詩的日記

奈良の大仏の大きさ15m、聖武天皇・東大寺の平和願いの高さ

修学旅行生

「奈良の大仏って、どうしてあんなに大きいの?」

大きさの理由を聞かれて、正直、わたしは戸惑った。

「奈良の大仏の大きさは約15mです」って、いつもの仕事口調で答えるのは簡単だけど、

えっ、何故かって? 奈良の大仏の大きさの訳を知りたいってこと?

目の前の子たちの表情が真剣なのを見つけたからには、わたしはちゃんと答えてあげようと思った。

はっきりした理由があって、あそこまで巨大化した奈良の大仏なのだから。

奈良の大仏の大きさ写真

物事の不思議の理由を知りたがるのは自然なこと。

そうよね、奈良の大仏の大きさの理由なんて普通は見当もつかないよね。

「大きい方が目立って良いでしょ、分かりやすいし」っていう軽いノリであの大きさになっている奈良の大仏でもない。

そうだ、奈良観光のお土産として、この子たちに奈良の大仏の大きさの理由を持ち帰ってもらおう。

きっと学校内で広めてくれるし、いっそTwitterとかで拡散してくれれば良いけど。

奈良の観光案内所でバイトをしているわたし、

奈良公園の観光マップをもらいにきた修学旅行生の子たちに聞かれて、こう答えてあげたよ。

奈良の大仏の大きさは、

あの大仏を造った聖武天皇が、平和を祈る心をひときわ強く高く持っていたから、

みんなにそれを伝えるために、あんなに大きな大仏を造ったの

そう聞いた修学旅行生の子たちが「ほう、そういうこと?!」という表情をしてくれたのが、私には分かった。

日本の主な大仏さんたち

 像高場所
京の大仏
 (1973年に焼失)
19m京都府・方広寺
奈良の大仏
 (東大寺盧舎那仏像)
15m奈良県・東大寺
岐阜の大仏
 (釈迦如来坐像)
13m岐阜県・正法寺
鎌倉の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
11m神奈川県・高徳院
兵庫の大仏
 (1944年に軍物資として回収)
11m兵庫県・能福寺
東京の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
 8m東京都・乗蓮寺
高岡の大仏
 (阿弥陀如来坐像)
 7m富山県・大佛寺

「その昔ね、今から1,200年以上前、西暦750年頃のお話になるけど、

奈良の大仏が造られた時代は、病気や戦争が長く続いて、世の中が乱れていたの。

当時の天皇だった聖武天皇はそれをなんとかしたいと思っていてね、

お金にあまり余裕がなかったのに、

強い意志を持って東大寺にこんなに大きいサイズの奈良の大仏を造ることを決めた。

平和を願う気持ちを、多くの人たちにシンプルに分からせるには、

奈良の大仏が大きければ大きいほど伝わる、って思ったのが理由

像の高さ14.98m
頭部5.41m
目の長さ1.02m
耳の長さ2.54m
台座の高さ3.05m

そう言いながら彼ら彼女らに渡した東大寺・奈良の大仏の紹介パンフレットにはこんな数字が書かれてある。

ちょっとピンとこない書き方かもしれないけど、

聖武天皇風にシンプルに言えば「奈良の大仏の大きさは15m」って覚えて欲しい。

「それと、もうひとつ教えてあげる。

奈良の大仏が今もこうして東大寺に残っているのは、聖武天皇の思いを代々の日本人が理解して、

大事に引き継いできたってことね、それも1,200年間よ、1,200年!」

それで説明を終えると、わたしはにっこりと微笑んだ。

口元のアルカイック・スマイルで幸福感を出したつもり。

「聖武天皇が平和を願った気持ちが、奈良の大仏を15mまで大きくしたんですね!

そう言うとみんなは笑顔を見せた。

ありがとうございました、とお礼を言うと修学旅行生たちは奈良公園へと歩いて行った。

良かったよ、わたし。

端的に言うとそういうこと。

奈良の大仏の大きさの理由を上手く伝えられたって、

わたしは一人で喜んで、思わず東大寺の方向に合掌しちゃった。

彼ら彼女らをその大きさでびっくりさせてね、奈良の大仏さま。

それが、これからの平和の継続に繋がるって、わたしは信じているから。

奈良の大仏の大きさを、信じているから。

ある時、真面目な表情で話に入ってきたまだ若い子。

「天皇?そんな立派なタイトルが付いているのに、

どうして聖武天皇さんは奈良の大仏の大きさっていう抽象的なものでしか、民衆を救ってあげられなかったのですか?

無邪気な質問だと思った。

そうだよね、当時の日本のトップだったのだから、

税金を安くするとか、どこかにお金を寄付するとか、

国民が本当に困っている時期だったら、具体的な政策で救ってあげることができる唯一の人だったのかもしれないのに。

「ちょっと難しい答えになるよ。

例えば、新型コロナウイルスが流行した2020年、東日本大震災があった2011年、

現代の国のトップである内閣総理大臣は特に困った人へのお金や物資を配ったり減税とかもしたけど、

いくら国のトップでも全国民を救うことはできなくて、

結局は何か神様仏様に願うこと、あとは国民にお願いすることしかできないの

夢を壊すようなお話になって悪い気持ちもするけど、この子に現実的なお話が伝わるかしら。

まだ何も返事することなく、この子は私のお話を黙って聞いている。

「だから聖武天皇と言っても、具体的にお米を配るとか税金を免除するとか、そういうことはできなかったのでしょうね。

全国民に何かを伝えるためには何が良いかと聖武天皇なりに考えたら、

せめて未来への明るい希望を見せること、それが奈良の大仏の大きさだったと私は思っているのよ」

奈良の大仏の大きさ画像

男の子は半分ぐらいは分かったような表情。

「情けないと感じる?

とにかく未来がどうなっていくのかの展望をみんなに見せるということも、トップの役割のひとつ

そういう意味では、技術が発達していなかった大昔だから、神様仏様に祈るということは大事。

そこに超巨大な奈良の大仏様ができたら、全国民にとっては間違いなく明るい未来よ」

そこまで話すと、ようやく男の子も口を開いてくれた。

「いつもは近所の小さなお寺で、小さなお願い事をしているのに、

あの奈良の大仏の大きさの前でお願い事ができるって凄いね、僕だったらいっぱいお願いしちゃう!」

隣の子たちとそんなことを話している。

「そうね、私も奈良の大仏様の大きさの前なら、数え切れないぐらいのお願いごとをするかな」

そんなことで丸めてこのお話もおしまいにした。

良い点を突いていると思ったの、この子たちは。

所詮、天皇であっても、それこそ神様仏様であっても、できるのは神仏頼みだし、

天候を変えることも豊作を生み出すことも人間にはできない。

当時は住民管理していたとは思えないから現金給付は不可、減税するにも手作業だから凄い工数がかかるのでしょう。

新しい神仏頼みを作ること、その工事に多額の税金を使うことで世の中の景気・経済を回す意味があったことぐらいは推測できる。

奈良の大仏 年表

743年聖武天皇が造ることを命じる
752年4,600億円相当かけて、奈良の大仏が完成
1180年焼失
1567年焼失
1958年国宝指定

長く話せば、奈良の大仏はハッピーなことばかりじゃない。

悲しい生い立ち、戦争の最中で燃えて、悲しい歴史の裏返しでもあるのが、奈良の大仏のこれまで。

それはわたしからの話ではなくて、奈良の大仏の実物を見た彼ら彼女らが

興味を持って、次は自分たちで調べて欲しいお話ね。

奈良の大仏のこれまで

造設当時は、目の前の庶民の苦しみ(飢饉・天災・戦争)を直接助けれず
仏頼みで、奈良の大仏に巨額の税金を使った
度々の焼失(戦争による人災)があり、再建していない期間が多々ある

天皇でさえ救えなかった民衆、人間なんてそんなものなのかな。

人間が人間に助けを差し伸べられないのなら、仏様が差し伸べるしかない。

絶望の中に足掻いて導き出した、奈良の大仏の大きさだろうか。

奈良の大仏大きさ写真

伸ばしても手は届かないけれど、奈良の大仏の大きさは果てしなく。

「奈良の大仏の大きさ」動画を、YouTubeにあげました!

奈良の大仏の大きさ、万人に通じるメッセージとしてサイズ感を選択した聖武天皇。

あからさまには文字にできないだろうが、あえて言葉にしてみるとこういうことだろう。

奈良の大仏の大きさ写真1

「西暦750年頃は識字率2%前後の世界、一般民衆たちは目の前の生活に追われているだけ。

そんな民たちに希望の兆しを伝えるには、文字ではない、文化でもない。

人間の五感に直接的に訴えられるものだけ。

何だ?飲食・歌・肌・匂いは数を与えられない。

視覚だ、目だ。

多くの人たちが自分の目で見てありがたさが伝わるものだ。

奈良時代の最先端文化は仏教文化だから、仏像が良いだろう。

分かりやすさって何だ?技巧や色は分かる人にしか分からない。

大きさならどうだ?

そうだ、大きな大きな大仏なら誰が見ても一目瞭然にありがたい、大きなインパクトを与えられること必至」

奈良の大仏の大きさ写真1

民衆たちに明るい未来を見せたいのなら、巨大な奈良の大仏の大きさを見せること。

目の前で現金支給することではなく、年貢の軽減でもなく、労役の免除でもなく、東大寺に奈良の大仏を造ること。

この分かりやすいようで分かりにくい聖武天皇の勅令を受けて、奈良の大仏は大きく造られることになった。

国中の銅を溶かして大仏像を造り、大山を削って大仏殿を造れ”

奈良東大寺の大仏の造立を命じた聖武天皇の意志はよほど強い。

”天下の富を有するのは我だ、天下の勢いを持つのも我だ”

そう豪語した聖武天皇の奈良の大仏造立の詔は、まるで歌のように聴こえる。

天皇として自分が持っている絶対的権力を、東大寺奈良の大仏に注いだ聖武天皇。

大仏のその大きさこそが、自分の権力の大きさだと世に知らしめようと、

一般的な大仏、例えば飛鳥大仏の大きさの4倍ものサイズで、奈良の大仏を生んだ。

そのぶっちぎり権力の一方で、聖武天皇は冷静なコメントも出している。

”一握りの土を持って手伝おうとする民がいればそれを受け入れ、

役人はこの大仏造立を理由に無理な税金徴収は許さぬ”

聖武天皇は東大寺奈良の大仏の大きさをもって、日本の各地隅々まで、

平和と安定を提供しようとした。

現代からすれば根拠のない神頼みだろうが、当時は神仏にすがるしか方法がない。

戦乱・疫病・天災と、悪魔のような出来事ばかりが続いていた天平時代に、

天皇としてすべきは、悪い空気をかき消す切っ掛けを作ること。

それを東大寺奈良の大仏造立に繋げた聖武天皇の政治判断は決して誤っていないと思う。

莫大な税金を、東大寺大仏のようなハコモノ造りに投与した罪は重い?

現代にまで残り、多くの人に愛された東大寺・奈良の大仏だから、

それは聖武天皇のナイス判断だったと、僕は心の底から思っているよ。

2024年8月15日

奈良公園にて写真撮影した良作たちを掲載しておこう。

このお盆の夜は、東大寺にて万灯供養会が行われるから、その前後で奈良公園を歩いていた。

奈良公園の写真

芝生と神鹿、これこそが奈良公園っていう一枚。

奈良公園の写真

日中の浮見堂は地味ですが綺麗。

奈良公園の写真

夜の二月堂。

奈良国立博物館内で、ごく一部の仏像が写真撮影が認められるようになっていた。

ガラス越しではあるけれど、真剣撮影したものたち。

頭にはウサギ?仏像本人のシリアスな表情と反して、なんて可愛い作り。

撮影できるのはごく一部で、それ以外に多数無数にある重要文化財、国宝たち。

撮影できる仏像は、会いに行けるアイドルってこと。

間近で見れて撮れる光栄さ。

世界中の美術館で撮影できる風潮が高まってきているから、変わったという説明でした、納得。

2020年7月17日

奈良東大寺の写真、フルサイズ一眼レフと超望遠レンズで撮影。

東大寺の写真

アメリカ海外赴任から帰任して、初めて訪問しました東大寺。

なんか腰が据わらなかった、挨拶すべき方を逃していたような気分。

それはつまり、東大寺大仏殿の奈良の大仏様へお会いしたかったということ。

東大寺の写真

別に直接的な恵を私にもたらせてくれる訳ではない奈良の大仏。

でも日本人である僕の心をギュッとどこかで掴んで離さない。

東大寺の写真

鏡池越しに撮る東大寺中門、カメラマン的にはベストアングルのひとつ。

一体、どこの誰がこれほど巨大な阿吽の仁王像を造ろうと考えるのかな、運慶さん。

他のお寺で仁王像は幾つも見たが、東大寺南大門の阿吽の仁王像は尋常ではないサイズ。

あの仏師・運慶が弟子たちと創り上げた作品。

東大寺の写真

参道を中門へと歩いて行く、昼間なのにこんなに観光客がいないシーンも珍しい。

東大寺の写真

奈良公園にお住みの神鹿さんたちも観光客がいないのでどこか退屈そうに、でも本来の姿に戻っている。

東大寺の写真

盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が本名の、奈良の大仏様。

コロナ禍でクローズされていた、大仏の鼻の穴くぐり。

再開するのはいつになることやら。

大仏殿の中に、参拝客が数えられるぐらいしかいなかった。

誰かの姿を映さずにカメラ撮影ができるなんて、今まであり得なかったな。

僕はこの千載一遇の機会を、しっかり心の中に焼き付けようとじっくり拝観。

インバウンド観光客がいない東大寺や奈良公園は、なんだか不思議な感じ。

15年前に戻った感じ、これが本来だったのだろうが。

28mmの広角レンズで撮影する奈良の大仏様、画面中央右の人と比べるとその大きさが伝わってくるというもの。

斜め後ろから撮った奈良の大仏、まぁ巨大なお背中。

雨も降っていたから、参道を歩く人もまばら。

私はきっとこれで10回ぐらいの東大寺大仏殿の訪問だろう。

その大きさが私をいざなうのだ。

東大寺の写真

今年のお盆の東大寺万灯供養会はコロナで行けそうにない。

来年に持ち越しになるのか、あの素晴らしいイベントの再訪は。

新緑も美しい東大寺大仏殿、芝生の手入れされ具合も良好。

大仏殿の出口近辺に待ち構えている鹿さん、この日は1頭しかいなかった。

観光客が配る鹿せんべいに、食糧を頼らず、本来の姿で生きていて欲しい。

まだまだ相当先にならないと買われて行くこともないだろうお土産物たち。

奈良国立博物館で、現代に蘇った正倉院宝物を見て感動。

仏像館を歩いてやはり感動、「国立博物館」の何ふさわしいレベルの展示物。

東大寺の写真

そうかそうか、楽しんでくれたか、とでも言いたそうな鹿さん。

二月堂へと上がって行くと、階段に鹿さんが待ち構えていた。

カメラマンにとってはナイスな被写体、奈良公園らしい一枚が完成だ。

更に人が少ない二月堂、ありがたみを噛み締めながら階段を上がる。

二月堂の舞台から見る奈良市の景色、正面左上の金色が大仏殿の屋根飾り。

超望遠レンズで、大仏殿の屋根飾りを拡大してみるとこうなった。

二月堂のお水取りだっていつ再開されることか、奈良の大仏様のみぞ知る未来。

東大寺の写真

土塀と石段が美しい裏参道、無人の写真が撮れた今の奇跡よ。

大仏殿から放たれる徳が、奈良公園一帯に良いものをもたらしてくれているのか。

東大寺の写真

小鹿さん、あなたもいつか奈良の大仏の大きさをその目で見て驚いてくれ。

奈良公園の中心、東大寺の大仏殿におわすは、奈良の大仏様。

日本諸国に点在していた国分寺を統一するために造られたのが東大寺。

当時の日本のトップ・聖武天皇が、抗争する勢力を収め、人心を統一するために造った奈良の大仏様。

その大きな意志を受けて、造立当時の奈良の大仏様の全身は金色に輝いていた!

奈良の大仏様の大きさを示すための全身ゴールド、なんとありがたい光なのだろうか。

幾度もの焼失・修理を経ている奈良の大仏様だけど、右腋・腹部・両脚部には、

今だに天平時代の部分が残っているというのだから、その長い歴史にひれ伏したい想い。

奈良の大仏様ができてから千三百年の間、一体どれだけの参拝者が、

あの奈良の大仏の大きさに度肝を抜かれ、手を合わせたことだろう。

山野を歩いて奈良公園に入ってきた昔の旅人たちが、華々しい東大寺を眩しく感じるのは分かるけど、

指先までデジタル、スマートフォンに無限の情報量を収めた僕たち現代人でも、

東大寺を訪れたら人間の根本的な部分で、奈良の大仏の大きさには魂を打たれてしまう。

なんて大きな、なんておおいな存在なんだろうか、奈良の大仏様。

奈良の大仏の大きさ画像

今日は東大寺大仏殿で、奈良の大仏開眼セレモニーに行ってきた。

西暦752年4月9日のこと、忘れられない記憶だからこうして日記に残しておこう。

奈良の大仏の大きさには「驚き」以外の言葉が見当たらないよ。

身長15mの仏像を造り上げた仏師たちの仕事振りに無数の拍手を送っておいた。

お披露目された奈良の大仏は、全身に黄金色をまとい、極楽浄土を体現していたんだ。

きっと1,000年後には色が落ちていることだろうが、新品の奈良の大仏はゴールドに輝いていた。

奈良の大仏開眼セレモニーも、ぶっ飛んだイベントだった。

何しろ全国から1万人もの僧たちが集まったのだから。

東大寺大仏殿の横幅が凄かった、1,000年後には焼失等で間口の横幅が2/3程度に縮小されると予想するが、

創建したばかりの東大寺大仏殿は、どの城郭よりも立派で、美しく、ありがたいもの。

それもこれも聖武天皇の絶対権限によるものだ、こんな建造物は後にも先にも数多くはない。

他に比を見ない大きさの奈良の大仏、本当にこれで全国に平和と豊作が訪れるような気になった。

超高層タワーマンションとか、等身大ガンダムとかがない時代に造られた奈良の大仏。

その大きさは時代の最先端、先進国である中国にもない驚異の技術。

5丈3尺5寸=16メートル、という奈良の大仏の大きさ、その大仏開眼セレモニーの日記だよ。

奈良の大仏大きさ写真

悪党・松永弾正の狙いは明確、東大寺の大仏の大きさを小さくすること

三好三人衆と筒井順慶が束になって攻め込んでこようが、

頑強な信貴山城・多聞山城が陥落するものか。

この機を逃さず、最近特に生意気な東大寺の勢力を削いでやる。

東大寺の大仏の大きさにも畏敬を示していない松永弾正は、一計を案じていた。

興福寺や東大寺でさえも相手方と結託し、東大寺大仏殿にまで敵軍を引き入れている。

松永弾正は折を見て、夜討ちを仕掛けて、東大寺大仏殿付近に本陣を張っていた三好三人衆を襲った。

しかし狙いは敵兵の掃討ではなく、大仏殿に火を放つこと。

前線で戦う兵士を支援するのではなく、後陣の弓隊は次々と大仏殿に火矢を射かけた。

恐るべし、悪党・松永弾正!

聖武天皇から続く東大寺大仏の大きさに意味を見出さず、むしろ憎み、火をかけるなど!

敵兵から襲われたため、正当防衛をしただけ、という理由を考えつつ、戦場のどさくさに紛れて、

東大寺大仏の大きさを縮めてしまおうなど、誰が思いつくことか。

この東大寺の戦いによって、頭の部分を失い、大仏殿を全焼し、雨ざらしになった東大寺の大仏は大きさを失い、

それはつまり、東大寺の権威を落とすことになった。

自分の意のままにならない東大寺に対しての、松永弾正なりの仕打ち。

東大寺大仏殿の戦いというこんな事件もあって、現代の東大寺の大仏は大きさを復活しているんだ。

これからの時代、同じような争いに巻き込まれたら一部焼失だけでは済まされないよね。

ミサイル一発で、東大寺の大仏は痕型もなくなってしまう。

だから、今のうちに見ておこう、拝んでおこう、東大寺の大仏の大きさを。

奈良の大仏の大きさ画像

東大寺の大仏の大きさが怖い、あの15mもある図体、大きな顔で見つめられるのが怖い。

三好三人衆の恐怖は、勢いに任せて将軍・足利義輝を殺害した時から増幅している。

道理に反した事もすることで、なんとか勢力を拡大してきたのだが、

夜な夜な、三好三人衆は悪夢を見るようになっていたのだ。

それでも政敵は倒さねばならず、大和の松永久秀を追いつめるべく、東大寺にまで兵を進めるまでは良かった。

東大寺大仏殿に本陣を取り、明日の決戦を前に束の間の休息を取る。

三好三人衆は東大寺大仏の足元で仮眠を取ることにしたのだが、その場所が怖い、怖い。

あの東大寺大仏の大きさが自分の良心の呵責となり、心の隙間に迫ってくる。

大仏の大きな身体が自分の上に迫ってくるような恐怖に襲われ、眠るどころではない。

お前は自分たちの欲望のために、多くの人々を殺めてきていないか?

東大寺の大仏は、その大きさで全てを見抜き、悪党どもに自責の念を投げかけてくる。

丁度その頃、松永久秀の夜討ちがあり、大仏殿付近がざわついてきた。

火が放たれ、銃声が鳴り響き、兵たちの掛け声が辺りに聞こえる。

恐怖心に冷静な判断を狂わせた三好三人衆が、誤った指令を出してもおかしくない。

「良いか者共、今からこの東大寺大仏殿に火を放ち、敵の動揺を引き出した後、敵城まで攻め上がるぞ!」

東大寺の大仏の大きさが怖くて、怖くて。

これが史実かどうかはさておき、この時の三好三人衆と松永久秀の東大寺の戦いにて

東大寺大仏殿は焼失し、東大寺の大仏の頭部も戦火に失っているのだ。

奈良の大仏の大きさ画像

奈良東大寺の大仏の大きさを想う時、真っ先に思い浮かべるのは、聖武天皇のこと。

身長が14.98mもある奈良の大仏、そんな大きさを最初に企画するのはもう常識はずれの行動。

当時は8世紀、特別便利な道具もない中で14.98mもの大きさの大仏を造れと命じるなんて。

途方もないムリなんだ、全てが手作業、人力で賄うのだから、その作業量と費用ときたら、物凄いこと。

1,300年前からこの大きさで、奈良の大仏は東大寺大仏殿に鎮座しているのですよ!

僕たちが今、修学旅行や大人の遠足で奈良公園を訪れ、

ふーん、どうせ奈良の大仏だって大きな工場で機械がポンポン造ってくれるのだろう、って考えたとしたら、大きな間違い。

8世紀の奈良大仏造立当時、発案者の聖武天皇は民衆から責められている。

奈良大仏の造立命令が、財政を圧迫し、民衆に無駄な労働を強いている、と。

ちょうどその頃には大きな疫病が流行し、大小様々な内戦に民衆は苦しめられていた。

聖武天皇はそんな時だからこそ、民衆を救済したいという思いを込めて奈良の大仏を造ったのだろうが、

民衆は先じゃなくて今を救って欲しい、と思うのも当然のこと。

全国の国分寺のトップを東大寺にして、全ての苦しみから解き放ってくれる存在を造る、

それは聖武天皇なりに必死な願いを込めたのが奈良大仏。

だからあの大きさになったのだろうが、評価されたのはずっと後のこと、造った当時としては無駄な公共工事。

東大寺大仏の大きさ14.98mには、聖武天皇の切実な想いが詰まっている。

大仏殿を訪れるとき、君もそんなことを思い浮かべながら歩いて欲しい。

遠い昔の遺産、造った当時の判断は正しいか分からないが、その遺産を1,300年守ってきた日本人の心は美しいものだから。

奈良の大仏の大きさ画像

奈良の大仏様の大きさ には圧倒された、と君たちは口を揃える。

その言葉に裏はなく、身長15mの大仏を見上げると信じられない世界。

端正なお顔立ちには手が届かない、雲の上の存在、我々を頂上から見守ってくれる仏様。

我に返ろう、奈良の大仏様の大きさ の衝撃にどう向き合えばよいのか。

近鉄奈良駅から奈良公園沿いに歩いてきた私は現代の申し子、 都会の高層ビルにオフィスがあり、自宅も高層マンションの一角。

だから日常が大きな・高い場所に慣れている、そんな私は果たして正常だろうか?

忘れ難い思い出がある、柳生の里から奈良公園へ歩いた時のこと。

奈良への道は幾つかあるが、柳生街道から滝坂の道を通じて春日山へ入った。

定かではないが鎌倉時代からの主要道、今はもちろん粋狂な歩き人しか知らない古道。

全てが手作りだった時代の名残が色濃い柳生街道、大きな建物なんて当然ない。

何時間も山道を歩き通した末、春日大社を経由して東大寺に着いた時の驚きときたら。

「なんて華のある街なんだ・・・」

そして奈良の大仏様の大きさに対面したとき、私の驚きは恐怖、あるいは脱力に変わった。

もう何も考えられない、こんなに大きい人工物、しかもそれが仏像だなんて。

自然界、個々の人間の力では創造が叶わないものが、奈良の大仏様の大きさだった。

現代の人間生活の続きで見ても新鮮な奈良の大仏様の大きさだが、

昔の生活を疑似体験した後でお逢いする奈良の大仏様は、もう夢の向こうの空想物。

奈良の大仏を考える、見方を変えればますます大きな大仏様だったということ。

千年前も、千年後も不変のインパクトがある奈良の大仏の大きさ。

奈良の大仏の大きさ画像

かえすがえす、奈良の大仏の大きさ には、聖武天皇の鉄の志を感じる。

743年に造る詔を出してから、実際に東大寺で奈良の大仏が完成したのは752年。

計画を経て、鋳造の工程だけで5年がかり、費用はおよそ15億円という、当時としては天文学的な数字。

奈良の大仏の大きさ は14.98m。

耳の長さだけでも2.54mあるなんて、まさにビッグボーイ・奈良の大仏。

滋賀の紫香楽宮で、聖武天皇は考えていた。

どうしたら、当時の大国・中国に対して、日本文化が独自性を確立したことを示せるのか、と。

それはすなわち日本の国力を証明し、中国からの侵略から守ることにつながるのだ。

たどりついたのは、奈良の大仏の大きさ。

日本だって素晴らしい大仏やお寺を造れることが立証できれば、「東夷」なんて差別的な呼び方を打ち払い、立派な国家として認められるはず。

聖武天皇の悲願だったのだよ、奈良の大仏の大きさは。

そんな背景によって奈良の大仏は前代未聞の大きさを要求された。

天平時代には、5丈3尺5寸(16m)が奈良の大仏の大きさだったという記録がある。

これを完全に人の手作りで造った、という点に聖武天皇の強い心が顕れている。

平安時代の855年、大地震によって奈良の大仏の頭部が落下、861年に修理完成。

1180年の平重衡の兵火、1567年の三好・松永の戦いで、それぞれ奈良の大仏は部分的に焼失している。

現存の奈良の大仏の頭部は、江戸時代に造られたものだし、

体も脚も途中で修復されているから、正確な大きさは数字にできなく、幾つも数字が出る。

奈良の大仏殿は、創建当時には今の1.5倍もあったという。

江戸時代の大修理で巨木が手に入らず、正面の幅を30m縮小し再建されたとか。

数奇な運命を経て、現代も奈良公園に鎮座する東大寺の奈良の大仏の大きさは、

数字でも言葉でも表現しきれない、貴重な1,250年の軌跡。

どこまでも続いて行く、永遠のリレーであって欲しいと願って止まない。

奈良の大仏の大きさ画像

アメリカでは、人が手で作るハンバーガーは大きいけれど、 奈良の大仏のような、人造物は大きくない。

自由の女神!と思ったけど、あれはフランスから贈られたもの。

信仰の対象は大きさとは関係がないのだろう。

日本は食べ物に大きさはそんなに求めていないけど、

信仰の対象には大きさを割り当てて、そして自分たちの手で大きなものを作ってしまう。

奈良の大仏だって、当時は機械がないから、15メートル超のあの大きさを職人や民衆の力を使って作ってしまったのだから。

大きさに対する意識は、アメリカと日本では何かが違う。

違うけど、やはり大きさはインパクト。

そして、大きさと品質の両立が大事だ。

  • 大きさと品質が、どちらも 小 なら「素人」
  • 大きさと品質が、どちらも 中 なら「プロ」
  • 大きさと品質が、どちらも 大 なら「アート」

アメリカのファイブガイズのようなボリューム系・かつ本物系バーガーはアートか。

マックは値段と品質のバランスが良いプロだ。

奈良の大仏はこの指標にするとどうなるのかな。

大きさはかなりの上、品質は最高峰、つまりアートの域だ。

そんな奈良の大仏だから、日本中の観光客から好まれている。

奈良の大仏の大きさ画像

東大寺の大仏の大きさを復活させることが、筒井順慶の果たせなかった願いではないか。

大和の地に生まれ、2才で筒井家の当主となり、36才で早逝した筒井順慶の夢を紐解くと、

東大寺の大仏の大きさを自分の時代に縮めてしまったことを悔しがっていたのだと、一方的に想像してしまうのだ。

奈良と言えば東大寺、東大寺と言えば大仏様、大和の国のみならず全国の老若男女みなが知っている古からの宝物、

各地の国分寺の中心、聖武天皇の祈りが込められた大仏像。

生きるために、松永弾正との長く続いた戦をやり切り、なんとか筒井家が大和一国を統一できた。

その代償は大きなもので、とりわけ三好衆と共に松永勢と戦った東大寺の戦においては、

東大寺の幾つかの院を焼失させてしまい、南大門で鉄砲を撃ち合い、

大仏殿を燃やし、あの東大寺大仏の頭部を失くすような戦にしてしまった。

頭部だけで6mもある東大寺大仏だから、もともと15mあった身長を、

9mにまで短くしてしまったのは、筒井順慶も加担した戦が切っ掛け。

それもこれも、悪役・松永弾正を倒し、奈良の地を自分の掌中するまでのこと。

奈良の大仏の大きさ画像

お寺の文化に精通し、大和を愛する筒井順慶は、大和国内を安定させた後に、東大寺大仏の大きさはもちろん、

続いた戦で失われた東大寺などの文化を復活させる心づもりを持っていたに違いない。

しかし時代は、織田信長の勢力拡大に伴い、筒井順慶にも各地へ出陣するように命令が下り、

思うように大和国内の文化回復に時間もお金も費やすことができなかった。

そんな中、病に倒れた筒井順慶は、そのまま息を引き取ってしまう。

島左近や高山右近のような良い将が側近にいてくれたのには、筒井順慶自身に何か魅力があってのことで、

それが奈良の文化を重んじる筒井順慶の姿勢だったのだと、私は信じたい気持ちでいっぱい。

東大寺の大仏の大きさを復活できなかったことが、筒井順慶の果たせなかった夢?

奈良の大仏の大きさ画像

東大寺・大仏殿の写真、古都奈良観光の一眼レフ撮影スポット

東大寺大仏殿の写真

前景のPOPな芝生と、後景のCLASSICな建物の組合わせで、鮮やかに写真映え。

東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築物。

東大寺大仏殿の写真

その中におわす、奈良の大仏の大きさには更に度肝を抜かれる。

老若男女そろって「大きい!」とついつい声をあげてしまう、万人を驚かす存在感。

背中にゴールドを、手の平にお花をまとったお姿には、ただ首を垂れてしまう。

東大寺大仏殿の写真

強引に押し寄せるのではなく、内面を陥落させてくるような攻められ方。

大仏は王道、周辺の装備品はオシャレ、正面と側面を突かれ僕は白旗を上げる。

古都・奈良の魅力を、若すぎて受け入れられないだろう修学旅行生たちも、

この奈良の大仏の大きさだけはストレートに感じているようだ。

東大寺大仏殿の写真

肉眼で見ると、近くにいても遠くにいらっしゃるような大仏様、

その表情から心の動きが読み取れない。

東大寺大仏殿の写真

一昔前と違うのは、外国人訪問者が急増しているところ。

台湾・中国・韓国からの方とお見受けする。

東大寺大仏殿の写真

大仏殿の奥には、通ると願いが叶うという穴がある。

みんなが通る時の摩擦で、木がツルツル!

奈良の大仏の鼻の穴と同じ大きさだとか。

僕はこの東大寺に、奈良に、和様化した仏教文化の美を感じている。

仏教発祥地のインドとも、伝承の経由地・中国や韓国とも違う仏教文化。

日本人らしく、妙に手が込んでいて、そのくせアピールが弱く、でも美だけは隠せない。

その美しさを見つける旅に出て長年が経ったが、やはり奈良にある日本の美は本物。

先人からバトンを受け継ぎ続けてきた日本人の歴史を誇りに思う。

各地のお寺に文化が生きているが、そのお寺文化の最高峰のひとつが東大寺。

東大寺大仏殿の写真

東大寺の表玄関・南大門の左右を守るのは、

高名な仏師、運慶・快慶が創り上げた国宝・阿吽金剛力士像。

この威圧からも、東大寺の別格ぶりが伝わってくる。

南大門自体がもう国宝なのに、加えて国宝の仏像を置くとは。

悪を寄せ付けない結界としては究極のものだろう。

東大寺大仏殿の写真

東大寺こそが日本の仏教文化のトップ、そして奈良時代の日本の美を今も継承している場所。

この東大寺の写真にそれを表現できているかな、気がかりなことだ。


2015年11月15日

本日の散策は奈良公園で、主役はこの子、大きな大仏を見る?と訳も分からず連れてこられた子。

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東大寺の参道を歩く、鹿が怖いらしくパパに抱っこをせがみ、パパは必死に鹿のフンを避けながら。

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行き交う人たちの大半は、ずっと昔は修学旅行生だったのに、今はアジアからの外国人。

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東大寺の広場で駆けだす子、君と一緒に奈良の大仏を拝む喜びにひたる隙もない。

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奈良の大仏との初対面もむなしく、直後から退屈したらしく「イオン行こっ」と言いまくる子。

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それでも大仏の鼻の穴と同じサイズの「柱くぐり」は楽しそうにしてくれた、これで頭が良くなります。

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そんな楽しい家族旅行を奈良公園の鹿さんは見ていた、黄色がかっている背景の中で。


奈良公園の桜名所観光写真、一眼レフ撮影スポット

奈良公園の桜名所観光写真

桜といえば、京都ばかりに出かけていたけど、

今回はもっと古い時代の桜の姿があるかな、と古都奈良へ桜探しの旅。

奈良公園の桜名所観光写真

東大寺大仏殿付近でもやはり桜は咲いています。

奈良公園の桜名所観光写真

ほら、やはり日本人の心は、ステキな場所に桜を植えてしまうんだ。

奈良公園の桜名所観光写真

結論を言えばね、桜のステキさという意味では奈良<京都だと思った。

もちろん、こうして奈良公園の古い建築物+桜の美はあるのですが。

奈良公園の桜名所観光写真

春の鹿さんはこんな毛並みになっていました。

奈良公園の桜名所観光写真

東大寺二月堂からの下り道、素晴らしい風景に足を止めてしまう。

奈良公園の桜名所観光写真

これも東大寺二月堂、階段の向こうの桜の大木がカメラを誘っている。

奈良公園の桜名所観光写真

奈良の桜名所は大和郡山城が筆頭だが、奈良公園には目を引く場所がある。

奈良公園の桜名所観光写真

焼失から長年逃れてきた東大寺鐘楼、散る桜を受けて、キレイな佇まいです。

奈良公園の桜名所観光写真

こんなカワイイ鹿さんがいるのですよ、奈良公園って。

奈良公園の桜名所観光写真

これは奈良県庁の屋上から映した東大寺。

ミスってISO3200っていう画質のままで撮っちゃって後悔。

奈良公園の桜名所観光写真

浮見堂一帯の桜も素晴らしい、桜の時期に是非とも見たかった場所。

奈良公園の桜名所観光写真

桜を背景に、池の上に浮かび上がる景色、めでたくて一杯やりたい気持ちで。

奈良公園の桜名所観光写真

運慶の仁王像もISO3200まで感度を上げれば、こんなに鮮明に映る。

奈良公園の桜名所観光写真

奈良公園の桜を追って原っぱを歩こうとすると、鹿のフンを踏んじゃうので歩けません。

奈良公園の桜名所観光写真

東大寺戒壇院の階段下からの一枚、これは良い角度です。

奈良公園の桜名所観光写真

奈良公園の鹿+桜、こんな感じで上手くまとまった?

奈良公園の桜名所観光写真

奈良公園が桜の名所であることは間違いない、ステキな角度を探してみて。


奈良の大仏の重さが、奈良の仏教美術の豊富さを象徴しているんだよ。

250トンという奈良の大仏の重さはダテじゃない。

その質量の多寡で量れないほどの素晴らしさを、東大寺の奈良の大仏は背負っているから。

キミが、奈良の大仏の重さを調べているのは何故かなぁ?

修学旅行で奈良に行って、奈良の大仏を目にして、

あのインパクトの正体を調べようと、ネットサーフィンして奈良の大仏の重さを調べているの?

現地現物で感じた奈良の大仏の重さは本物。

あの東大寺宝物殿に秘蔵されている宝物の重みが、あの奈良の大仏のサイズなのだよ。

どれだけの国宝が、重要文化財が、奈良の東大寺にあるのだろう。

日本の宝物、聖徳太子から続く飛鳥文化の延長線上、1300年間もの時間を、

何十代にもわたって奈良の文化財を守り続けた人たちがいるんだよ。

キミが見て驚いた奈良の大仏、その重さは、

奈良中のお寺にある文化財や文化そのものを守り続けてきた、奈良の人たちの仕事の重さなんだよ。

そういう風に研修レポートに書けば、きっと最高最良のアンサーになるんじゃないかな。

奈良の大仏だって、一人だけでは、あんなずんぐりどっしりと座っていられないよ。

サポートしてくれる人たちがいるからこそ、悠久の重みを湛えて鎮座できるのだから。

キミのパパだって、昔はスマートだったのに、今じゃお腹でもでちゃって、体重倍増。

でもそれって悲しいことだけじゃなくない?

ママが美味しいごはんをつくってくれたり、キミと遊ぶ時間とか、家族みんなでも旅行とか、

幸せが幸せを呼んで、それでついつい食べ過ぎとか飲み過ぎとかで、体重が増えているはずなんだよ。

奈良の大仏の重さも、キミのパパの重さも同じ?

周囲の支えがあり、幸せ太りして立派な数字になったのが奈良の大仏の重さだから、そのことは忘れられないよね。

奈良の大仏の大きさ画像

「奈良の大仏の大きさ を調べなさい」という夏休みの宿題に取りかかろうとしている僕。

像の高さ(座高)はメートルで14.98、フィートにすると48.91。

・・・もう終わってしまったの? こんなのでいいの??

付加価値をちょっとは付けなくては、と焦る僕は蛇足を書いてしまう。

  • 牛久の大仏の大きさは 120メートル、奈良の大仏の方が0.12倍大きい計算になる。
  • 鎌倉の大仏の大きさは11.3メートル、奈良の大仏の方が 1.3倍大きい計算になる。
  • 東京の大仏の大きさは8.30メートル、奈良の大仏の方が 1.8倍大きい計算になる。
  • 高岡の大仏の大きさは7.43メートル、奈良の大仏の方が 2.0倍大きい計算になる。

どーだ、これこそ日本のベスト大仏たちとの比較、大きさって大事♪

レポートを書き上げ、ひとしきり頑張った気になっていた僕。

ふと、大仏の視線の先を眺めていると、別の想いが心の奥底から湧き上がってくるのを覚えた。

「奈良の大仏の大きさ、それってただ背の高さ・身長・長さを測れば良いのだっけ?」

なんかもっと深いことがありそうだな、直感が次の行き先を示していた。

直球を直球だけとして捉えて何になるだろう、奈良の大仏の大きさ の意味とは別の場所にあるのだ。

何故、奈良の大仏は、あんなに大きく造られたの?

何故、奈良の大仏は、あんな大きさを維持したまま1,250年以上、東大寺に存在し続けているの? 

何故、僕たちの先祖様たちは、奈良の大仏を維持保守し続けて21世紀に至るの?

数値ではなく、そういう感情・感性の長い流れが、奈良の大仏の大きさの裏にある。

どうやらこっちの方にこそ宿題の真意があると感じたよ、僕の夏休みの宿題はやり直しってことか

奈良の大仏大きさ写真


奈良公園の鹿写真、東大寺観光の一眼レフ撮影スポット

奈良公園の鹿写真

奈良公園の人気者、そうそう、このキレイな毛柄の鹿さん

奈良公園の鹿写真

鹿せんべいがあるから、あるから下↓みたいなことになる

奈良公園の鹿写真

神鹿たちに囲まれて、きっと嬉しいおじさん

奈良公園の鹿写真

でも奈良公園にいっぱい鹿のふんが転がっているのは困る

奈良公園の鹿写真

みやげ物屋さんは面白く、奈良に来た修学旅行生たちには楽しいでしょう!

奈良公園の鹿写真

その座り方って、カンガルーじゃない?!

奈良公園の鹿写真

穏やかな奈良公園の1シーン、修学旅行生と鹿さんがベストマッチ

鹿さんは神のお使い、みんなのアイドル

奈良公園の鹿写真

それでも主役はあなた、東大寺の大仏どの

若草山を背に、奈良公園の緑が美しく

もっとも、奈良公園の桜もまた、ステキな光景ですが

奈良公園の鹿写真

奈良の大仏の大きさ写真

奈良の大仏の大きさ画像

新薬師寺の写真、十二神将バサラ

新薬師寺の写真

「あなたに逢えてよかった」

新薬師寺の薬師如来坐像を取り囲む十二神将のうち、

"バサラ"と呼ばれる仏像と向き合ったとき、心から思った

長い時間、動きを止めたはずのバサラに、激しい憤りが情熱が見える

"世の中にはイヤなこともあるよ、それは仕方ないね

それでも君だけは僕が守ってあげる、下らないことはこの僕の剣で打ち砕いてやるさ"

新薬師寺の写真

僕には、バサラの口から火が吐き出されているのが見えたよ

新薬師寺の写真

穏やかな情熱を持つ人、僕のバサラのイメージってそんな感じ

秘めた情熱で大切な人たちを守ってあげたい、新薬師寺のバサラのように

ここにいる、この入り口の奥にバサラが、バサラがいる

もう何があっても、バサラのことを思い出せば耐えられるな

そう思いながら、僕は新薬師寺を振り返った

この新薬師寺のバサラからアイディアを得た小説が、上の「奈良アートボックス」です。

明智光秀と島左近が奈良の大仏とすれ違っていた事実、想像だけでも歴史ファンの血が疼く。

伝説たちの遭遇、ただし決してキレイな状況で対峙したわけではない。

戦国時代、織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めた7年後の1567年のこと。

松永・三好の争い、俗称・東大寺大仏殿の戦い(許されないネーミングだ!)の兵火で、

東大寺大仏殿に加えて、奈良の大仏の仏頭が焼失している。

信長に仕官する前の浪人時代に明智光秀が東大寺を訪れていたかは不明だが、

近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄上、

明智光秀は大仏殿がなく野ざらしになった焼失後の奈良の大仏を見たはず。

近畿一帯を攻略する全権を任された近畿管領を務めた役柄、彼は京の文化に通じた文化人の顔もある。

750年もの間、大和の寺社が守り続けてきた伝統を戦火で灰塵にしてしまった時代。

奈良の大仏の大きさの意味ですら、醜い利権争奪戦の前には価値を無くす。

だから明智光秀と奈良の大仏の大きさが交差した瞬間に美しい場面がない。

雨ざらしになり、仏頭を失った奈良の大仏を見上げて、明智光秀は感銘よりは無常を想ったことだろう。

平和を願い奈良の大仏を造立した聖武天皇の理想が、人災によって潰えた形。

明智光秀もまた、東大寺大仏殿の戦いの15年後には、戦によって命を落としている。

平和で幸せな現代人が見る奈良の大仏は、派手と明るさだけに満ちているようにも思える。

実体は、そんな歴史のページを幾つも経ている奈良の大仏だ、清濁を併せ持っている。

もうひとつのイメージを想い浮かべよう。

戦国時代、大和国の武将たちが東大寺・奈良の大仏の前で物思いにふける絵。

出陣の前、大きな決断の分かれ道に、奈良の大仏に助言を求め、ついつい訪れてしまうとか。

大和の有名な武将とは? 島左近、その御仁しかあるまい。

筒井順慶が大和国統一をした過程で、その右腕として戦術を請け負った希代の猛将だ。

島左近と奈良の大仏の遭遇、これも考えるだけでも歴史ロマンでウズウズしてくる。

しかしそんな空想は現実のものではない。

東大寺大仏殿での戦火は島左近27歳のとき、それから奈良の大仏は焼失で仏頭がない。

大和国で生まれ育った者にとっては重い存在、奈良の大仏。

その大きさに包まれ、島左近は育ってきたはずなのに。

戦場へ赴く前夜、東大寺大仏殿に島左近が歩いてくる。

共も連れずただ一人、半分失った奈良の大仏の姿を見上げながら一人思いに耽る。

そんなシーンを想うたび、涙が出るような美しさを感じ、奈良の大仏の大きさを知る。

夢幻だったようだ、そんな島左近と奈良の大仏の共演は。

奈良の大仏の頭部や、大仏殿そのものが焼け落ちてしまった後、島左近は何を思ったのか。

これも大きいお話、奈良の大仏の大きさを痛感するような場面ではなかろうか。

令和を生きる現代人の私、ある時に奈良にある古道を走っていた。

桜井駅から奈良公園までの約30km、「山の辺の道」と呼ばれるウォーキングコース。

そこを朝から夕方までかけて一息にランニングしてしまおうという楽しい趣味。

何が魅力って、その1,300年前からの古道の周辺環境が穏やかなこと。

古い神社にお寺が幾つもあって、古墳や遺跡を横目に見ながらランニングができる。

大和三山や奈良盆地を見渡しつつ、道脇の田畑や山々の形に「おおらかさ」を感じて。

この旧街道は奈良時代よりもっと前に整備されていたとされるから、

仮に奈良の大仏を見ようとして東大寺へ歩いた先人がいたとして、私は同じルートを辿っていることになる。

途中の石上神社や大神神社は日本で最も古い神社の一つ、その大きさや格式には圧倒されるものがあった。

地方の農村で生活していた人たちにとっては驚きの文化だっただろう。

現代人の私にとっても思わず足を止めてカメラを向ける名所が数多くあった山の辺の道。

それでもね、夕方前には新薬師寺を経て奈良公園につくと街の大きさにびっくり。

おおらかな道が、人で賑わう町に。

一泊して翌朝に奈良東大寺の大仏殿へ行き、あの奈良の大仏様の前に立つと、

何度もお会いしている大仏様だけれど、

その大きさ、座高15m、仮にたったら27mという大きさの前に、何の理屈もなくただ圧倒された。

これか!

誰だろうと、何も理由なくびっくりしてしまう仕掛けが奈良の大仏の大きさ。

i-PhoneとAirPods、Apple製品とランニングしている令和の私にでもズバリと入ってきた驚き、

奈良の大仏の大きさは分かりやすいメッセージ。

これを奈良時代に目の前にしたら、驚きはどれほどだろうか?

山の辺の道の神社寺院だけでも驚くのに、10倍もある仏像(普通の仏像は当時の人の背の高さ150cmとして)を

前にしたら、そのありがたさに思わず見上げて口を開けっ放しにしてしまう。

そう考えると聖武天皇の狙いは、令和の現代まで有効なものになっている。

和風や和様が好きな私だからかな?

ふと周りを見ると、コロナ禍でもようやく復活した修学旅行生たちがいたが、

やはり彼女彼らだった、大仏殿の入口でいざ奈良の大仏様に対面した時は、見上げて圧倒されている。

思わず全員がスマホで写真を撮っているところを見ると、

このインパクトを無効化できる人間なんて存在しないのでは?と思わされるぐらい。

ねぇ、聖武天皇と奈良の大仏、あなたたちの狙いは的中ね!

見るだけで何も生み出さないようで、訪れる誰もの心の中に必ず何かを植えつけてしまうあなたたち、

それが「奈良の大仏の大きさ」ってことでしょう!




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