぁ、私としたことが――。
――この通り、これは私の不徳のいたすところの出来事であった。
――さて。次からいくらか込み入ったものになってくる。
少々分かりずらいかもしれない。
だが、それも間違いなく美しい「一枚の絵」になっているので是非想像してみて欲しい。
「間」というものだ。
ひとつのシーンから次のシーンに変わるときに現れる本当に瞬間の「間」だ。
それ以前に全力を傾けていたひとシーンを終え、
次の新たなシーンに向かう間の本当にわずかな隙間の「一枚の絵」。
ひとつのものごとを破壊に陥れ、そして再生へと導く瞬間と瞬間の谷間、
とでも呼ぶべきまさに一瞬の「一枚の絵」だ。
この「絵」の特徴としては「スピード」がある。
まれに緩やかなものもあるが、大部分では
この「一枚の絵」では「スピード感」を楽しむことができる。
ほんの一瞬の「絵」なのだから、沈黙というか呼吸の隙間というか、
とにかく絶対に見逃したくはない「絵」だ。
全情熱を込めての演奏中に全てを「切る」がごとく一瞬に音を全て止め、
そして次の瞬間に再び今まで通り演奏する、というシーンでのほんの一瞬、
全てが完全に停止する、という「一枚の絵」。
あるいは幾つも幾つも伏線とも呼ぶべき長い長いストーリーを経て
ついに全感情を開放・爆発させるというギターソロへ入った直後の極限の瞬間美。
ダンサーがその全身、指や髪の隅々まで全てを表現のための術として使い、
やはりその一瞬の表現と表現との一瞬の隙間の息をもつかさぬ鋭い瞬間美。
「静」をベースとして、「動」はほんの一瞬でいいのだ
——とまるで人生の教訓にもつながるような技の応酬の「間」。
「間」の美でいけば落語はその王者である。
自分と客との見えない「呼吸」の「間」をつかんで自分の話に引き込む「間」の技術は
深くつっこめばはかりしれないものがある。
このように、「間」の美とは自分と相手を自分の創造した世界に
全く同じくつからせてしまうことにある。
その「間」のタイミングとは言葉ごときでは決して表せず、
その独特の「間」の体得者のみが生み出すことのできる「一枚の絵」である。
「調和」とは似て否なる感性が必要とされると私は思う。
――これも美しい。美しい。
それまでの人生で「人生の目標」として努力し、そしてついにそれを見事に成功に収めて
周りの人間たちに認められたときの「栄光」は「一枚の絵」か?
――これは未だはっきりしていない、よく分からない。
確かに他人が認められている姿は素晴らしい「一枚の絵」になっている。
その人間の栄光の瞬間であり、私にはその人の顔に
「人生の勢い」という美しい光が射し込んでいるのが見える。
そう、見る側からは光のある「一枚の絵」とはしても
――自分がその栄光を受ける立場になるとそんな実感は破片ほどもない。
確かに誰かに自分が情熱を傾けて温めてきたものを
認められるのは嬉しいことだが、だからといって認めてくれる相手が
「一枚の絵」になっていた試しは(凄いモノを抜かせば)全くない。
「一枚の絵」の美しさ、というよりもただ純粋に嬉しい。
「絵」だの美だのを忘れていつも素直に喜んでいる自分がいた。
結論としては、鑑賞する側としては光のある「一枚の絵」となるが
自分が認められる番になっても嬉しさのほうが純粋に先行して
「一枚の絵」のことなど考えられていない。
大恩ある「一枚の絵」のことも忘れて個人的な嬉しさに没頭しているそんな姿では
他の人に何かを分け与える「一枚の絵」となる可能性もないのだ。
他人のは美しいがこの私のはその時に「一枚の絵」のことなどすでに頭になく、
ただ自分で嬉しさにひたりきっているだけ。
そんな私が他の人のように「一枚の絵」になることはない
――とまぁ、そういうわけだ。少し残念でもある。
美しいものはこの世界に一体幾つくらいあるというのだろう?
一体幾つものドラマがこの瞬間に生まれているのだろう?
――そんなありとあらゆる趣のある美しさのなかで
私が個人的に非常に羨望のまなざしで見つめてしまうものがひとつある。
これは他のどの美しいものと比べても「うらやましさ」の度が高い。
真面目な話、私の今までとこれからの全てを捨ててまでも
それを手に入れたいと思うものなのだ。
それは、鳥が空を自由自在に翔ぶ姿。すなわち、私は空が翔びたい――。
もしも夕闇の鳥のシルエットのように雄大に天空を翔び回ることができるのなら、
私は人間を辞めてもいい。「一枚の絵」へのこだわりさえ捨ててしまってもいい。
事前に知らされずに残り三日の命となろうとも神を怨んだりはしない。
人間とはいいものだ。
他のどの生き物と比べても損をしたという気はしないぐらい恵まれた生き物だと思う、
鳥のごとき翼がないこと以外は。
何故神は「言葉」と「翼」を同居させなかったのだ?!
「翼」さえ加えてもらえるのなら手先の器用さも肉体の美しさも
知恵の豊かさもその代償としてお返しするのに!
人間にはここまでの便利な能力を幾つも与えておきながら空を翔ぶ、
というひとつの肝心な能力を与えておかなかったのだ!!
鳥たちが空を翔ぶ姿は美しい。私は心からその美を妬む。
本気で言わせてもらう、空を自由に翔べる能力をこの私に与えてくださるのなら、
私は「一枚の絵」――ひいてはありとあらゆる美に対しての「権利」を全て放棄する、と。
私はある女性(彼女の美しい大きな瞳ならば本当に空が翔べるような気がしていた)に
このことを全部ではないがぶつけてみたことがある。
その時彼女は言った――それは、「ないものねだり」だよ——と。
私は深刻な顔をして苦悩していた。
そうか――だが、――やはり空が翔びたい。
「ないものねだり」とは事実、的を射た指摘なのかもしれない。
冷たく、翼なんて所詮無理、とどこかで見下しているような、
あるいは本当にそうなってしまったらそれはそれで困ってしまう、
という矛盾の嵐の夢想のような――「もしも」の話だ。
だが、私は夢想する。私のこの身が鳥となり自由に大空を翔び回れるのならば
もう「権利」に対する「義務」が足りない、などとゴチャゴチャ悩むこともなく、
純粋な「一枚の絵」の創り手として私の生涯のこだわりである「美の追求」に
もっともっと到達することができるのだろう、と。
自分の「醜さ」を今以上に気にかけることもなく純粋に
今以上の「美」のなかでその生涯をうずめることができるのだろう、と。
私はもっともっと美しいものを追い求めてゆきたい。
空を翼で翔ぶ、ということには「一枚の絵」以上の美しさがあるように思えて仕方がない。
やはり、空が翔びたい――「美の追求」のために。
さて、「一枚の絵」とはかけ離れてしまうが現実離れした美しいものが
私のみならず我々には与えられているのを我々は意識しているのか?
これの世界では自分と自分の隣にいる人が世界の主人公で、
その他全てのものごとは二人だけのために捧げられた脇役であり道具、というもの。
そう、それは「恋愛」。
歪んだ感情なんかは問題ではない。
清らかな、広い意味での愛のことをここでは話題にしている。
何の遠慮も躊躇もなしに抱き合え、愛し合うことができる相手。
いつの間にか心をすっかり盗まれ、ぽっかりと穴があいた時間には
気がつくとそのひとのことを考えてしまっている。
やっと抱き合えるときにはその恨みを果たすかのように思いきり抱き締めるが、
そのうちまた離れてしまえばなんとその抱き締めたぶんだけ
心をまた(より一層)盗まれてしまう、という愛しいひと。
――You Just Steal My Heart――
この世界では、自分たちからでは「一枚の絵」ではない。ただ純粋に美しい世界だ。
周りのものごとが「一枚の絵」を二人に見せてくれたとしても
それは二人の愛を祝福してくれているだけなのであってそれ以上の目的の「絵」ではない。
あくまで世界の主人公は自分たち二人だ。
そこでは全ての美が二人だけのためのもの。
自分たち二人も周囲の全ても「一枚の絵」になってるのではない。
ただ自分の隣にいる人が全てを美しく見せてくれているのだ。
そのゆめのような時間の二人が周りから見れば「一枚の絵」に見えるのかどうかなどは
小さな小さな、二人の美しい時間に比べればあまりに小さい問題なのであって
全く気になどかけることはない。
普段は気にも留めず素通りしてしまう場所にそのひとと歩くだけで全ては輝きだす。
二人で歩くだけで世界は違ったものになる。
これは、「一枚の絵」よりも素晴らしいことなのでは?!
「美」の面だけでいったら間違いなく恋愛こそがNO・1だ。
「一枚の絵」であるかどうかを完全に外れたところで強烈に美しい。
自分たちがその美しさの主役。二人で歩くときに「一枚の絵」を見つけた場合には
恋愛中の私から「読み手」の私に一時的に戻っていた。
いつもの理想的な鑑賞者に戻りながらもその「絵」は
二人を祝福してくれているためだけの美しさ、と感じていた。
恋愛の延長線上に見た「一枚の絵」はその美しさをも増していた。
しかし、あくまで自分たち二人が主役である。
「一枚の絵」であるかは別として、恋愛こそが最も美しいもの。
その美しさの度合いではさすがの「一枚の絵」も鈍い輝きでしかない。
恋愛は美しい。その美しさは他のものごと全てを超越している。
何よりも、その美しい世界の主役が自分たち二人である、
というところにその最高の美しさがひそむ。
恋の力は魔力。自分で決めつけた自分の限界を打ち破る。
これ以上に美しいものなど――もしあるのなら是非お目にかかりたいものだ。
恋愛とは、恋愛とは美しいもの――。
次もまた特別な美しさのあるものだ。
最も犯し難く、最も頭の下がる思いのする「一枚の絵」――それはファミリーの「絵」だ。
春の陽に汗をきらめかせながら芝生の上で
子供たちと親たちが遊んでいる姿は「一枚の絵」になっている。
特に足を止める時間が長い。
私はどちらかというと普通なものや当たり前なものを小馬鹿にしてきた観がある。
異端なもの・背徳のものを上へ上へと祭り上げていた観が(今も)ある。
だが、私はこの「一枚の絵」に足を止められてからは
そんな若すぎる思い込みを排除する方向にしている。
ごく普通の格好をしたどこにでもいるようなお父さん・お母さんがたが
元気のいい子供たちとバトミントンやキャッチボールに興じている姿。
大人同士でやっていても何の特別な楽しみもないだろうが
自分の子供とすることで特別な喜びが生まれるのだろう、
この社会のなかの日常生活での厳しい表情からは
想像もつかないぐらいにキレイな笑顔だ。
私はこの「絵」をあの山道の親子のように単なる「成功したミス・マッチ」だと思っていた。
何故特別なほど長く私の足が止まるのかはさして気になっていなかった。
だが、そんなファミリーの「一枚の絵」を幾つか見るうちに
だんだんその理由が分かってきたのだ。
それは「当たり前の幸せ」という美しさに違いない。
どう見ても普通、とりたてて何も特別なものはない。
——しかし、これこそがかけがえのないささやかな幸せであり、
私の心に知らぬうちに感動を注ぎ込んでいたものなのだ。
何よりも頭から離れない幸せだ。
一人のパパとママとなり我が子と遊ぶ普通の
(若く美しかった体もそろそろ中年の域に達し、
あまり体自体に美しさはなくなってきた現在の)
体のシルエットが子供の高い声と混ざり、なんと美しく、ほほえましく見えたことか。
そう、パパやママは子供とならどんなことをしていても「絵」になる。
一体どんな気持ちでパパやママははしゃいでいるのだろう?
我が子への愛情か?それとも完全な無邪気なのだろうか?
一人でこの「一枚の絵」を見ていた一人身の私にはあまりに美しい「絵」であった。
うらやましい。決して壊すことができない「一枚の絵」だ。
当たり前なことを馬鹿にするんじゃない、その当たり前なことに到達するのに
どれだけの年月と努力が積み重なってきたのか――と私はただ頭の下がる思いだった。
ただ一人の若輩者にしかすぎない私には所詮手の届かぬ高嶺の花であった。
社会的な無力さにため息をついて、「いつかは――」と一声残して私はその犯し難く、
頭も下がる思いのする「一枚の絵」を後にしていた。
あるとき、そういったファミリーの「一枚の絵」にまたも若さを笑われて
肩を落として歩き去っていたとき、私と良く似た思いを抱いているだろう人間に出逢った。
その初老の男性はファミリーの遊ぶ芝生からだいぶ離れたところに陣取り、
持ち込んだ椅子に腰掛けてはキャンバスに絵筆を走らせていた。
それほど近寄りはしなかったので細かくは見なかったが
その油絵には緑の芝生の上で遊ぶ小さい人影と大きな人影があった。
――私はすぐに直感した。
この老画家にも妻子、そして孫がいるのかは分からない。
だが、彼は筆を休める度に目を芝生の上の「一枚の絵」に遠く走らせ、
目を優しく細めていた。
さぞかし穏やかな状態に心をもってきていたのだろう、
私にはこの老画家にも近付くことができなかった。
何故なら彼もまた美しい「一枚の絵」になっていたから。
きっとこの老画家も私と良く似たかけがえのない美しさを
この(平凡な)ファミリーたちが遊ぶ姿に見出していたのだろう。
(私の言葉で言えば)その「一枚の絵」を
どうしてもこの世に残しておきたくて筆をとったのに違いない。
としたら彼は私の仲間だ。共感し合える美感覚の持ち主に違いない。
ならば話しかけてもいいような、悪いような――。
ただ、老画家もまた「一枚の絵」になっていたのだ。
私にはそのことを彼に告げるような広い意味での勇気もなく、
また自分自身へのコンプレックスを深くして歩き去った。
その二つの「一枚の絵」を壊すことなどはもちろん、
何か指一本でも触れてはいけないのだ、という命令が自分自身から発令されていた。
――老画家のことはともかく、ファミリーの「一枚の絵」には私との間に見えないが
絶対的な線が引かれている。
まだまだ私なんかではその足元にも及ばない、当たり前なことこそが得難い美、
決して馬鹿にはできないのだ――と教えてくれた美しい美しい「一枚の絵」だ。
ほんのわずかな「一枚の絵」を長々と説明してきたが、
このように目に入るものごと全てに自分から心を開き、プラスにとらえ、
ロマンティックに読み取れば全てが美しい「一枚の絵」だ。
奇妙な色の使い分けをしたマンドリルだってそれを何も冗談で、
人を笑わせようとしてやっているのではない。
一見我々には分からなくとも何かは絶対に
彼ら独自の美を見せようとしてのことであるのだ。
この世の中全てが「一枚の絵」メーカーだ。
例えば、ありふれたようにいるハトたちまでが不思議な喉声を出し、
鮮やかな緑銀を使用し、様々な模様を編み出す。
愛敬のある歩き方と首の動かし方。そして荘厳な空の翔び方。
フザけたところと美しいところ――二面性でその美を強調している。
数多く、どこにでもいるようで、見下せるようでも
空を翔べない我々人間では届かないところがあるのだ。
やはり、全ての存在が独自の美を売り物に、誇りにしている。
人を楽しませるためのエンターテインメント。自分にしかできない役を演じよう。
意図的に見せ場を創ろう。自然体のままで見せ場になっているのが理想だけども、
芸術として創るのは悪くない。
その自分の言葉を確かめるため私は(個人的にあまり好きではない)
忙しい都会でも美しいものを粗探ししてみた。
ほとんど満員の電車の中に入ってゆくのは残飯をあさる野良犬のようで嫌だ。
そんな人込みの忙しさが私は嫌で嫌で都会を離れていつもは暮らしている。
ホームで電車を待つ人たちの頭のラインをぼんやりを眺める。
少し出っ張ったの、へっこんだの――。
すぐ目がゆく美しいものは女性の見事な体や髪の美しさ、
加えて男女かまわず歩き方の美しさ。
あまり周囲と溶け込んでいない(美しい個性を持った)
人間を見つけているのも悪くない。
透明な存在感をもち、オーラを発している壮年男性、
あるいは他の人たちとは全く違う世界に住んでいるかのように
妙に平和な制服の女の子たち。
殺気とはまた違う情熱に瞳をギラつかせた青年なんかも私は見逃さなかった。
月や星の自然の夜景ではなくイルミネーションと設計で調和され
創り上げられた人工的な夜景にも心を奪われたことももちろんある。
どうしても自然のほうが数としては美が多いので
私はこの時ばかりは最大の敬意を人間に捧げた。
深いこじつけのようになるが、他人だらけのなかで暮らすことにより
自分の周囲の人間に特に優しくなることができる、というのはどうであろうか?
――どんな、どんな場所に行ってもこのように
美しい人・美しいものは必ず存在するのだ。
あぁ、なんともこの世界は広い――。
美しさの種類でも特に私が愛しているのは「清潔な美しさ」というものだ。
これは実に素晴らしい。心の中身の美しさや純粋さというものが
その外見に自然とにじみ出てきたようなもの。
清潔な美。清潔な美。私はそれをある人の足に見た。
ある人の髪の見た。ある人の大きな瞳に見た。
「品のあるSEXY」にそれは近い。
触れることは(私自身の戒律によって)決してできない
その清潔な美をもつ全てを私は生来愛し続けた。
歪みきったところに生み出される美や緊張の緩んだところにある美や
完璧すぎる美など色々と美しさに種類はあるが、
私は最終的に求めるのは清潔な美だった。
ファミリーの「一枚の絵」などを見れば人間の原点は、
本性は清潔な美にあることなど明白ではないか!
清潔な美を感じさせない女性など恋愛の対象外としてしか見られなかったし、
友達にも心の清潔な美を求めた。
清潔な美とはすなわち「誠実さ」のことであり、また、「知的さ」のことであった。
私にとって美とは善悪及び方向性など全て関係なく、
ただ美しければそれでいいものである。
色々と歪んだ美しさにも手を出した。
しかし、それはそれだけでは何の満足もなく、
しまいには飽きてしまう一時的なものだと気付いていた。
やはり基本は清潔な美しさだ。美しいもの。清潔な美。美。
――私は狂いそうになる。最大の快感は美。――快楽とは「美の追求」。
これも時の流れの恐ろしさのひとつだが、「若さ」は美しい。
――私はまだいい。しかし、来るべき将来が怖い、怖すぎる。
我が身が醜く朽ち果ててゆくのに私は耐えることができるのだろうか?
「老醜」という悲劇。——老いたら老いたらならではの「一枚の絵」になろう。
あるいは品良く見る立場になろう。
怖いが、全ては時のなすがままに。自分のペースに。
「現実を超越した美しさ」は派手で、魅力的で、
うらやましくて、何がなんでも手に入れたい美しさだ。
だが、ファミリーの「一枚の絵」に代表される「普段着の美しさ」のことを考えれば――。
一時的なものとして、瞬間としては最高の価値がある。
要はやはり自分にしかできない「役」を演じる、ということ。
美の独裁者となり、思い切って言ってしまえば
それは私がこの世の全ての存在(私を含む)に課した「義務」だ。
(私にとって全ては現実なんかでは意味を持たないただの「方法」でしかないのです。
全ては「一枚の絵」のため、「美の追求」のため、我が芸術の完成のためなのです。
だから現実で何をしても、何をされても私には何でもないのです。
――Nothing Reality To Me――
全ては我が「命」のため――)
私の「一枚の絵」・「分かりやすい一枚の絵」・「成功したミス・マッチ」・
二つの「共演作」・「間」・「栄光」・「恋愛」・「ファミリー」・「都会での美」・そして「清潔な美」。
――もっともっと美しいものはこの世にあるのだろうが、
人生経験の乏しい私には今のところこれだけしか思いつかない。
「一枚の絵」ひいては「美の追求」は日常のなかでは私の唯一のストレス解消法であった。
穏やかな、静かなひととき。
――ここでは「一枚の絵」の美しさを紹介しようと思い、つい饒舌になっている。
だが、「一枚の絵~美の追求」の究極とは、「言葉なんかはイラナイ」。
――私の感性を通したもののことだけしか私には伝えることができない。
私とはこの世界に存在する幾多のもののなかの「人間」というだけであり、
またその「人間」も無数に近くいるなかでの小さな小さな一人。
私にできない「一枚の絵」が氷山の本体のごとく未知数であるように、
私の知らない美しさが貴方には、貴方がたには身近なものとしてあるのだ。
うらやましい。できることならその一つ一つを全部、
一つ残さずこの目で見てみたい。できることなら。
――さぁ、これでいつでもこの私が死んでもいいだけの、
このささやかな「私」という存在の生まれてきた意味を刻み付けるに充分な
「ありとあらゆる美」を紹介しきれただろうか?
私が一日、また一日生きる分だけ、知っている「一枚の絵」は確実に多くなる。
そして私は美しいものだらけにこの身を囲まれて明日をまた迎える。
一日・一週間・一ヶ月・一季節・一年・十年・百年・一生――。
そう、「一枚の絵」を書ききれるということは永遠にありえやしない。
我々の闘いはまだまだ続くのだ。
「権利」と「義務」のことに悩み続けていた頃の私ならば
美しいものが増え続ける人生でその倍くらいの悩みを抱え、
自由に空を翔び回ることなど一生できなかったであろう。
――今の私の心は空を翔ぶ鳥のように自由だ。
ある出来事が私のその悩みを一瞬にして消し去った。
あれほどにまで重くのしかかっていたプレッシャーもある一言で自由な翼へと姿を変えた。
最後にその出来事のことを述べてこの私的な告白に幕を下ろすことにしよう。
ひとつ。(ひとつだけにはならないが)
その前にここに私の体験からの(私からではない)アドバイスをはさませてもらう。
人が終わりに望んで残す言葉は本物だという。
良かったらその破片でも取り入れてくれたら、ありがたい。
――「一枚の絵」とはだいたいでいいのだ。
細かくなど、完璧な「一枚の絵」などいりはしないのだ。
極端に言えば、キレイな風景にシルエットが舞っていれさえすれば、
それで「一枚の絵」なのだ。
以前の私のようにいたずらに完璧を求める必要などはない。
自分の「一枚の絵」とは自分では自覚できないこと。
貴方がいつも通りそこにいれば、「一枚の絵」は完成するものなのだ。
大切なのは自分にしかできない「役」を演じること。
誰もが自分独自のショーを世界に見せているのだ。
ありとあらゆる美しいものはそうして出来上がる。
美を追求する心さえあれば、そして実際に自分の「一枚の絵」を
創ることに努力を惜しまなければ、より一層目の前に美しいものは姿を見せ、
いつかはその積み重ねで空をも翔べる――。
つまらないコンプレックスなどを抱かないように。だいたいでいいのだ。
要は「絵」になっているかどうかだ。美しいもの。
この世は美の競演で形成されている。ありとあらゆるショー。
自分にだけ与えられた「役」。意図的に「見せ場」を創るのだ――。
「一枚の絵」~「美の追求」——全てはそれから成り立っている。
自分の生きる糧となってき続けてくれたありとあらゆる美しいものに
今度は我々が美しいものを見せる番だ。
美しさを忘れないように、そしてもう一人たりとも私のあの悩みにつぶされないように。
私はここに一度この物語の終わりを告げ、
そしてここからを「読み手」の心に任せることにする。
「一枚の絵」とは美しいもの――。
心のたぎりに見合うだけほどよく暑い夏のある一日、
私は私の美しい恋人と海へ行った。
せっかくの美人を隣に乗せてのドライブなのに私としたことが幾度も道に迷い、
結局は着いたのがもう日中を過ぎた頃になってしまった。
防風林を越え初めて海が見えたときも、
やはり私はそれ以外のことにばかり気を取られていたふがいないドライバーだった。
そんな私を彼女はせかすように車を降りるや否や一人で砂浜まではしゃいで駆けていった。
私も愛犬のトラを連れてすぐに駆け下りた。
ロープを放すとトラはすでに波打ち際まで行っていた
大好きな第二の飼い主のもとへ飛んでいった。
それから二時間ばかり二人と一匹は人気のないその砂浜ではしゃぎまわった。
波との駆け引きに勝負をかけ、取り残されたカニと追いかけっこをし、
クラゲの一種の溺死体らしき謎の物体を彼女が踏んづけたのを大笑いし、
海に突っ込んでいったトラが全身を震わせ水を切るのを二人で待ち構え、
落下傘を打ち上げては二人と一匹で全力ダッシュし、
トラをほっておいては二人で腕を組みキレイな貝殻を求め長々とのんびり波打ち際を歩いた。
そんな何よりも有意義な時間を、楽しいデートの時間を私たちは私たちだけで夢中になり
(私は「一枚の絵」のことも忘れ)全ては私たち二人だけのための美しい世界となっていた。
そのうちに波に冷やかされたのか、私が波を甘く見すぎたのか
思いっきり私だけ海に波を足に引っかけられてしまい、一人着替えのため車に戻った。
乾いた服に直した私が車から出て砂浜のほうに一歩踏み出し、
顔を水平線のほうへ向けると――足が止まった。
そう、私は「一枚の絵」に出逢ったのだ。
あまりに、あまりに美しい「絵」だった、特に私には。
一瞬世界が止まってしまった後、か弱い力で足はいくらか進み出したが
――やはり止まってしまった。近付けなかった。
あまりの美しさに私は決して近付くことができなかった、許されなかった。
「一枚の絵」を見つけた瞬間からそれまでの普通の楽しいデートが
私にとって完全に別物となった。
私はいくらか離れた乾燥している砂浜に腰を下ろし、その「一枚の絵」を眺めた。
――いつの間にか黄昏をむかえていた。
一日に疲れた太陽が最後の力を振り絞ってどこか鈍い、
しかし実に神々しい時を創りだしていた。
水平線の彼方に太陽は沈んでいこうとする。真っ赤な落陽。
橙色の陽射しが穏やかな風と波の音楽を加えて
時の消えた幻想のような空間を創り上げている。
海面は鈍く、強烈な最後の陽射しを受け、
白く、いくらか蛍光の緑色も混じっているがやはり白く輝く。
その眩しくそよぐ海面を背に――まだ元気なこの素敵な女性が犬とじゃれあっている。
一人の女性と一匹の犬は逆光に照らされ黒いシルエットとなっていた。
背の高いそのシルエットは「可愛さ」よりも「美しさ」という言葉を私に連想させ、
その長く歪みのない髪は潮風に揺らされ何よりも涼し気な「風」を生み出していた。
犬にまとわりつかれ無邪気に走り回るしなやかな体の動きは
私の目を一点の曇りもない裸の状態にした。
太陽・空・海・風、そして「人」も見事に調和された素晴らしい「一枚の絵」が
いつの間にか創り上げられ、その一瞬に私の目に飛び込んできたのだ。
私には目も眩むほどの光景だった。
太陽の強烈な光にではなく、その「一枚の絵」にだ。
美しかった。あまりに美しかった。
私には、私には特に――何故ならそこで最も重要な「役目」を果たしているシルエットは
他の誰でもなく私だけの恋人なのだから。
あぁ、今私の目に注ぎ込んでくる大量の太陽の照り返しを彼女のシルエットが遮った。
あぁ――そのシルエットの後ろから眩いばかりの光が漏れる、光が漏れる。
美しい。言葉を超えて――美しい。
なんと私の好みらしい「絵」なのだろう。足も止まった。
息も止まった。砂浜に腰を下ろして私は全身で見とれてしまっていた。
「一枚の絵」を見つけた後の私のいつもの反応
――穏やかな瞳と顔の表情――やはりこれも大好きだ。
この自分の一番身近な人がこれほどまでに美しい
「一枚の絵」を創りあげてくれたことが心から嬉しかった。
改めてこの素敵な女性に感謝を捧げた。
――あのシルエットがもし全くの他人だとしても、
「絵」としての美しさには何らマイナスを生じさせるものではないのかもしれない。
何せこの「一枚の絵」に対してはそのシルエットの恋人として、
私はどうしても限りなく第二者に近い位置の第三者となってしまう。
「一枚の絵」は本来完全な第三者として鑑賞しなくてはならないものであるから、
それを意識してこうして離れてみてもやはり「感情」の割合が倍増している。
恋をしている人間としてはその分嬉しいのだけども。
――長いようだがこの間、「絵」に気付いてからほんの数秒しか経っていない。
まずは彼女が少しでも長くこっちを振り返らないことを願っていた。
だってもう少し見ていたいから。
もう少しこの「一枚の絵」をこの世に成立させていたいから。
だから、もう少し――もう少しだけそのままでいて欲しい――。
その願いが届いたのか、私には、「一枚の絵」にはもう少しの時間が許された。
目を細める私――帰り際のキスのときに匂いと味が消えているのなら、
無性に煙草が吸いたかった。
――だいぶ時間が許された。
いくらか落ち着いてその「絵」を見つめられる余裕が出てきた。
そしてその頃から、いつもの私特有の考えが私の脳裏を支配し始めた。
あぁ。こうして私の最愛の人、私のペットまでが私に「一枚の絵」を見せてくれている。
然るに、然るにこの私は•••••。私にいったい何ができる?
私はいつも大勢の人たちから一方的に
多くの多くの「一枚の絵」を見せてもらっているだけ。
私の創り出すささやかな「一枚の絵」なんかでは絶対に釣り合いが取れていない!
何故みんなそうも私に「誠実さ」を分け与えてくれる?
私に返せることはもらう分のほんの破片程度でしかないのに!
何故?私はそんなに価値のある人間か?
倍にして返したいとは心から思うが私には何もできないのだ、何も、何もできないのだ•••••。
「誠実さ」に関しては人の何倍も義理堅い私はまたいつもの混乱に陥っていた。
それは自己嫌悪。自分の無力さを憎むことであった。
何か、何か私もしなければ。私にできることを最大限に活かせば
ささやかなものであろうともきっと何かが、何かができるはず――。
これだけ他の人たちから「ヒント」を与えてもらっているくせに
本当に何もできないのなら、私は「死」に値するのだ。
私はやる、必ずしや彼ら彼女らのしてきてくれたことに見合うだけの何か、
何かを必ずしややってみせるのだ。
今度は逆に私が彼ら彼女らの今後に何か意味を残すものをおぼえさせるのだ!
それが私の生きる理由、情熱を傾ける対象なのだ!
やってみせる、私は必ず•••••。
穏やかさをたたえた瞳から自責の色、
そして最後には強い意志の鋭さを秘めた瞳に変わっていた。
見とれていた「一枚の絵」は今や自分を戒める誓いの「一枚の絵」に変わっていた。
そしてまずは今この瞬間何をすべきか考え始めたとき、
美しい黒のシルエットは振り向いた。
人と犬の影は私の座るほうへ走り寄ってきた。
私がとった行動は、まずとびきりの笑顔を贈り、
そして後はいつも通りの恋人に戻ることだった。
彼女と犬にとって何よりも楽しい(あるいは「絵」になっている?!)
この時間を私が崩すことは絶対に許されない。
さぁ、私も混じって楽しいときを一緒に過ごさねばならぬ、
私だけの迷いなどこの瞬間には全て捨てて。
「何一人で見てるの――!」と微笑みでからかい、
「疲れた」と言って彼女は私の左隣に座ってきた。
私が陽気に話しかけると急に彼女は無口になり、
一言「キレイな黄昏――」と小さくつぶやいた。
私も自然と無口になり、二人の間に静寂が訪れた。
幾分か肩を寄せ合って――。
――そんな他の人間の侵入が許されない空間に、なんと外部から
一人の人間の足音が進入してくるのを私の耳は半信半疑ながらも聞きつけた。
「大変失礼ですが」
振り返り、その声の主の顔を見たとき私は不思議に
「高潔さ」なんていう雰囲気を感じ取っていた。
「無粋なことをして万死に値しますが」
なんとその声の主は以前に「一枚の絵」を描いている、
という「一枚の絵」を創り出していると私が読み取ったいつかの老画家だった。
なので私が「高潔さ」なんてものを感じたのもあながち的を外したことではなかった。
「何でしょう?」
そう私はできる限りの優しい声色と瞳でその老画家の呼びかけに応じた。
「どうしても、一言貴方がたに伝えたくて」
そう老画家は真剣な口調で話し、ここで今一度胸を張り直した。
「はい」
そう小さく私も真剣に言葉を返した。
雰囲気についていけなかった彼女はきょとん、として私の顔を覗きこんでいる。
しつけの良い私の愛犬は黙って舌を出して砂の上に座っている。
「私は絵を描いている人間です。
人生最大の趣味として、私の人生の課題として
もう何十年も、子供の頃から描き続けています」
――何か、その言葉が私自身のことを指しているように私は感じていた。
「何者かが手を加えなくても自然と美しく成立している「絵」というものを
私は私の感性で読み取り、それに私の思想で色をつけ、
そして私の作品として描き上げています」
「こんなことを急に言われても誰も分かりはしないとは思いますが、
話の順序として聞いていただきたいのです」
――私は「なんとなくですが分かりますよ」の一言が
喉まで出かかっていたがどうしてかそれを言わないほうがいい、と考えていた。
「幾つか私自身でも納得のゆく傑作というものも
この数十年間で描き上げることができました。
世間にも認められた作品も幾つかはあります。
ですが、この歳になってもまだまだ欲というものがありましてね、
いつまでも描くのが止められないのですよ。
――まぁ、話すと長くなりますので省略させていただきますが、
とにかく私は先日までこの場所で作品を描いていました」
そう言って老画家は持っていた作品を布から解き、私たちに見せた。
「絵はお好きですか?」
「はい、乏しい感性ですが理解しようとする心はあります」
そう私が答えると老画家は安心したような顔でさらに言葉を重ねた。
「では、どうですか?」
絵は黄昏の、ちょうど今ごろのこの砂浜を描いたものだった。
はっきりいって私は感激だった。
なにしろ私がさっきまで見ていた「一枚の絵」をそのまま描いたようなものだったからだ。
――だが、私は思った。私の見ていた「一枚の絵」とは根本が違う。
この絵には私のあの「絵」の命ともゆうべき一人(と一匹の)のシルエットが見事に欠けていた。
それを抜かせば私の見ていたものに近かった。
いや、シルエットがなくてもこの作品には素晴らしい美しさがあった。
「清潔な美」——少なくともそれがあった。
それだけで私はすっかりこの絵に心酔していた。
絵を見せられたとき、私と彼女の口から漏れたのは感嘆の音だった。
私が個人的なことをゴチャゴチャ考える以前にまずはその明白な美しさを認めていた。
「キレイ」
と彼女は言った。
「素敵ですね」
と私も言った。
「見事だワン」
と犬も言った。
「そうですか――」
老画家は急に声のトーンを落とし、ややうつむいた。
「しかし、この作品には「命」がなかった!」
また急に声に感情が加わった。
そしてポケットナイフを取り出すと、キャンバスにそれを切り込んだのだ!
「あっ!」
私たちの口からまた声にならない音が漏れた。
「何を、何をするのです?!」
私はつい逆上してそう老画家を責めた。
「これは今となってはただの駄作に過ぎないのです」
「駄作?――いや、明らかにしっかりとした美しさがあるではないですか!」
「そうですよ!」
彼女もそう同調した。
「そうだワン!」
――と聞こえた気がしたが、犬がしゃべるはずがない。
「聞いて下さい」
老画家はそう鋭さのある声で切り出してきた。
「この風景の「命」――それを私は貴方がたから教わったのです――」
私もいつの間にかこの老画家の世界に入り込んでいた。
大体が太陽と時間の創り上げるこの鈍く、
疲れ切った空気はロマンティックを超えて「ゆめまぼろし」の世界であったので、
私もついつられて「話し言葉」ではない「書き言葉」の世界に入っていた。
何をためらうこともなしに心のままで気持ちを
相手に伝えることができる「書き言葉」の世界――。
「私は貴方がたに感謝の気持ちを伝えたくて
こうしてわざわざ貴方がたのこの「絵」になっている時間を
そうと知っても崩しに来たのです」
私は――緊張していた。
「私は貴方がたがここに着いたときから防風林の陰にいました。
そして当然貴方がたがはしゃぐ姿を楽しませて見せていただきました」
これにはさすがに私も彼女も少し照れた。
「そのシーンを立派な「絵」になっていました、実に。
私も思わず若返ってその「絵」の主人公になったような気持ちで
長々と見させていただきました。
――そして、この絵にも貴方がたの姿を描き入れようと決意したほどです」
私は、たまらなく嬉しかった。嬉しかった。
この私が、この私がこの老画家に素晴らしい「一枚の絵」を提供してあげていたというのだ!
あぁ、私も少しはこれで――。
「だが、それは違う、と私はふと感じたのです」
「え?!」
肩透かしをくらった私は思わず声を上げて聞き返した。
「何故なら私はもっともっと美しい「絵」を貴方に見つけたのですよ」
と言って老画家がなんとこの私を指差した。
「―――――?」
全く、何も思いつくことはなかった。
「それはほんの少し前までの貴方の姿。
つまり、黄昏の海でシルエットとなった自分の恋人がはしゃいでいるという
美しい「絵」に少し離れたところで完璧に見とれているもう片方の恋人、
というそれはそれは美しい「絵」でした」
――この言葉は「一枚の絵」に対する今までの全ての私の考え方を吹き飛ばした。
(「一枚の絵」に出逢ったとき以外)滅多に衝撃を受けることがないこの私が
信じられないくらいの衝撃を脳天に受けた。
「私のこの作品にはそういった「主役」というものが全くなかった。
これを描いているときからそれには気が付いていたのです。
しかし、やはり何もなかった――。
もう少し言えばこの絵を貴方がたのような
恋人たちのシルエットを入れる構想はあったのです。
だが、それではどうしても描き手としての私の夢想となってしまう、
と分かっていたのでそれもできなかったのです。
貴方がたがその構想通りのことをしてくれたときも、
私は何故かそれを題材に描く気は全く生まれませんでした。
ただその「絵」を鑑賞するだけでした。
しかし、さきほどの貴方がたの「絵」は――
私のつまらない考えを消し去るのに充分な美しさでした。
もう一度、もう一度私は描いてみます。
美しい恋人の「絵」に見とれてしまったもう片方の恋人からの視点を中心に、
そしてその「絵」を第三者の鑑賞者の立場から見つめる私の視点からも――。
やってみます。もう一度描いてみます。
これは私の残りの人生の一大課題です。
あぁ、ありがとう。本当にありがとう。
私の妄想を開いてくれて本当にありがとう――」
老画家が去ってしまうと私は彼女の肩に顔を埋め、
一人の「人間」として初めて心からの涙を流した。
私はどこまでも愚物だったのだろう。こんなことにも気付かなかった。
私は今まで自分自身にばかり引け目を感じていた。
自分以外のみんなが私に美しいもの、優しいものを分け与えてくれる、
そしていざ私が逆の立場になろうとしても何一つできることなどない――そう決めつけていた。
そしていつも「権利」だけを酷使する勝手な人間、と自分を卑下していた。
やっとのことで何かをしたとしても、それは今まで受けてきたものに対しては
あまりに小さいこと、誇るに足りないこととやはり決めつけていた。
――だが、それは違うのだ。私の涙はそういうものだった。
私は何も他の人に与えられないでいるのでは、
「一枚の絵」を見せられないでいるのではないのだ。
私自身の知らないところできっと何かができている。
そう、私だけが何もできないと決めつけるなんてとんでもない。
私以外の人もきっと自分自身で意識していないところで「一枚の絵」となり、
私に色々なものごとを授けていてくれるのだ――。
「私だけが」なんてとんでもない。
要はそういうことだ。歪んでいた。あまりにも視野が狭かった。
何もできないのではない、自分から心を開けばそこに必ず「一枚の絵」は創り出される。
全てはこの私自身の心持ち一つにかかっていたのだ。
――もう私は迷わない。私が生きるところに「一枚の絵」は生まれ、
「権利」はもちろん「義務」すらももう考える必要のないことなのだ。
――これは自分が何もしなくていい、ということではない。
全ては自分から心を開いて優しさを、「一枚の絵」を
自分以外の人と分かち合えるかどうか、ということなのだ。
自分から心を開けばそこに必ず「一枚の絵」は創り出される。
自分にしかない「能力」を最大限に活かせば他の何ものにも引けを取らない
独創的な「一枚の絵」は創り出される。
老画家の残したあの言葉は私の蒙を全て啓いてくれた。
あの老画家と、そして今私を抱きとめてくれているこの素敵な女性に、
私は最高の感謝を捧げた。
――何より、老画家のあの一言を聞いて私は救われた気がした。
この作品はありとあらゆる美しいものに対する私の愛の告白である。